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船木着陸場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2020/8更新  

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1947/11/03(USA M624 45)    
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

滋賀県高島市にあるびわ湖こどもの国。

かつてここは「船木着陸場」でした。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に当着陸場の付図があり、

先頭のグーグルマップはこの付図から作図しました。

当時は湖岸線に沿って敷地が設定されていたのですが、現在の湖岸線とはズレが生じています。

上記資料内に情報がありましたので、以下引用させて頂きます。

面積 北西-南東400米、幅100米 東西450米、幅50米
地面の状況 地表平坦、芝及雑草密生する堅硬地なるも湖岸寄りは稍軟弱なり、排水極めて良好
目標 琵琶湖、安雲川河口、舟木崎灯台
障碍物 北西側に高さ5米の竹林あり
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 なし
照明設備 なし
通信設備 舟水郵便局(電信及電話取扱)西方約1粁
観測設備 なし
給油設備 なし
修理設備 なし
宿泊設備 西方の北舟木に旅館3あり
地方風 全年を通じ概ね北西風にして10月-翌年4月迄は北西風、5-9月間は南東風なり、冬季は北西風強吹す
地方特殊の気象 海陸風の影響あり
交通関係 安曇駅(江若鉄道)西方約6粁
其の他 本場は88式偵察機単機ならば使用可能なり
(昭和18年4月調) 

D20_0104.jpg

以下、 しがけんバーチャル平和祈念館「消えた飛行場」(リンク切れ)より:

びわ湖西岸の安雲川町船木に広がる三角州に、「滋賀県立びわ湖こどもの国」があります。

かつてここに「船木飛行場」がありました。 地元の年配の方の中には、

今でもここを「飛行場」と呼ぶ方がおられるのだそうです。

船木飛行場は大正11年、八日市飛行隊が高島郡饗庭野で訓練する時に着陸する場所が必要だったので作られた

と言われているのだそうです。

高島郡から3,500人以上が工事に参加して完成しましたが、結局あまり使われることはありませんでした。

昭和20年6月、海軍予科練習生がやってきて、グライダーの訓練が行われました。

また、ロケットに人間が入って体当たり攻撃するための訓練も行われました。

飛行場をねらった空襲もありました。

戦争が終わると、船木飛行場は地元の人たちによってさつまいも畑に生まれかわりました。


      滋賀県・船木着陸場跡地      

船木着陸場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:不時着場
所在地:滋賀県‎高島市‎安曇川町北船木‎
座 標:N35°19′11″E136°04′30″
着陸帯:400m×100m,450m×50m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1922年 飛行場建設
1945年 6月 海軍予科練習生がグライダー訓練実施
     戦後はサツマイモ畑に

関連サイト:
広報たかしま 

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」


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大津駐屯地(旧大津水上機基地) [├空港]

   2010年11月訪問 2022/6更新  


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撮影年月日1947/11/21(USA M661-1 27) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

滋賀県大津市。

前記事の滋賀飛行場跡地すぐ南側に陸上自衛隊大津駐屯地があります。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  滋賀飛行場
経営者  海軍予備航空団
所在地  滋賀縣滋賀郡下坂木村字畔之内
水陸の別 水
滑走区域 長二,〇〇〇米 幅一,〇〇〇米
備 考  (記載無し)

この水上機用の諸施設が後に海軍に献納され、水上機の練習航空隊「大津水上機基地」になったと思います。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:大津(水上基地) 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:巾60x100 30x60 10x40コンクリート 主要機隊数:小型3.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、倉庫、工業場(1.120平米) 掩体:分散

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「大津空開隊(S17.4.1)(昭18建)」とありました。 

滑走台は現存しており、先頭のグーグルマップと上に貼った航空写真で資料に相当するのは、

A:10x40 B:30x60 C:60x100 と思います。

D20_0102.jpg

赤マーカー地点から撮ったC滑走台跡。


      滋賀県・大津水上機基地跡地      

大津水上機基地 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:水上機用飛行場
所在地:滋賀県‎大津市‎際川‎1丁目‎
座 標:N35°02′05″E135°52′03″
滑走台:60mx100m,30mx60m,10mx40m(コンクリート製) より
(座標はグーグルアースから)

沿革
1941年10月 佐賀県鹿島航空隊大津分遣隊として暫定的に発足  
1942年04月 1日、大津海軍航空隊として正式に開隊
1943年    建設

関連サイト:
大津飛行場    

この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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滋賀海軍航空基地(滋賀飛行場)跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/12/05(USA M681-1-1 8) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

琵琶湖南部、 滋賀県‎大津市にあった「滋賀海軍航空基地(滋賀飛行場)」。

滑走路の跡地が細長い地割でほぼそのまま残っていて、学校、幼稚園、保育園と、

見事なほど子供たちのための施設が並んでいます。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:滋賀 建設ノ年:1944-4 飛行場 長x幅 米:1000x60コンクリート 主要機隊数:予科練習生 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、倉庫、工業場(520平米) 他ニ比叡山ニ工事中 其ノ他記事:叡山ニ射出機装備桜花訓練基地

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「滋賀開隊(S19.8.15)(昭19建)」とありました。 

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  舞鶴
牧場  滋賀
滑走路 六〇×一,〇〇〇NNE
縣郡村 滋賀、滋賀 下坂本村
記事  七月末既成

D20_0094.jpg

赤マーカー地点

真っ直ぐ奥に向かう道の左側が滑走路のはず。

D20_0083.jpg

青マーカー地点

唐崎駅前のロータリーの中に碑が設置されていました。

平和記念碑(全文)第二次世界大戦中 この地にあった海軍航空隊では、約1万人もの若者が厳しい特別訓練を受け 全国各地の実戦基地に特攻隊要員として配属され 愛する祖国のために 多数のものが帰らぬ人となった。 この記念碑は 戦後50周年を期に若くして逝った人々への哀悼と戦争の空しさ、平和の尊さを後世に伝えんがため、生き残った隊員達の手によって この思い出の地に建立されたものである。1995.8.15

碑の裏側には銅板がはめ込まれていました。

滋賀海軍航空隊年譜(全文)
昭和19(1944)年6月12日 甲飛13期予科練習生 約1,000名 三重海軍航空隊 奈良分遣隊より転入隊。
同年7月1日 三重海軍航空隊 滋賀分遣隊として開隊。
同年8月1日 甲飛14期予科練習生 約2,000名 同じく奈良分遣隊より転入隊。
同年8月15日 滋賀海軍航空隊となる。
同年9月3日 13期練習生の一部 第1次水中特攻隊に転隊。
同年9月30日 飛行専修15期予備学生 約400名 入隊。
同年10月1日 甲飛15期予科練習生 約3,000名 入隊。
同年10月3日 飛行専修2期予備生徒 約200名 入隊。
昭和20(1945)年3月26日 13期練習生の一部 第2次水中特攻隊に転隊。
同年4月1日 甲飛16期予科練習生 約1,000名 入隊。
同年4月24日 14期練習生の約300名 水上特攻隊に転隊。
同年6月1日 15期予備学生 砲術学校館山分校に転出。
同年6月15日 13期練習生の一部 航空特攻伊吹部隊に転隊。
同年6月20日 2期予備生徒 砲術学校館山分校に転出。
同年6月 14期練習生の一部 三重空経由 野辺山秋水特攻部隊に転隊。
同年8月15日 敗戦
同年11月30日 滋賀海軍航空隊 解隊。


      滋賀県・滋賀飛行場跡地      

滋賀飛行場 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:滋賀県‎大津市‎際川‎3丁目‎
座 標:N35°02′33″E135°51′54″
滑走路:1,000m×60m
方 位:02/20
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年07月 1日 三重海軍航空隊滋賀分遣隊開隊
     08月 15日 滋賀海軍航空隊となる
1945年11月 30日 滋賀海軍航空隊解隊

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 

この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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天虎飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月、2023年10月訪問 2023/10更新  


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撮影年月日1946/10/02(USA R275-A-7 118) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

琵琶湖南岸にある滋賀県大津市。

ここに「天虎水上飛行場」がありました。

埋め立てのため湖岸線がかなり変わりましたが、

スリップがあったのは、湖岸道路をはさんで「西武大津ショッピングセンター」のはす向かいでした。

ここは優良サイトがたくさんあって、当時の様子を良く知ることができます。

運用当時の写真を見ると、水上機を砂浜近くに係留している写真があります。

スリップは両脇は石垣でコンクリート製、スリップ東側は岸壁っぽく見えるので、

スリップ西側の砂浜側ももしかしたら水上機基地として利用していたかも。

 

琵琶湖岸という立地のため波がおだやかで天候にも恵まれていたのだそうです。

民間の飛行場として発足し、当初は遊覧飛行、 アマチュア飛行倶楽部などもありましたが、

その後逓信省航空局より委託訓練校としての指定を受け、猛訓練が行われるようになりました。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ)■ 

名 称  大津飛行場
経営者  藤木直
所在地  滋賀縣大津市馬場里中
水陸の別 水
滑走区域 長一,○○〇米 幅五〇〇米
備 考  (記載無し)

当飛行場は「天虎飛行場」以外の名称を知らなかったのですが、

経営者が藤木直氏であること、所在地から、恐らくここのことではないかと思います。

(追記)

ググっていただくと分かりますが、当水上機基地の位置は、「西武大津ショッピングセンター」としばしば紹介され、

オイラもそう思っていたため、当記事には西武の建物の写真をアップしていたんですが、

今回きっちり作図してみたら、ちょっと違ってました。

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赤マーカー地点(2023年10月撮影)


      滋賀県・天虎飛行場跡地     
「天虎」という名称は設立者の藤本直氏が寅年だったことからきているのだそうです。正しくは「てんこ」なのですが、大津市民には「てんとら」と呼ばれ親しまれていました。氏は戦後「日東航空」を設立、後に合併して「日本国内航空」の取締役となりました。これが後のTDAで、JAS→JALとなります

天虎飛行場 データ
設置管理者:藤本直
種 別:民間水上飛行機訓練所
所在地:滋賀県‎大津市‎馬場1丁目‎
座 標:N35°00′12″E135°52′58″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1935年06月 天虎水上飛行場開設
     07月 遊覧飛行認可
     11月 公認飛行場となる
1937年04月 アマチュア飛行倶楽部併置
     06月 天虎飛行研究所設立
1938年06月 逓信省航空局より委託訓練校としての指定を受け、委託生4名を受け入れる
        訓練校としての優れた成績が評価され、米子臨時航空機乗員養成所天虎分教場に。以後毎年委託生入所
1942年    愛媛航養所天虎分教場と改称(航空局からの委託訓練受け入れはこの年の入所で終了)
1943年春   水上機教育は福山高等航養所で実施することになる。天虎分教場はすべての施設を大日本飛行協会に寄付
    05月 大日本飛行協会所属の「天虎飛行訓練所」として再出発する
1945年   戦局の悪化とともに訓練もままならなくなり終戦を迎え、進駐軍によって取り壊される

関連サイト:
航空と文化/天虎飛行研究所の実状    


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彦根航空基地(八徳、久徳、木曽、多賀飛行場)跡地 [├空港]

   2010年11月、2018年5月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/11/03(USA M624 253)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

上のグーグルマップは、滋賀県平和祈念館に展示されている当飛行場位置図から作図しました。

当時の航空写真を参考に作図することが多いのですが、

祈念館の展示資料から作図して、航空写真で確認したら、「おお、確かにそれっぽい地割が写ってる!」

という、普段とは逆パターンです。

滋賀県彦根市にあった近江繭糸(現・オーミケンシ)は、1943年に「近江航空工業株式会社」を設立。

1945年には零戦を完成させることができるようになりました。

完成した機体は艀に載せて琵琶湖対岸の滋賀航空隊に輸送していました。

しかしこれでは効率が悪いということで、工場近隣に飛行場を建設することになりました。

そして白羽の矢が立ったのが彦根市の東隣にある多賀町‎。

芹川畔の田園地帯に「彦根海軍航空基地」が建設されることになりました。

1945年6月末に設営隊が着任。

計画では7月末迄に30mx600m、8月末迄に60mx1,200mの滑走路を完成させることになっていたのだそうです。

結局、滑走路がほぼ完成したところで終戦を迎え、飛行場は元の圃場に戻ったのでした。

■滋賀県平和祈念館の展示より:
 昭和20(1945)年6月より、多賀町木曽から久徳にかけて木曽飛行場の造成工事が着工されました。計画では、滑走路の規模は700mx50mだったようです。未完成のままに終戦となり、テスト着陸の数回を除くと実際に使用されることは、ほとんどありませんでした。のちの調査では、飛行機を隠す掩体壕などの関連施設も建設が始まっていたことがわかりました。

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:彦根 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:700x50方向NE 主要機隊数:小型 主任務:退避 其ノ他記事:工事中

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  舞鶴
牧場  彦根
滑走路 五〇×六〇〇(六〇×一,二〇〇)
縣郡村 滋賀、大山? 久徳村 
記事  五〇×六〇〇七月末 六〇×一,二〇〇八月末(三菱社)

DSC_0127.jpg

青マーカー地点

ここから奥に向かって滑走路が伸びていたはずです。

 

DSC_0124.jpg

赤マーカー地点

飛行場の北西約4km、彦根市外町にあるJRと近江鉄道本線の踏切。

DSC_0122.jpg

 その名も「近江航空踏切」。

「近江航空工業株式会社」の名残です。

 

■多賀土田池の零戦

終戦時零戦で帰郷したパイロットがいて、零戦を米軍から隠すため、

分解して多賀土田池(紫マーカー)に沈めたという証言があります。

これを引き上げようとする会があるのですが、現在は活動休止状態のようです。

個人的には是非とも引き上げて欲しい。

地元の事情も知らずにこんなこと書くと無責任かもしれませんが、

テレ東の「池の水全部抜く」に企画持ち込みなんてどうでしょう?


      滋賀県・彦根海軍航空基地跡地     
彦根航空基地 データ
設置管理者:海軍
所在地:滋賀県‎犬上郡‎多賀町‎木曽‎
座 標:N35°14′10″E136°17′18″
滑走路:1,200m×60m?(作図だと 745mx50m) 
方 位:12/30
標 高:123m
(座標、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1945年06月 着工
     08月 終戦のため工事中止。戦後は元の水田に

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 
多賀池旧海軍機保存会■(リンク切れ)   

この記事の資料:
滋賀県平和祈念館展示資料
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」


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Q:どの位燃やされる? [├雑談]

ということで中部強化月間終了致しました。次回から六月下旬まで「近畿強化月間」の予定です。

 

ところで本日は久々に三択クイズを出させていただきます。

実はヒコーキクイズ系の記事はもう出さないつもりだったのですが、

先日奇特なご意見をいただき、三年ぶりに復活の運びとなりました^^

日常生活にはまっっったく役立たないカルトクイズですが、よろしければお付き合いくださいませ。

 

現在旅客機用ジェットエンジンの主流になっている「ターボファンエンジン」。

入口に大きなファンがあり、これ見よがしにぐるぐる回っているのが特徴です。

ここから吸い込まれた空気は、一部は圧縮機に入り、その後燃焼室へ、

それ以外の空気は、圧縮機、燃焼室をバイパスしてそのまま後方に吹き出し、推力になります。

それではここで問題です。

 

JAL,ANAの777でも使用されている代表的なターボファンエンジン・PW4090の場合、

ファンから吸い込まれた空気のうち、

圧縮機に送られるのは全体の何パーセントでしょうか?

 

 A:14%  B:28%  C:61%



…我ながら凄まじいカルトクイズですね。。。^^;

コメント欄は閉じさせていただきますので、「これだ!」というものを個人的に選んでください。

このクイズに関してご意見、ご不明な点等ありましたら、最新の記事のコメント欄にお願いします。

続きは2週間後です。


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大野グライダー滑空場 [├空港]

   2010年11月訪問 2020/8更新  


岐阜県‎内を流れる揖斐川の河川敷にある「大野グライダー滑空場」。

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お邪魔したのはちょうど土曜日の午後で、飛ばしてました。

D20_0050.jpg

普通、ヒコーキは離陸するとあっという間にどこかに飛び去ってしまうのがほとんどですが、

グライダーは滑空場上空をぐるぐる回っていることが多いです。

見ていて飽きません。


      岐阜県・大野グライダー滑空場     
公式サイト、非常に真面目に取り組んでおられるという印象でした。体験搭乗、クラブ入会の案内をしています

大野グライダー滑空場 データ
所在地:岐阜県揖斐郡大野町久郷‎ 揖斐川左岸河川敷
座 標:N35°26′55″E136°36′13″
標 高:24m
滑走路:1,300m×60m(グラス)
磁方位:15/33
航空管制周波数
  130.650 MHz(大野フライトサービス) 

沿革
2001年1月 大野滑空場にてクラブ結成

関連サイト:
大野グライダークラブ    


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KITAGATA(北方)飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2021/7更新  


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撮影年月日1947/11/01(USA M628-2 371) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

岐阜県‎本巣市にあった‎旧陸軍のKITAGATA(北方)飛行場。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作りました。

滑走路の長さについてなんですが、資料によっては、1,500m×10mとあるのですが、

オイラの主観で作図して出した数字だと、1,750mx67mでした。

実はこの飛行場、あったことは確かなのですが、名称が不明で、長いこと「本巣市の飛行場」としていたのですが、

その後PUTIN様からこんな情報を頂きました。

1945年7月28日に岐阜県上空に飛来した米海軍第31戦闘飛行隊の戦闘報告書では、この飛行場をKITAGATA飛行場と呼称しておりました。報告書には1本の長い滑走路があるだけであり、明らかに建設途中で航空機や掩体は1つも発見できなかったと記載されております。

米軍はKITAGATA飛行場と呼称していたんですね。

当飛行場の南約2.5kmに北方町(きたがたちょう)があり、ここから付けたのだと思います。

ということで、当飛行場の正式名称が判明するまで、KITAGATA(北方)飛行場としたいと思います。

(【北方飛行場】で検索すると、ロシア方面に連れていかれてしまうばかりで特に何も引っかからないんですけど)

 

PUTIN様情報ありがとうございましたm(_ _)m 

その他の詳細も不明な点が多いのですが、

郷土史には戦争末期に本土決戦に備えて建設された飛行場として登場します。

この辺の事情がナゾの多さの理由かもしれません。


D20_0041.jpg

赤マーカー地点

このちょっと先から奥に向かって滑走路が伸びていたと思うのですが。。。

滑走路は本当に山に沿うように作られました。

飛行場建設用地としてはセオリーに反していると思うのですが、

山にいろいろ隠したり、秘匿性を高めるためには都合がよい土地柄です。

現在は国道から中に入り、果樹園が広がる静かな場所で、遠くで果樹の世話をする農家の方の姿がちらほらと。


      岐阜県・KITAGATA(北方)飛行場跡地      

KITAGATA(北方)飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:岐阜県‎本巣市‎上保‎
座 標:N35°27′56″E136°41′10″
滑走路:1,750mx67m?
方 位:13/31
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年04月18日 施設隊駐屯
    08月02日 施設隊撤退
結局未完成に終わったようです


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