川崎航空機明石飛行場(明石飛行場)跡地 [├空港]
2010年11月、2023年10月訪問 2023/10更新
資料:A 撮影年月日1946/11/20(USA M324-A-6 42)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下4枚とも)
資料:B 撮影年月日1961/05/14(昭36)(MKK611 C15 104)■ 飛行場跡地にバイクのテストコース
資料:C 撮影年月日1969/04/20(昭44)(MKK694X C13 1)■ 徐々に浸蝕されるテストコース
資料:D 撮影年月日1973/05/05(昭48)(KK737Y C5 3)■ テストコースがすっかり埋め尽くされる
資料:E 1/25000「明石」昭和42年改測「今昔マップ on the web」より作成
2022/5/5追記: セイショウさんから貴重な情報を頂き、記事を全面的に修正致しました。
セイショウさんありがとうございましたm(_ _)m
兵庫県明石市川崎町にある「川崎重工明石工場」。
戦時中は「川崎航空機明石工場」で、「キ-102乙」等製作していたのだそうです。
当時は工場西側に「明石飛行場」が隣接しており、試験飛行場になっていました。
終戦翌年の航空写真(資料:A)には、飛行場敷地南側にズラリと無蓋掩体が並んでいる他、
敷地北の角地、北東側にも掩体が確認できます。
掩体壕の中には、ヒコーキが入っているものもあります(リンク先で拡大した方が分かり易い )。
先頭のグーグルマップはこの航空写真から作図しました。
当飛行場はキチンとした資料が見つからず、航空写真から主観で線を拾っています。
ご了承ください。
当地に工場が建設されたいきさつについて、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫様に、
当時の新聞記事がありました(下記リンク参照)。
以下引用させていただきます。
■神戸新聞 1938.6.21 (昭和13) 航空(5-215)
明石に大航空都 広袤四十坪を劃し産れる飛行工場地帯
川崎飛行機が林崎へ移転 忽ち”翼の街”への躍出
軍需工業万能の折柄、従来大資本と多角経営を以て神戸に鳴る大川崎がその鋭翼を伸張して明石市の西部林崎に大飛行機工場の移転建設をもくろみ既にその敷地の買収も略々終了したという航空日本にふさわしいビッグニュース
神戸川崎本社では近時○○及び民間航空機の需要激増に伴い現在神戸林田区和田山通にある川崎飛行機工場の生産力を以てしては到底その需要に応じ切れずかねて工場の狭隘を痛感して近郊に適当な敷地を物色中のところ、たまたま明石郡林崎村の地の利を認めこれに白羽の矢を立て、同地の買収方を交渉中この程ほぼ交渉成立を見るに至った即ち同敷地は林崎村のうち林、東西松江、藤江、小久保、和坂の各部落にまたがり広袤実に四十万坪に達するもので、川崎ではこの敷地に『川崎神戸飛行場』の名称のもとに現在の川崎飛行機工場を移転、専ら発動機の綜合製造を行わんとするものである。従って移転の暁にはこれに要する職員、従業員ら総数一万八千にものぼるべく、将来における家族その他の移住を予想すれば総人口数万の大工業地帯を現出し、県下に一つの市を増加することとなるわけで移転は大体明年三、四月頃終了の予定であったが、土地買収に順調を欠き一時行き悩みの形となった関係上多少の遅延は免れぬものと見られる、而して移転後における和田山通の工場跡は現在同じく狭隘をかこつ川崎車輛工場の拡張に充当される手筈になっている
林崎村の敷地は明石の西方二粁に位し山陽本線と山陽電鉄に挟まれた矩形状の坦々たる沃田より成り北には中国山脈の余脈が東西に延び南は淡路島が海上近くせまっている景勝の地で各部落を合して現在の約千三十、人口七千、大部分は農業に従事している
買収は神戸某々氏らの手を経て行われつつあるが地主側の高値望み、所有地が種々に入組んでいる関係、或は小作人側の立退き報償金問題等がからんで交渉はかなり迂余曲折を極めた模様である然し時節柄航空機製造は焦眉の急を要する国家的事業であるという事変意識が両者の交渉にも著しく反映し談合は次第に円滑を加え小久保部落を除いては既にほぼ成立を見たものの如く
聞く処によると買収価格は坪平均七円、最高三十円に及ぶところもあり買収前の坪二円乃至四円に比すると四十万坪で百二十万円乃至二百万円の差額利益が同村に転げ込むわけで俄か成金の夢も砂上の楼閣でない、また小作人の立退き報償金は坪十銭、即ち一反で三十円、平均四反位は小作しているというからざっと百二十円にはなり、この方面はすでに田植も差し控えている有様だ
かくて明日の工業都市への飛躍は飾磨の広畑、武庫郡大庄さてはこの林崎等々続々期待され阪神を中心とする産業幹線は次第に西に延長され一聯の生産動脈線を現出すべき形勢にある
神戸にある川崎飛行機工場が手狭であることから、当地に工場を移転し、発動機の製造を行うため、
土地買収がほぼ終了した。
ということのようですね。
ネット上では明石飛行場について、「滑走路跡は現在バイクのテストコースになっている」という情報があります。
そのためオイラは、巨大工場と工場の隙間が長い直線になっており、これが滑走路跡だったのではないか。
と考え、拙記事で長いことこの憶測に基づいた内容を載せておりました。
2022年4月、この件でセイショウさんから非常に貴重な情報を頂きました(詳しくはコメント欄をご覧ください)。
セイショウさんのお父様は戦時中に当川崎航空機明石工場に勤務しておられ、
昭和20年1月19日の初空襲の体験者であり、六回あった明石空襲のすべてに遭遇されたのだそうです。
そしてセイショウさんご自身も昭和40年代から勤務しておられたのだそうです。
親子二代にわたり戦中戦後の目撃証人であり、会社関係者という経歴を踏まえ、以下の情報を頂きました。
・ 明石飛行場は工場に隣接する原っぱのみ
・オートバイのテストコースは昭和三十年代に入ってからで、工場の真ん中を東西にあった
・テストコースと飛行場は全くの無関係
そして、「嵐の日々」(津本陽著 昭和58年8月)をご紹介頂きました。
著者は学徒動員で川崎航空機で働いていた際、初空襲に遭遇した人物で、
同書は昭和19年6月、県立和歌山中学校から川崎航空機明石工場に勤労動員学徒として、
国鉄明石駅に到着したところから始まります。
著者はキ一〇ニ陸軍夜間攻撃機の昇降舵の組み立てに従事することとなり、
工場での勤務が話の中心なのですが、所々で「飛行場」というワードが出てきます。
明石飛行場は工場建屋の隙間にあるような、細長いものなのか、それとも隣接する広々した場所なのか。
この本の中でどのように記されているかに注目しながら読み進めたのですが、
本文には飛行場がどんな場所だったのかを示唆する以下3ヵ所が見つかりました。
37p
「私たちは飛行場へ出て、草で覆われた掩体壕の上に登った。」
94p
「整備工場の裏にひろがる飛行場」
32p
「濃緑の丈高い草が飛行場を覆って生い茂り、風が吹くとはるか彼方まで水脈のように吹き分けられた。あざやかな色彩をほどこした、まあたらしい屠龍が二機、試験飛行をくりかえしていた。たがいの翼が触れあうほど近寄り、スクラムを組んだようなかたちで、地上すれすれの低空を飛行場の彼方へ飛び去った屠龍は、すぐ草を吹き倒して戻ってくる。」
このように、同書では明石飛行場について、建屋と建屋の隙間の非常に狭い滑走路ではなく、
隣接する広々とした場所として記しています。
ということで、明石飛行場は工場西側に広がる広々とした場所であることがハッキリしたため、
今回大幅に修正したのでした。
これまで長い間不正確な情報を載せてしまい、大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m
同書は、旧制中学の第四、第五学年(15、16歳)の生徒が工場で軍用機の製作に従事するとはどういうことか、
仲間内、指導役との人間関係を生々しく伝えています。
「ヒコーキ作れるなんて、いいな~」なんて脳天気に考えていたオイラはにとっては目から鱗の内容でした。
ネタバレになるので伏せますが、手に汗握り、ドキドキな展開もあり、当時の様子を窺い知る貴重な書籍でした。
その後再びセイショウさんから、
1961年の航空写真に元の明石飛行場の原っぱの中に直線とUターンのオートバイテストコースが見える
と教えて頂きました(資料:B)。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで年代を追って明石工場を見ていくと、
1947年の写真には、まだ掩体壕が並ぶ飛行場が写っていて、この時点ではまだバイクのテストコースはありません。
1947年からしばらく写真閲覧できない空白期があり、次に閲覧できるのが1961年の写真なんですが、
ここで立派なオートバイテストコースが写っています。
1964年、1967年の航空写真でもテストコースが確認できるのですが、
1969年の航空写真(資料:C)ではテストコースUターン部分と直線コース東側が潰されており、
1973年の航空写真(資料:D)では、更に工場建設が進み、テストコースはすっかり埋め尽くされています。
セイショウさんによれば、テストコースが建設されたのは昭和30年代に入ってからなのだそうで、
昭和40年代前半には既にテストコースの浸食が始まっていますから、
このテストコースが完全な状態で存在したのは、戦後の復興期の10年程度の短い期間ということになります。
貴重な情報を頂いたセイショウさんに改めて感謝致します。ありがとうございましたm(_ _)m
現在はジェットエンジン、ガスタービン等を製造しているそうです。
赤マーカー地点。
当時はこの辺りから奥に向って飛行場が広がっていました(2023/10撮影)。
兵庫県・明石飛行場跡地
明石飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:兵庫県明石郡林崎村(現・明石市川崎町)
座 標:34°39'37.7"N 134°57'34.6"E
標 高:19m
飛行地区:1,300mx900m(不定形)
面 積:84.5ha
(座標、標高、飛行地区長さ、面積はグーグルアースから)
沿革
1938年06月 土地買収ほぼ終了
1945年01月 19日 工場が大規模な空襲を受ける
関連サイト:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(5-215)■
この記事の資料:
嵐の日々
航空写真を見てもはっきりと飛行場とわかる場所がよくわかりません。
たぶんここだろうという推測ができるのはありますけどね。
by いっぷく (2011-06-24 09:15)
今の川崎重工を斜めに突っ切っているのがそうでしょうか?
いや、違うかな^^
by Takashi (2011-06-24 12:44)
するってーと三式戦を造っていたわけですね^^
by ジョルノ飛曹長 (2011-06-24 18:55)
垂直尾翼のような・・・
敷地の切り欠きが気になります<なんだろうコレは?
by me-co (2011-06-25 10:03)
工場内でバイクがスラロームしてたりするとこだった気が・・・
お仕事で行ったと思いますけど、そこしか印象に残ってません。
いったい何のお仕事だったかも<笑>
ここの敷地は、飛行場だったのですね。
by セバスちゃん (2011-06-25 11:44)
謎の飛行場っていうのも多いですね。
by miffy (2011-06-25 13:52)
川崎重工の敷地内、ということになると完全に軍事機密だったんでしょね。
by 雅 (2011-06-25 14:27)
皆様 コメント、nice! ありがとうございます。
■いっぷくさん
実はオイラもハッキリ分かってません^^;
いっぷくさんと同じく、「多分あの部分だろう」という程度です。
当ブログでは可能な限り滑走路跡の地図を貼り付けているのですが、この記事に地図がないのはそのためです。
仰る通り、この写真だけ見ると、(どこが滑走路だったんだろう???)という感じですが、
国内のあちこちの写真を見ては、「ないかな? ないかな?」と探しまくっているオイラのようなヒマ人からすると、
この写真は非常に特異なものです。
まず、国土の七割が山林なので、写真のほとんどは延々山林写真です。
人の営みが感じられる部分の大半は田畑であり、これはほとんどが不規則なパッチワーク状になっています。
そんなわけで、市街地、工業地帯として活用し易い場所は非常に限られており、
その限られた非常に狭い範囲にぎっしりと建物が押し込められています。
この写真のように、工業地帯の中にかなりまとまった範囲で、まるでやすりでこすったかのように直線的に更地になっているケースは
まずお目にかかることがなく、これは非常に特異な状態です。
以上の点と、「現川崎重工業明石工場には1200x1800の三角形の滑走路があった」という資料から、
「ここに飛行場があったのは間違いない」と思います。
■Takashiさん
オイラもそこが怪しいと思います。
↑いっぷくさんへのコメも宜しければご覧くださいませ。
■ジョルノ飛曹長さん
資料で確認できなかったのですが、川崎だから多分そうなりますよね^^
■me-coさん
本当ですね(@Д@)
当時は線路の所まで工場敷地だったぽいですが、どんないきさつがあったんでしょうか??
■セバスちゃんさん
おお、お仕事で行きましたか!
敷地内に教習所のようなコースがあって、「ライディングスクール」になってますから多分ここですね。
■miffyさん
多いですね~。
ガードの固い飛行場はまったく情報なしです^^;
■雅さん
そうですね~。
情報が少ないのはそのせいかしらん。
by とり (2011-06-26 06:45)
川崎と言うと、僕はバイクですね(^O^)
でも、好きなバイクは鈴木なんですけどねv(`∀´v)
by 鹿児島のこういち (2011-06-26 10:46)
■鹿児島のこういちさん
確かに川崎というとバイクのイメージ強いですよね。
ニンジャとかカッコよかったなぁ。
鹿児島のこういちさんはスズキ派でしたか!
ホンダ派のオイラですが、原付のカーナ、刀になる前のGSX-400Fに乗ってたことがあります^^
by とり (2011-06-27 06:20)
とりさんは「ここです」と答えてくれるのだろうか?と気になって
コメントを読みに来ましたが、やはりそうでしたか。特異な例でしたか。
飛行機に乗る機会が多いために常に窓側の席を確保して
機内から地上の様子を観察するのが楽しみになっています。
自然の景観の中に不自然な直線などを見つけると人間が作った道路なのか
滑走路なのか目を凝らして見るようになりました。
by いっぷく (2011-06-29 14:21)
■いっぷくさん
お役にたてず申し訳ありません^^;
キチンと示せればよかったんですけど。。。
ヒコーキに乗る機会が多いというのは本当に羨ましいです。
是非オイラの分まで眺めていただいて、何か撮れましたらアップして頂けると嬉しいです。
by とり (2011-07-01 06:39)
滑走路跡今も残ってますよ。
ひたすら直線のバイクのテストコースになってます。
by NO NAME (2012-01-04 02:35)
■NO NAMEさん
今も残っているのですか。
貴重な情報ありがとうございましたm(_ _)m
by とり (2012-01-04 06:45)
何か勘違いされているようです。
地元の人間です。1946.11.20の写真は、米軍空襲で壊滅後、復旧していない昭和21年の写真ですから明石飛行場がハッキリ映っています。つまり、ただの原っぱの飛行場なのです。写真の左側の空き地のようなところが飛行場です。カワサキオートバイのテストコースは昭和三十年代に入ってからですので工場の真ん中を東西にありました。以下のこの昭和20年1月19日の明石初空襲の写真で飛行場がわかります。
https://besankosyashin.blog.fc2.com/blog-entry-1167.html
で確認できます。
by セイショウ (2022-04-19 21:11)
■セイショウさん
情報ありがとうございます。
ここは当時の資料を探しても出て来ないため、情報いただけるのは非常にありがたいです。
ご指摘の通り、当時の写真で見ると工場左側の方が、広々していて掩体もずらりと並んでおり、
よほど飛行場っぽいですね。
実は作図をした際、この場所はとても気になっておりました。
但し、ご紹介頂いたリンク先にも記されていますが、
「バイクのテストコースが滑走路だったらしい」とする情報がネット上では散見される一方、
「左側の空き地が飛行場である」とする情報は初耳です。
つまりネット上では、「バイクのテストコースが元滑走路」というのが定説です。
戦時中、道路拡幅型の滑走路では、幅11m~15m級の滑走路が複数設定されていました。
オイラがバイクのテストコースはここではないかと考えた場所は、
工場建物の間の"ウナギの寝床"のような場所ではありますが、
オイラが測った限りでは幅17mはありそうですので、
滑走路として設定されていた可能性はあるのではないかと思います。
もし、「バイクのテストコースではなく、左側の空き地が飛行場である」
とする根拠資料等何ありましたら、ご教授いただければ幸いです。
by とり (2022-04-20 19:42)
実は、当時、私の父が川崎航空機明石工場に勤務していました。昭和20年1月19日の初空襲の体験者です。父は、六回あった明石空襲のすべてに遭遇した人間です。父の体験談から、明石飛行場は、この原っぱのみです。また、昭和40年代から私も勤務しましたが、バイクテストコースは、旧飛行場と全く関係ありません。
http://navgunschl2.sakura.ne.jp/bangai/IJN_Nav_Base/000A_11_Kinki_AB.html
この川崎航空機に父が勤務していた戦時中の学徒動員の中に、旧制和歌山中学の生徒たちがいました。彼らは、この初空襲に遭遇しています。そして、その一人が後に歴史小説作家になり、この時の川崎航空機の会社内のことを克明に記した小説を書いています。亡くなられましたが、作家の津本陽です。作品名は、嵐の日々 です。ネット上で古本簡単に手に入ります。
宜しくお願い致します。
by セイショウ (2022-04-25 03:45)
■セイショウさん
セイショウさんもお父様もこちらにお勤めされていたのですね。
非常に説得力のある情報をありがとうございます。
ご教授頂いた本、早速注文しました。
こちらも情報感謝です。
まずはじっくり読んで、当記事の修正をしたいと思います。
by とり (2022-04-25 03:47)
■セイショウさん
コメント修正させて頂きました。
ご連絡感謝いたします。
ありがとうございました。
by とり (2022-04-25 03:50)
修正いただきありがとうございます。尚、下記の昭和33年の川崎航空機神戸製作所(明石工場)と岐阜製作所の映像ご存じですか?ちょうど明石対岸の淡路島の江崎灯台・松帆の浦・明石海峡・須磨浦の鉢伏山の映像からスタートします。松帆の浦の松林が立派に茂っていたころです。私もよく友人たちと明石から播淡汽船に乗ってキャンプに行った所です。今は、無残なくらい松がありません。訪れる人もありません。川崎航空機明石工場がやっと戦後の高度経済成長期の入り口に入りかけたころの様子です。ご参考になればよいのですが。
by セイショウ (2022-04-25 13:23)
度々すみません。高齢になるとすぐ忘れます。
https://www.youtube.com/watch?v=cBr9j0evjLY&t=5s
です。
by セイショウ (2022-04-25 13:25)
映像の最後にバスが走っているドライブウェイは、当時の神戸市の表六甲ドライブウェイです。
by セイショウ (2022-04-25 13:31)
■セイショウさん
非常に貴重な映像のご紹介感謝致します。
まったく存じませんでした。
こんなカラー映画が残っているとは奇跡のようです。
カワサキ社が戦後復興を支えた様子が伝わります。
ありがとうございました。
by とり (2022-04-26 05:57)
■セイショウさん
おかげ様で記事を全面修正致しました。
この度は貴重な情報を頂き、本当にありがとうございました。
by とり (2022-05-05 17:38)
ご無沙汰しております。
我が家の書棚から朝日ソノラマの新装版戦記文庫⑬1994年8月10日第2刷発行の双発戦闘機「屠龍」(著者 渡辺洋二)を久しぶりに見たところ280ページに明石飛行場側から撮影した川崎航空機明石工場の写真が出ています。飛行場と機体工場の位置関係がよくわかります。
この本もネット上で古本手に入ると思います。
失礼しました。
by セイショウ (2022-07-31 00:44)
■セイショウさん
こちらこそご無沙汰しております。
その節は貴重な情報を頂きまして、本当にありがとうございました。
書籍のご紹介ありがとうございます。
早速注文しました!!
この度もありがとうございました。
by とり (2022-07-31 03:13)
1961年7月3日の明石航空写真に川崎航空機明石工場がハッキリ見えます。元の飛行場跡にくっきりと当時のオートバイテストコースが見えてます。
素晴らしい画像です。
by セイショウ (2022-08-27 11:46)
忘れてました。国土地理院です。
by セイショウ (2022-08-27 11:48)
■セイショウさん
情報ありがとうございます。
国土地理院1961年の周辺写真を全て見たのですが、
残念ながら5月撮影の写真しか発見できませんでした。
by とり (2022-08-28 16:41)
私の持っている明石航空写真どのようにしたら見ていただけますか?
by セイショウ (2022-08-29 17:44)
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=724755&isDetail=true
これでどうでしょうか?五月でも同じだと思いますが。直線とUターンのテストコースです。元の明石飛行場の原っぱの中に作られています。
by セイショウ (2022-08-29 22:21)
■セイショウさん
リンク先で閲覧できました。ありがとうございました。
「7月の航空写真」とは、セイショウさん所有のものだったのですね。
ネット上で閲覧できるものだと勘違いしておりました。大変失礼しました。
それから、ご紹介頂いた画像でナゾが解けました。
ネット上に散見される情報から、
滑走路は、戦時中も工場建屋が並んでいるエリアにあり、
建屋と建屋の間の細長い直線部分が滑走路に設定されていた。
戦後は同じくこの直線部分がバイクのテストコースになった。
ということなのだろうと思い込んでいました。
そうじゃなくて、飛行場のあった原っぱがバイクのテストコースになったのですね。
後日記事に反映させて頂きます。
貴重な情報をありがとうございました。
それから先日ご紹介頂いた書籍、毎日少しずつ読み進めています。
全く知らない分野の内容で、非常に面白いです。
by とり (2022-08-30 05:14)