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信号 [■ブログ]

オイラの友人に、フルトレーラーのプロドライバーがいます。

先日、停電のせいで消えた信号機の交差点をうっかり素通りしてしまったのだそうです。

幸い交差車両はなく、事故にはなりませんでしたが、

後から冷や汗が噴出したそうです。

 

得意先のタクシー会社では、乗務前の打ち合わせの際、

本日の計画停電のエリアと時間帯の確認を行っていました。

計画停電エリアの皆様、事故にはくれぐれもお気を付け下さいm(_ _)m


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地震 [■ブログ]

オイラのお得意先に、去年入園したばかりの男の子がいます。

天真爛漫で、男の子にしては珍しく非常によくしゃべり、よく笑う、かわいい子です。

オイラによく懐いてくれて、作業中に大好きなミニカーを持ってきて、

「これは○○」。「これは○○」。と、ニコニコしながらいろいろ話し掛けてきます。

 

地震のあった日、テーブルの下でうずくまって震え、夜中まで出てこようとしなかったそうです。

翌日以降も余震が続いたわけですが、少しでも揺れるとすぐテーブルの下に駆け込み、

震えながらうずくまるようになりました。

そして笑わなくなってしまいました。

「私らは何十年も生きてきてこんなこと初めてなのに、この子は生まれて5年でこんな目に遭ったんだからね」

おばあさんが仰ってました。

 

この男の子にとって、震災前と震災後で、実際に変化したのは停電くらいのはず。

それでもこの男の子の中の世界は、 震災前と震災後で何もかもが変わってしまいました。

現実の世界が何もかも変わってしまった被災地の方々、そして子供たちに心よりお見舞い申し上げます。

どうか復興が少しでも早く進みますように。

どうかどうか、この体験を昇華できますように。


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プロ野球開幕 [■ブログ]

計画停電がなくなるまで、少なくとも東京ドームは使わないで欲しいです。

殺人的な電車通勤に耐え、

停電中、幹線道路では警官が発電機で信号つけたり、体を張って交通整理に当たり、

それ以外の道路では信号の消えた交差点での死亡事故が発生したりしているのに、

寒くて暗い中、停電で不便な生活を強いられる人が大勢いて、

それでも「被災地の方のことを考えたら贅沢言ってる場合ではない」と

みんなで節電に協力しようとしているというのに、

それでもドーム開催を強行しようとする意味がわからない。

収益を全額復興のために使う。とかなら喜んで協力するけれど。

 

東京ドームのナイター3500世帯分      


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ガソリン狂想曲 [■ブログ]

ようやく好転してきましたが、給油が大変です。

道路脇で長蛇の列を作っているのは、スタンドかスーパーのいずれか。 

3~4時間待ちは当たり前。

「わざわざ深夜の時間帯に出掛けたから、たった1時間半で入れられた♪」 なんて話も聞きます。

それでも、「通常の生活を営むのに非常に苦労する」というだけで、

被災地の方のことを思えばなんてことないんですけどね。

「入荷した」とか「○時に入荷するらしい」という噂を聞きつけると、

そのスタンドに車が殺到し、列が列を呼ぶため、店員さんが交通整理に追われ、

パトカーがスタンドの交通整理に出動してたりします。 

数百メートルとか、時には1キロを超える車が押し寄せてあっという間に在庫がなくなってしまい、

「給油はここまでです」というサインを掲げていたりします。

「在庫切れ」、「本日休業」の張り紙で閉店するスタンドも非常に多いです。

ところで順番待ちの車列を見ていて驚くのが、エンジンかけっぱの車が多いことです。

ほとんどのスタンドが「20リッターまで」とか、「2,000円まで(15リットル弱)」とか制限売りなわけですが、

開いているスタンドを探して走り回り、 順番待ちで3~4時間アイドリングをして、果たして実質何リットル入れたことになるのでしょう??

一方で、きっちりアイドリングストップする車も、ほんの数メートル動いては停止。を数時間に渡って延々繰り返すので、

バッテリー上がりで動けなくなった。というのも聞きますけども。

 

オイラの弟は、なかなか給油できず、極力乗らないようにしていたのでずか、

とうとう針が残量計のEの線にかかってしまったため、

早朝5時半に出発してスタンドを探し回り、行列を作っているスタンドを発見したので最後尾につけました。

通常朝8時開店の店なのですが、開店した時点で既にすごい列ができてしまい、

それから並んでも途中で売り切れてしまうのを経験済みなのです。

ところがです。1時間半ほど経った頃、店員さんがやってきて、

「すみません、本日営業しませんので~」と。(@Д@)

聞けば、ちゃんと「本日休業」の張り紙をしていたのですが、

その紙が小さかったので気が付かずに並んだ人がおり、

あとはもう列を見つけた車が最後尾につける。という状態が続いてしまったらしいです。

順番待ちで暇を持て余したおじさんたちの間では、

「30リットルまで売ってくれるらしい♪」なんていう情報まで飛び交っていたらしいです。

一体ドコからそんな情報が。。。(〃´o`)=3

結局他でも入れられず、Eの線を割り込んだ状態で帰宅したのだそうです。

却って悪化しただけじゃん… _| ̄|○ il||li

結局弟は、混乱を避けるために夜だけ営業することにした隣町のスタンドの情報をキャッチ。

会社の上司にもそのことを伝え、無事みんなで深夜仲良く給油したのでした。

 

オイラは配達業なのですが、給油できないと仕事ができなくなってしまうため、

「仕事中に入れられそうだったら、まず入れろ!」と厳命されています。

それでもなかなか入れられずに動けなくなった車が出始めるという状態です。

会社で契約しているスタンドから「整理券を配りますから」と連絡が入り、

整理券をゲットするためだけに一番近くに住んでいる社員が休日出勤する始末(XДX)

配達の日は1日平均100キロ弱走るのですが、

フィットの場合、一度満タンにすると無給油で7回位もちます。

ということで、オイラは地震発生から、たまたま空いているスタンドを見つけて30分待ちで1回給油しただけでまだ半分残っており、余裕です。

燃費のいい車で助かったとしみじみ思いました。

 

最後に我が社の新人の話を。

というわけで配達業なので、給油できるかどうかは死活問題なのですが、

先週この新人が、配達がまだまだ残っているのに会社に戻ってきたのだそうです。

そして、「ガソリンがなくなってしまったのでこれ以上配達できません」

と、配達を拒否して帰ってしまったのだそうです。

そして、後から事情を聞いた店長と上司が代わりに配達をしたのだとか。。。。

部署が違うのでオイラはほとんど接触がないのですが、

以前に数回イラッッとさせられたことがあって内心、(どういう人よ?)と思っていたのですが、

「いろいろやらかす」ということで社内ではすっかり有名だったらしいです。

同じ部署でなくてよかった~。

なんでクビにならないのかしらん。

うんも~。いつまでも子供の心を失わない、自分の気持ちに正直なピュアハートなんだから~。

 

って、どんだけピュアやねん!!


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台湾のみなさん、ありがとう。 [■ブログ]

台灣如何看待日本311 (台湾は日本国民に捧げます)      

 

世界中に応援してくれる方が大勢おられます。

どうか被災地の方々が少しでも暖かく過ごせますように。


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停電で思うこと。 [■ブログ]

朝起きてスイッチをつければすぐ明るくなって、暖房がついて、温水が使えて。

車の運転中も、信号が赤なら止まるし、青なら進むし。

あるのが当たり前で、「今日も電気がきていて嬉しいなぁ」、「信号がついてて、なんて便利なんだろう」なんて、

普段考えることもなかったのですが。

いつでも明るくピカピカな行きつけのコンビニも停電中は薄暗く、冷凍食品のケースはビニールシートとガムテープで

目張りされていました。

 

以前の記事で、福島第一原子力発電所はかつて、旧陸軍の磐城(夫沢)飛行場だったと書きました。

1年半前現地にお邪魔した際、「東電展望台」で旧飛行場について触れた碑文や発電所など眺めたのですが、

恥ずかしながら「どうして福島に東京電力なのか?」というところまで思いが至りませんでした。

そして今回の事故で初めて、あの原発が首都圏のためのものだと知りました。

東京電力のサイトにあったのですが、首都圏の電力の4割は福島と新潟から送られており、

新たに青森で首都圏用の原発の建設を予定しているのだそうですね。

「原子力はクリーンで安全」というイメージが定着していたのですが、今回の一連の報道を目の当たりにすると、

首都圏の便利さが、他県にリスクを押し付けた上に成り立っているのだ。ということを考えさせられます。

現実問題として、この便利な生活を享受するためにはどこかに原発が必要なのもまた事実なのでしょう。

きっと今回の事故を教訓に、既存の原発の安全対策の見直し、万一事故が発生してしまった際の対処方法の改善が進むことと思いますし、

是非そうであって欲しいと思います。

原発の建設地として、人口の少ない海沿いが何かと都合がよいのは分かりますが、

誘致の見返りに何某かのメリットが地元にはあって、一応「ギブ&テイク」の形にはなっているものの、

万一の事故の際にはこれだけ甚大な被害が出てしまいます。

しかもその影響が地元どころかその県を遥かに越える範囲にまで広まってしまうという現実を見ると、

今後の原発建設、存続には、反対派、慎重論派の声が大きくなるでしょうが、それでいいと思います。

そして、より安全な原発が、より安全な場所に出来て欲しいです。

 

前述の通り、福島第一原発のある場所は旧陸軍の磐城(夫沢)飛行場でした。

突然軍の飛行場用地に決まってしまい、土地が接収され、住民の移転、半強制的な作業従事が強いられ、

終戦間際には飛行場が標的となり、近隣住民にも被害が出ています。

結局、残念ながらこの土地は戦時中からずっとそういう役割を押し付けられてしまっている場所なのです。

今はともかく一刻も早く原発が安全な状態になってくれることを願います。


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届け! [■ブログ]

オイラの仕事はお得意先回りです。

商品を定期的に一般家庭、事業所にお届けしています。

今日は地震後初めてお得意先を回る日でした。

今日のコースは10年来のお客様がたくさんいて、年配の方も大勢います。

(おじいちゃんおばあちゃんを気遣ってオイラが励ましてあげよう(`・ω・´))

そう思っていました。

ところがです。

訪問する先々でオイラを待っていたのは、溢れるほどの優しい気遣いでした。

まるで幾多の困難を乗り越えてやってきた。みたいな迎え方をされました。

実は全然苦労してないのですごい恐縮です ^^;

普段はいくらこちらから話を振っても滅多に喋らない方にまで、

「大変な中ご苦労様です。道路混んでいて大変だったでしょ?」

とポツリと言われました。

オイラ、こういうの弱いんだよな~。(;´Д⊂)

あるお宅を訪問したらお留守だったのですが、

「ご苦労様です。地震の影響で何かとご苦労と思いますが、この状況をみんなで乗り切りましょう!」

と書かれたメモが。(;´Д⊂)

今日は一体何度、お客さんに泣かされそうになったことか。。。

かっ、花粉症のせいなんだからねっ! 

(オイラが励ましてあげよう) なんて、おこがましかったです。

たくさんの方からたくさんの温かい気持ちをもらって帰途についたのでした。

今日ほどこの仕事を続けてよかったと思ったことはありません。


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pray for Japan [■ブログ]

地震発生当時、オイラは地元埼玉にいました。

震度は5弱で、海無県なので、地震による直接の被害はほとんどなかったのですが、

鉄道、高速がストップし、帰宅ラッシュと重なって東京方面を結ぶ道路は大渋滞。

どうしてもお得意先に行く用事があったのですが、

普段なら15分程度の所に1時間以上かかりました。

(この混み方も、都心部、被災地と比べると全然大したことなかったのですが)

「これがいつもスイスイの道か!!」とビックリするような状況の中、

もっとビックリだったのが、ドライバーのマナーの良さでした。

普通、予想外の大混雑だともっと殺伐とすると思うのですが、いつもに増して譲り、譲られです。

途中で緊急車両に何度か追い越されたのですが、渋滞の中、みんなでなんとかスペースを空けてました。

「みんなお腹空いてるだろうに。家族や親せきの安否が気になって一刻も早く帰りたいだろうに…」

異常事態で発揮される助け合いの精神に、ホッとさせられました。

 

どうぞ救助が進みますように。

1人でも多くの命が助かりますように。

 

サイトを1つご紹介させて頂きます
地震発生後、Twitter で投稿された心に残るつぶやき"pray for Japan"■(リンク切れ)    


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大地震のお見舞い申し上げます。 [■ブログ]

被災地の皆様にお見舞い申し上げます。

 

ブログ上で安否確認しておられる方が大勢おられますので、

オイラも一応お伝えしておきます。

オイラは自宅の小物が落ちた程度で無事です。


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上田陸軍飛行場(上田市営飛行場)跡地 [├空港]

    2010年05月、2018年5月訪問 2022/1更新  


無題2.png
1947年9月当時の写真(USA R213 22)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
6.png
(昭和7年7月撮影)高度1,500米 方位S 距離1,000米無題d.png
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27),USSBS Index Section 6(1934年3月調・国立国会図書館デジタルコレクションより。2枚とも)


長野県上田市 千曲川左岸にあった「上田飛行場」。

後述しますが、元々「上田市営飛行場」として建設され、後に「上田陸軍飛行場」となりました。

すぐ上の地図は、アジ歴/1934年(昭和9年)3月調査の上田飛行場資料に添付されているものです。

(先頭のグーグルマップにグレーのシェイプで作図してあります)

同資料では滑走地区は600mx200mとあります。

昭和9年頃はこんな細長い飛行場だったんですね。

そしてグーグルマップのパープルのシェイプは、上に貼った1947年9月撮影の航空写真から作図したんですが、

なかなか線が拾えず、心が折れそうになりながら作図しました。

かなり大雑把です。「おおよそこんな感じ」ということで、ご了承くださいませ。

グリーンの小さな長方形は、上の航空写真で白く浮いて見える部分で、この南側に格納庫等、分教場諸施設がありました。

紫マーカーの位置に碑があり、現在は千曲高校になっているのですが、当時は飛行場中枢区画ということになります。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」の情報を以下引用させて頂きます。

面積 北西-南東1,100米 北東-南西400米 総面積30.8萬平方米
地面の状況 平坦にして一面に芝及雑草密生す 堅硬にして排水良好なり・降雨直後と雖も使用し得
目標 上田市、千曲川、上田橋
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(間口25米、奥行25米)1棟 (間口20米、奥行20米)1棟
照明設備 なし
通信設備 (記載なし)
観測設備 なし
給油設備 あり
修理設備 応急修理可能なり
宿泊設備 兵舎あり、上田市内に旅館20あり
地方風 全年を通じ北西風多し、春季は南東風なり 3,4,9月は一般に風強し
地方特殊の気象 7,8月頃雷雨多し、11月頃早朝濃密なる霧の発生することあり、冬季積雪尠なし
交通関係 上田駅(信越線)東方約3粁、同駅より「バス」の便あり 城下停留所(上田温泉電気線)
南東方約1.5粁
其の他 本場は熊谷陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  上田
位 置   長野県上田市大字中之條  
規 模   要図(東西1,100)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇名分
 格納施設 掩体 二ヶ所
摘 要   施設官有

DSC_0027.jpg

青マーカー地点

この場所から奥に向かって、道路の右側(学校側)がエプロンでした。

格納庫、油庫等、諸施設は初期のころからこの周辺にありました。

DSC_0028.jpg

赤マーカー地点

昭和10年の資料では、この周辺から飛行場でした。

DSC_0022.jpg

黒マーカー地点

案内板と旧正門跡

DSC_0019.jpg

DSC_0021.jpg

D20_0055.jpg

紫マーカー地点

記念碑。

上田飛行場跡(全文)
昭和初年繭糸価格の暴落により農村は忽ち未曾有の困窮状態に陥る 昭和五年政府は失業救済農山漁村臨時対策法を成立せしめ失業者の救済と産業振興の為低利資金の融資を謀る 之により上田市は二万八千六百円の融資を受け千曲川の水害による中之条地籍の荒廃地二十余町歩を開墾すること可決し中之条荒蕪地復旧組合を設立 翌六年三月着工 工事の進捗に伴い此の地は耕作に不適当と判断せられた為時勢に即応して飛行場にすべしとの議に決する 同年五月東西四百米南北二百米の地均完了 六月一日朝日新聞社定期航空会社所属 東京新潟間の定期航空便の寄航開始祝賀式挙行 式当日飛来機五機 来賓数百 観衆多数 同年東西に各百米の拡張工事を為し秋完成 上田市は中之条荒蕪地復旧組合より飛行場地域を買収市の所有となる この価格四万四千八百四十四円 同年十月十七日市営飛行場開場式挙行 飛来せる陸軍機民間機計十八機 来賓千数百名観衆は万を以て数え空前の盛況を呈する昭和七年三月離着陸に不安なからしむる為東西五百米南北九十米に約十糎の盛土を施し六七両月に亙り東西両接続地数十米の地均 更に不整形を是正し格納庫車庫事務室等を建設 設備を完成 陸軍省に献納の儀出願 認可を得る昭和八年四月三日献納式挙行 参列者五百余名 陸軍上田飛行場と命名せられる 献納の土地面積四万九十二坪建物数量二百二十九坪井戸一ヶ所時価約七万六千円以後所沢下志津浜松熊谷等の飛行学校飛行聯隊逓信省朝日新聞社その他民間機の利用するところとなり年間の飛来機数二百乃至三百機に達し本州中部航空路の重要飛行場となる 特に山岳地方耐寒飛行演習に於て他に比すべきなしとの評を得る やがて?界の軍事情勢緊迫化するや昭和十二年熊谷陸軍飛行学校上田分教場となり練習部隊が駐屯 飛行場の拡張工事が急速に進められ隣接する農耕地の買収が強制され飛行場の総面積は実に十七万坪に及ぶ 更に九五式練習機が上田上空を訓練飛行し離着陸に支障ありとして鐘紡上田工場の煙突を切り落とす かくして上田分教場は幾多搭乗員を養成 戦況危機に瀕して特攻隊が此の地から飛び立つに至る 昭和二十年八月十三日米軍機来襲 付近住民に犠牲者が出たのは記して銘すべきである 同年八月十五日の敗戦により米軍に接収せられ土地建物は大蔵省の管轄下に入る 昭和二十一年五月上田市は米進駐軍長野軍政部の認可を得 土地建物を借り受け市立高等女学校が移転同二十三年四月市立高等女学校と市立商工学校を合併せしめ土地建物約二万坪の払下げを受け同二十四年四月県立移管 上田千曲高等学校となる 校地以外の土地は逼迫した食糧事情の下一般市民の開墾 上小開拓団の入植問題等一時紛糾したが地元増反による開拓事業として中之条下之条両地域農家に払下げが決し昭和二十四年二月一日十万九千七百六十六坪同二十七年三月一日二万三千百二十五坪の払下げとなる 総価格二十三万二千七百余円 又同二十四年最初の県営住宅平屋木造五棟十戸 同三十六年から三十八年平屋二階四階耐火十九棟百戸が建築され同三十四年から三十六年市営住宅平屋木造耐火五十六棟百十五戸の建設を見る かくして同三十七年一月一日千曲町が中之条から分離独立 その他道路敷一万三千三十坪水路敷四千八十二坪 千曲高校敷地を含め合計十六万八千六百四十六坪の払下げとなる 思うに昭和五年上田市が目した荒廃地開墾の事業は皮肉にも敗戦によって実現したのである しかしその農地も今や大半が宅地と化し昔日の面影を留めず飛行場建設以来幾変遷を経て既に五十五年今此の地に記念碑を建立銘文を撰し長く後世に伝えんとする 題字 成澤昌茂 文並書 細川武敏

この長文、全部読む方はおりますまい。碑文によりますと、

「中之条地区を開墾しよう」 というのが当飛行場建設の発端だったようです。

「開墾」から「飛行場建設」 というのは随分突飛な感じがしたのですが、

他の資料の中で、「上田飛行場は失業対策で建設された」と記されていました。

しかし碑文にもある通り、「開墾」という当初の目的が「市営飛行場」、「陸軍飛行場」を経て

最終的に敗戦によって実現したというのはなんとも皮肉な話です。


       長野県・上田飛行場跡地      

上田飛行場 データ
・1931年3月完成時
設置管理者:中之条荒蕪地復旧組合
種 別:民間飛行場
所在地:長野県上田市中之条
座 標:N36°24′02″E138°13′38″
飛行地区:400mx200m
方 位:11/29

・1931年秋 拡張工事完了時
設置管理者:上田市
種 別:民間飛行場
所在地:長野県上田市中之条
座 標:N36°24′02″E138°13′38″
飛行地区:600mx200m
方 位:11/29

・1934年3月調べ、アジ歴情報より 
設置管理者:陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:長野県上田市中之条
座 標:N36°24′02″E138°13′38″
面 積:13.5ha 
飛行地区:600mx200m
方 位:11/29

・1937年 熊谷陸軍飛行学校上田分教場
設置管理者:陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:長野県上田市中之条
面 積:56.2ha  

・1943年4月調べ、水路部情報より
設置管理者:陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:長野県上田市字中之条
座 標:N36°24′0″E138°14′0″
面 積:北西-南東 1,100m 北東-南西 400m 30.8ha

沿革
1930年   上田市、政府の低利融資を活用して「中之条荒蕪地復旧組合」を設立 
1931年03月 開墾開始するが、耕地に適さないことが判明。飛行場にすることに
    05月 400mx200mの地ならし完了
    06月 1日 東京新潟間の定期航空便の寄航開始祝賀式挙行。飛来機5、来賓数百、観衆多数
        東西各100mの拡張。秋完成(400mx200m→600mx200m)
        上田市、「中之条荒蕪地復旧組合」から飛行場を買収。市所有となる
     10月 17日 市営飛行場開場式。陸軍機、民間機18機飛来。来賓千数百、観衆は万
1932年03月 東西500m、南北90mに約10cmの盛土
     06月 7月にかけ、東西両接続地数十mの地均し、不整形の是正、格納庫、車庫、事務所設置
1933年04月 3日 陸軍に献納式。「陸軍上田飛行場」となる。13.3ha。
1937年   「熊谷陸軍飛行学校上田分教場」となる。急速に拡張し、56.2haに
1944年    特攻隊の訓練が行われるようになる
1945年08月 終戦2日前に米軍機来襲、近隣住民に犠牲者
        敗戦により接収され、土地建物は大蔵省管轄に
1946年05月 この月以降、飛行場跡地を学校、耕地、県営住宅等に活用

関連サイト:
東信ジャーナル/記念碑と案内板移設    
水路部資料「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」(アジ歴)  
上田市松脂採取痕跡松(ブログ内)  
仁古田飛行機製造地下工場跡 (ブログ内)  

この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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