高松愛国飛行場跡地 [├空港]
2010年11月、2023年12月訪問 2023/12更新
撮影年月日1947/10/08(USA R517-4 50)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
香川県高松市にあった「高松愛国飛行場」。
現在は警察学校等になっています。
ここは海に面しているのですが、港がないために漁業には恵まれない土地柄だったのだそうです。
そこを開発し、飛行場を建設したのでした。
■防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」の中に、
「高松愛国飛行場(昭和10年6月調) 」の地図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。
資料は冊子本で、地図の飛行場の周辺がちょうど見開きになっています。
見開きの部分を押し開かず、強い曲線になったまま撮影したものを作図に使用しているため、
精度に自信がないんですが、おおよそこんな感じと思います。
同資料の飛行場情報によりますと、飛行場は東西約400米、北東-南西最大約400米の不規則な四辺形地で、
滑走路は北東-南西約350米、幅北西-南東約80米とのことです。
(以下2023年12月撮影)
赤マーカー地点。
滑走路方向
青マーカー地点。
右側:飛行場地区
左側:拡張予定地
香川県・高松愛国飛行場跡地
昭和7年、軍部に飛行機を献納しようとする献金運動があり、「香川号」と名付けられた飛行機を献納しても,多くの残額が出ました。これが県下初の本格的飛行場「愛国飛行場」の建設につながったのだそうです。 また、軍用飛行場としての使用には無理があり,グライダーの訓練に使用されただけで,終戦を迎えたのだそうです
高松愛国飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:滑空機訓練用飛行場
所在地:香川県高松市郷東町
面 積:23.2ha(拡張後)
標 高:1.5m
滑走有効路:800m(拡張後)
座 標:N34°21′06″E134°01′05″
(座標はグーグルアースから)
沿革
1932年 この年の末、高松に飛行場を建設しようとする機運が生じる
1933年06月 香東川川尻の地に建設決定。12月、飛行場と総合運動場の併設施設として設計し募金開始
1934年03月 起工式。5月17日竣工。22日開場式。狭小のため1ヵ月余りで飛行場拡張の話が持ち上がる
総合運動場断念
1937年 この年の秋張工事が県会で可決
1938年09月 拡張工事に着手
1939年09月 拡張工事完成。
1945年 終戦
1948年 グラウンドは競馬場になるが後に廃止
1953年 競馬場跡地が県営自動車学校、自動車免許試験場となる
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「昭和10年11月 刊行 中国及四国地方不時着陸場 水路部」
呑んだ日 [■ブログ]
ということで近畿強化月間終了致しました。
お付き合い、ありがとうございました m(_ _)m
明日から七月末まで「四国強化月間」です。
先日名古屋に嫁いだ妹が1人で戻って来ましてた。
別に「実家に帰らせていただきますっ!」ってことじゃないですよ?
まぁ実家には帰ってきたんですけど。
それでみんなで呑みに行ったのでした。
その時の写真をずらずらと。
飛行場巡りに行くときは必ず持って行くのですが、このところとんと出番のないフィッシュアイを装着して出掛けました。
この日、当店はなぜかシャウエッセンを猛烈にプッシュしてました。
まずは生中とエダマメ。
飲み物の写真も何枚か撮ったのですが、ことごとく失敗してました。
ズームに慣れるとダメですね。これと下のはトリミングしてます。
タコとワサビが入っているやつ。
水菜と山芋がしゃくしゃくの美味しいサラダ。
焼き鳥盛り合わせ。
「東北応援メニュー」の油麩丼。
美味しかったです。
なんか焼き鳥。
早いもので、結婚してもう二年半になるのですが、「『新婚は二年まで』というのは真理だった」。
としみじみ語ってました。
名古屋から戻って来て、姉と二人でスタバでお茶して来たのだそうです。
「よくあんな注文の難しい店に入れるね~」
普段全く使わないややこしい横文字コトバがずらずらと並んでいる時点で、オイラにとっては十分威嚇なのです。
おまけに「トール」とか何とか難解なルールもあるし。
オイラは数年前に一度行って懲りたっきり、行ってません。
「そんなことないよ。商品名なんか読まなきゃいいじゃん」
「?? それでどうやって注文するの??」
妹・1「『何かおススメあります?』って聞けばいいんだよ。『それでは"ナントカカントカ"で如何でしょうか?』て勧めてくれるから」。
妹・2「私は『カフェ・ラテあります?』って言ったら、『それでは"ナントカカントカ"で宜しいでしょうか?』て勧められた」。
(@Д@) そ、そんな方法が!!
ブログを読んで下っている方からするとなんてことないことなんでしょうけど、
オイラにとっては逆立ちしても出てこない、目からウロコの発想でした。うーむ、すげー勉強になった。
そう言えばオイラのお得意先でも、上手にこちらに頼ってくるタイプのお客さんいるな~。
などと、居酒屋でスタバの入り方についてレクチャー受けたのでした。
おわし。
川崎航空機明石飛行場(明石飛行場)跡地 [├空港]
2010年11月、2023年10月訪問 2023/10更新
資料:A 撮影年月日1946/11/20(USA M324-A-6 42)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。以下4枚とも)
資料:B 撮影年月日1961/05/14(昭36)(MKK611 C15 104)■ 飛行場跡地にバイクのテストコース
資料:C 撮影年月日1969/04/20(昭44)(MKK694X C13 1)■ 徐々に浸蝕されるテストコース
資料:D 撮影年月日1973/05/05(昭48)(KK737Y C5 3)■ テストコースがすっかり埋め尽くされる
資料:E 1/25000「明石」昭和42年改測「今昔マップ on the web」より作成
2022/5/5追記: セイショウさんから貴重な情報を頂き、記事を全面的に修正致しました。
セイショウさんありがとうございましたm(_ _)m
兵庫県明石市川崎町にある「川崎重工明石工場」。
戦時中は「川崎航空機明石工場」で、「キ-102乙」等製作していたのだそうです。
当時は工場西側に「明石飛行場」が隣接しており、試験飛行場になっていました。
終戦翌年の航空写真(資料:A)には、飛行場敷地南側にズラリと無蓋掩体が並んでいる他、
敷地北の角地、北東側にも掩体が確認できます。
掩体壕の中には、ヒコーキが入っているものもあります(リンク先で拡大した方が分かり易い )。
先頭のグーグルマップはこの航空写真から作図しました。
当飛行場はキチンとした資料が見つからず、航空写真から主観で線を拾っています。
ご了承ください。
当地に工場が建設されたいきさつについて、神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫様に、
当時の新聞記事がありました(下記リンク参照)。
以下引用させていただきます。
■神戸新聞 1938.6.21 (昭和13) 航空(5-215)
明石に大航空都 広袤四十坪を劃し産れる飛行工場地帯
川崎飛行機が林崎へ移転 忽ち”翼の街”への躍出
軍需工業万能の折柄、従来大資本と多角経営を以て神戸に鳴る大川崎がその鋭翼を伸張して明石市の西部林崎に大飛行機工場の移転建設をもくろみ既にその敷地の買収も略々終了したという航空日本にふさわしいビッグニュース
神戸川崎本社では近時○○及び民間航空機の需要激増に伴い現在神戸林田区和田山通にある川崎飛行機工場の生産力を以てしては到底その需要に応じ切れずかねて工場の狭隘を痛感して近郊に適当な敷地を物色中のところ、たまたま明石郡林崎村の地の利を認めこれに白羽の矢を立て、同地の買収方を交渉中この程ほぼ交渉成立を見るに至った即ち同敷地は林崎村のうち林、東西松江、藤江、小久保、和坂の各部落にまたがり広袤実に四十万坪に達するもので、川崎ではこの敷地に『川崎神戸飛行場』の名称のもとに現在の川崎飛行機工場を移転、専ら発動機の綜合製造を行わんとするものである。従って移転の暁にはこれに要する職員、従業員ら総数一万八千にものぼるべく、将来における家族その他の移住を予想すれば総人口数万の大工業地帯を現出し、県下に一つの市を増加することとなるわけで移転は大体明年三、四月頃終了の予定であったが、土地買収に順調を欠き一時行き悩みの形となった関係上多少の遅延は免れぬものと見られる、而して移転後における和田山通の工場跡は現在同じく狭隘をかこつ川崎車輛工場の拡張に充当される手筈になっている
林崎村の敷地は明石の西方二粁に位し山陽本線と山陽電鉄に挟まれた矩形状の坦々たる沃田より成り北には中国山脈の余脈が東西に延び南は淡路島が海上近くせまっている景勝の地で各部落を合して現在の約千三十、人口七千、大部分は農業に従事している
買収は神戸某々氏らの手を経て行われつつあるが地主側の高値望み、所有地が種々に入組んでいる関係、或は小作人側の立退き報償金問題等がからんで交渉はかなり迂余曲折を極めた模様である然し時節柄航空機製造は焦眉の急を要する国家的事業であるという事変意識が両者の交渉にも著しく反映し談合は次第に円滑を加え小久保部落を除いては既にほぼ成立を見たものの如く
聞く処によると買収価格は坪平均七円、最高三十円に及ぶところもあり買収前の坪二円乃至四円に比すると四十万坪で百二十万円乃至二百万円の差額利益が同村に転げ込むわけで俄か成金の夢も砂上の楼閣でない、また小作人の立退き報償金は坪十銭、即ち一反で三十円、平均四反位は小作しているというからざっと百二十円にはなり、この方面はすでに田植も差し控えている有様だ
かくて明日の工業都市への飛躍は飾磨の広畑、武庫郡大庄さてはこの林崎等々続々期待され阪神を中心とする産業幹線は次第に西に延長され一聯の生産動脈線を現出すべき形勢にある
神戸にある川崎飛行機工場が手狭であることから、当地に工場を移転し、発動機の製造を行うため、
土地買収がほぼ終了した。
ということのようですね。
ネット上では明石飛行場について、「滑走路跡は現在バイクのテストコースになっている」という情報があります。
そのためオイラは、巨大工場と工場の隙間が長い直線になっており、これが滑走路跡だったのではないか。
と考え、拙記事で長いことこの憶測に基づいた内容を載せておりました。
2022年4月、この件でセイショウさんから非常に貴重な情報を頂きました(詳しくはコメント欄をご覧ください)。
セイショウさんのお父様は戦時中に当川崎航空機明石工場に勤務しておられ、
昭和20年1月19日の初空襲の体験者であり、六回あった明石空襲のすべてに遭遇されたのだそうです。
そしてセイショウさんご自身も昭和40年代から勤務しておられたのだそうです。
親子二代にわたり戦中戦後の目撃証人であり、会社関係者という経歴を踏まえ、以下の情報を頂きました。
・ 明石飛行場は工場に隣接する原っぱのみ
・オートバイのテストコースは昭和三十年代に入ってからで、工場の真ん中を東西にあった
・テストコースと飛行場は全くの無関係
そして、「嵐の日々」(津本陽著 昭和58年8月)をご紹介頂きました。
著者は学徒動員で川崎航空機で働いていた際、初空襲に遭遇した人物で、
同書は昭和19年6月、県立和歌山中学校から川崎航空機明石工場に勤労動員学徒として、
国鉄明石駅に到着したところから始まります。
著者はキ一〇ニ陸軍夜間攻撃機の昇降舵の組み立てに従事することとなり、
工場での勤務が話の中心なのですが、所々で「飛行場」というワードが出てきます。
明石飛行場は工場建屋の隙間にあるような、細長いものなのか、それとも隣接する広々した場所なのか。
この本の中でどのように記されているかに注目しながら読み進めたのですが、
本文には飛行場がどんな場所だったのかを示唆する以下3ヵ所が見つかりました。
37p
「私たちは飛行場へ出て、草で覆われた掩体壕の上に登った。」
94p
「整備工場の裏にひろがる飛行場」
32p
「濃緑の丈高い草が飛行場を覆って生い茂り、風が吹くとはるか彼方まで水脈のように吹き分けられた。あざやかな色彩をほどこした、まあたらしい屠龍が二機、試験飛行をくりかえしていた。たがいの翼が触れあうほど近寄り、スクラムを組んだようなかたちで、地上すれすれの低空を飛行場の彼方へ飛び去った屠龍は、すぐ草を吹き倒して戻ってくる。」
このように、同書では明石飛行場について、建屋と建屋の隙間の非常に狭い滑走路ではなく、
隣接する広々とした場所として記しています。
ということで、明石飛行場は工場西側に広がる広々とした場所であることがハッキリしたため、
今回大幅に修正したのでした。
これまで長い間不正確な情報を載せてしまい、大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m
同書は、旧制中学の第四、第五学年(15、16歳)の生徒が工場で軍用機の製作に従事するとはどういうことか、
仲間内、指導役との人間関係を生々しく伝えています。
「ヒコーキ作れるなんて、いいな~」なんて脳天気に考えていたオイラはにとっては目から鱗の内容でした。
ネタバレになるので伏せますが、手に汗握り、ドキドキな展開もあり、当時の様子を窺い知る貴重な書籍でした。
その後再びセイショウさんから、
1961年の航空写真に元の明石飛行場の原っぱの中に直線とUターンのオートバイテストコースが見える
と教えて頂きました(資料:B)。
国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで年代を追って明石工場を見ていくと、
1947年の写真には、まだ掩体壕が並ぶ飛行場が写っていて、この時点ではまだバイクのテストコースはありません。
1947年からしばらく写真閲覧できない空白期があり、次に閲覧できるのが1961年の写真なんですが、
ここで立派なオートバイテストコースが写っています。
1964年、1967年の航空写真でもテストコースが確認できるのですが、
1969年の航空写真(資料:C)ではテストコースUターン部分と直線コース東側が潰されており、
1973年の航空写真(資料:D)では、更に工場建設が進み、テストコースはすっかり埋め尽くされています。
セイショウさんによれば、テストコースが建設されたのは昭和30年代に入ってからなのだそうで、
昭和40年代前半には既にテストコースの浸食が始まっていますから、
このテストコースが完全な状態で存在したのは、戦後の復興期の10年程度の短い期間ということになります。
貴重な情報を頂いたセイショウさんに改めて感謝致します。ありがとうございましたm(_ _)m
現在はジェットエンジン、ガスタービン等を製造しているそうです。
赤マーカー地点。
当時はこの辺りから奥に向って飛行場が広がっていました(2023/10撮影)。
兵庫県・明石飛行場跡地
明石飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:兵庫県明石郡林崎村(現・明石市川崎町)
座 標:34°39'37.7"N 134°57'34.6"E
標 高:19m
飛行地区:1,300mx900m(不定形)
面 積:84.5ha
(座標、標高、飛行地区長さ、面積はグーグルアースから)
沿革
1938年06月 土地買収ほぼ終了
1945年01月 19日 工場が大規模な空襲を受ける
関連サイト:
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 航空(5-215)■
この記事の資料:
嵐の日々
由良(○○、榎列)飛行場跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/11更新
撮影年月日1947/04/25(USA M264 69)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
兵庫県淡路島南部にあった「由良(○○)飛行場」。
陸軍の正式呼称は「由良飛行場」なのですが、地元の方々は軍機漏洩罪を恐れ、「○○(まるまる)」と呼んだそうです。
また、「榎列(えなみ)飛行場」とも呼ばれました。
■防衛研究所収蔵資料:陸空-本土周辺-105「飛行場要図綴 其の二 一復」
の中に「由良飛行場」の大判の青図があり、先頭のグーグルマップはこの青図から作図しました。
後述しますが、横風用の滑走路建設計画があったそうで、この敷地の形を見る限り、
南北方向にもう一本造る計画だったんじゃいなでしょうか。
但しこの青図、非常に薄くなっており、情報の書き込みもいろいろあるのですが、
何がかいてあるかはほぼ判別不能でした。
現地には、今なお当時の地割がかなり残っていて、作図作業はこれに救われた形です。
それでも南端部分、線を拾い間違えているかもしれません。
おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。
同じく防衛研究所収蔵資料: 陸空-本土防空-7 本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局
に当飛行場の情報がありました。
飛行場名 由良
位置 兵庫縣津名郡由良町
規模 東西2,000m 南北2,000m
舗装 六〇×一五〇〇 基礎砂利壓入一部
玉石敷 表層コンクリート 一〇-一二糎
付属施設
収容施設 二〇〇〇名分
格納施設 掩体有蓋 大八棟 無蓋中一一ヶ所
摘要 施設軍有
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 由良
位 置 兵庫県津名郡由良町
規 模 要図(東西2000 南北2000)
舗 装 六〇×一五〇〇米
基礎砂利圧入一部玉石敷
表層コンクリート一〇-一二糎
付属施設
収容施設 二〇〇〇名分
格納施設 掩体有蓋 大八棟
無蓋 中一一ヶ所
摘 要 施設軍有
当飛行場は、良質のサイト様が多数あります。
資料によっては単に「軍機につき○○(まるまる)と呼んだ」とだけ記されています。
阪神地区の防空用戦闘機基地として建設されたのですが、1945年に入ってから実際に阪神地区の爆撃が始まった際、
空中退避や偽装網を掛けることに専念し、役に立たなかったのだそうです。
赤マーカー地点。
この少し先から奥に向かって滑走路が伸びていたはずです。
兵庫県・由良(○○、榎列)飛行場跡地
横風用滑走路の計画もありましたが未完成だったようです。昭和20年11月から滑走路のコンクリートが堀りおこされ、水路の石積み代わりや橋として、また屋敷の擁壁などにも使用され現在もかなり残っているのだそうです
由良(○○、榎列)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:兵庫縣津名郡由良町(現・南あわじ市松帆脇田)
座 標:N34°19′08″E134°45′28″
標 高:2m
敷 地:2,000mx2,000m(不定形)
面 積:180ha
滑走路:1,500m×60m
方 位:12/30
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1943年11月 陸軍から「三原平野に阪神防空用戦闘機基地として飛行場を建設するから協力せよ」との命令が下る
関係戸数500戸、うち49戸立ち退き
1944年04月 着工
09月 一部使用開始
11月 開隊式
1945年07月 完成
1947年 この年以降飛行場跡は順次自作農の手に戻る
この記事の資料:
三原郡史
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-105「飛行場要図綴 其の二 一復」
防衛研究所収蔵資料「 陸空-本土防空-7 本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
新明和水上飛行場(旧川西水上飛行場) [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
撮影年月日1947/08/20(USA M417 41)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
兵庫県神戸市東灘区、大阪湾の最奥に新明和甲南工場があります。
ここでは日本が世界に誇る水陸両用飛行艇、航空機部品を主に扱っており、
飛行艇用の水上飛行場があります。
当地は新明和の前身「川西水上飛行場」でもあります。
判りにくいんですが、スリップ。
残念ながらオイラがお邪魔した際飛行艇を見ることはできませんでした。
無計画にフラリと立ち寄っただけですので^^;
でも大丈夫!
普段大変お世話になっている「(有)オールドマンの旅行代理店」のoldman様が
ここからUS-2が入水するところを撮っておられ、リンク許可いただきました。
下記関連サイトに貼ってありますので興味のある方はご覧くださいませ。
oldman様どうもありがとうございましたm(_ _)m
兵庫県・新明和水上飛行場
新明和水上飛行場 データ設置管理者:新明和工業
種 別:水上飛行場
所在地:兵庫県神戸市東灘区青木1-1-1
座 標:N34°42′56″E135°17′28″
(座標はグーグルアースから)
関連サイト:
(有)オールドマンの旅行代理店/ちょっとそこまで出かけてきました。■
新明和工業/航空機■
鳴尾飛行場跡地 [├空港]
2010年11月、2015年10月、2017年5月訪問 2020/8更新
撮影年月日1947/08/20(USA M417 43)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
1/20000「西ノ宮」明治42年測図「今昔マップ on the web」より作成
兵庫県西宮市、甲子園球場のすぐ南側にあった「鳴尾飛行場」。
元々ここには明治40年完成の「関西競馬場(後の阪神、鳴尾競馬場)」がありました。
明治44年3月、アメリカ人マース氏が大阪城東練兵場にて、関西で初めてとなるカーチス式複葉機の飛行を披露しました。
そしてその1週間後、当競馬場でも妙技を披露したのでした。
大正2年5月には、米国帰りの武石氏によるデモ飛行も行われました。
そして大正3年6月、当競馬場にて日本初の民間飛行大会が開催されました。
競技の2日目は日曜だったこともあり、ナント27万という大観衆で埋め尽くされたのだそうです。
この大会では複数の日本人飛行家による飛行時間と高度が競われました。
民衆のヒコーキ熱は高まりを見せ、大正4年12月には第2回民間飛行大会、
大正5年1月にはアメリカ人ナイルス氏の宙返り飛行、
同年4月、大正6年5月にはアート・スミス氏を招き、夜間飛行ショー等の飛行大会が行われました。
この飛行大会は大正6年までに8回開催されました。
「民間飛行発祥の地」とされる所以です。
そしてこの由緒正しい場所に戦時中、海軍の飛行場が建設されたのでした。
飛行場はX字の滑走路で、ご覧の通り南北方向の滑走路の南端は現在水没していますが、
干潮時には基礎部分が現れるのだそうです。
戻ってから知ったのでオイラは見てません。とほほ。
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:鳴尾 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:1200x100ノモノ2本 主要機隊数:小型2.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫、運搬路3.900米 掩体:分散 其ノ他記事:旧飛行機製作社施設
浜甲子園運動公園
赤マーカー地点。
武庫川女子大学附属中学・高校「芸術館」。
大学公式サイト(下記リンク参照)によりますと、この建物、元々は鳴尾競馬場本館部分だったのですが、
戦時中海軍が鳴尾飛行場の管制塔として使用しました。
戦後は1952年まで米軍基地の施設として使用されたのだそうです。
青マーカー地点。
東西方向の滑走路があった位置。
現在はご覧の通りで高層集合住宅が並んでいます。
兵庫県・鳴尾飛行場跡地
鳴尾飛行場 データ設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:兵庫県西宮市枝川町
座 標:N34°42′40″E135°21′46″
面 積:126ha
滑走路:1,200m×100m2本(コンクリート) 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:01/19,08/26
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1943年10月 完成
関連サイト:
武庫川女子大学公式サイト■
Wiki/鳴尾飛行場■
ブログ内関連記事■■
生駒山滑空場(奈良航空基地)跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
撮影年月日1949/01/25(昭24)(USA R548-No2 4)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
奈良県生駒山上にある「スカイランドいこま」。
ここの駐車場部分はかつて「生駒山滑空場」でした。
滑空場が完成したのは1941年のようですが、それ以前から当地では盛んにグライダーによる滑空が行われ、
数々の日本記録が樹立されました。
そして1943年、ここは海軍の「奈良航空基地」となったのでした。
防衛研究所収蔵資料に当航空基地の情報がありました。
・「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
基地名:奈良 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:生駒山滑空場 旧民施設 主要機隊数:予科練習生 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 其ノ他記事:旧天理教施設 生駒山陸?演習場
・「5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」
「奈良開隊(S20.3.1)(昭18建)」
奈良県・生駒山滑空場(奈良航空基地)跡地
生駒山滑空場(奈良航空基地) データ所在地:奈良県生駒市門前町
座 標:N34°40′53″E135°40′45″
標 高:583m
滑走帯:375mx85m?
(座標、滑走帯長さはグーグルアースから、標高は地理院から)
沿革
1936年01月 生駒山で9時間23分の滞空日本新記録
1941年 滑空場、航空道場完成
1943年 奈良航空基地建設
1945年03月 1日、 奈良開隊
関連サイト:
Wiki/島本真■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
第二大和航空隊基地(阿太峯飛行場)跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
撮影年月日1947/04/12(USA M204 54)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
奈良県五條市、「長閑な山村」と表現したくなる場所に「第二大和航空隊基地(阿太峯飛行場)」がありました。
先頭のグーグルマップは、上に貼った1947年の航空写真から作図しました。
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:第二大和 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:600x30 主要機隊数:小型 主任務:退避
赤マーカー地点。
ここから奥に向かって少し下り坂になっており、青マーカー地点からは一転緩い上り勾配です。
奈良県・第二大和航空隊基地(阿太峯飛行場)跡地
他サイト様を拝見すると(下記リンク参照)、中学生によるグライダー練習の他、特攻隊出撃計画があったようです
第二大和航空隊基地(阿太峯飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:奈良県五條市大野新田町
座 標:N34°23′10″E135°44′41″
滑走路:600m×30m(600m×60mという説あり)
方 位:01/19
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年06月? 着工
08月? 完成
関連サイト:
奈良県の戦跡■
大和航空基地(柳本飛行場)跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
撮影年月日1947/09/23(USA M498 56)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
奈良県天理市にあった「大和航空基地(柳本飛行場)」。
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)に当航空基地の図があり、
その図と上に貼った航空写真から作図しました。
終戦までに完成したのは図のほぼ南北になっているメインの一本のみで、
他は未完だったのだそうです。
防衛研究所収蔵資料に当飛行場の情報がありました。
・「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
基地名:大和 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:168.300㎡ノ内1.500x50コンクリート 主要機隊数:小型 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(2.500平米)((←2を消したように見えるので、500平米かも。)) 電信所、燃料庫、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、工業場、倉庫 掩体:小型有蓋18 其ノ他記事:飛行場、居住区間鉄道線路ヲ挟ミ約1.5粁
・「5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」
「大和開隊(S20.2.11)(昭19建)」
・「5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)別表 航空基地施設史実調査資料表」
基地名 大和(陸)
所在地 奈良県磯城郡柳本村
最寄駅 奈良線柳本駅
飛行場 滑走路 50x1,500 50x1,500計画中
主要機種 中、小型
収容力 人員 分散前 兵舎 一七〇〇名
終戦時 二,五〇〇平米
飛行機 終戦時 掩体小(一八) 隧道一,二五〇平米
其の他の主要施設 隧道等
大本営では沖縄陥落後、米軍は九州・四国方面に侵攻してくると予測、九州での本土決戦に向け、
陸軍の航空総軍は決戦時には大阪府の八尾飛行場に司令部を、
海軍の海軍総隊は日吉台から司令部を大和航空隊基地に移そうとしていました。
日本の命運を賭けた最後の九州本土決戦で作戦士気を高めるため、大本営は天皇と共に関東からこの地への移転を計画。
陸海軍共同での総攻撃に際して、天皇自らの見送りによって戦闘意気を高めようとしたのではないかと思われています。
豊田山に天皇御座所が、竹ノ内の山裾に大本営が海軍によって計画され、豊田山には御座所となる地下壕が発見されています。
(「日本戦跡を歩く」より)
青マーカー地点。
この周辺に現存する掩体壕の基礎があると説明するサイトがあり、行ってみました。
多分コレだと思うのですが。。。
赤マーカー地点。
これが当飛行場のメイン滑走路跡で、しかも舗装されていたのは中央部分のみだったそうです。
この道路はその中央部分。
紫マーカー地点。
黄マーカー地点。
どちらも防空壕だったそうです。
奈良県・大和航空基地(柳本飛行場)跡地
飛行場の説明板の他、掩体壕等の遺跡がいくつか現存するそうですが見つけられませんでした
大和航空基地(柳本飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:奈良県磯城郡柳本村(現・天理市岸田町)
座 標:N34°34′01″E135°49′24″
面 積:300ha
滑走路:(メイン)1,500m×100m(舗装したのは中央の50m) 「日本海軍航空史」(終戦時)より
方 位:16/34(メイン),14/32,10/28,09/27
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年09月 着工
1945年02月 11日、大和海軍航空隊開隊
08月 メインの滑走路以外は未完のまま終戦
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
「日本戦跡を歩く」
「日本海軍航空史」(終戦時)