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長野原防空監視哨跡 [├場所]

   2010年7月訪問 2020/8更新  


群馬県北西部にある吾妻郡長野原町。

ここに防空監視哨跡が残っています。  

D20_0012.jpg

国道145号バイパスから少し入った所に立っていた標識。

標識に従ってなだらかな丘を少し登って行きます。

監視哨跡に通じる細道の左右には畑が広がっていて、作業している年配の方に許可をもらって進みました。

D20_0011.jpg

到着。屋根がかかってますね。

「聴音壕への立ち入り ご遠慮下さい」と書かれてました。

D20_0007.jpg

県内に約40作られたのですね。

D20_0009.jpg


      群馬県・長野原防空監視哨跡      

長野原防空監視哨 データ

所在地:群馬県‎吾妻郡‎長野原町‎大津‎上馬込
座 標:N36°33′08″E138°37′19″
(座標はグーグルアースから)


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岩村田飛行場跡地 [├空港]

    2010年5月訪問 2023/12更新  


無題i.png
撮影年月日1947/08/13(USA M407 48) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

長野県佐久市内で建設が進められていた「岩村田飛行場」。

海軍の秘匿飛行場として建設中に終戦を迎えています。

飛行場の場所についてですが、県立駒場公園内の「創造館」南側一帯が飛行場だったとする情報があります。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:岩村田 建設年:1945 飛行場長x幅 米:1200x50方向NW 主要機隊数:小型 主任務:避退場 隧道竝ニ地下施設:工事中 其ノ他記事:工事中

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「岩村田(昭20建)工事中」とありました。

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  横須賀
牧場  岩村田
滑走路 五〇×六〇〇NNW
縣郡村 長野、南佐久 岩村田町
記事  八月末既成

先頭のグーグルマップは、上に貼った1947年の航空写真から作図しました。

うっすらと斜めに走る地割が滑走路だったのではないかと思います。

上記資料では、滑走路の長さは1,200mx50mとありますが、

作図して測ってみたら、750mx115m でした。

大分違いますΣ(゚Д゚;)

あと450m足りないのですが、伸ばすとしたら、南側の畑地だったのではないかと。

 

(2023/12 追記)

小諸の風さんから情報頂きました。

地元文化センターにて企画展示があり、今回の企画展にあたっての調査で、

南側民地を含めた計画であったことがわかったとのことです。

企画展のリンクも貼ってくださったのですが、そこには「滑走路工程図」があり、

先頭のグーグルマップの作図に近い図がありました。

相違点は、滑走路を囲むようにキチンと方形の飛行地区が設定されていること、

滑走路北端にターニングパッドがあること、

飛行地区南端はグーグルマップの作図と同じ長さですが、滑走路南側は作図よりかなり短いことです。

情報頂けて非常にありがたかったのは、滑走路の向きがハッキリした点です。

上述の3つの資料のうち、2つの資料には滑走路の向きが記されており、

それぞれ、"NW" "NNW"(北西、北北西)とあり、作図とは異なります。

オイラにはどう考えても、滑走路は北北東にしか見えないのですが、

ご丁寧に2つの資料で「西」としているということは、オイラ何か重大な勘違いをしてるんだろうか、

実は滑走路は別の場所なんだろうか。と思っていたのですが、

地元でこんな図が出てきたということは、前出の資料の誤記。ということのようですね。

リンク先含め、詳しくはコメント欄をご覧ください。

小諸の風さん、貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m 

D20_0017.jpg

赤マーカー地点

「創造館」南側。

ここから奥に向かって滑走路が伸びていたはずです。


       長野県・岩村田飛行場跡地        

岩村田飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:長野県佐久市猿久保
座 標:N36°15′08″E138°29′04″
標 高:692.5m
滑走路:1,200mx50m
方 位:03/21
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
        長野種馬所の牧草地に飛行場着工
1945年08月 終戦により工事中止

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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軽井沢(馬越、南軽井沢)飛行場跡地 [├空港]

    2010年05月訪問、2020/7更新   

無題2.png
1948年10月(USA M1200-A 12)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

長野県の「軽井沢72(セブンツー)ゴルフ」。

その名称は、1972年に72ホールでグランドオープンしたことに由来します。

この広大な有名ゴルフ場の一角にかつて「軽井沢(馬越、南軽井沢)飛行場」がありました。

その歴史は非常に古くて、大正14年(1925年)に開設され、

閉鎖の年はハッキリしないんですが、藤沢オールドボーイさんから頂いた情報から、

昭和37年(1962年)までは運用が確認できます(後述します)。

軽井沢町には過去複数の飛行場が存在したのですが、当「軽井沢飛行場」こそ軽井沢の飛行場の主役であり、

「軽井沢飛行場に始まり、軽井沢飛行場に終わる」と言っても過言ではありません。

その用途は時代の影響を色濃く映し出しており、

民間飛行場→日本陸軍飛行場→米軍専用飛行場→民間飛行場と変遷しています。

まさに波乱万丈の飛行場でした。

以下、軽井沢飛行場についてまとめてみました。

 

飛行場建設から終戦まで

大正9年(1920年)、箱根土地株式会社(現プリンスホテル)が軽井沢駅南側に広がる地蔵ヶ原を買収しました。

車が通れる道がなかったため、新軽井沢~南軽井沢にかけて幅20間(36m)、長さ20町(2,180m)の道路を建設。

この道路は大正14年(1925年)夏にほぼ完成しました。

これが72ゴルフを東西に分け、現在「プリンス通り」、「二十間道路」として知られる県道43号線です。

箱根土地株式会社はこの道路建設に合わせ、二十間道路の西側に飛行場も建設しました。

飛行場建設の頃について、こう記されていました。

「道路の両側には緑の芝が植えられ、十四年の夏に完成すると、道路の両側に別荘を建築した。この年の秋には地蔵ヶ原に南軽井沢飛行場が完成するなど、南軽井沢には新しい観光施設が生まれることになった。」(避暑地軽井沢92p)

飛行場は大正14年(1925年)秋に完成したんですね。

「軽井沢には飛行場や競馬場ができる 
 道路の西側には飛行機が発着できる滑走路をつくり、昭和二年八月十六日から東京-軽井沢間の定期連絡飛行の認可を逓信省から受けた。飛行機は十年式偵察機をつかって、一日おきに東京-南軽井沢間を往復する計画であった。
午前九時に国立飛行場を出発し、五〇分で馬越飛行場に着陸し、午後四時帰航する時刻表で、運賃は一人片道一〇円、荷物は一キロ六〇銭となっていた。」(避暑地軽井沢109p)

飛行場の名称が「馬越(まごい)飛行場」として記されていますね。

そしてナント、当時は東京の国立(くにたち)飛行場 ~軽井沢の定期便があったのですね(@Д@)

具体的に時刻表も記されていますが、これなら軽井沢に6時間滞在し、同じヒコーキで帰京することが出来ます。

現在は同じ「1日1往復」でも、地方空港に着いたら、サッサと拠点空港にトンボ返りのパターンばかりですから、

利用者にとっては非常に便利ですね。贅沢な機材運用ですけど。

ここで「十年式偵察機」として出てくるヒコーキ、「一〇式艦上偵察機 C1M」 のことだそうで、

この機材は大正13年運用開始の三菱製で、後継機が出ると民間に多く払い下げられたのだそうです。

座席が2つしかないので、大空にパイロットとお客さん2人きり (・∀・)人(・∀・)

これが東京と結ぶ定期便の機材なんですから、時代ですね~。

「戦史叢書95巻付表第一 海軍機の要目性能一覧表」によりますと、「全速110ノット、航続力 3.5時」とあり、

他の項目はWikとほぼ同一でした。

東京から軽井沢までは直線距離で100km弱。 「所要時間50分」ですから、巡航速度は150km/h位でしょうか。

 

 「また昭和三年八月には浅間遊覧飛行を行った。九月一日より二十五日まで、毎日午前一〇時より午後三時まで鈴木一等飛行士が操縦することになった。六〇〇メートル上空から浅間山やアルプスの山々を鳥瞰して、一回一人十円であった。(中信毎日 昭三・八・三〇)」(避暑地軽井沢109p) 

これは軽井沢飛行場から浅間遊覧飛行が行われたことについて触れたものです。

8月30日付の新聞記事からの引用ですから、「8月に遊覧飛行したけど9月もやるよ!」ということなんでしょうか。

先の東京定期便のスケジュールと合せますと、

9:00 国立飛行場発
9:50 軽井沢飛行場着
10:00~15:00 遊覧飛行
16:00 軽井沢飛行場発
16:50 国立飛行場着

という感じかと。

但し、東京便は1日おきの運航に対し、遊覧飛行は「毎日」実施と書かれています。

ということは、定期便とは別に軽井沢飛行場を定置場にしている機材もあったのでしょうか。

8月の遊覧飛行をどの程度の頻度で実施したか記述がなく、

9月に毎日実施と明記してあるのは、1日~25日までの"期間限定"ですから、

この期間だけ東京便が毎日あったのかも。

1日おきの東京便が始まったのが、昭和2年8月。

遊覧飛行の記述があるのが、それから1年後の昭和3年8月。

この頃には東京便が1日おきからデイリーに増便された可能性も考えられるんですが、

東京便については、「昭和2年8月開始」した以降どうなったのか、どこにも続報が見当たらないので、

ハッキリしたことは不明です。

定期便は早々廃止になっちゃって、機体が軽井沢遊覧飛行専用機になった可能性だってあるかも。

 

 「軽井沢は霧が深いことが有名で、当時の飛行機にとっては大きな障害となった。昭和九年五月、海軍の飛行機三機が碓氷峠を越えて南軽井沢にさしかかった。ところがそのうちの一機、舘山海軍航空隊の柴山栄作三等兵曹が操縦する「 報国実業学生号」が折からの濃霧のために進路をあやまり、軽井沢飛行場に着陸しようとして旋回したうえ、軽井沢競馬場へ不時着した。競馬場は凸凹だったため車輪をひっかけてトンボ返りをして機体は大破したが、操縦者はさいわい無事であった。その後機体は分解して列車で送られていった。」(避暑地軽井沢109p) 

海軍機の不時着事故があったんですね。

余談ですが、昭和9年に海軍機が不時着した軽井沢競馬場は、昭和6年に開場式が行われたもので、

軽井沢飛行場から二十間道路をはさんで東南東約2.3kmにありました。

この競馬場も戦時中に飛行機と関わることになります(下記リンク参照)。

 

元々は寂しい湿地帯であった南軽井沢地区開発のため、二十間道路を建設した箱根土地株式会社の堤氏でしたが、

氏の目論見通り南軽井沢地区には、飛行場、競馬場、ゴルフ場といった大型施設が建設され、

別荘も立ち並んでいったのでした。

 「この飛行場は戦争がはげしくなると、昭和十八年に整備されて、熊谷飛行学校の飛行訓練場として使われ、十九年には、陸軍特別航空隊学徒が使用することになって軍事色をつよめていくことになる。」(避暑地軽井沢109p)

 「昭和18年 南軽井沢飛行場を整備し、熊谷飛行学校の飛行訓練所とする。」(軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)」677p(年表)

戦時中は当飛行場も軍事色を強めていったのですね。

余談ですが、陸軍時代の軽井沢飛行場は、埼玉県の桶川飛行場(現ホンダエアポート・下記リンク参照)と同じく

熊谷陸軍飛行学校に属しており、

旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会機関紙「大空への鎮魂」第22号によりますと、

桶川飛行場の教官が「出張教育班」と称して軽井沢教育隊にも出掛けており、

軽井沢飛行場でグライダー訓練を実施している写真が残っているのだそうです。

こうして、東京便、遊覧飛行に利用された軽井沢飛行場は陸軍の飛行場となり、そして終戦を迎えたのでした。

 

終戦から飛行場の復旧まで 

終戦となり、進駐軍が初めて軽井沢に入ったのは、昭和20年(1945年)9月15日のことでした。

米軍は終戦から1ヵ月後にはもう軽井沢まで来たんですね。

この時来たのは新潟東北方面視察団の一隊で、その名の通り新潟東北方面視察の途中の立ち寄りだったのですが、

その後昭和21年4月18日、第八軍司令官アイケルバーガー中将が軽井沢視察に訪れます。

そして会食の席上で中将は、「ここはいいところだ、占領軍のレストセンターにしよう」と言いました。

この中将の一言により、軽井沢は進駐軍の保養地として大規模に使用する事となり、

多くのホテル、別荘、そしてゴルフ場が接収されました。

 「旧ゴルフ場は放牧場として利用された。旧ゴルフ場六番コースには飛行場がつくられ、週末には東京から将校がセスナ機でゴルフにやってきた。セスナ機がゴルフ場に突っこむという事故があってから、南軽井沢の二〇間道路が臨時飛行場となった。」(避暑地軽井沢154p)

大勢の一般兵が列車で保養にやって来たのに対し、将校クラスは東京からセスナでやって来ました。

当然、日本陸軍が使用していた軽井沢飛行場を使用したのだろうと思ったら、

旧軽井沢ゴルフクラブ(離山の北側の麓に今もある)の6番コースを滑走路にしたんですね。

(二十間道路臨時飛行場、6番コース飛行場は、下記にリンク貼っておきます)

 「臨時飛行場のままでは占領軍も不便なため、当時、地蔵ヶ原と呼ばれていた南軽井沢の湿地帯を飛行場用地に選び、所有者の箱根土地(株)(現国土計画)の社長だった堤康次郎と交渉した。そして占領軍の手で地面を掘り下げ排水した後、浅間山の砂利を敷き詰め、現在の72ゴルフコース西コースに「軽井沢飛行場」をオープンさせた。」(軽井沢という聖地102p)
 

 「このように公道を飛行場として使用することは本来無理なことで、米占領軍は軽井沢に対し新飛行場建設を要求してきた。米占領軍は地蔵ヶ原を適地と決定したため、軽井沢事務所では所有者である箱根土地株式会社(現国土計画)の堤康次郎社長と交渉し建設を進めた。当時、地蔵ヶ原は一部湿地帯となっていたが、米占領軍がユンボを入れて七尺ほど掘り排水をすると乾燥した。そしてそこに浅間山の砂利を三尺ほど敷きつめた。こうしてできた軽井沢飛行場(四〇〇町歩)は現72ゴルフ場西コースの位置にあたる。」 (軽井沢町誌 歴史編(近・現代編)354p)

微妙に表現が異なるのですが、この2つの史料から、

米軍からの要請で新飛行場を建設することになったことが分かります。

 「米占領軍は地蔵ヶ原を適地と決定したため、軽井沢事務所では所有者である箱根土地株式会社(現国土計画)の堤康次郎社長と交渉し建設を進めた。」

とあるので、もしかしたら米軍は幾つか提示された候補地の中から地蔵ヶ原を選んだのかもしれません。

また、湿地帯であったため、米軍自ら地盤改良をした様子が記されています。

 「七尺」は2.12mですから、相当掘りましたね(@Д@)

ではこの新飛行場はドコにあったのでしょうか。

 「軽井沢飛行場。大正時代は民間機の定期飛行に利用され、戦時中は熊谷航空部隊の訓練場、戦後は米軍機着陸場となり、その後は遊覧飛行場と幾度も変転したが、現在は消滅した」(目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢133p)

堤氏が建設した軽井沢飛行場を復旧させたんですね。

軽井沢飛行場から浅間山までは直線距離で13kmも離れています。

敷地を2m以上掘り、浅間山の砂利を運んできて1m敷いて…これは相当な工事だったはずです。

ということで米軍が使用した飛行場は、「旧ゴルフ場6番コース」→「二十間道路」→「軽井沢飛行場」

と変遷したことになります。

 

湿地問題

日本陸軍が使用していた飛行場が戦後元の湿地に戻ってしまって、

米軍自ら排水のために大規模な地質改良を施してやっと使用できる状態にした。ということなんですが、

オイラはこうした資料を読んでも、(終戦まで使用していたものがそんなすぐ使用不可になるものなんだろうか)

という点がずっと引っかかっていました。

ところがその後防衛研究所にて、戦時中の国内各地の軍用、民間の各飛行場資料を目にする機会がありました。

日本各地の飛行場についての現状報告資料は、

当時如何に飛行場の排水の良し悪しが重大問題であったか、

そしてそれにどれ程悩まされ、維持管理に骨折っていたかを痛感させるものでした。

例として札幌市街地にかつてあった「札幌飛行場」と、新潟県の「新潟飛行場」の様子を以下引用します。

札幌飛行場
・着陸区域は堅硬地なるも東辺より約240米間は泥炭地なるを以て地表軟弱にして離着陸に適せず
目下使用禁止中なり・排水設備は南北に走る9條の排水暗渠及之に斜交せる小暗渠多数ありて周囲の排水溝に注ぐ排水良好なり・

新潟飛行場
地面の状況
 新飛行場 地表は転圧稍不十分なるも凸凹起伏なき平坦地なり。中央以北は地盤概ね堅硬なるも以南は稍軟弱にして2頓以上の大型機の使用に耐えず。夏季は一面に50糎内外の雑草疎に生じ特に南西側の一部地域は伸長1米に達す。排水施設は不完全にして降雨後及融雪期には諸處に水溜を生じ豪雨の際は北部は異常なきも南部は地盤著しく軟化するを以て小型機と雖も使用上注意を要す。冬季(1,2月)は積雪1米に及ぶことあり此の期間中は橇を装置せざれば飛行不能なり。

こんな感じで、暗渠を仕込んだ飛行場の例は結構出てきますし、

大雨になると泥濘化して小型機すら。という例は多いです。

軽井沢には元々湿地帯が多く、大正時代に堤氏が地蔵ヶ原の開発を始めた際も、そこは湿地帯でした。

「地理 2011年1月号・リゾート地 軽井沢の風土」によりますと、

軽井沢が湿地となった要因は、地下水の影響を受けやすい地形にあるとされています(ちょっとニュアンス違うかも)。

元来地形的に湿地になり易い土地柄であり、飛行可能な状態を維持するには排水や土質改良が必須とすれば、

それを止めてしまうとたちまち元の湿地に戻ってしまうのかも。

後述しますが、米軍による軽井沢飛行場の造成工事が航空写真で初めて確認できるのは、1948年9月です。

ということは、日本陸軍は終戦と共に飛行場を使用しなくなってから、

最長で3年間、飛行場は放置されていた可能性があります。

当然もっと前から工事を開始していた可能性は大いにあるんですが、

現在のところこれ以上は確認のしようがありません。

 

前述の通り、占領軍が軽井沢で将校用に飛行場を求めた時、当然陸軍の軽井沢飛行場の存在は把握していたはずで、

それでも6番コースを、次いで二十間道路を使用しました。

6番コースと二十間道路、どちらも使用に難がありそうのは、よそ者のオイラにも想像つくんですが、

無理を承知で敢えてその2つを選び、なかなか軽井沢飛行場に手を出そうとしなかったのは、

軽井沢飛行場を使用可能な状態にするには、大規模な工事をする羽目になるのを最初から知っていたからかも。

オイラの妄想はともかく、すったもんだを経て米軍は軽井沢飛行場を使用することになりました。

 

所要時間問題

 「占領軍は地蔵ヶ原の国土計画の飛行場をつかって、将校以上は東京から25分で飛んできた」(避暑地 軽井沢155p)

具体的な所要時間が出ていますね。

この時占領軍が東京のどの飛行場を使ったのか定かでなく、また機種も不明なんですが、

昭和2年に始まった定期便と比べると、所要時間が半分になっています(@Д@)

当時から二十数年経過しているんですが、流石米軍! 速っ!!

ところで資料に25分と明記してあるのは、軽井沢飛行場~東京間についての話なんですが、

実はオイラ、一時期「二十間道路」を使用していた時も所用25分と思い込んでました(///∇///)

そのため「二十間道路のどの箇所を滑走路に使ったか、町誌に図示されてますよ」と教えて頂いたのに、

「こんな標高が高く、しかも短い距離で離着陸するヒコーキがたった25分で東京まで飛ぶなんてあり得ない!」

とその情報を否定し、コメント欄が非常に険悪な雰囲気になってしまったのでした。

でも後になってよくよくいろんな資料を見返してみてたら、

「所用時間25分」と明記してあるのは軽井沢飛行場についてのみでした。

6番ホール、二十間道路使用時の所要時間は(オイラの知る限り)どの史料にも出てきません。

それで、6番ホール、二十間道路使用時は短距離離着陸性能の優れた(ちょっと遅い)機体、

軽井沢飛行場に移ってからは、滑走距離長くなるけど快速機に変更したとすれば説明がつきます。

あるくさん、asamaさん、その節は申し訳ございませんでしたm(_ _)m

 

いつからいつまで米軍飛行場だったのか
 
米軍が軽井沢飛行場をいつ復旧させたのかについては、明記している史料が見当たりません。
 
但し、その時期を推測する助けとなる資料はあります。
 
 「この軽井沢飛行場は、昭和二七年の講和条約締結まで約三年余り、東京~軽井沢間を僅か二五分で結ぶ米占領軍の将校専用飛行場として利用されていた。」(軽井沢という聖地102p)
 
軽井沢飛行場は「講和条約締結まで約三年余り利用されていた」とあります。
 
この昭和二七年の講和条約とは、「サンフランシスコ講和条約」を指すと思われ、

同条約は昭和27年(1952年)4月28日に発効しました。
 
1952年4月28日まで「約三年余り使用」ということですから、
 
米軍が軽井沢飛行場を復旧させ、使用したのは、
 
1949年4月頃~1952年4月28日まで。と考えられます。
 
 
軽井沢の飛行場に関して、一番最初に情報を下さったのは、さくさんでした。
 
そのさくさんから、地元出版社の雑誌からの情報として、
 
 「72ゴルフコース西コースの飛行場はS27年まで使用。※ただしS33年には遊覧飛行場との記載もあり。」  
 
という内容の情報を頂いておりました。
 
一見矛盾している感じで、情報を頂いてからしばらくの間は、これをどう解釈すれば良いのか分かりませんでした。
 
しかし情報がある程度揃ったところで頂いたコメントを改めて見直してみれば、
 
S27(1952年)とは、軽井沢飛行場が接収解除となった年なので、
 
72ゴルフコース西コースの飛行場はS27年まで使用。
 
とは、S27年まで「米軍が」使用。ということです。
 
その後軽井沢飛行場は民間飛行場に戻り、S33(1958年)に遊覧飛行の実施があったことは、他の史料でも出てきます。
 
つまり頂いた情報は、「軽井沢飛行場はS27年まで米軍が使用していた。その後返還されてS33年には遊覧飛行があった。」
 
という意味となり、全く矛盾していませんでした。 
 
さくさんには早い段階で非常に貴重な情報をいただいておりましたm(_ _)m

 

飛行場の場所問題

「軽井沢飛行場」は様々な資料に登場し、飛行場があった場所についても、

「南軽井沢」、「地蔵ヶ原」、「現72ゴルフ西コース」と具体的な地名も出てくるのですが、

ピンポイントでズバリ「ここにあった」という情報はありません。

すっかり諦めてしまっていたところ、2013年9月にあさんからコメント欄にて、

「1947年の航空写真には形がなく、1948年9月,10月には現れる黒い滑走路状のものが西コース側にある」

という情報を頂きました。

前述の通り、プリンス通りが進駐軍の飛行場として使用され始めたのは1948年5月のことで、

その後「やっぱりここじゃ不便(by米軍)」ということで、

今やすっかり湿地に戻ってしまった軽井沢飛行場の大規模な地盤改良工事が行われました。

ということは、軽井沢飛行場の工事が始まったのは、1948年5月以降。

そして前述の通り、軽井沢飛行場が復旧したのは1949年4月頃。

そんな訳で、「1947年には形がなく、1948年9月,10月には現れる」というのは非常にポイント高いです。

ということで航空写真の黒いものをグーグルマップに描いたのが先頭のものです。

長さは800m足らずでちょっと短く、またゴルフ場なのでアレなんですが、

グーグルアースで見る限り、勾配の少ない方向に造っているように見受けられます。

この周辺の航空写真は非常に限られていて、1948年撮影の次は一気に1971年まで飛んでしまいます。

その間にせめて数回でも撮影していてくれれば、黒いものがいつ頃まであったのか、

おおよそのことが分かるはずなんですが。。。

1971年の写真を見てみると、翌年には西コース側もゴルフ場としてオープンするためか、

"黒いもの"は既に影も形もありません。

無題l.png
1947年8月(USA M407 70)  無題j.png
1948年10月(USA M1200-A 12)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも) 

1947年8月、1948年10月の航空写真、72ゴルフ西コースの範囲を赤で囲ってみました(東側に南北に走っている線は二十間道路)。

おおよそのものですのでご了承くださいませ。

史料では「軽井沢飛行場は現在の西コースに建設された」と繰り返し出てくる訳ですが、

こうして西コース全体を見ると、北側の滑走路っぽい地割以外、オイラには飛行場適地は見当たりません。

「軽井沢飛行場はここに違いない」と思える点をまとめてみますと、

・資料にある通り、二十間道路の西側、72ゴルフの西コースに位置している
・出現のタイミングが進駐軍の飛行場造成の時期とタイミング合っている
・地割の形、大きさがいかにも滑走路っぽい
・西コース内には他にそれらしい地割が見当たらない
・地形的に離着陸に支障がなさそうに見える

という感じかと。

以上の点から、ここが堤氏が建設し、戦時中は日本陸軍が使用し、

戦後に進駐軍が復旧させた「軽井沢飛行場」だったのではないかと考えます。

因みに二十軒道路を挟んで「西コース」と「東コース」でオープンした72ゴルフなのですが、その後細分化したようで、

滑走路があった辺りは現在「北コース」になっており、おおよそですが、6番、7番コースの辺りと思います。 

「軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場」という、飛行場について説明した動画があり

動画内では当飛行場の位置について、1:06~の部分で、先頭のグーグルマップと同じ部分が矢印で示されていました。

ということは、「軽井沢飛行場はこの場所である」と地元図書館でも公認されているんだと思います。

ここで間違いないという前提の話なんですが、

1948年10月の航空写真で既に大掛かりな飛行場復旧工事の様子が映っています。

実際に米軍が当飛行場を使い始めたのは1949年4月頃と考えられますから、

ハッキリしている期間だけでも、飛行場復旧工事に少なくとも半年を要していることになります。

そう考えれば、米軍が当初はこの飛行場の使用を避けていたのも、日本に任せず自ら工事を行ったのも、

なんとなく納得できるような。。。

こうして大変な工事の末に復活した軽井沢飛行場でしたが、3年余りの使用で日本側に返還され、

民間飛行場に戻ったのでした。

 

「昭和24年撮影」問題 

「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」126pには、

「今とむかし-同じ場所で-」として2枚の写真(駐機する小型機の写真と、上空から捉えたゴルフ場の写真)

が掲載されていて、キャプションはそれぞれ、

「地蔵ヶ原の軽井沢飛行場。小型セスナ機やヘリコプターの離着陸場(昭和24年)」
「現在、七十二コースの国際ゴルフホール(昭和四十八年)」

とあります。

この「駐機する小型機の写真」とそのキャプション

「地蔵ヶ原の軽井沢飛行場。小型セスナ機やヘリコプターの離着陸場(昭和24年)」についていろいろ妄想してみます。

(この写真は、「軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場」 の冒頭に登場してます)

この写真とキャプションには非常に不思議な点があります。

それは、撮影年が「昭和24年」とあること。

前述の通り、軽井沢飛行場を復旧させて、米軍専用飛行場として使用するようになったのは、

1949年(昭和24年)4月頃と考えられます。

それで、昭和24年撮影の軽井沢飛行場に小型機が駐機していること自体は何もおかしくありません。

但し、その小型機は米軍機であるはずです。

敗戦後の日本には航空禁止令が課され、解除されるまでの7年間、

バルーンの研究までご法度となり、いかなる形であれ、航空機の購入、所有が禁じられました。

ところがこの(昭和24年)の写真の機体には、右翼上面にレジナンバーが映っており、

不鮮明ながら最初の文字(国籍記号)はハッキリ"JA"とありますので、これは日本国籍機ということです。

終戦から4年目の昭和24年、航空禁止令真っ最中の時期に"JA"機が存在すること自体、ちょっと考えられないです。

「このキャプションはあり得ない」と思い、スポッター歴ほぼ半世紀というOLDMAN様に問合せをしてみました。

OLDMAN様からの回答を要約しますと、

・日本のレジの国籍記号は、戦前は"J"、戦後に"JA"となった
・写真の機体は外見上の特徴から「オースター」に見える

というものでした。

機体の形状から「オースター」(オイラは初耳の機種)という機種が出てくるところがまず凄いです(@Д@)

主翼にある国籍記号は"J"ではなく"JA"ですから、

頂いた情報から、この機体はレジナンバー的にやっぱり戦後撮影ということになり、

飛行が解禁になった1952年(昭和27年)以降の撮影でないと計算が合いません。

更に頂いた情報は、

・写真のレジは非常に読み取り難いが、単発機の新生日本登録の最初は、JA3001(セスナ195(N11B)1952/8/22登録)なので、これは"JA3012"ではないか

というものでした。

レジナンバーを入力すると、その機体の登録情報がたちどころに検索できるという非常に優れモノのサイトがあり、

ここに教えて頂いた「JA3012」を入力してみました  

で、リンク先をご覧頂ければ明らかなんですが、 OLDMAN様ご推察の通り、

型式:オースターJ5F
1952年9月16日 所有者(使用者):おおとり会    備考:新規
1955年9月15日 所有者(使用者):中村正夫   備考:1956 大阪府大阪市にて不時着大破

と出ました\(^o^)/

ここで明らかになった「JA3012 オースターJ5F」で更に検索してみましたところ…

「一般財団法人 日本航空協会 航空遺産継承基金 ギャラリー 高橋正夫氏アルバムNo.1 」

に、1954年4月22日撮影の「JA3012 オースターJ5F」の鮮明な写真がヒットしました  

この写真の機体の胴体側面には、ヒコーキのマーク?に続けて「おゝとり№1」とペイントしてあります。

先程のレジナンバー検索情報では、 1952年9月16日~1955年9月14日? までおおとり会が所有者と読み取れますから、

ちゃんと辻褄合ってますね。

で、件のアルバムに掲載されている不鮮明な写真の機体の胴体側面を改めてじっくり見てみると、

同じ位置に同一のヒコーキマークがペイントしてあり、しかもそのマークの次に、「お」という文字が読み取れます。

これで、アルバムに写っていた機体が特定できました!

アルバムに写っていた機体=「JA3012 オースターJ5F」で確定です。

 

「JA3012 オースターJ5F」で画像検索をかけてみると、同機のたくさんの写真がヒットします  
 
その中に1955年11月3日撮影のもの があり、主翼に大書されているレジは"JA-3012"で間違いないんですが、
 
機体の塗装はガラリと変わっており、胴体側面にはもう「おゝとり」の文字はありません。
 

所有者が変更になって、ちゃんと塗装が変わったんですね。

ということで、「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」126pに掲載されている駐機する小型機は、

「オースターJ5F(JA3012)」であり、

おおとり会の所有であった 1952年9月16日~1955年9月14日の3年間に撮影されたものではないかと思います。
 
軽井沢飛行場が接収解除され、民間飛行場になったのが1952年で、
 
後述しますが、1962年の時点でも当飛行場は存続していますから、
 
1952年9月16日~1955年9月14日の3年間におおとり号が軽井沢に飛来した(そして撮られた)というのは、
 
軽井沢飛行場が戦後返還され、民間飛行場として存在していた時期とも合致します。
 
 
 
 
実際に当飛行場でグライダー訓練で飛んだ、藤沢オールドボーイさんからもコメント頂きました(@Д@)
 
せっかくなので、抜粋して引用させて頂きます。
 
 「1962年夏の終わり位に2泊位で軽井沢飛行場でグライダーの訓練を行った記憶があります。藤沢と違ってあまりハッキリと覚えていないのが残念ですが滑走路の長さは600メーター位?(滑走路と言っても舗装路ではなくて所謂グラスランウェイで滑走路とまわりの原っぱと境目がハッキリしていなかったと思います)又滑走路の脇30メートル位のところに小さな丘(高さ10メートル位)がありました。飛行場と言っても吹き流しが一つあるだけであまり飛行場の雰囲気はありませんでした。
 私は当時ほとんどが藤沢での訓練で藤沢飛行場についてはかなり記憶があるのですが、軽井沢は一回行っただけで当時の軽井沢飛行場の位置は記憶が曖昧で残念ながら特定出来ません。近くに公民館があり、路線バス(今のマイクロバスの大きさ)が近くを通っていてそれに乗った記憶はあります。路線バスと言っても一日の運行回数が数本レベルのものです。私がここでグライダーに乗った時は本当に吹き流しが一つだけで、事務所らしきものも見当たらず上空から見てもあまり目立つものはありませんでした。」
 
資料からあーだこーだと妄想するしかないオイラとは違い、実体験を交えたコメントはやっぱり重みがありますね。
 
そしていただいたコメントから、「1962年の夏に飛行場が存続していた」ことが明らかです。
 
接収解除後の軽井沢飛行場は再び民間の飛行場となり、その後ゴルフ場が造成されるまでの間存続していた訳ですが、
 
一体いつ閉鎖になったのか、まったく情報がなくて、
 
書籍、ネット等、様々調べても、「1958年に遊覧飛行開始」というところまでしか確認できません。
 
「1962年にグライダー訓練」というのは、現在のところ最も長く存続していたことを示す唯一の情報ですm(_ _)m
 
 
 

「目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢」の巻末には年表があります。

関係のある箇所だけ抜き出してみました。

昭和四年(一九二九) 南軽井沢に飛行場開設、定期便飛行機離着陸開始。
昭和一三年(一九三七) 南軽井沢の施設を利用し軍事教練開始。
昭和十八年(一九四三) 南軽井沢飛行場熊谷飛行学校の軍事訓練飛行場に使用。
昭和二七年(一九五二) 軽井沢飛行場接収解除民間機の利用に移る。
昭和三三年(一九五八) 軽井沢飛行場で遊覧飛行開始。南軽井沢ゴルフ場造成。

波乱に富んだ「軽井沢飛行場」は、こうしてゴルフ場に姿を変え、現在に至ります。

ここでプレーする方のうち、どのくらいの方がこうした数奇な運命をご存知なのでしょうか。

また同アルバムの「あとがき」164pにはこんな一節がありました。

 「昭和七年ごろまでドン底の窮乏がつづいたが、その昭和七年七月十七日、軽井沢の上空を一台の飛行機がとんだ。私たちはたがいにその戦闘機を仰いで感激した思い出がある。それは、愛国号献納機で、佐藤中尉が操縦し村人に感謝しながら、戦場に向かったのであるが、今もそのことを忘れられない。」

軽井沢といえば、今でこそ「オシャレな避暑地」というイメージですが、

戦前から戦後にかけて、ヒコーキとの関わりが非常に深かったのですね。

D20_0045.jpg

滑走路跡西側の外周道路から。ちょい先から奥に向かって滑走路だった(はず)。


       長野県・軽井沢飛行場跡地        

軽井沢飛行場 データ
使用者:箱根土地株式会社→旧陸軍→進駐軍→箱根土地株式会社?
種 別:陸上飛行場
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町発地南軽井沢
座 標:N36°18′59″E138°36′49″
滑走路:760m?
方 位:11/29?
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1920年 箱根土地株式会社(現・プリンスホテル)、地蔵ヶ原の土地買収
1925年 夏、二十間道路ほぼ完成。秋、道路西側に軽井沢飛行場完成
1927年 8月16日、東京~軽井沢間定期飛行認可
1928年 8月、9月1日~25日 浅間遊覧飛行
1932年 7月17日、軽井沢上空を1機の戦闘機(愛国号献納機)が飛ぶ
1934年 5月、海軍機が軽井沢競馬場に不時着
1937年 南軽井沢一帯が軍事教練場となる
1943年 飛行場は整備され、熊谷飛行学校訓練所となる
1944年 陸軍特別航空隊学徒が使用
1945年 9月15日、進駐軍初来軽
     11月9日 千ヶ滝グリーンホテルをはじめ、三笠ホテル、新旧ゴルフ場を接収
1948年 5月、二十間道路が進駐軍の臨時飛行場となる
      9月 この頃、軽井沢飛行場の地盤改良工事
1949年 4月 この頃米軍が軽井沢飛行場を復旧させ使用するようになったと思われる(軽井沢~東京25分)
1952年 4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。飛行場接収解除。民間機の利用に移る(アルバム年表情報)
      9月16日~1955年9月14日 この間におおとり号、軽井沢にて撮影される
1958年 軽井沢飛行場で遊覧飛行開始(アルバム年表情報)。(1957年という情報もあり)
1962年 夏にグライダー訓練実施(藤沢オールドボーイさん)
1971年 7月、72ゴルフ西ホール開業
1972年 8月、同東ホール開業

 

ブログ内関連記事
軽井沢の飛行場について 
東長倉小学校跡地
 
旧軽井沢ゴルフクラブ6番コース(米八軍飛行場跡地) 
臨時飛行場跡地(二十間道路) 
軽井沢競馬場跡地 
桶川飛行学校跡地
 
ホンダエアポート
  

この記事の資料:
「グラン・ヴィネット」2000年特別号
避暑地軽井沢
軽井沢物語
軽井沢という聖地
目で見る明治・大正・昭和 思い出のアルバム軽井沢
旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会機関紙「大空への鎮魂」第22号
防衛研究所収蔵資料:航空路資料第4 中部地方飛行場及不時着陸場 昭和19.6 水路部
防衛研究所収蔵資料:航空路資料 第11 北海道地方飛行場及不時着陸場 昭和16年3月刊行 水路部
「地理」2011年1月号・リゾート地 軽井沢の風土
軽井沢町図書館デジタルアーカイブ/南軽井沢飛行場


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2,000,000pv ありがとうございます。 [■ブログ]

すっかりタイミングを逸しておりましたが、先月の7日に

(1と2両方合わせて)2百万pv でした。

いつもお越しくださる皆様のおかげです。

本当にありがとうございます。

 

無題2.png

無題1.png

 

今後ともどうぞ宜しくお願い致します。m(_ _)m

とり。


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「オペレーション・スターシップ」 [├雑談]

「エンデバー、空母に着艦」

2011/4/1 USO通信・時事


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                                        空母カールビンソンに着艦した瞬間のエンデバー(USO/PHOTO)

疑惑
  2月8日に打ち上げられ、同月22日に帰還したスペースシャトル・エンデバー(STS-130)に関して、様々な噂が飛び交っていたのをご存じだろうか。公式発表では、予定通り22日の夜(現地時間22:30)ケネディ宇宙センターに着陸したとされているが、通常行われる着陸のライブ映像配信がなく、着陸の目撃談もない。また、通常帰還後に行われるクルーの合同記者会見も延期された。3日後に開かれた合同記者会見では、こうした相違点についての質問が相次いだが、「時期が来ればきちんとお話します」と言うに留まり、明確な回答はなかった。そのため巷では、「NASAは何か重大事故を隠しているのではないか」、「エンデバーは本当に宇宙に行ったのか」等、様々な憶測が飛び交った。またネット上でも様々な書き込みがあり、某巨大掲示板では、

 

402 :噂のNASAしさん。:2011/03/05(土) 05:09:18.58 ID:iUsdz7Xh
  詳しくは話せないが、実は帰還後の記者会見に出ていたクルーは全員宇宙人にすり替わっているのだ。
  おっと、だれか来たようだ。こんな時間にだれだろう。。。 
    
503 :噂のNASAしさん。:2011/03/05(土) 18:05:04.79 ID:ptr4EC5y
    >>395
    つスペシャルヒント:アポロは月に行っていない
    
534 :噂のNASAしさん。:2011/03/05(土) 23:44:55.96 ID:fgWOlgcJ
    シャトルなんてNASAの捏造ですよ
    
705 :噂のNASAしさん。:2011/03/06(日) 09:27:28.43 ID:LO1S7joA
    そういえばクルーの一人は帰還後に顔色が妙に黄緑っぽかったってばっちゃが言ってた。

756 :噂のNASAしさん。:2011/03/06(日) 10:21:06.66 ID:wewUuFmC
  >>705 
    うはwwwマジかよwwwww

757 :噂のNASAしさん。:2011/03/06(日) 10:22:15.58 ID:iUwosH7Xh
  >>705
  ユメミヤ乙

  そんなことよりプリキュアの話をしようぜ。

といった書き込みがあった他、クルーの会話の様子、表情、ホクロの位置などを、打ち上げ前/帰還後で詳細に比較して、「クルーは全員宇宙人にすり替わっている」説を強く主張する動画投稿サイト、「【使用前】こんなに違う!【使用後】」 には、昨日までに世界中から数百万件のアクセスがあった(下記リンク参照)。 クルーや関係者は取材に一切応じず、NASA広報に問い合わせても「今は話せる段階ではない」の一点張り。こうした対応もますます様々な憶測に拍車をかけた。そして本日ケネディ宇宙センターでクルーも揃って改めて行われた記者会見の席上、「実はエンデバーは米原子力空母・ カールビンソン(CVN-70・満載排水量101,264t)に着艦していた」という驚きの事実が明かされた(プレスリリース:下記リンク参照)。

 

トラブル
  飛行は順調そのものだった。だがISS組み立て等の任務が無事完了し、地球帰還に向けての作業中にトラブルが発生した。「合衆国国防上の機密に当たるため、トラブルの内容、着艦場所についての詳細は明らかにできない」。NASAの報道官はそう前置きした上で、エンデバーの帰還に不可欠な支援システムの一部に重大なトラブルがあり、限定された緯度経度の範囲内にしか誘導、着陸させることができない事態に陥っていたことを明らかにした。誘導可能な範囲内は洋上であり、エンデバーが着陸可能なスペースは存在しない。仮に着水した場合、エンデバーは破損してそのまま水没してしまう可能性が大きい。当該海域は水深が深く、万一水没した場合クルーの救出は極めて困難になる。

  4月1日現在、システムは完全に復旧しているが、トラブル発生当時はシステムの復旧にどれだけ時間がかかるか不明であり、かなりの日数を要することが見込まれていたこと、またシステムは非常に不安定な状態で、全面的にダウンしてしまう可能性が高く、もって5日程度であること、これらの点から帰還は急を要する状態であった。問題解決のための話し合いが行われ、様々なアイディアが出されたが、その中から、「空母に着艦させてはどうか」。というアイディアが飛び出した。エンデバー誘導可能近海で展開中だった空母カールビンソンを呼び寄せ、着艦させようというのだ。

 

検討
  そもそもエンデバーは本当に空母に着艦可能なのか。NASAと海軍関係者による検討が行われた。一例として大型艦上戦闘機・F-14(退役済)の場合、着艦速度は250km/h、最大着艦重量は23.5tで、このあたりがアレスティングフック/ワイヤーを使用した着艦のおおよその上限とされている。一方シャトル・オービターの場合、着陸進入速度約350km/h、エンデバー帰還時の重量は89.29~89.33tと推定されており、着艦時における運動エネルギーはF-14の約7.5倍に相当する。これではとても着艦できない。それでNASAと海軍は、「可能な限り着艦速度を抑える」という方向で可能性を探ることにし、様々な条件を勘案しながらどこまで着艦速度を下げることができるか試算を行った。その結果算出された着艦速度は、273km/h。これは通常より77km/hも遅い。これでF-14との運動エネルギーの差は7.5倍から4.5倍まで縮まるが、速度を減らした分はそのまま着艦時の衝撃の強さに置き換わる。試算の通り着艦速度を273km/hとした場合、エンデバーは1秒間に3.3mの割合で空母の甲板に叩きつけられるようにして降りなければならない。これでもF-14の沈下率:5m/秒と比べれば小さな値だが、オービターの通常の着陸ではまず考えられない数値であり、「制御された墜落」と言える。少しでも運動エネルギーを抑えるためのやむを得ない措置だが、これでもエンデバーの機体強度限界の数値だ。

  エンデバー着艦に関しては計画を困難にする数字ばかりが並ぶが、良い点も2つだけある。1つはアレスティングフック/ワイヤーに掛かる荷重。通常の着艦の際、エンジンをフルパワーにしなければならないが、グライダー飛行のエンデバーの場合はそれがない。このため273km/hで着艦した場合、アレスティングフック/ワイヤーに掛かる荷重はF-14の約2.6倍となり、運動エネルギーよりその差は更は縮まる。ただし当然のことながら着艦のやり直しはできない。2つ目は、エンデバーの機齢。他のオービターが1981~85年に初飛行を行ったのに対し、チャレンジャー号消失を受けて建造が決まったエンデバーは1992年初飛行で最も新しく、それだけ耐衝撃性に優れていることが期待された。また着陸用フックを装着しているオービターはアトランティスとエンデバーのみであり、今回の作戦が可能となった。実はフック/ワイヤーに掛かる荷重をF-14の約2.6倍に縮めた程度ではまだまだ足りないのだが、着艦の際、エンデバーの莫大な運動エネルギーを受け止めるのはフック/ワイヤーだけではない。「ギリギリだが、これなら止められる」。 NASAと海軍の技術者は結論をまとめ報告書を提出した。「着艦は技術的に可能」。

 

始動
  「空母カールビンソンは艦隊を挙げて72時間以内にエンデバー回収を完了せよ」。報告を受けて極秘裏に大統領令が発せられ、エンデバー着艦プロジェクト("オペレーション・スターシップ")が発動。カールビンソン、ケネディ宇宙センター、エンデバーは直ちに着艦に向けた準備を本格化させた。カールビンソンは着艦ポイントまで移動し、無事エンデバーを回収したら、今度は降ろすために指定の港に向かわねばならない。再び作戦海域での任務に復帰するまでの約72時間、カールビンソンと随行する艦艇は本来の作戦から外れることになり、国防上の"すき間"が生じてしまうことになる。このこともエンデバー帰還に関する厳しい箝口令につながった。空母カールビンソンは着艦ポイントへの移動と、スケジュール、手順の確認、エンデバー、ケネディ宇宙センターとの通信確立、並びに万一の事態に備えるため、DSRVを含む特別レスキューチームを編成した。また、着艦後のエンデバーから推進用燃料を抜き、宇宙飛行士たちを降ろすための機材とスタッフの搬送が実施された。

  一方、ケネディー宇宙センターとエンデバーも必要な準備に多忙を極めた。通常の着陸とは異なり空母への着艦は、約56km/hで斜めに移動する滑走路にピンポイントで降りなければならない。気象班からの報告では、着艦時の海域は雲量も少なく、風向風速共安定しているだろうとの見通しが示されたが、 場合によっては急遽滑走路の向きが変わってしまい、それに合わせて着艦進入の方角を変更しなければならない可能性もある。高度400kmの軌道上を2,800km/hで飛行するエンデバーが、タッチダウンの瞬間には、正確に273km/hまで減速し、降下率3.3m/秒の状態になっている必要がある。この速度より速ければ止まりきれずに水没の危険が、逆に遅ければ沈下率が更に増えてしまい、エンデバーはその衝撃に耐えきれず、破損して燃料に引火するなど重大事故を招く恐れがある。また、仮に着艦速度が266km/hを下回ってしまった場合、空母の甲板も損傷する恐れがある。通常の着陸マニュアルを大幅に逸脱した進入速度、沈下率に加え、「動く滑走路」。これまで想定したこともない手順となるため、最終進入/着陸誘導フェーズのシーケンスをゼロから作成する必要があった。着艦やり直しができないエンデバーに失敗は許されない。そのため、規定通りの高度、速度で空母まで導くその手順は絶対確実なものでなければならない。シーケンスが出来上がったらそれに基づいたシミュレーションを繰り返して問題点を洗い出し、検討を行い、修正を加えた。更に、関係する膨大な量のマニュアルの準備、着艦の際に使用するエンデバーのHUD用ソフトも一部書き換えが行われた。こうした作業が帰還に必要な最終データをエンデバーに送信するギリギリまで続けられた。

  エンデバーの着陸用フックに関しては以前から、「実際に使用することはまずないだろう」と言われており、「シャトル三大無用の長物の一つ」などと揶揄されていた。 フックの動作チェックは飛行ごとのチェックリストから除外されており、直近の動作確認の記録は9か月前に実施されたD整備の時のものだった。このためフックがきちんと作動するかどうか、ISSから目視で確認が行われた。エンデバーのコックピット内で着陸用フックの操作パネルは非常に操作し難い場所(コマンダー席の頭上、しかもかなり後方)にあって目立たないため、「船長!」と赤ペンで大書きした紙が貼られた。また、オービターには着陸に関係した様々な警報装置があり、例えば速度が312km/h以下になると、失速警報が作動して機首上げ操作にプロテクションがかかる他、80ft以下で沈下率が2.5m/sを超えた場合も同様に警報とシェイカーが作動する。今回の着艦は、従来のマニュアルから大きく外れた操作となるため、着艦進入の際様々な警報、プロテクションが作動してしまう。そのため、大気圏突入前にあらかじめこうした警報を外す措置が取られた。NASAの表現を借りれば、ケネディ宇宙センターとエンデバーのクルーは協力してエンデバーを"艦上機に改造"した。

 

帰還
  着艦予定2時間15分前、気象班から「着艦に必要な気象条件は全て満たされている」と最終報告。着艦予定2時間前、カールビンソン、ケネディ宇宙センターの受け入れ態勢がすべて整ったことを確認、ケネディ宇宙センターからエンデバーに対して、正式に軌道離脱のゴーサイン。着艦61分前、帰還のための最終確認を終えたエンデバーは軌道離脱のためOMSによる減速噴射を3分32秒間実施。着艦32分前、大気圏再突入。4回のS字ターンにより位置/運動エネルギーを消費するための操作が順調に進められ、エンデバーは規定通りの減速を行った。ここまではいつもと同じ手順だ。そして問題の最終進入/着艦誘導フェーズに移行。コックピット、ケネディ宇宙センターの緊張が一段と高まった。少しでも早く減速を開始できるように、エアブレーキ、パラシュートの操作は、ヒカル・シュナイダー船長が手動で担当。パラシュートは放出から展開までに生じる約2.4秒のタイムラグが考慮された。万一に備えて待機するフライトデッキ・クルー、伴走する救助艦、救助ヘリ、フロッグメン。シャトル・オービターの着艦という前代未聞の瞬間を全員が固唾を飲んで見守る中、衝撃波が轟き、真っ青な空に白く輝く機体が姿を現した。ゆっくりとファイナルターン。そして着艦進入コースへ。着艦17秒前、アレスティング・フックダウン。着艦15秒前、ギヤダウン。続けて機首上げ。時速273km、降下率3.3m/秒で安定。機体は非常に安定しており、まるで艦尾に吸い寄せられるように美しい線を引いた。着艦1秒前、エアブレーキとパラシュートがほぼ同時に展開。タッチ・ダウン、No,1ワイヤーにヒット。新品のワイヤーはリミットいっぱいまで減衰調定されていたにもかかわらず完全に伸び切ってしまい、アレスターフックは根元から千切れ飛んだ。更に三種類のブレーキでも間に合わず、機体はエマージェンシーバリアに突っ込んでやっと停止。後に主脚のタイヤが両輪ともスローパンクチャーしていること、脚部には複数のクラックがあることが確認されたが、これらはすべて予想通りのことであった。

  空母への着艦を務めたのは、ミッキー・サイモン操縦士。彼は元海軍パイロットで、F-14のパイロットとして同空母に3年間乗務していた経歴の持ち主でもあり、今回の着艦劇は彼にとって思わぬ古巣への再訪となった。彼はこれまで操縦士として4回シャトルに搭乗しているが、帰還後に毎回行われる着陸についての審査でも常に高評価であり、今回の着艦の際も、各フェーズごとに規定されていた高度/速度を計ったようにトレースしていた。改めて行われた会見でも、 「(着艦の)ブランクはあったが難しいとは感じなかった」と淡々と語った。船長によれば、「空母に着艦することが決まった時も、また実際の着艦の際も全く動じる様子はなかった」という。カールビンソン時代のミッキー・サイモンをよく知る人物がいる。同空母の飛行隊長を務めるグレッグ・ゲイツだ。彼はこう語った。「着艦をやるのがあの"火の玉ミッキー"だと知らされたので、『何も問題ない。全てうまくいく』と仲間と話していたよ」。

  エンデバーから「ホイール・ストップ。我々は艦上にいる」と伝えられると、 ケネディ宇宙センターから「エンデバー、ウエルカム・ホーム」という返信と共に大きな歓声が沸き起こった。無事エンデバーから姿を現したクルーたちは、甲板上で海軍式の手荒な歓迎を受けた。巷では早くも「ハリウッドで映画化間違いなし」と噂されている。

 

関連リンク:
NASAプレスリリース「エンデバー、システム障害のため空母に着艦した件につい…→
YouTube:【使用前】こんなに違う!【使用後】STS-130 Endeavour crew,dif…→(閉鎖された模様)     
シャトル着陸動画(コックピットビュー)→      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(今日は四月一日)


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