串本水上機基地跡地 [├空港]
2010年11月、2023年10月訪問 2023/11更新
撮影年月日1947/10/07(USA M537 19)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
和歌山県南端の串本町にあった「串本水上機基地」。
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)に1/1,000青図があり、
先頭のグーグルマップは、この図から作図しました。
因みにこの青図には、右上に 「大津航空隊串本派遣隊」とあるのが鉛筆で消され、
「串本水上機基地」と修正されています。
〇型のマーカーは掩体壕なんですが、赤色の掩体は、この図の中で大きく×が描かれていて、
説明によりますと「破壊建物」とありました。
また、同資料の別表 航空基地施設史実調査資料表には、
基地名 大津航空隊串本派遣隊
所在地 和歌山県西牟婁郡串本町
最寄駅 紀勢西線串本駅
飛行場 滑走路(台)幅十五米、長七四米
創設年月 昭和一七年一二月
一部使用年月 昭和一八年三月
完成年月 昭和二十年三月
主要機種 小型
収容力 人員 分散前 兵舎約六四八平米
飛行機 終戦時 掩体五
其の他の主要施設 送信所、舟溜、桟橋、射撃場、演習場、隧道等
とありました。
基地名が「大津航空隊串本派遣隊」のままですね。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:串本(水上基地) 建設ノ年:1942 飛行場 長x幅 米:15x74コンクリート 主要機隊数:小型6.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(1.500平米) 指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫 掩体:小型有蓋5
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「串本空開隊(S17.12.1)(昭17建)」とありました。
当基地には熊野灘~紀伊水道口の偵察・対潜哨戒・船団護衛という任務が与えられ、
串本海軍航空隊が置かれていました。
紫マーカー地点。
町立串本中学校。
戦後基地は撤去され、串本中学校と隣接する串本古座高校の校地に転用されたのだそうです。
滑走台のあった辺りは現在漁港になっていました。
(以下2023/10撮影)
赤マーカー地点。
当時はこの先が15mx74mの滑走台でした。
青図にはこの写真手前側については特に説明がないのですが、駐機場として使っていたのかも。
青マーカー地点。
滑走台を西側から見たところ。
奥に向って舗装面が分割されてますが、基地青図ではここから右側が基地、左側は何も描かれておらず、
海扱いなのかも。少なくとも基地の敷地外。
黄マーカー地点。
写真左奥にライトグレーの長方形の建物がありますが、
当時はあの建物のちょい手前側から海に向って滑走台が伸びてました。
黒マーカー地点(上3枚とも)。
青マーカー地点からの地割の延長線上で、奥が基地、手前側が基地の敷地外。
これは基地当時の護岸なんでしょうか。
青図にはこの水路と思われるものが描かれてます。
紫マーカー地点。
手前の校舎が町立串本中学校、奥が県立串本古座高校。
当時は事務所、兵舎等があったエリアでした。
この場所でちょい左側を向くと、
こんな感じ。
以下、先頭のグーグルマップをご覧頂いた方が早いんですが、
この校庭から上浦海岸方向に掩体壕が配置されていました。
青図には全部で6基の掩体壕が描かれていて、こちらに最も近い1基は大きく×がついており、
凡例には「破壊建物」とありました。
上述の資料には、 「終戦時 掩体五」「掩体:小型有蓋5」
とあることからすると、破壊された掩体はカウントされていないようです。
各掩体壕は誘導路で結ばれており、
最終的に誘導路はこちら側に導かれ、
灰マーカー地点(以下3枚ともこの辺り)。
ちょうどこの辺りで道路(当時は道路無かったけど)を横断するように誘導路が続き、
Aコープ紀南 VASEOさんの店舗を通過して、
誘導路は最終的にVASEOさん奥にあるコメリさんの敷地手前(白いフェンスのところ)まで続いてました。
誘導路の行き着いた先には、青図によれば大きく×がついた「破壊建物」がありました。
オイラの作図が正確なら、50mx60mのかなり大きなものなんですが、
青図、上記資料にはこの建物について特に何の説明もありません。
先の掩体壕と同じく、破壊されたため数に入っていないのかも。
各掩体壕を結ぶ誘導路の終点がこの建物であり、その先にはかなり広々とした滑走台が続いています。
位置関係からすると、格納庫だったんでしょうか。
和歌山県・串本水上機基地跡地
串本水上機基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:水上機基地
滑走台:15mx74m
所在地:和歌山県東牟婁郡串本町串本
座 標:N33°27′45″E135°46′51″
(座標はグーグルアースから)
沿革
1942年12月 建設。1日、串本空開隊
1945年春? 隊の本拠地が北海道に移ったため、自然消滅の形で串本から撤退
戦後基地は撤去され、校地に転用
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
明野飛行場 [├空港]
2010年11月訪問 2022/1更新
(昭和9年8月撮影)高度1,200米 方位SSW 距離2,200米
1934年(昭和9年)10月調査資料添付地図 Translation No. 31, 12 March 1945, Airways data: Kinki Chiho (A). Report No. 3-d(29), USSBS Index Section 6■ (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
撮影年月日 1947/09/23(昭22)(USA M498 95)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
SkyVector.com
三重県伊勢市にある陸上自衛隊明野駐屯地。
駐屯地内に「明野飛行場」があります。
4レターのついた立派な飛行場です。
ここはかつて「明野陸軍飛行学校」で、全国各地に分教場が造られました。
戦時中の資料を見ているとよく「明野」という地名に出くわすのですが、
埼玉県民のオイラからすると、「ここか~。ここがあの…」という感覚でした。
■「航空路資料 第5 昭10-4 近畿地方不時著陸場」に図があり、
先頭のグーグルマップはこの図から作図しました。
当時の飛行場名は「明野ヶ原飛行場」 で、紫の囲ってある部分が飛行場です。
1934年10月調べの資料なんですが、現在の舗装滑走路をすっぽり覆う広さがあったんですね。
1947年の航空写真と比較すると、拡張していった様子が分かります。
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 明野
位 置 三重県度会郡北浜村
規 模 要図(南北1500)
舗 装 二〇〇×六〇〇米
基礎砂利圧入下層コンクリート(一、四、八)厚一二糎
表層細粒式瀝青コンクリート厚四糎
付属施設
収容施設 一〇〇〇名分
格納施設 掩体大五〇ヶ所
摘 要 施設軍有
三重県・明野飛行場
・明野陸軍飛行場 データ(「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」より)
所在地:度会郡北浜村明野ヶ原
種 別:陸上飛行場 常駐、根拠
敷 地: 北西-南東1,600m 北東-南西1,400m
滑走路:640mx100m(舗装)
・明野飛行場 データ
設置管理者:防衛大臣
4レター:RJOE
空港種別:その他飛行場
所在地:三重県伊勢市村松町
標 点:N34°32′02″E136°40′20″
標 高:6m
滑走路:500m×30m(13/31) , 500m×30m(04/22)
航空管制周波数
HOMER 125.5MHz,126.2MHz,138.05MHz,140.5MHz
TWR 126.2MHz,138.05MHz,139.8MHz,140.3MHz,236.8MHz
TWR(GCA)120.9MHz,122.0MHz,134.1MHz,138.3MHz,141.7MHz,270.8MHz,335.6MHz
APP(RDR) 120.1MHz,139.45MHz,140.5MHz,141.95MHz,362.3MHz
明野フライトサービス 130.35MHz
沿革
1920年 陸軍航空学校射撃班として発足
1921年 陸軍航空学校明野分校に昇格、度会郡北浜村大字村松に設置
1924年 明野陸軍飛行学校として独立
1945年 部隊解散
1955年 陸上自衛隊航空学校が浜松から明野へ移駐、明野駐屯地が開設
(Wikiより)
関連サイト:
航空路資料 第5 昭10-4 近畿地方不時著陸場■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
櫛田川滑空場(閉鎖?) [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
三重県松阪市、 櫛田川河口付近にある「櫛田川滑空場」。
伊勢湾に面していて、河川敷内にあります。
航空ファン2013年7月号に「滑空場継承者求めます」として当滑空場の記事が掲載されました。
オーナーの覺田氏は2013年7月で当滑空場を手放す意向であり、継承者を募集しているとのことです。
マリオ・デ・ニ−ロさんから情報頂きました。ありがとうございました m(_ _)m
改めてググってみると、当滑空場について(閉鎖)とする記事があり、
グーグルマップで見る限り、舗装面も荒れているのですが、
毎年の凧揚げ大会会場になっていて、普通に「河川敷のモーターグライダー滑空場」として紹介されています。
オイラがお邪魔した時には人影はありませんでした。
土手をはさんで向かい側にある施設。
2020年にストリートビューで確認してみたら、この施設はほぼそのままの状態でした。
三重県・櫛田川滑空場
櫛田川滑空場(閉鎖?) データ設置管理者:覺田嘉栄氏
空港種別:場外離着陸場
所在地:三重県松阪市高須町櫛田川左岸
座 標:N34°35′55″E136°34′26″
滑走路:500m
磁方位:17/35
(座標はグーグルアースから)
沿革:
覺田氏、地元で飛行場適地を探す
10年掛かりで当地を見つけ、地権者との粘り強い交渉の結果、年間借地料を支払うことで合意
桑畑跡地の雑木林だった場所を転圧、舗装して滑走路建設
1996年 格納庫建設
2013年07月で終了の意向。現在後継者募集中
RYUS SKY PARK(リュウズ スカイ パーク) [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
三重県津市香良洲(からす)町。
雲出川河口のデルタ地帯になっていて、その南端部分に「RYUS SKY PARK(リュウズ スカイ パーク)」があります。
RWY30側から。
三重県・RYUS SKY PARK(リュウズ スカイ パーク)
RYUS SKY PARK(リュウズ スカイ パーク) データ所在地:三重県津市香良洲町高砂
座 標:N34°38′17″E136°32′43″
滑走路:240m?
磁方位:12/30
(座標、滑走路長さはグーグルアースから)
久居飛行場跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
撮影年月日1961/09/30(MKK617 C16 8)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
三重県津市にある陸上自衛隊久居駐屯地。
ここにいつの間にかできて、いつの間にかなくなった滑走路があります。
1953年頃設置されたようなのですが、航空写真で年代ごとに追いかけていくと、
1975年頃まではきちんと形が残っている(ように見える)のですが、その後土地用途変更により、
徐々に溶けていっています。
赤マーカー地点
画面右側にヘリがありました。
三重県・久居飛行場跡地
久居飛行場 データ設置管理者:防衛大臣
種 別:連絡用?
所在地:三重県津市久居野口町
座 標:N34°40′17″E136°28′46″
滑走路:300mx28m
方 位:10/28
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1953年頃 設置
伊賀飛行場跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/8更新
1946年5月(USA M143-A-6 167)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
三重県伊賀市にあった「伊賀飛行場」。
滑走路跡には現在INAXの工場、小学校、中学校などが建っています。
滑走路や周辺整備の作業に学生や近隣住民が連日動員されたのだそうです。
基地は24,000坪に及ぶ広大な面積で、建設の為21軒の農家が移転しました。
昭和20年9月1日現在の保有機種・数量は、
零戦2機、彗星1機、彩雲1機、一式陸攻4機、零式輪1機、九三中練1機、九〇式機練1機、白菊2機、
陸軍機3機の16機。
軍用機は米軍マイケルウイルソン軍曹らに爆破処分されました。
兵器、弾薬などは大阪や第二鈴鹿基地へ輸送されましたが、金善池や七ツ池へ相当量投棄されたとも記録されています。
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:伊賀 建設年:1944 飛行場長x幅 米:1,200x80アスファルト 主要機隊数:中小型 主任務:避退場 隧道竝ニ地下施設:工事中 掩体:中型無蓋10 小型無蓋14
また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)
別表 航空基地施設史実調査資料表には、
基地名 伊賀上野(陸)
所在地 三重県阿山郡上野町
最寄駅 関西急行電鉄上野町駅
飛行場 滑走路
主要機種 小型
収容力 人員 終戦時 分散兵一,五〇〇名
其の他の主要施設 隧道等
とありました。
なかなかいい撮影ポイントがなくて、小学校の校庭内にレンズを向けさせていただきました。m(_ _)m
お母様方の視線がイタイイタイ><
地名から勝手なイメージを持ってしまっていたのですが、
巻物くわえたり、ものすごい速さで水の上を走る人の姿は特に見かけませんでした。
三重県・伊賀飛行場跡地
飛行場の北西約2kmに伊賀上野城があるのですが、当時航空隊の本部として使われたのだそうです。また、滑走路南東の伊賀国分寺周辺に掩体壕が現存するそうです
伊賀飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:三重県阿山郡上野町(現・伊賀市緑ケ丘中町)
座 標:N34°45′38″E136°08′50″
滑走路:1,200m×80m
方 位:06/24
面 積:7.9ha
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1943年02月 この頃から建設開始。21戸立ち退き
07月 測量開始
10月 掩体壕、貯蔵施設の掘削作業
1944年12月 この頃から住民の勤労奉仕により飛行場の整地作業
1945年05月 滑走路使用可能に。第1001海軍航空隊・福地派遣隊着任
07月 艦載機による攻撃を受ける
関連サイト
市長の伊賀じまん - 伊賀市■
この記事の資料:
伊賀上野緑ヶ丘地誌
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-83 航空基地図 綴(本土関係)
高野尾(第三鈴鹿)海軍航空基地跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2022/1更新
撮影年月日1947/09/23(USA R212 82)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
三重県津市高野尾町にあった「高野尾(第三鈴鹿)海軍航空基地跡地」。
上に貼った1947年の航空写真でも滑走路の痕跡らしきものは見当たらず、
場所特定の情報が限られていて、滑走路の位置はおおよそのものです。ご了承くださいませ。
滑走路の位置についてネットから得られた情報は、
「芸濃ICと高野尾小(紫マーカー)の間にあった。」というものでした。
また、黒マーカー地点の溜池?ですが、今昔マップで確認すると、明治45年の地図でも確認できます(形は違うけど)。
後述しますが、当滑走路の長さは、1,200mx60mで、方向は北西でした。
上に貼った航空写真に白矢印を付けましたが、ここの地割は、資料に出てくる滑走路方向と一致しています。
それでこの地割を基準にして滑走路の作図をしたんですが、実は昭和12年の地図では、まだこの地割はありません。
そのため、この地割と滑走路の方向は異なっている可能性もあります。
溜池と周辺道路の位置関係からすると、滑走路の方向は時計回り方向にもう少し起き上がっている方が、
無理のない配置になるのですが、これまでの例からすると、滑走路方向がそのまま地割として残るケースが多いため、
地割の方向をそのまま使った作図としました。
以上の条件の場所に1,200m滑走路を置くと、だいたいこんな感じなのではないかと思います。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:高野尾 建設年:1945 飛行場長x幅 米:1,200x60方向NW 主要機隊数:中小型 主任務:避退場 隧道竝ニ地下施設:工事中 掩体:施設アルモ数量不明
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 横須賀
牧場 高野尾(第三鈴鹿)
滑走路 六〇×一,二〇〇NW
縣郡村 三重、河藝 高野村
記事 七月末既成
■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」にも以下の通り記されていました。
鈴鹿海軍航空隊の分遣隊がやってきて、航空基地の建設に取りかかった。鈴鹿基地が空襲の目標にさらされ、練習機「白菊」分散、不時着用離発着の中継基地が必要であった。さらに高野尾は平地に恵まれたうえ、燃料となる松根油の原料となる松にも恵まれていた。
赤マーカー地点。
ちょっと精度に自信がないんですが、跡地周辺は現在こんな感じ。
平地に畑が広がる静かな場所です。
お邪魔したのは朝の時間帯だったのですが、お母さんたちが農作業をしていました。
三重県・高野尾(第三鈴鹿)海軍航空基地跡地
高野尾(第三鈴鹿)海軍航空基地 データ設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:三重県津市高野尾町
座 標:N34°47′56″E136°27′21″
滑走路:1,200m×60m
方 位:14/32?
(座標、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年 建設
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
この記事の資料:
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」