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愛国金沢(金沢)飛行場跡地 [├空港]

   2010年7月、2018年5月訪問 2022/6更新  


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1938年(昭和13年)3月調査資料添付地図 Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B). Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)

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撮影年月日 1946/11/19(昭21)(USA M323-A-6 7)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

2022/4 新たな資料から改めて作図をやり直したのですが、これまで長い間、飛行場はもっと北側にあるものとして誤った作図を載せておりました。大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m


石川県にあった「愛国金沢(金沢)飛行場」。

1939年、大坂―金沢―富山―長野―東京 という形で定期便の運航が始まりました。

金沢~東京を3時間30分で結んだのだそうです。

現在では北陸新幹線が金沢と東京をたった2時間30分~3時間で結んでいます。

新幹線凄いですね。

しかし戦時体制で民間定期便はほとんど利用されず、飛行場はグライダー練習、遊覧飛行に使われ、

戦後は農地として払い下げられました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/10,000 金澤飛行場(昭和十八年六月調)があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

上に貼った1946年の航空写真では、用水路?が縦横に走っており、滑走路は跡形もなくなっていますね。

地図によれば、北東~南西の滑走路は600m「日航当時使用 地盤比較的堅硬」、北西~南東の滑走路は670m、

東西方向の滑走路は700mと、それぞれ記入がありました。

(滑走路幅の長さについては資料が見当たらず、地図から目測で作図しています)

また、「日航建物」が2棟、その東側に「燃料庫」が描かれています。

「日航建物」については航空写真の赤矢印だと思うのですが、「燃料庫」は判別できませんでした。 

同資料の情報を以下記させて頂きます。

判決
 直協機以外の使用不能なり

所在地及位置
 石川縣河北郡川北村東爪
積量
 三三〇〇〇〇平方米(約一〇〇〇〇〇坪)
土質高低差並地表面状態
 東西の方向に中央分水嶺あり(標高一七五糎、
 長さ七百米)約四百分の一の勾配を付す、東、南北
 の周□りの標高は約一ニ七糎なり形状は木等邊多
 角形概して平坦にして芝及雑草(一部)密生す
付近状況並使用上の注意其の他
 東方は河北潟南端に接し、西方は浅野川、北方は浅野
 川に望む南方及付近一帯水田、田の中所々に木立あり
 一般に周囲に障碍物少きため特に注意する点なし、恒
 風は概ね北又は西なるを以て東方河北潟より着陸するを可
 飛行場は竣功後日浅きため大雨の降り続くときは水溜
 軟弱の個所を生ずるを免れず
天候気象の交感
 六月下旬より七月中旬迄(降雨期)雨量大なる月より
 順次記すれば十二、一、二、三月(降雪期)十二、十一、一、九、一〇、七、六月
 主として冬季、暴風日数一六一(統計表に依る)
 十二月中旬より三月中旬頃迄地上の積雪あり
 降雪総量一月中に於て一二一糎(統計表に依る)
山岳、森林
 南方約五〇粁に白山(標高二七〇〇米)あり
 西方の場周に浅野川堤防あり
電線、高圧線
 南方より飛行場事務所へ高圧線及電話
 線の引込あり
其の他
 滑走路は舗装に非ず整地の上芝の植付を施したるものにして
 上空よりの識別不能なり、場内南東隅に私有地(水田)あり
救護設備
 市街地、村落の距離遠く、交通の便悪く救援の設備なし
付属設備
 事務所一棟 外四棟
交通機関
 私鉄浅野川電鉄、金沢駅より約三十分毎に発車
         蚊爪下車、(五、六粁約二十五分)
宿泊地
 宿泊地金澤市内、飛行場付近に旅館なし
連絡機関
 定期航空運行中は大日本航空の金澤市内旅客□
 合所と飛行場間に旅客送迎用自動車一日二往復
 運転す
 飛行場電話番号(金澤五七五〇)

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19年6月刊行 水路部」の中に、

第9 愛国金沢飛行場(昭和17年7月調)

管理者 航空局。
位置 石川県河北郡川北村大字東蚊爪
   (金沢市の北方約9粁、36°38′2N、136°39′6E)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約1.7米。
広さ及形状
 本場は長さ東西700米、北西-南東670米及北東-南西600米の略梯形地
 域(総面積33萬平方米)なり。
 着陸地域は概ね図示の3條の滑走路(但し舗装せず)を最適とす(付図参
照)。
地表の土質
 主として砂地なるも若干泥土を混ず。
地面の状況
 本場は河北潟の南側一部を埋立整地せるものにして埋立表面の高さは通常
 湖面より約2.3米、周囲の水田より約1米高し・地表は凸凹起伏なき平坦
 地にして中央部に稍高き分水嶺を設け南北両側に向け1/400の下り傾斜を
 成す・中央以南は芝及雑草密生するも北部は概して生育不十分なり・地表
 は土質の関係上載荷力を有する堅硬地なり・降雨後の排水概ね良好なるも
 竣工後尚浅き為長雨続きの際及融雪期には諸処に水溜を生じ且地表軟弱
 となるを免れず。
 滑走路は未舗装にして植芝密生する平坦且堅硬地なり、場内一面に雑草に
 蔽わるるを以て上空よりの識別稍困難なり・12月中旬より翌年3月中旬頃
 迄積雪あり・排水施設は地下に暗渠及場周に幅約2尺程度の排水側溝あ
 り。
場内の障碍物
 場の南側中央に格納庫(高さ12米)、飛行場事務所(夜間は屋上に障碍物
 標示燈を點燈す)及吹流木柱(高さ9米)あり。
適当なる着陸方向
 一般に東方河北潟より着陸態勢を執るを常とす。
離着陸上注意すべき點
 可及的芝生滑走路を主要するを可とす。
施設
 格納庫(間口20米、奥行22米、高さ12米)1・航空局金沢分室及大日本
 航空株式会社金沢出張所・金沢測候所飛行場出張所(目下配員なし)・油
 庫・車庫・倉庫・石炭庫・無線電信受信所(定期航空運航中のみ執務す)
昼間標識 吹流1、飛行場標柱1あり。
 夜間標識 照明設備なし、但し飛行場事務所屋上に障碍燈を點燈す。

周囲の状況
山岳
 本場は河北潟の南岸に在り、西方は約3粁にして日本海に臨み南方は廣濶
 なる石川平野の水田なり・北及東方は直ちに河北潟に面し湖水の周囲3粁付
 近迄は平坦なる水田なるも東方は次第に山地となり約3粁にして石川、富
 山の両平野を縦断する高さ300米内外の倶利加羅峠の麓に達す。
河川及湖沼
 場の西側に接して浅野川あり、更に西方河北潟の湖尻より放出する大野川
 は南西流して日本海に注ぐ、河口に大野港あり此処より同河を遡航して河
北潟に至る舟艇の便あり・南方より本場付近の河北潟に注ぐ灌漑用小河川
多数錯綜す。
堤防
 北及西側に沿う浅野川河岸に高さ1米程度の堤防あるも障碍とならず。
建築物
 場周1粁以内に煙突及建築物等の障碍物なし。
電線
 南方より飛行場事務所に架設せる高さ7米の高圧線及電話線あり。
着目標
 河北潟、大野川、浅野川、道路(本場-金沢市間)、金沢市街。

地方の状況
軍隊及憲兵
金沢師団司令部(金沢市西町)、東部第49部隊(金沢市旧城内)南方約8粁、
 東部51,52,53,55部隊(金沢市田町)南方約11粁・金沢地方海軍人事
 部(金沢市出羽町)南方約9粁・金沢憲兵隊(金沢市西町)南方約8粁。
警察署及役場
 玉川警察署(金沢市宗叔町)南方約8粁、大浦駐在所(河北郡川北村字大
浦)南方約2粁・川北村役場(同村字松寺)南方約4粁。
医療
 川北村字蚊爪及同村字松寺に医院1あり・金沢陸軍病院(金沢市石引町)
 南方約9粁、金沢医科大学付属病院(同市茶畑町)等の外金沢市内に病院
 22あり。
宿泊
 金沢市内に金沢「ホテル」其の他主なる旅館11あり。
清水
 場内に上水道の設備なきも付近の民家に水質良好なる井戸あり。
応急修理
 場内に修理設備なし・金沢市下提町に株式会社北陸自動車商会あり、同社
 は旋盤及溶接器の設備を有す。
航空需品
 航空用燃料及潤滑油の補給は困難なり。

交通、運輸及通信
鐡道及電車
 金沢駅(北陸本線)南方約7粁・金沢駅前より本場の南西方を経て西方栗
ヶ崎海岸に至る浅野川電気軌道株式会社経営の電車便(30分毎に発車)あ
り、最寄停留所は蚊爪停留所(南西方約2.5粁)なり。
道路
 本場の南西隅より幅員7米の飛行場専用道路あり、同道路は南西方約1.5
 粁にて金沢市に通ずる県道に連絡す。
舟運
 大野川河口より同河を遡航し河北潟に連絡する水運の便あり。
運送店
 金沢市内に金沢合同運送株式会社あり・付近の村落に貨物自動車2あり。
電信及電話
 蚊爪郵便局(川北村東蚊爪)南西方約2粁、電信及電話を取扱う・飛行場
 事務所内に電話(金沢5750番)あり、郵便局との間に電話にて電文托送の
 便あり。

気象
測候所
 金沢測候所(金沢市■生町)南方約10粁・定期航空運航中は場内の金沢測
候所飛行場出張所にて航空気象を観測す。
地方風
 金沢測候所に於ける2546-2600年55箇年間の月別統計次の如し(以下月ごとのデータ省略)
天候
 同上55箇年間の月別統計次の如し(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 7,8月頃雷雨多し、低気圧が日本海を通過する際は偏南西風著し。
気象予察の俚諺
 南方約54粁の白山(日本アルプス)が雲に覆わるるときは南西の風強く
天候次第に険悪となる前兆なりと言う。

其の他
本場は昭和14年6月公共用陸上飛行場として設置せられ爾来大日本航空株式
会社経営の東京-金沢-大阪間定期航空路の中継飛行場として運航を実施せる
も最近同航空路の休止に伴い目下金沢市に管理を委託しあり。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  金沢
位 置   石川県川北郡川北村
規 模   要図
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 (記載無し)
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設官有

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-長野
区間 大阪-金沢間 毎日一往復
   金沢-富山間 毎日一往復
   富山-長野間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月


当飛行場について扱うサイト様(下記リンク参照)によりますと、

建設費を主に出費したのが前田家であったこと、建設の背景に既に1934年に富山に飛行場ができたこと
(今の富山空港とは違うもの)への金沢の政財界の対抗意識があったらしいこと、
飛行場の場所は河北潟南端の東蚊爪、いま免許センターがある付近であったこと、
1938年に開業してから大坂―金沢―富山―長野―東京という定期便が組まれたものの、
ほとんど飛行機が飛んでいなかったらしいこと、などが注目される。
なお、定期便が飛ばなくなった後のこの飛行場は、グライダーなどの練習用途に使われたらしいが、
敗戦後の1946年に閉鎖された。軟弱地盤だったことを理由にあげる説もある(以上、配付資料参照)。
と記されていました。

「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)の中にある「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、当飛行場が金澤高等工業學校航空研究會に使用されていたと出ています。アギラさんから情報頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

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石川県警ヘリポート。

D20_0068.jpg

青マーカー地点。

跡地の南南西にある「飛行橋」。

D20_0070.jpg

中日新聞によりますと、市中心部と飛行場をほぼ直線で結ぶことを目的として整備された道路は年配者から今でも「飛行道路」と呼ばれていて、

大宮川に架かるこの橋は「飛行橋」と言い、欄干にプロペラ形の飾りがついています。

老朽化のため平成10年7月に架け替えられたのですが、この飾りは地元の強い要望で引き継がれたのだそうです。

かつてこの地に飛行場があったことを示す名残です。


      石川県・金沢飛行場跡地      

金沢飛行場 データ(主に水路部資料昭和17年7月調から)

管理者:航空局(後に金沢市に管理委託)
所在地:石川県河北郡川北村大字東蚊爪(現・金沢市‎湊‎1丁目‎)
座 標:N36°38′2″E136°39′6″
標 高:1.7m
面 積:33ha
滑走路:600m(03/21)、670m(16/34)、700m(08/26)
(滑走路の長さ、方位はグーグルアースから)

沿 革
1936年 建設計画
1938年 金沢蚊ヶ爪に建設着工
1939年 6月 公共用陸上飛行場として設置
     7月15日 大日本航空、東京への定期便開始
1940年 この頃、金澤高等工業學校航空研究會が使用していた
1942年 この頃大日本航空航空路休止し、金沢市に管理を委託
1946年 閉鎖

関連サイト: 
第13回 公共交通と地域経済;小松飛行場その他(リンク切れ) 

この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19.6 水路部」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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コメント 13

鹿児島のこういち

愛國って名前が付くってことは、地域のみなさんがお金を出し合って造った飛行場なのかしら?
戦時下なのに遊覧飛行ってのどかですねf^_^;
写真拡大していくと、携帯でもわかります!はっきりと海のそばに四角い空港!そして街から真っすぐ延びた道!写真の左側、上の方ですよね(^O^)違ってたらゴメンねぇ~f^_^;
by 鹿児島のこういち (2011-04-17 16:30) 

masa

飛行場の名前が橋や道路に残っていたりして
良き思い出となっているんですね。
by masa (2011-04-17 19:39) 

takechan

飛行場の大切さを、今回の震災で改めて知りました。
頑張れJAL、頑張れANA!頑張れ東日本!
by takechan (2011-04-17 22:29) 

tooshiba

今度は石川県ですか?
獅子奮迅ならぬ八面六臂の活躍ですね。
(八面六臂とは、「多方面で、めざましい活躍をすること。また、一人で何人分もの活躍をすること。」という意味とのことなので~goo辞書より~、兄さんに相応しいよね?と思います。)
全国どちらに行かれるにしても、ご無事に取材なさって下さい。m(_ _)m
by tooshiba (2011-04-17 23:55) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
>地域のみなさんが
資料で確認できなかったのですが、「愛国」ですからそういうことだと思います。
今でも橋に名残を残そうとすることもその表れかもしれないですね。
>左側、上の方
ビンゴです^^

■masaさん
多分そういうことなのだと思います。
良き思い出ばかりの飛行場ばかりだとよいのですが。。。

■takechanさん
仰る通りと思います。
新潟地震の時にも実証されましたが、ヒコーキの利点は点と点が健在であれば、極めてフレキシブルな運航が可能なことですからね。
仙台空港、津波被害は大変でしたが、もしも津波の時間帯が数時間前後にずれていたら、
旅客機もたくさん被害に遭っていたのではないかと思いました。

■tooshibaさん
どうもありがとうございます。
単に中部地方を回っただけなんですけどね^^;
by とり (2011-04-18 06:28) 

an-kazu

計画通りに利用されない施設・・・今も昔も多いんですね(^^);
by an-kazu (2011-04-19 22:26) 

とり

■an-kazuさん
本当ですね^^;
by とり (2011-04-20 06:28) 

コスト

一部がヘリポートとして残ってたり、「飛行橋」の欄干にプロペラ形の飾りとか
ちゃんと名残があるもんなんですねー
でも、地元の若い人知ってるでしょうか?^^;
by コスト (2011-04-21 20:21) 

とり

■コストさん
>地元の若い人
どうなんでしょうか。
知るのは地元の年配者のみ。というのはよくあるパターンですが。。。
by とり (2011-04-22 07:48) 

Buruno

こんにちは
一刀両断されるようなキツイ表現を持つ文書を見つけました。
資料収集力ではピカイチであり、私が敬愛するとりさんを蔑むような表現はいただけませんね。
いくら一次資料とは言えど、誤りはあるものでございますが・・・。

http://www.seiryo-.ac.jp/u/education/gakkai/j_ronsyu_pdf/no43/01_ueda.pdf

>『空港探索・2』という労作のブログもあるが、飛行場建設費を主に出費したのが前田家であったなどという虚偽事項が掲載されている

失礼いたしました。
とりさんの今後の益々のご活躍を祈っております
by Buruno (2021-02-27 11:14) 

とり

■Burunoさん
こちらもご指摘ありがとうございます。
たまにエゴサするので、このサイト様は数年前に拝見したことがありました。
表現がどうあれ、拙ブログで間違った情報を広めてしまうのは本意ではないので、
間違いと確認できればすぐに修正するところなんですが、これは敢えてそのままにしてあります。
このテの独善的な方の情報はしばしば信憑性に欠けるため、オイラは鵜呑みにしません。
実は、この方の同じ論文内で、オイラではなく別の方が書いた内容を酷評している箇所があるのですが、
明らかにこの方の情報不足から来るトンチンカンな批判になっています。
この方の表現を借りれば、この方自身が「虚偽事項を掲載」しています。

オイラを名指しで間違いとしている箇所に関してですが、
この記事を書いた当時、前田家からの出費関連を含めて非常に詳しく記している地元の方のサイト様があり、
随分参考にさせて頂きました。
「建設費を主に出費したのは前田家」についてもこのサイト様に依るのですが、
残念ながら現在はリンク切れになっております。
論文の5pに収支決算が載せられていて、これによれば、
国庫と飛行協会の負担が収入全体の47%を占めており、
これだけ見ると確かに「建設費を主に出費したのは前田家」は誤りなのですが、
収支決算は飽くまで結果論です。
この方自身が論文内で記している通り国側のスタンスは、
「土地確保等、地元が話を進めてくれれば、国も動きますよ」
というものでした。
順番としては、
①用地買収費を含め、地元が費用面でかなりの程度まで頑張った。
②それに呼応して国と飛行協会もお金を出した。
となります。
地元が寄付の面で相当の負担をしなければ、そもそも国は微動だにしなかった訳で、
仮に「地元からの寄付」に前田家からの割合がかなりの部分を占めていたとすれば、
当時実際に一連の流れを見てきた地元の方にとっては、
「建設費を主に出費したのは前田家」という受け止め方になるはずです。
よそ者のオイラがこんな主張をしても、「それは詭弁だ」ということになるでしょうが、
実際に地元でそのような受け止め方が残り、そのことを記すサイト様が最近まで残った訳です。
オイラとしては、その時代の地元の方の心証を大切にしたいと考えました。
現在でも地方管理空港の建設費は、かなりの割合が国庫から支出されますが、
それでも、かなりの金額を寄付する篤志家がいたとして、
それがきっかけで建設の話が動いたとすれば、地元の方は、
「この空港はあの人のおかげでできた。ありがたや」と受け止めないでしょうか。
この方の論文では、地元からの寄付の内訳は出ておらず、
オイラも前田家が具体的にどの程度の寄付をしたのか、正直資料を持ち合わせておらず、
知りません。
「建設費を主に出費したのは前田家」というのは地元の方の受け止め方であり、
これを削除することは、地元の方の気持ちを否定してしまうことになり、
オイラにはとてもできません。
ということで、指摘されている部分については、
両論併記にしようかと迷ったのですが、地元の寄付内訳等に関して、
信頼できるソースから確認がとれるまで、敢えてそのままにしようと考え、現在に至っております。
by とり (2021-02-28 08:02) 

Buruno

趣旨を確認いたしました。
よくわかりました。ありがとうございます。
by Buruno (2021-02-28 16:35) 

とり

■Burunoさん
先方のサイト様からこちらに来られる方がおられるかもしれないので、
Burunoさんのご指摘は、オイラの考えを記しておく良い機会になりました。
後はご覧になった方の判断に委ねたいと思います。
こちらこそありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2021-02-28 18:57) 

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