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山梨(甲府、玉幡)飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2024/8更新  


無題4.png
(マップ・1) 撮影年月日1948/09/27(USA M1168 95) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)無題c.png
(マップ・2) 1/50000「甲府」昭和4年三修・昭和7.12.28発行「今昔マップ on the web」より作成

山梨県‎中巨摩郡にあった「山梨(玉幡)飛行場」。

元々は玉幡競馬場がある場所でした。

上の今昔マップ中央上に「場馬競」とありますね。

6.png
(昭和12年5月撮影)高度約1,000米 方位SSW 距離約1,500米無題d.png
(マップ・3)1938年(昭和13年)3月調査資料添付地図 Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B). Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

昭和6年の満州事変勃発により競馬場が閉鎖され、その跡地に「玉幡飛行場」が作られました。

リンク先を見て頂くと分かりますが、当飛行場の頁は「昭和13年3月調」となっていますので、その頃の飛行場です。

飛行場北側の微妙なカーブは競馬場の名残なんですね(o ̄∇ ̄o)

(マップ・2)と比べると、競馬場のトラックの向きが違うんですけど。。。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  山梨飛行場
経営者  在郷軍人航空研究会
所在地  山梨健中巨摩郡玉幡村玉川
水陸の別 陸
滑走区域 東西四〇〇米 西北-東南五〇〇米
備 考  (記載無し)


飛行場を建設したのは、元陸軍航空本部嘱託員梅沢義三という人物で、後に日本航空学園の創立者となりました。

梅沢氏は山梨在郷軍人航空研究会を母体とし、玉幡競馬場跡地に飛行場を作ったのでした。

梅沢氏は当初からここを単なる飛行場で終わらせるつもりはなかったようで、

資料には、ここに飛行場だけでなく「航空発動機練習所」、「山梨飛行学校」を設置したとあります。

(マップ・5) 

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に地図があり、

上のマップはこの地図から作図しました。

当飛行場の頁は「昭和18年4月調」とありました。

航空写真の方を優先したため、水路部の地図とは異なっている部分が結構ありますのでご了承くださいませ。

この地図と共に記載されている飛行場情報を以下引用させて頂きます。

面積 東西1,000米、北西-南東930米 南北850米 総面積60萬平方米
地面の状況 植芝密生する平坦地なり、設置後日尚浅き為地盤固まらず・降雨後は置土粘着し乾燥せば風塵立ち昇る
目標 甲府市街、釜無川、開国橋
障碍物 西方に高圧電線、北方に電車用架空電線あり
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 大格納庫(間口50米、奥行40米)1、其の他5あり
照明設備 なし
通信設備 陸軍無線電信所あり
観測設備 甲府測候所にて毎日1回航空気象を観測す
給油設備 あり
修理設備 兵舎あり
宿泊設備 なし
地方風 全年を通じ北西風多く、夏季は午後より西風定吹するを例とす
地方特殊の気象 7,8月頃雷雨の発生多し、冬季は午前中のみ気流良好なるも午後は比較的不良なり、霧は10-12月間に多く暴風は3月に特に多し
交通関係 釜無川停留所(甲府市至眞秋澤間)北方付近 甲府駅より「バス」の便あり
其の他 本場は岐阜陸軍飛行学校分教場なり 北側に隣接して山梨航空技術学校飛行場あり
(昭和18年4月調)

修理設備の項目に「兵舎あり」と記されています。

他の飛行場の頁を見ると、続く「宿泊設備」の欄にしばしば「兵舎あり」と記されていることから、

ズレちゃったのかもしれません。

 

山梨飛行場? 甲府飛行場?

(マップ・3) のリンク先では当飛行場のことを「山梨飛行場」として扱っているのですが、

Remarks の箇所には、"This field is called the KŌFU airfield by the army."

という一文があります。

残念ながらオイラはこの資料の水路部原本を確認できていないのですが、

其ノ他 「陸軍ハ本場ヲ甲府飛行場ト称ス」なんて書かれているんでしょうか。

それはともかく、陸軍は当飛行場を「甲府飛行場」としていたんですね。

そういう目で改めて資料を見返してみれば、

創設者の梅沢氏は当飛行場を一貫して「山梨飛行場」、陸軍は一貫して「甲府飛行場」としていました。

 

飛行場、飛行学校として発足した山梨飛行場でしたが、

昭和15年4月、熊谷陸軍飛行学校甲府分校が設置され、飛行場を共用するようになります。

それで、この時から「山梨飛行場」と軍との結びつきが始まったのかと思っていたのですが、

アジ歴で検索すると、

・昭和11年12月23日 甲府飛行場飛行機庫新築其他工事の件
・昭和14.8.3~8.31 陸軍航空本部第10課 甲府飛行場整地其他工事の件

がヒットします。

昭和14年の工事は、「第三期航空要員急遽養成に伴い在来の未整地区を整備するものとす」

とあり、分校設置以前のかなり早い時期から、陸軍が当飛行場に深く関わっていたことが分かります。

時代背景もさることながら、当飛行場創設者の肩書からして、これは当然のことなのかもしれません。

 

熊谷?  岐阜?


ということで、当飛行場には「熊谷陸軍飛行学校」の甲府分校が設置された訳なのですが、

資料を見ると、「岐阜陸軍飛行学校甲府分校」もちょいちょい登場します。

前述の防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」の中でも当飛行場について、

「本場は岐阜陸軍飛行学校分教場なり」

と記しています。

前述の通り、当飛行場に「熊谷陸軍飛行学校甲府分校」が設置されたのは昭和15年4月なのですが、

同年同月、「熊谷陸軍飛行學校各務原分教所」が開校しています。

そして同年8月、この「各務原分教所」は独立して「岐阜陸軍飛行學校」と改称(下記リンク参照)し、

甲府分教所が付属します。

そんな訳で、当「甲府分校」の所属が熊谷から岐阜に変更になったのでした。

 

(マップ・6)  

■「日本海軍航空基地要覧(陸軍航空基地含む)」(1945年3月訳)に出てくる甲府飛行場地図を元に作図しました。

こちらも1948年の航空写真、グーグルマップを優先したので、形がちょっと違います。

恐らくこれが最終形態。

南側に大きく拡張しましたね。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  甲府
位 置   山梨県中巨摩郡玉幡村
規 模   要図(南北1800 東北東-西南西1100)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一,一〇〇名分
 格納施設 飛行機庫四棟 掩体中三ヶ所
摘 要   施設軍有一部官有

(マップ・7) 作図した3つを重ねるとこんな感じ。

PXL_20240804_020639645(2).jpg

1972年、昭和47年頃の山梨県立農林高校の航空写真。

郭さんから送って頂きました。

昭和6年まで競馬場があり、飛行場になってからは、この周辺に諸施設が立ち並び、飛行場の中枢となりました。

学校の沿革には、

21. 4.30 中巨摩郡竜王村(現竜王町)旧飛行学校を仮校舎として移転した。

とありました。

これだけ平坦で広大な土地だったからこそ、時代時代で用途を変えつつ、様々に活用され、現在に至るのですね。

航空写真中央にあるのは"噴水広場"でしょうか。

グーグルマップでも放射状の施設がかなり目立っているんですが、

かなり早い時期に作られたのですね。

D20_0129.jpg
マップ6赤マーカー地点。

2014/9/14追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、甲府中學校滑空部、甲府工業學校校友會滑空部が当飛行場を使用していたという記録が残されています。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m


5.jpg

撮影年月日1940/02/16(昭15)(C49 C3 82) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

杉浦醫院にあった飛行機格納庫

郭さんから情報頂きました。

当飛行場跡地の東約1.8kmには現在「昭和町風土伝承館 杉浦醫院」(赤マーカー)があるのですが、

当時ここに杉浦醫院があり、敷地に飛行機格納庫があったらしいです(現在は残ってない)。

「昭和町風土伝承館 杉浦醫院」は現在見学可能な施設として整備されており、

郭さんから送って頂いた当伝承館説明版の写真からこの格納庫関連の情報だけ抜き取りますと、

杉浦醫院の敷地に陸軍の飛行機格納庫あった。檜の材質でしっかりしたものだった。

とのことです。

上に貼ったのは昭和15年の航空写真で、中央に黒っぽく写っている辺りが杉浦醫院。

上に書きましたが、

防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」(昭和18年4月調) には、

格納設備 大格納庫(間口50米、奥行40米)1、其の他5あり

とあります。

送って頂いた説明版には、

格納庫は現在のアルプス通りの辺にあった。裏のマンションより大きかったように思う

等記されていましたので、もしかしたら水路部資料に出てくる「大格納庫(間口50米、奥行40米)1」

とは、ココにあったものなのかもしれません。

飽くまで一般論なんですが、これだけの規模の立派な格納庫は、使い勝手からしても、

滑走路目の前、駐機場に隣接しているのが普通です。

戦局の悪化と共に、本土空襲、本土決戦が現実のものとなると、航空機、諸施設の分散秘匿化が進み、

掩体壕も飛行場から離れた場所に建設されることが多くなりました。

ですから、 飛行場から離れた場所に大型機用の鉄筋コンクリート製有蓋掩体壕ならまだしも、

約1.8kmも離れた場所に木製の巨大格納庫というのは、少なくともオイラの記憶にはないです。

なぜこんな場所に木製巨大格納庫があったのか。

以下、完全にオイラの妄想話です。

 

上述の通り、元々当飛行場は、元陸軍航空本部嘱託員の働きかけで山梨在郷軍人航空研究会を母体として建設されました。

郭さんから頂いた説明版の写真でも、当飛行場は民間飛行場として発足し、正式名称は「愛国山梨飛行場」とあります。

愛国飛行場とは、「献納された飛行場」を意味しており、

こうしたことから当飛行場は地元協力者から多大の支援を得て発足したことが明らかです。

軍が地元の意志を無視し、強権を発動して作った飛行場とは、地元の協力の度合いに雲泥の差があります。

「飛行場から離れた場所に木製の立派な巨大格納庫」 というのは、

個人的には奇妙な印象を受けるのですが、こうした発足事情からすると、

杉浦醫院が自ら敷地を提供し、早い段階で建設した可能性もあるかもしれません。

いつ、どんないきさつで建設されたのか、正確な状況は不明ですが

(国立国会図書館デジタルコレクション、アジ歴で検索しても分からなかった)、

この場所に巨大格納庫があったとは全く知りませんでした。

貴重な情報を送って頂いた郭さんに感謝ですm(_ _)m


      山梨県・山梨(甲府、玉幡)飛行場跡地     

山梨(甲府、玉幡)飛行場飛行場 データ
設置管理者:山梨航空機関学校と旧陸軍の共用
種 別:陸上飛行場
所在地:山梨県中巨摩郡玉幡村(現・中巨摩郡‎昭和町‎)
座 標:N35°37′49″E138°30′51″
・1938年3月調べ
標 高:270m
飛行地区:北西-南東450m 東西250m
面 積:16.5ha
・1943年4月調べ
飛行地区: 東西1,000m、北西-南東930m 南北850m
面 積:60ha
(座標はグーグルアースから)

沿革
1928年   山梨県、玉幡村に玉幡競馬場建設
1931年   玉幡競馬場閉鎖
1932年10月 甲府在郷軍人航空研究会を母体とし、航空発動機練習所開設
1933年02月 40万平方メートルの飛行場を開設
1936年08月 財団法人 山梨航空研究会を設立し山梨飛行場を設置
    12月 陸軍、飛行場飛行機庫新築工事
1939年07月 山梨航空技術学校設立認可
    08月 陸軍、 飛行場未整地地区の整地工事
1940年04月 熊谷陸軍飛行学校甲府分校開設
    08月 岐阜陸軍飛行學校甲府分教所に改称
    10月 この頃、甲府中學校滑空部、甲府工業學校校友會滑空部が当飛行場を使用
1942年01月 山梨航空機関学校と改称。航空整備士養成の専門校となる
1945年   終戦により閉校。戦後国有地から県に払い下げられ、山梨農林高、警察学校となる

関連サイト:  
日本航空学園/日本航空学園の歴史  
アジ歴・昭和11年12月23日 甲府飛行場飛行機庫新築其他工事の件  
アジ歴・昭和14.8.3~8.31 陸軍航空本部第10課 甲府飛行場整地其他工事の件  
アジ歴・岐阜陸軍飛行学校令・御署名原本・昭和十五年・勅令第五〇〇号  

この記事の資料:
地元説明版(郭さんから)
航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」
韮崎・巨摩の歴史
玉幡村史
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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双葉滑空場 [├空港]

   2010年11月訪問 2020/8更新  



山梨県甲斐市 中央道双葉JCTすぐ西にある日本航空高校。

敷地内には「双葉滑空場」が整備されています。

D20_0115.jpg


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      山梨県・双葉滑空場      

双葉滑空場 データ

設置管理者:日本航空学園
所在地:山梨県甲斐市宇津谷445番地
座 標:N35°40′52″E138°28′57″
滑走路:700m×15m
磁方位:15/33
(座標はグーグルアースから)

関連サイト:
日本航空高等学校/山梨キャンパス    


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韮崎滑空場 [├空港]

   2010年11月訪問 2020/8更新  

 

山梨県韮崎市 釜無川の河川敷にある韮崎滑空場。

すこし下流にある日本航空学園の滑空場です。

一般にもグライダー滑空の入会受付をしており、当日の朝に日本航空学園双葉滑空場に集合。

格納庫から機体を出し、当韮崎滑空場へフェリーフライトを行うところから始めるのだそうです。

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D20_0108.jpg


      山梨県・韮崎滑空場      

韮崎滑空場 データ

設置管理者:日本航空学園
所在地:山梨県‎韮崎市‎龍岡町下條東割‎ 釜無川河川敷
座 標:N35°41′20″E138°28′00″
標 高:330m
滑走路:1,200m×30m
磁方位:14/32
(座標はグーグルアースから)

関連サイト:
日本航空高等学校/山梨キャンパス    
NPO法人韮崎市航空協会   


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鳴沢飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2020/8更新  


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撮影年月日1970/10/21(CB708Y C7 27) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

山梨県鳴沢村 国道139号沿いにある「富士緑の休暇村」。

かつては飛行場でした。

昭和40年代にゴルフ場、別荘地の建設に伴い集客のため建設。

試験飛行を繰り返したのですが、正式には開港しなかったそうです。(地元店情報)

滑走路跡には現在各種運動場、駐車場が細長~く整備されています。

D20_0085.jpg

赤マーカー地点から滑走路方向

D20_0091.jpg

同じく赤マーカー地点から。


      山梨県・鳴沢飛行場跡地     
ネットでは昭和40年代に「鳴沢飛行場でラジコンの競技会開催」という記事がいくつかありました。ここの飛行場のことではないかと

鳴沢飛行場 データ
所在地:山梨県‎南都留郡‎鳴沢村‎
座 標:N35°28′36″E138°41′26″
標 高:989.6m
滑走路:750m?
方 位:09/27
(座標、滑走路長、方位はグーグルアースから)


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忍野場外離着陸場(スカイポート富士) [├空港]

   2010年11月訪問 2020/8更新  


山梨県の山中湖北側にある忍野村。

ここにある忍野場外離着陸場(スカイポート富士)で忍野MAXフライングクラブが活動しています。

公式サイト(下記リンク参照)、とても楽しい雰囲気です^^

D20_0083.jpg


      山梨県・忍野場外離着陸場(スカイポート富士)      

忍野場外離着陸場(スカイポート富士) データ

空港種別:場外離着陸場
運用期間:積雪時は休止
所在地:山梨県‎南都留郡‎忍野村‎内野‎
座 標:N35°27′37″E138°52′13″
標 高:965m
着陸帯:300m×150m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1990年 開所

関連サイト:
トライクライダー(リンク切れ?)   


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梨ヶ原離着陸場(跡地?) [├空港]

   2010年11月訪問 2020/8更新  


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撮影年月日1947/09/16(USA M476 188) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

山梨県にある「陸自・北富士演習場」。

この敷地内の山中湖、東富士五湖道路近くに「梨ヶ原離着陸場」があります。

戦時中は旧陸軍の「北富士秘匿飛行場」でした。

上に貼った航空写真では、うっすらと誘導路らしいものが見えますね。

 

D20_0072.jpg

D20_0073.jpg

なんとか滑走路が見える場所はないものかと探したのですが見つかりませんでした。。。


      山梨県・梨ヶ原離着陸場      

梨ヶ原離着陸場 データ

設置管理者:陸上自衛隊
所在地:山梨県‎南都留郡‎山中湖村‎山中‎
座 標:N35°25′55″E138°49′43″
滑走路:650m×18m
方 位:16/34
(座標、方位はグーグルアースから)


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相馬飛行場(田鶴牧場、伊久留飛行場)跡地 [├空港]

   2010年7月訪問 2022/1更新  


無題.png
撮影年月日1947/11/06(USA M631 38) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

石川県七尾市‎伊久留町‎(いくろまち)にあった「相馬飛行場(田鶴牧場)」。

「伊久留飛行場」とも呼ばれていたそうです。

先頭のグーグルマップは、「広報ななお」2009年8月号から作図させていただきました(下記リンク参照)。

オレンジのシェイプは、当時不足していたコンクリートの代用品として、

松、杉板材が使用された珍しい板敷滑走路部分です。

北側は「二期工事予定区域」とのことで、北端の地割が描かれていませんでした。

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  舞鶴
牧場  田鶴
滑走路 五〇×七〇〇 一,二〇〇に延長
縣郡村 石川、鹿島 相馬村
記事  七月末既成(中島社)

飛行場の建設のいきさつから戦後の復興までは、「広報ななお」にも非常に分かり易く記されているのですが、

■「田鶴浜町史」456~458pに「相馬飛行場建設」という項目があり、

「太平洋戦争も敗戦の色濃く、二ヶ月後に終戦を迎えようとする昭和二十年、本土決戦を最後の手段と考えた軍部は、突然当町伊久留の地に海軍航空隊、相馬飛行場建設に来村した」

とありました。

D20_0040.jpg

青マーカー地点。

「相馬飛行場跡  昭和二十年、相馬国民学校を飛行場設営隊本部とし、学校に平行して長さ一、二〇〇メートル、幅五〇~一〇〇メートルの滑走路をもつ飛行場が八月十四日に完成したが八月一五日に終戦をむかえ、一度も利用されることなく取り壊された。田鶴浜町」

終戦の前日に完成したのですね。。。

D20_0044.jpg

同じく青マーカー地点。

左側の黒い説明板全文 「本土決戦が焦眉に迫った昭和二十年六月 突如この地に海軍の秘匿飛行場の建設が始められた。その名も「田鶴牧場」と称し 田植え直後の田を幅約百メートル 長さ千二百メートルに亘って埋立て その上に厚板を敷き並べて滑走路としたものであった。建設作業は小松海軍航空隊の予科練生、同軍設営隊、朝鮮出身労働者等数百人の並々ならぬ労苦と、近郷各種団体の度重なる勤労動員によってなされた。幸い 完成と同時に終戦となり戦禍は免れたものヽ いま多くの犠牲と戦争の罪過に思いを致すとき この事実が風化されることなく語り継がれ平和が永続することを願いこの碑を建てる。平成十五年三月」

D20_0046.jpg

右側のケースの中に滑走路に敷いた厚板と釘?と地図が展示してありました。

この厚板は2002年に地元の民家から見つかったものらしいです。

厚さ6.3cmで、迷彩模様に塗ったコールタールが杉板の表面に残っているのだそうです。

この写真だとよく見えないんですが、地図には「厚板じき約600m 完成 1,200m」とありました。

一方、「広報ななお」には、

幅約100メートル、長さ約1,000メートルの滑走路の基礎部分が出来上がった。
出来上がった滑走路(板敷き部分)は幅約50メートル、長さ約700メートルであった。

とあります。

また「広報ななお」にも地図が掲載されているのですが、

両者の地図には細部に違いがあります。

「広報ななお」には戦後について、

住民一丸となった懸命の作業により、翌21年3月には全ての作業が完了。
飛行場の面影は消え去り、何事もなかったかのような穏やかな田園風景に戻った。

とありました。

終戦から1年を経ずして飛行場の面影は消え去っていたのですね。

生きる事最優先ですから、ドコからドコまでが滑走路だったのか、多少のズレが出たって当然と思います。

上に貼った航空写真は、終戦から2年3ヵ月後のもので、これでも終戦に最も近い撮影日のものなんですが、

この頃にはもうとっくに滑走路は消え去ってたんですね。

道理で何処をどう探しても、滑走路のとっかかりが見つからない訳です。

D20_0036.jpg

赤マーカー地点。

この周辺は奥に向かって板敷き滑走路が続いていたはずです。


      石川県・相馬飛行場(田鶴牧場)跡地      

相馬飛行場(田鶴牧場) データ

設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:石川県‎七尾市‎伊久留町‎(いくろまち)
座 標:N37°01′43″E136°53′24″
滑走路:約1,000m×100m  板敷約700mx50m(広報ななおより)
方 位:04/22?
(座標、方位はグーグルアースから)

沿 革
1945年06月    着工
1945年08月14日 完成
1945年08月15日 終戦

関連サイト:
広報ななお2009年8月号 
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 


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愛国金沢(金沢)飛行場跡地 [├空港]

   2010年7月、2018年5月訪問 2022/6更新  


3.png
1938年(昭和13年)3月調査資料添付地図 Translation No. 30, 11 January 1945, Airways data: Chubu Chiho (B). Report No. 3-d(28), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)

4.png
撮影年月日 1946/11/19(昭21)(USA M323-A-6 7)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

2022/4 新たな資料から改めて作図をやり直したのですが、これまで長い間、飛行場はもっと北側にあるものとして誤った作図を載せておりました。大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m


石川県にあった「愛国金沢(金沢)飛行場」。

1939年、大坂―金沢―富山―長野―東京 という形で定期便の運航が始まりました。

金沢~東京を3時間30分で結んだのだそうです。

現在では北陸新幹線が金沢と東京をたった2時間30分~3時間で結んでいます。

新幹線凄いですね。

しかし戦時体制で民間定期便はほとんど利用されず、飛行場はグライダー練習、遊覧飛行に使われ、

戦後は農地として払い下げられました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/10,000 金澤飛行場(昭和十八年六月調)があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

上に貼った1946年の航空写真では、用水路?が縦横に走っており、滑走路は跡形もなくなっていますね。

地図によれば、北東~南西の滑走路は600m「日航当時使用 地盤比較的堅硬」、北西~南東の滑走路は670m、

東西方向の滑走路は700mと、それぞれ記入がありました。

(滑走路幅の長さについては資料が見当たらず、地図から目測で作図しています)

また、「日航建物」が2棟、その東側に「燃料庫」が描かれています。

「日航建物」については航空写真の赤矢印だと思うのですが、「燃料庫」は判別できませんでした。 

同資料の情報を以下記させて頂きます。

判決
 直協機以外の使用不能なり

所在地及位置
 石川縣河北郡川北村東爪
積量
 三三〇〇〇〇平方米(約一〇〇〇〇〇坪)
土質高低差並地表面状態
 東西の方向に中央分水嶺あり(標高一七五糎、
 長さ七百米)約四百分の一の勾配を付す、東、南北
 の周□りの標高は約一ニ七糎なり形状は木等邊多
 角形概して平坦にして芝及雑草(一部)密生す
付近状況並使用上の注意其の他
 東方は河北潟南端に接し、西方は浅野川、北方は浅野
 川に望む南方及付近一帯水田、田の中所々に木立あり
 一般に周囲に障碍物少きため特に注意する点なし、恒
 風は概ね北又は西なるを以て東方河北潟より着陸するを可
 飛行場は竣功後日浅きため大雨の降り続くときは水溜
 軟弱の個所を生ずるを免れず
天候気象の交感
 六月下旬より七月中旬迄(降雨期)雨量大なる月より
 順次記すれば十二、一、二、三月(降雪期)十二、十一、一、九、一〇、七、六月
 主として冬季、暴風日数一六一(統計表に依る)
 十二月中旬より三月中旬頃迄地上の積雪あり
 降雪総量一月中に於て一二一糎(統計表に依る)
山岳、森林
 南方約五〇粁に白山(標高二七〇〇米)あり
 西方の場周に浅野川堤防あり
電線、高圧線
 南方より飛行場事務所へ高圧線及電話
 線の引込あり
其の他
 滑走路は舗装に非ず整地の上芝の植付を施したるものにして
 上空よりの識別不能なり、場内南東隅に私有地(水田)あり
救護設備
 市街地、村落の距離遠く、交通の便悪く救援の設備なし
付属設備
 事務所一棟 外四棟
交通機関
 私鉄浅野川電鉄、金沢駅より約三十分毎に発車
         蚊爪下車、(五、六粁約二十五分)
宿泊地
 宿泊地金澤市内、飛行場付近に旅館なし
連絡機関
 定期航空運行中は大日本航空の金澤市内旅客□
 合所と飛行場間に旅客送迎用自動車一日二往復
 運転す
 飛行場電話番号(金澤五七五〇)

■防衛研究所収蔵資料「航空路資料 第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19年6月刊行 水路部」の中に、

第9 愛国金沢飛行場(昭和17年7月調)

管理者 航空局。
位置 石川県河北郡川北村大字東蚊爪
   (金沢市の北方約9粁、36°38′2N、136°39′6E)。
種別 公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約1.7米。
広さ及形状
 本場は長さ東西700米、北西-南東670米及北東-南西600米の略梯形地
 域(総面積33萬平方米)なり。
 着陸地域は概ね図示の3條の滑走路(但し舗装せず)を最適とす(付図参
照)。
地表の土質
 主として砂地なるも若干泥土を混ず。
地面の状況
 本場は河北潟の南側一部を埋立整地せるものにして埋立表面の高さは通常
 湖面より約2.3米、周囲の水田より約1米高し・地表は凸凹起伏なき平坦
 地にして中央部に稍高き分水嶺を設け南北両側に向け1/400の下り傾斜を
 成す・中央以南は芝及雑草密生するも北部は概して生育不十分なり・地表
 は土質の関係上載荷力を有する堅硬地なり・降雨後の排水概ね良好なるも
 竣工後尚浅き為長雨続きの際及融雪期には諸処に水溜を生じ且地表軟弱
 となるを免れず。
 滑走路は未舗装にして植芝密生する平坦且堅硬地なり、場内一面に雑草に
 蔽わるるを以て上空よりの識別稍困難なり・12月中旬より翌年3月中旬頃
 迄積雪あり・排水施設は地下に暗渠及場周に幅約2尺程度の排水側溝あ
 り。
場内の障碍物
 場の南側中央に格納庫(高さ12米)、飛行場事務所(夜間は屋上に障碍物
 標示燈を點燈す)及吹流木柱(高さ9米)あり。
適当なる着陸方向
 一般に東方河北潟より着陸態勢を執るを常とす。
離着陸上注意すべき點
 可及的芝生滑走路を主要するを可とす。
施設
 格納庫(間口20米、奥行22米、高さ12米)1・航空局金沢分室及大日本
 航空株式会社金沢出張所・金沢測候所飛行場出張所(目下配員なし)・油
 庫・車庫・倉庫・石炭庫・無線電信受信所(定期航空運航中のみ執務す)
昼間標識 吹流1、飛行場標柱1あり。
 夜間標識 照明設備なし、但し飛行場事務所屋上に障碍燈を點燈す。

周囲の状況
山岳
 本場は河北潟の南岸に在り、西方は約3粁にして日本海に臨み南方は廣濶
 なる石川平野の水田なり・北及東方は直ちに河北潟に面し湖水の周囲3粁付
 近迄は平坦なる水田なるも東方は次第に山地となり約3粁にして石川、富
 山の両平野を縦断する高さ300米内外の倶利加羅峠の麓に達す。
河川及湖沼
 場の西側に接して浅野川あり、更に西方河北潟の湖尻より放出する大野川
 は南西流して日本海に注ぐ、河口に大野港あり此処より同河を遡航して河
北潟に至る舟艇の便あり・南方より本場付近の河北潟に注ぐ灌漑用小河川
多数錯綜す。
堤防
 北及西側に沿う浅野川河岸に高さ1米程度の堤防あるも障碍とならず。
建築物
 場周1粁以内に煙突及建築物等の障碍物なし。
電線
 南方より飛行場事務所に架設せる高さ7米の高圧線及電話線あり。
着目標
 河北潟、大野川、浅野川、道路(本場-金沢市間)、金沢市街。

地方の状況
軍隊及憲兵
金沢師団司令部(金沢市西町)、東部第49部隊(金沢市旧城内)南方約8粁、
 東部51,52,53,55部隊(金沢市田町)南方約11粁・金沢地方海軍人事
 部(金沢市出羽町)南方約9粁・金沢憲兵隊(金沢市西町)南方約8粁。
警察署及役場
 玉川警察署(金沢市宗叔町)南方約8粁、大浦駐在所(河北郡川北村字大
浦)南方約2粁・川北村役場(同村字松寺)南方約4粁。
医療
 川北村字蚊爪及同村字松寺に医院1あり・金沢陸軍病院(金沢市石引町)
 南方約9粁、金沢医科大学付属病院(同市茶畑町)等の外金沢市内に病院
 22あり。
宿泊
 金沢市内に金沢「ホテル」其の他主なる旅館11あり。
清水
 場内に上水道の設備なきも付近の民家に水質良好なる井戸あり。
応急修理
 場内に修理設備なし・金沢市下提町に株式会社北陸自動車商会あり、同社
 は旋盤及溶接器の設備を有す。
航空需品
 航空用燃料及潤滑油の補給は困難なり。

交通、運輸及通信
鐡道及電車
 金沢駅(北陸本線)南方約7粁・金沢駅前より本場の南西方を経て西方栗
ヶ崎海岸に至る浅野川電気軌道株式会社経営の電車便(30分毎に発車)あ
り、最寄停留所は蚊爪停留所(南西方約2.5粁)なり。
道路
 本場の南西隅より幅員7米の飛行場専用道路あり、同道路は南西方約1.5
 粁にて金沢市に通ずる県道に連絡す。
舟運
 大野川河口より同河を遡航し河北潟に連絡する水運の便あり。
運送店
 金沢市内に金沢合同運送株式会社あり・付近の村落に貨物自動車2あり。
電信及電話
 蚊爪郵便局(川北村東蚊爪)南西方約2粁、電信及電話を取扱う・飛行場
 事務所内に電話(金沢5750番)あり、郵便局との間に電話にて電文托送の
 便あり。

気象
測候所
 金沢測候所(金沢市■生町)南方約10粁・定期航空運航中は場内の金沢測
候所飛行場出張所にて航空気象を観測す。
地方風
 金沢測候所に於ける2546-2600年55箇年間の月別統計次の如し(以下月ごとのデータ省略)
天候
 同上55箇年間の月別統計次の如し(以下月ごとのデータ省略)
地方特殊の気象
 7,8月頃雷雨多し、低気圧が日本海を通過する際は偏南西風著し。
気象予察の俚諺
 南方約54粁の白山(日本アルプス)が雲に覆わるるときは南西の風強く
天候次第に険悪となる前兆なりと言う。

其の他
本場は昭和14年6月公共用陸上飛行場として設置せられ爾来大日本航空株式
会社経営の東京-金沢-大阪間定期航空路の中継飛行場として運航を実施せる
も最近同航空路の休止に伴い目下金沢市に管理を委託しあり。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

飛行場名  金沢
位 置   石川県川北郡川北村
規 模   要図
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 (記載無し)
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設官有

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 大阪-長野
区間 大阪-金沢間 毎日一往復
   金沢-富山間 毎日一往復
   富山-長野間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十一年十月


当飛行場について扱うサイト様(下記リンク参照)によりますと、

建設費を主に出費したのが前田家であったこと、建設の背景に既に1934年に富山に飛行場ができたこと
(今の富山空港とは違うもの)への金沢の政財界の対抗意識があったらしいこと、
飛行場の場所は河北潟南端の東蚊爪、いま免許センターがある付近であったこと、
1938年に開業してから大坂―金沢―富山―長野―東京という定期便が組まれたものの、
ほとんど飛行機が飛んでいなかったらしいこと、などが注目される。
なお、定期便が飛ばなくなった後のこの飛行場は、グライダーなどの練習用途に使われたらしいが、
敗戦後の1946年に閉鎖された。軟弱地盤だったことを理由にあげる説もある(以上、配付資料参照)。
と記されていました。

「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)の中にある「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、当飛行場が金澤高等工業學校航空研究會に使用されていたと出ています。アギラさんから情報頂きました。アギラさんありがとうございましたm(_ _)m

D20_0059.jpg

石川県警ヘリポート。

D20_0068.jpg

青マーカー地点。

跡地の南南西にある「飛行橋」。

D20_0070.jpg

中日新聞によりますと、市中心部と飛行場をほぼ直線で結ぶことを目的として整備された道路は年配者から今でも「飛行道路」と呼ばれていて、

大宮川に架かるこの橋は「飛行橋」と言い、欄干にプロペラ形の飾りがついています。

老朽化のため平成10年7月に架け替えられたのですが、この飾りは地元の強い要望で引き継がれたのだそうです。

かつてこの地に飛行場があったことを示す名残です。


      石川県・金沢飛行場跡地      

金沢飛行場 データ(主に水路部資料昭和17年7月調から)

管理者:航空局(後に金沢市に管理委託)
所在地:石川県河北郡川北村大字東蚊爪(現・金沢市‎湊‎1丁目‎)
座 標:N36°38′2″E136°39′6″
標 高:1.7m
面 積:33ha
滑走路:600m(03/21)、670m(16/34)、700m(08/26)
(滑走路の長さ、方位はグーグルアースから)

沿 革
1936年 建設計画
1938年 金沢蚊ヶ爪に建設着工
1939年 6月 公共用陸上飛行場として設置
     7月15日 大日本航空、東京への定期便開始
1940年 この頃、金澤高等工業學校航空研究會が使用していた
1942年 この頃大日本航空航空路休止し、金沢市に管理を委託
1946年 閉鎖

関連サイト: 
第13回 公共交通と地域経済;小松飛行場その他(リンク切れ) 

この記事の資料:
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19.6 水路部」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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野島掩体壕 [├場所]

   2010年11月訪問 2020/8更新  



神奈川県の日産追浜工場にあった追浜(横須賀第一)飛行場。

そのすぐ西側に「野島掩体壕」(黄色マーカー)があります。

2010年5月に飛行場跡地には行ったのですが、掩体壕の方は一身上の都合でスルーしていて、

半年後に改めて行って来たのでした^^;

追浜(横須賀第一)飛行場跡地については下記リンクをご参照ください。

掩体壕のあった周辺は現在「野島公園」として整備されており、BBQのいい匂いがあちこちからしてました。

D20_0060.jpg

「野島掩体壕」入口。

通常の掩体壕は盛り土をして造り、一基につきヒコーキを一機格納するのに対し、

こちらは山をトンネル状にくり抜いて造っているため、規模が桁違い。

国内最大級と言われており、「秘密基地」を地で行くスケールです。

 

説明板が設置されていました。

説明板より: 野島の掩体壕(全文) 野島掩体壕は、横須賀市夏島町にあった旧横須賀海軍航空隊基地の戦闘機を空襲から守る施設として建設されました。この掩体壕は、標 高約55メートルの野島山の東西をトンネル状に貫通しており、長さは約260メートル、両側に出入り口があります。出入り口の部分は、幅約20メートル、 高さ約7メートルで、トンネル状にコンクリートが打設されており、中央部分は、幅約10メートル、高さ約8メートルで、素掘りの状態です。作業に当たった 横須賀海軍の「第三〇〇設営隊戦時日誌」には、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月15日から6月30日までの掘削工事が進められていた記録が 残されており、同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約100機を格納する計画でしたが、終戦で実際に使用されることはありませんでし た。通常の掩体壕は、戦闘機1機を格納する程度の大きさが一般的で、この野島掩体壕は、現存する掩体壕の中でも国内で最大規模と言われています。第三〇〇 設営隊は、横須賀海軍施設部第一部隊を改編した部隊で、海軍の将兵に技術者を加えた精鋭部隊でした。日吉台(横浜市港北区)の旧日本海軍連合艦隊総司令部 地下壕や松代大本営地下壕(長野市松代町)などの建設にも加わっていました。平成22年3月 横浜市

D20_0059.jpg

説明板にあった見取り図。

全長258.5m。。。

D20_0058.jpg

説明板より: 「野島作業風景 昭和20年6月30日」

D20_0063.jpg

反対側の入り口。


      神奈川県・野島掩体壕      

野島掩体壕 データ

設置管理者:旧海軍
所在地:神奈川県‎横浜市‎金沢区‎野島町‎
座 標:N35°19′38″E139°38′09″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1945年3月15日から6月30日まで掘削工事が実施されたという記録あり
終戦のため使用せず

関連サイト:
ブログ内関連記事(追浜(横須賀第一)飛行場跡地)       


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青野木場外離着陸場(スカイライフ飛行場) [├空港]

   2010年9月訪問 2020/8更新  

 

宮城県ののどかな山の中にある「有限会社スカイライフ」。

航空機、航空機用機器、航空機用部材パーツ、グッズ等の航空機関連商品専門の輸入販売会社です。

会社専用の青野木場外離着陸場(スカイライフ飛行場)があります。

D20_0100.jpg

「立ち入り禁止」で、許可が得られる時間帯でなかったため、写真はなしです。

 


      宮城県・青野木場外離着陸場(スカイライフ飛行場)     
ジャンク品の通販もあり、「プロペラ1枚500円」、「航空機用ピストン300円」などが紹介されていました

青野木場外離着陸場(スカイライフ飛行場) データ
設置管理者:有限会社 スカイライフ
種 別:場外離着陸場
所在地:宮城県仙台市青葉区芋沢畑前北10
座 標 標 点:N38°18′16″E140°43′18″
滑走路:350m×35m→2020/1拡張工事により、約500m
方 位:14/32
(座標はグーグルアースから)

沿革
2019年12月 延長拡幅工事開始
2020年01月 工事完了。滑走路約500m 

関連サイト:
スカイライフ    


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