豊川離着陸場跡地 [├空港]
2011年5月訪問 2020/10更新
撮影年月日1983/10/25(CCB834 C8 15)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
愛知県豊川市にある豊川駐屯地。
前記事の日吉原演習場から東名道をはさんみ、南南西約2.4km地点にあります。
詳しいことは不明なのですが、戦後の一時期ここに離着陸場がありました。
日吉原演習と似てますね。
(国土地理院の航空写真では、1959年~1995年まで滑走路を確認できます)
滑走路があった付近。
現在は建物が並んでいます。
愛知県 ・豊川離着陸場跡地
豊川離着陸場 データ設置管理者:防衛省
所在地:愛知県豊川市本野町東野添
座 標:N34°49′59″E137°22′58″
標 高:15m
滑走路:450m×15m
方 位:08/26
(座標はグーグルアースから)
関連サイト:
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日吉原離着陸場 [├空港]
2011年5月訪問 2020/10更新
撮影年月日1965/08/14(MCB652X C6 8)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
愛知県豊川市にある陸上自衛隊日吉原演習場。
演習場の敷地内に離着陸場があります。
1960年代以降の地図にはハッキリと滑走路が写っているのですが、
グーグルマップで見ると現在は少々溶けかかって見えます。
もしかして現在は滑走路として使用していないのでしょうか??
外からグルグル回ったのですが、緑の壁に阻まれ、結局視認することはできませんでした。
上の写真、この先に滑走路があるはずなのですが。。。
愛知県・日吉原離着陸場跡地
日吉原離着陸場 データ設置管理者:防衛省
所在地:愛知県豊川市大木町山ノ奥
座 標:N34°51′16″E137°23′16″
標 高:45m
滑走路:350mx40m
方 位:12/30
(座標、標高はグーグルアースから)
関連サイト:
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北部九州旅行・1 [■旅行記]
Ⓐ自宅→Ⓑ滝ヶ原飛行場→Ⓒ日吉原離着陸場→Ⓓ豊川離着陸場跡地→Ⓔエアポートウォーク→Ⓕ道の駅仁保の郷(車中泊)
(これは2011年5月の話です)
今回は福岡県、佐賀県、長崎県を回ることにしているのですが、
長崎県には未訪問の離島空港/跡地が6ヶ所残っていて、特にその離島を全部回ろうと考えていたのでした。
3:30 自宅出発
早速本日、というか、日付が変わる24:10博多港発のフェリーに乗って対馬に渡る予定です。
これまでの経験から、ゆっくり走り、きちんと休憩をとりつつでも、博多港には17:00には着けます。
出港は24:10ですから、7時間前には着いてしまうわけです。
そこで、途中のまだ見ていない飛行場に寄り道しながら進むことに。
万一のことを考えると、早めにある程度港の近くまで進んでおいた方が安心なのですが、
この時期撮影ができるのはせいぜい18:30まで。
例えば博多港に到着してから周辺の飛行場を回るとすると、1時間半で薄暗くなってしまい、
その後5時間半、延々と暗い中で出港を待たねばなりません。
それでまだ行っていない飛行場を自宅の近くから順番に回りつつ進むことにしました。
まずは静岡県の滝ケ原飛行場、その後愛知県の日吉原飛行場、豊川飛行場、名古屋空港のエアポートウオークを見学。
(静岡県の滝ケ原飛行場は滑走路を撮るのに失敗してしまったので後日再び行くことに。とほほ)
その後岐阜県の某河川敷内の滑空場に向かったのですが、ここは結局入れなかったので名前を伏せておきます。
実はこの日は早朝からすんごい雨。
フィリピンで発生した台風1号からの湿った空気と前線の影響で風雨共に非常に激しく、
台風特有の空模様で、 時々視界が白く煙るほどの豪雨になるかと思えば、
ほとんどカサも不要な時もあり、飛行場の撮影はそのタイミングで済ませました。
というか、恐らくオイラの日頃の行いが品行方正、清廉潔白なためだという結論で間違いないと思うのですが、
撮影場所に到着すると、それを待っていたかのようなタイミングで雨が止むのです。素晴らしい。
滑空場近くの道の駅にて、エアポートウオークで買ったお弁当で昼食。
まだまだこの先にも未見学の場所はたくさんあるのですが、ぼちぼち博多港に向かうことにしました。
ここから博多港までは800km。予定では出港2時間半前には到着できます。
途中、兵庫県で給油。
給油中、事務所から出てきたスタッフのおばちゃんがつかつかとオイラの車に歩み寄ると、
やにわにワイパーを持ち上げ、ゴムを引っ張っています。
そしてオイラの所にやって来て言いました。
「このゴム、もう寿命だから替えときましょか?
ディーラーで買えたら定価取られるからディーラーで買えたらダメですよ?
でもウチは割引で得ですよ?」
な、なんて関西流営業トーク!(☆Д☆)
オイラの行きつけのディーラーは割引価格なんだけどな~。
相変わらず雨がすごく、車体をバシバシと激しく叩きつける雨音でラジオも満足に聞けないほど。
そしてたまにハイドロプレーン気味になりますが、そんなに飛ばしてないしFFなので無問題。
実は出発の少し前にスタッドレスからノーマルタイヤに履き替えたのですが、
去年まで使っていたノーマルタイヤを装着前に点検したら、極太のネジと金属片が深々と刺さってました。。。_| ̄|○ il||li
(むむむ、もうちょっとミゾが残ってるからもう少し走りたいなぁ。。。)
素手ではとても取れないのでプライヤーで引っこ抜くと、どちらからも勢いよくエアが抜けます。
工具箱を探したら、多分10年位前に買ったと思しきパンク修理キットが出てきたのですが、
セメントがひからびて固くなっており、まるでゴムのようです。
(こんなゴムみたいな状態で使えるんか??)
よく分かりませんが、ロケット型のゴムに無理やりセメントを塗りたくって作業しました。
翌朝見てみたら、一応空気圧はきちんと保っています。
ホッとしてその日一日仕事で走ったのですが、大丈夫。
ところが更にその次の日、仕事で走行中に突然空気が抜けてしまいました。
路地に車を入れ、スペアタイヤに交換。その後カーショップへ。
修理に必死で気が付かなかったのですが、パンク修理してるところを偶然お得意さんに見られしまい、
後日、「とりさん、○○の裏でお店開いてたでしょ~」と言われてしまいました。
実は4本ともミゾがかなり減っていたので、今回の旅行が終わったらボチボチ新品に履き替えようかと考えていました。
いい機会なので、ここで4本とも新品に履き替え。
今から考えると、豪雨の高速走行中に空気が抜けたら。と考えるとゾッとします。フロントタイヤだったし。
天候は最悪なのですが、それでも順調な走行が続き、広島県に入りました。
予定していたのよりちょっと早く進んでおり、出港3時間前には着けそうです。
(余裕だからちょっとペース落とそうかな~)などと考えていた矢先、
道路情報を示す大きな電光掲示板に「通行止め」の表示が。Σ(゚Д゚;)
ラジオを合わせてみると、
「この先約85キロの玖珂ICから山口南ICまでの区間、雨のため通行止め」とのことでした。
(おいおい…)
こうして、「オイラの日頃の行いは品行方正、清廉潔白説」は豪雨による濁流に巻き込まれ、
キレイさっぱり跡形もなく流れ去ったのでした。(;´Д⊂)
そういえば数時間前からナビが時々思い出したように、「10キロメートル以上先、入口閉鎖です」とか言ってたっけ。
あれはこのことだったのか。。。 _| ̄|○ il||li
まだ広島JCTの手前なので、中国自動車道に迂回して下関に向かうルートもあるのですが、
距離がかなり延びてしまう上に中国道も同じく雨で通行止めの箇所があります(地名は忘れた)。
これは通行止めの箇所は下道で迂回するよりありません。
よそ者のオイラには、突然「玖珂ICから山口南IC」と言われても、それがどの位の長さの区間なのか見当もつきません。
下道を使った場合、どの位のロスになるのかも分かりません。
通行止めの一つ手前のPAで状況を把握することに。
・・・。
独自調査の結果、通行止めの区間は66.5kmでした。
高速なら40分ほどで通過できる距離ですが、ナビでは平行して走る国道2号で迂回した場合、
所要時間が2時間ほど増えると出ました。
それでも出港1時間以上前に港に着けます。これなら大丈夫。
通行止めの区間がそれほど長くなくてホッと一安心です。
オイラのナビは一般道の所要時間を平均速度30km/hで出す設定なので、
順調に進めば予想時刻よりずっと早く港に着く可能性も大いにあります。
ということで、通行止めのインターで降りて山口南ICまで下道を走ることにしたのでした。
ところが、夕方の帰宅ラッシュと大雨が重なったせいか、玖珂IC周辺は大大大渋滞!
インターを出て、ほんの1kmほど先の国道2号にたどり着くまでに1時間以上を要しました。
周辺は地元ナンバーに混じって、九州ナンバーの大型トラックだらけ。
オイラこういうケースは初めてなのですが、もしかしたら1つ手前のICで降りた方がよかったのでしょうか。
ナビの港到着予定時刻は、どんどん出航時間に迫っています。
(それでも国道に出れば、スイスイ進むかも。。。)などという希望的観測も虚しく、国道がこれまた大大大渋滞。
雨の中、延々続くテールランプの赤い灯。
本格的にヤバくなって参りました。(゚Д゚;≡;゚Д゚)
時間と共に雨は大分小降りになり、(もしかしたら通行止めが途中で解除になるかも)という淡い期待の下、
地元FMをつけっぱにしておき、解除になったらすぐ高速に乗ろう。と考えていたのですが、
結局そんなことは起こりませんでした。
この先の目指す山口南ICから博多港までは、おおよそ160kmなのですが、
この区間はほぼ高速道路使用なので、時間短縮はほとんど望めません。
やはり時間短縮の可能性があるとしたら、下道を走っている今しかないのです。
時々50~60kmで流れる区間もあるのですが、すぐにつっかえてしまい、また酷い渋滞になってしまいます。
港に着いたらすぐに船に乗れるよう、信号待ちの時に荷物の準備をするオイラ。
博多港にはいくつかターミナルがあり、オイラが行けばいいのはどのターミナなのか不明です。
港に着いたら、対馬の厳原行きのターミナルを探し、それから車を駐車場に入れ、ターミナルで乗船手続きをしなくてはなりません。
事前に確認したところ、「二等は予約不可。手続きは先着順」とだけ書かれていて、
何分前までに、とは明示されていなかったのですが、最低でも40分前には港に到着したいところです。
ついさっきまでは(何時間も前に港についてもヒマだな~(o ̄∇ ̄o))なんてのんきに考えていたというのに。。。
実は最後にお邪魔した岐阜県の滑空場、行くか止めるか大分迷ったのですが、思い切って行くことにしたのでした。
そして、ここで1時間ロスした挙句に辿り着くことができなかったのです。
つけっぱにしている地元FMにはサンドウィッチマンが出てました。
「男カルタ」 面白いな~。…って、楽しんでる場合じゃないんですけど。
車を駅前に置いて、新幹線を使おうか。とも考えたのですが、またここまで車を取りに戻らないといけないし、
時間に間に合う列車があるかもよくわかりません。かなりギャンブルなのでやめることに。
(後日調べたら、23:27博多着のこだまがありました。博多到着後、タクシーに飛び乗れば、もしかしたら間に合ったのかもしれませんが、よく分かりません)
結局、奇跡(この先山口南ICまで60km/hで走り続けること)が起きても間に合わなくなってしまいました。。。
非常に残念ですがもうフェリーには間に合いません。
雨の中どこまでも続く酷い渋滞の中で走り続けるのをやめて、とりあえず近くの道の駅で車中泊することに。
その前に、対馬でレンタカーの予約をしていたので、そのキャンセルをしなくてはなりません。
ところが予約変更の連絡先にかけても、直接営業所にかけても既に営業時間外でつながりません。
(…仕方がない。ドタキャンになっちゃうけど明朝連絡するしかないか。。。)
やっぱり長距離の時は余裕の上にも余裕をもたないとダメですね。
この大雨で通行止めという事態も予測すべきでした。。。
ということで、山口県内の山の中の某道の駅で車中泊したのでした。
20:45 寝る。
おやすみなさい。
(続きます)
とり日記 [■ブログ]
ということで「四国強化月間」は終了致しました。お付き合い、ありがとうございました。m(_ _)m
これでやっと2010年の見学箇所はすべてアップ致しました。
その後のオイラはどうしたかと言いますと、昨年の12月から今年の4月まではどこにも行かずに大人しくしてました。
で、5月から再び見学を始めたのでした。
そんなわけで次回から「九州強化月間」です。
ところで話は変わりますが。
今年はあちこちから「まだセミが鳴かない」という声が伝わってきます。
オイラの自宅では、今年はセミもそうですし、Kも出ないし、Gもまだ出現していません。
KとGが出ないこと自体は非常に喜ばしいことなのですが、どうしたことでしょう??
別にGが出現する一分の隙も与えないほどキレイになんかしてないのに。
むしろ例年通り、Gがいつ出現してもおかしくない程度にしているつもりなのに。。。
皆様お住まいの地域はいかがでしょうか。
それとですね、少し前に「スタバが怖い」というネタを書きましたが、
オイラの心境を120%表現しているアニメがありました。
興味のある方は是非見てみてください→■(2012/1/14 追記:動画削除されました)
では~。
徳島飛行場(徳島阿波おどり空港、松茂飛行場) [├空港]
2010年11月、2023年12月訪問 2023/12更新
撮影年月日1947/04/25(USA M263 57)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
「徳島阿波おどり空港」は、元々海軍の「徳島航空基地」として、1942年に建設されました。
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
の中で、当航空基地について一部次のように記載がありました。
基地名:徳島 建設ノ年:1942-4 飛行場
長x幅
米:1300x1200芝張ノ内600x300モルタール舗装 主要機隊数:小型10 主任務:偵察教育 作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(2.000平米)
雷(同時調整18、格納72本) 指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫 掩体:小型無蓋13 其ノ他記事:撫で?ニ居住施設分散
また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「徳島空開隊(S17.4.1)(昭17建)」とありました。
徳島飛行場(愛称:徳島阿波おどり空港)。
地名から「松茂飛行場」と呼ばれていました。
旧ターミナルの時に一度お邪魔していたのですが、
滑走路延長(2,000m→2,500m)、新ターミナルビルオープンを機にまたお邪魔したのでした。
ターミナル正面。早速踊ってます。
愛され、親しまれる空港を目指す為に生まれてきました! 「うずぴー」です!
(空港サイトより)【キャラクター説明】鳴門のうずをイメージし、髪を波の形にしています。その波がしらは空、夢、希望等をイメージする虹色にしました。また、スタイルは阿波おどりの男踊りで、飛行機型のうちわを持っています。法被の帯は滑走路を表現しています。足袋の色は鳴門金時を焼き芋等、熱した時の実の色の黄色にしました。
地元高校生原案だそうです^^
いろいろ細かい設定があるのですね~。侮れません。
てっきり1つ上で「エーラヤッチャ エーラヤッチャ」踊ってる緑色のキャラとコンビなのかと思ったのですが、
検索しても出てくるのは「うずぴー」のみ。
「エーラヤッチャ」くんの立ち位置は一体…。
2011/7/27追記: 「エーラヤッチャ」くんは徳島県のマスコット「すだちくん」でした。
noriho-さん情報ありがとうございましたm(_ _)m
ターミナル内部。
案内によると、この不思議な通路の先が「展望デッキ」ということになっているのですが、
ガラス張りの小さな部屋で行き止まりになっています。
写り込みがあって撮影には向きません (〃´o`)=3
黒マーカー地点。
海に突き出したR/W29側。
前回お邪魔した時には工事中で行けなかったのですが、「月見が丘海浜公園」内をどんどん歩いていくと、
エンドの近くまで行けます。
赤マーカー地点。
ターミナル前駐車場。手っ取り早く撮るなら展望デッキよりこっちかな~。
(以下2023年12月撮影)
グランドレベルでヒコーキが見られる。
…が、展望ホール含めガラス張りのため写真は厳しい。
徳島県・徳島飛行場(徳島阿波おどり空港)
ビュー:☆★★★★
展望ホール無料。ガラス張りの小さな部屋のため撮影は厳しい
施設:☆☆☆☆★
お土産:地酒、藍染、スダチ、海産物、ヒコーキグッズ少し
さぬきうどん、空弁あり
マニア度:☆☆☆★★
海側のR/W29エンド側の月見が丘海浜公園
総合:☆☆☆★★
撮影するなら外から
■徳島航空基地 データ
設置管理者:海軍
種別:陸上飛行場
所在地:徳島県板野郡松茂町
座 標:34°08'11.7"N 134°35'52.7"E
飛行地区:1,300mx1,200(芝)、内600mx300mモルタル舗装
(座標はグーグルアースから)
■徳島空港 データ
設置管理者:防衛省
3レター:TKS
4レター:RJOS
空港種別:共用空港
運用時間:7:00~21:30
所在地:徳島県板野郡松茂町
標 点:N34°07′58″E134°36′21″
標 高:11.4m
面 積:191ha
滑走路:2,500m×45m
磁方位:11/29
航空管制周波数
・飛行場管制
徳島タワー 118.00 123.10 126.20
徳島グランド 118.00
・進入・ターミナルレーダー管制
徳島アプローチ 120.10 122.45 124.00 126.20
徳島ディパーチャー 120.10 122.45 124.00 126.20
・航空路管制
福岡コントロール(四国北セクター)132.40 119.35
沿革
1942年04月 旧海軍徳島航空基地として発足。1日、徳島空開隊
1946年08月 接収
1952年 返還
1957年06月 不定期便就航
1958年12月 海上自衛隊、徳島航空基地として使用開始
1962年10月 公共用飛行場指定告示
1986年04月 滑走路1960m暫定運用開始
1987年04月 滑走路2,000m供用開始
1989年04月 新ターミナルビル完成
2001年09月 滑走路延長(2,500m)工事着手
2010年04月 滑走路延長(2,500m)、新ターミナルビルオープン
2018年11月 19日 地方空港発の水素ステーション運用開始。貨物搬送用フォークリフト燃料に使用
関連サイト
徳島あわおどり空港■
国土交通省大阪航空局/徳島飛行場■
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
徳島第二(市場)飛行場跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2022/1更新
撮影年月日1948/03/04(USA M822-1 71)■
「徳島阿波おどり空港」は旧海軍の「徳島航空基地」だったのですが、
そこから西南西約28キロのところに「徳島第二(市場)飛行場」がありました。
滑走路は芝張りで、後述しますが現地の碑文によれば、戦後極度の食糧難から、飛行場跡を全力で元の田畑に戻しました。
上に貼った航空写真は、終戦から2年半後のものです。
画面真ん中東西方向に滑走路があったのですが、ほぼ見分けがつかなくなっていますね。
先頭のグーグルマップはこの航空写真から無理やり作図しました。
おおよそこんな感じではないかと。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:市場 建設ノ年:1945-6 飛行場 長x幅 米:1200x100芝張 主要機隊数:小型 主任務:退避 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 大阪
牧場 市場(第二徳島)
滑走路 一〇〇×一,二〇〇EW
縣郡村 徳島、阿波 市場村(ママ)
記事 既成(川西社)
青マーカー地点にある碑。
市場飛行場跡記念碑(一部抜粋)太平洋戦争末期、戦局が著しく悪化しつつあった時、軍はこの地に急拠、市場飛行場(徳島海軍航空隊第二基地)の建設を決定し、昭和二十年三月より四月にかけ当該地域住民のうち三十数戸には家屋取り壊しを、八十数戸には家屋明け渡しを命じた。突然の命令に住民は一時白失呆然となったが、お国の為ならとお互いに励まし助け合いながら、永年住みなれた我が家や田畑に愛惜の念を残しつつ、約五百人以上の人々が家無き人となり、親類縁者を頼って疎開した。これにともない軍は施設部隊を投入するとともに 市場町並びに隣接町村より勤労報国隊が 又学徒動員による奉仕隊が派遣され 田畑や除去家屋の宅地は滑走路や誘導路となり、同年六月には海軍航空隊が駐屯し訓練を開始、残余の農地も耕作は殆んど不可能となる。同年八月十五日終戦となる 戦後の国家には当該住民を救済する力も方策も見当らず、住民は戦後の極度の食糧難、物資不足と経済的インフレに耐えながら家屋の再建或いは軍靴に踏み荒らされた家屋の修理、滑走路などの田畑の復旧に全力を尽くした。長い年月を要したその労苦は誠に計りしれないものがある。ここに戦後五十年の記念日を迎えるに当り、この飛行場にかかわった人々の流した汗と涙の労苦を 今後永く記念するとともに永遠の平和を願い、町当局の絶大な御支援をいただき、往時の滑走路のほぼ中央にこれを建てるものである 平成七年八月十五日 市場飛行場立退者の会長 北岡忠以下、立退者の会役員、立退世帯名が並ぶ
赤マーカー地点。
田畑を潰して建設した飛行場でしたが、また元の姿に戻ったのですね~。
徳島県・徳島第二(市場)飛行場跡地飛行場跡地
滑走路は1,200mで完成したのですが、東側部分を延長して2,000mにする計画で、一部工事が進んでいました。
徳島第二(市場)飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:徳島県阿波市市場町興崎北分
座 標:N34°05′54″E134°17′29″
標 高:71m
滑走路:1,200m×100m(芝)
方 位:08/26
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年03月 住民に立退命令
06月 1日 第二徳島基地設営。訓練開始
戦後、滑走路は田畑に戻される
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
この記事の資料:
現地の碑
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
西條航空基地(吉井飛行場、逓信省愛媛地方航空機乗員養成所)跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2020/10更新
撮影年月日1948/03/19(USA R30-1 117)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
瀬戸内海に面した愛媛県西条市。
ここに「逓信省愛媛地方航空機乗員養成所」があり、後に海軍の「西條海軍航空隊」に移管しました。
地元では「吉井飛行場」と呼ばれていました。
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)の中に、
当航空基地の図と資料表が1点ずつありました。
図は大判の青図で、右上に大きく「西條航空基地平面図 縮尺三千分ノ一」とあり、
その下側には、
設備要目一覧表
名称 記事
飛行場 約710,000㎡(航空局)
庁舎宿舎 3棟 約2,050㎡(航空局)
「ケーブル」式着陸演習所 1ヶ所
とありました。
先頭のグーグルマップはこの青図から作図しました。
また、資料表には、 「別表 航空基地施設史実調査資料表」とあり、
基地名 西條(陸)
所在地 愛媛県新居郡西條町
最寄駅 予讃線伊予西條駅
飛行場 滑走路(台) 欄外に航空局 愛媛乗員養成所とあり
主要機種 小型、練習機
収容力 人員 終戦時 七八〇平米?
飛行機 終戦時 掩体小五一
其の他の主要施設 隧道等
とありました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:西條 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:940x750芝張 主要機隊数:小型6.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住(780㎡)、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型隠蔽51 其ノ他記事:旧航空局乗員養成所 空爆ニ依リ建物一部焼却
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「西條開隊(S20.3)(昭19建)」とありました。
赤マーカー地点にある碑。
側面にはそれぞれ、「平成二十年三月 西条市教育委員会」、「この地には逓信省愛媛航空機乗員養成所があったが戦局の悪化に伴い海軍に移管され詫間海軍航空隊の分遣隊として開隊した。地内には、防空壕、指揮所も残っている。」と記されていました。
防空壕跡。
オイラがお邪魔した2010年当時、跡地の東半分は小松ゴルフ場で、敷地内に碑、防空壕等残っていました。
お邪魔したのはちょうどお昼休みの時間だったのですが、ゴルフ場の受け付けで見学させてもらえないか頼んだところ、
快く中を案内してくださり、いろいろ話をお聞きすることができました。
敷地内に古い倉庫のようなものがあり、「あれも飛行場時代のものでしょうか?」とお尋ねしてみると、
戦後は一時期塩田として利用されており、塩田時代に建設されたものだと教えてくれました。
上の写真の通り、遺構の上でプレーするという状態だったんですが、
小松ゴルフ場は2014年9月末に閉鎖となり、跡地は2015年6月から西条小松メガソーラー発電所として稼働開始しました。
そんな訳で跡地は現在、発電パネルでビッシリと覆われています。
失礼ながら外見はちょっと厳つい感じの年配のゴルフ場職員さんが、アポなしでお邪魔したにも関わらず、
ご親切に敷地内のあちこち連れて行ってくれ、時折涙ぐみながら当時の話をいろいろ聞かせて下さった姿が忘れがたく、
今でも西條といえば、すぐに当時の様子を思い出します。
お元気だといいのですが。。。
ゴルフ場当時の様子
愛媛県・西條航空基地跡地
西條航空基地 データ
設置管理者:逓信省→旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:愛媛県西条市今在家
座 標:N33°55′37″E133°07′21″
標 高: 5m
滑走帯:940mx960m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1938年02月 着工
1942年04月 21日 逓信省愛媛地方航空機乗員養成所開設
1944年03月 詫間海軍航空隊西條分遣隊併設
1945年03月 西條開隊。米機動部隊による攻撃を受ける
戦後は一時期塩田となる
1961年 ゴルフ場になる
2014年09月 この月の末にゴルフ場閉鎖
2015年06月 25日 西条小松メガソーラー発電所全面稼働開始
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
「愛媛県の近代化遺産 -近代化えひめ歴史遺産総合調査報告書-」
竹ノ下航空基地(六六二基地、拝志飛行場)跡地 [├空港]
2010年11月、2023年12月訪問 2023/12更新
撮影年月日1948/02/18(USA M782 148)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
前記事の重信川滑空場の上流約2kmにあった「竹ノ下航空基地(六六二基地、拝志飛行場)」。
実は当航空基地がドコにあったかについては、
・重信川土手南側
・現在は水田
という2点しか分からず、基地名の「竹ノ下」と併せ、
当時の航空写真で如何にも滑走路っぽい地割を見つけ(写真の←→部分)、
「ここに違いない」という、オイラの主観で作図をし、現地の写真まで撮ったのですが、
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)の中に、
「竹ノ下(牧場)資料表一 図一」と記された封筒があり、
中には、右上に大きく「工事名称 竹ノ下飛行場位置図(六六二基地) 縮尺 五阡分之壱」
と書かれた大判の青図が入っていました。
■防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」にも、
当基地について同様の青図がありました。
この青図の通りに作図したのが、先頭のグーグルマップの黄色のシェイプです。
オイラが予想していたのとは、位置がかなり異なっていました。
大変申し訳ありませんでしたm(_ _)m
この位置は、上に貼った航空写真の丁度白矢印で示した範囲になります。
実は航空写真を見ても、滑走路の地割が見つかりません。
青図にある滑走路周辺の池と道路が航空写真とピッタリ合っており、この位置関係から
滑走路の位置はここだと分かった。というのが実情です。
青図の示す滑走路位置は、滑走路っぽい地割があるような、
でも滑走路上に集落っぽいものがあって(ホントにココか??)と疑わしかったり、
正直微妙なんですが一応「資料の示す位置」ということで、そのまま作図していたのですが、
その後PUTIN様からこんなコメントを頂きました。
1945年6月24日付の海軍施設本部作成の史料では「石手基地」として建設が予定されていた飛行場ですね。最終的には「拝志基地」として完成し、「白菊」を30機配備するように指示が出されていたようです。実際、終戦時に「白菊」が展開していました。
愛媛県在住の私の知人が調査したところ、滑走路は「航空写真の丁度白矢印で示した範囲」にあったそうですが、終戦直後の台風による洪水で土砂に埋まってしまい、国土地理院の航空写真では全く地割が確認できなくなっているとのことです。
洪水で土砂に埋まってしまっていたんですね。
ということで、やっぱり滑走路の位置はここで良いみたいです。
PUTIN様貴重な情報をありがとうございましたm(_ _)m
ところで滑走路の長さについてなんですが、
「位置図」に描かれている滑走路には、「滑走路(張芝)50mx900m」と記されているのですが、
作図後に測ってみたら、650mx45mでした。
また同資料の図ともう一つ、「竹ノ下(牧場)資料表」には、
竹ノ下航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 愛媛県温泉郡久米村
最寄駅 (空白)線松山駅
創設年月 昭和二十年八月
主要機種 練習機
主要任務 発進用
とありました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:竹ノ下 建設ノ年:1945-7 飛行場 長x幅 米:900x50芝張 主要機隊数:小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:工事中
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 呉
牧場 竹ノ下
滑走路 三〇×六〇〇EW
縣郡村 愛媛、温泉 拝志村
記事 八月末既成
(ということで2023年12月に撮り直してきました)
赤マーカー地点。
滑走路方向
青マーカー地点。
滑走路方向
愛媛県・竹ノ下航空基地(六六二基地、拝志飛行場)跡地
拝志小は当時整備員宿舎として使用されていたのだそうです(先頭のグーグルマップ青マーカー)
竹ノ下航空基地 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:愛媛県温泉郡拝志村(現・東温市上村)
座 標:N33°46′36″E132°51′13″
標 高:67m
滑走路:900m×50m(芝)
方 位:08/26
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年07月 建設?
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ)■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
重信川滑空場 [├空港]
2010年11月訪問 2020/10更新
撮影年月日1975/10/21(CSI755 C4 1)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
愛媛県松山市を流れる重信川河川敷にある「重信川滑空場」。
現在は「模型グライダー発着場」として使用されています。
愛媛県・重信川滑空場
重信川滑空場 データ設置管理者:四国ソアリングクラブ
種 別:滑空場
所在地:愛媛県松山市中野町 重信川左岸
座 標:N33°46′55″E132°50′05″
標 高:62m
滑走路:1,100m×20m
方 位:10/28
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
関連サイト:
ソアリング & セーリング日記■
松山空港周辺の掩体壕・2 [├場所]
2010年11月訪問 2020/10更新
撮影年月日1947/04/05(USA M241-2 3)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
愛媛県松山空港周辺には掩体壕が3つ現存しています。
実は3年前に見学したのですが、準備不足から2つしか見つけることができず、今回やっと3つ目を見ることができました。
この記事では3つ目の掩体壕(上のグーグルマップ紫マーカー)のことだけ書きます。
残りの2つについて興味のある方は下記リンクをご覧くださいませ。
ファミマの向かいの細い路地を入った所にありました。
周辺は区画整理された住宅地で、ここだけ異質の空間になっています。
なるべく住宅が写らないように努力したのですが、アングルが苦しい。。。><
入り口がヒコーキ型になっているので海軍型ですね。
松山空港は元々旧海軍の飛行場なので当然と言えば当然なのですが、
残りの二つは陸軍型で、異なる型式が混在していて珍しい組合せになっております。
歩道の所で切欠かれてます。これも珍しいですね。
区画整理された住宅地ならではです。
松山空港周辺の掩体壕・2
松山空港周辺の掩体壕 データ設置管理者:旧海軍
所在地:愛媛県松山市南吉田町
関連サイト:
ブログ内関連記事■ (他の二つの掩体壕についての記事)