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上村島航空基地(六六三基地、菅田飛行場)跡地 [├空港]

   2010年11月、2023年12月訪問 2023/12更新  


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撮影年月日1948/03/25(USA M856 26) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

愛媛県‎大洲市‎にあった「上村島航空基地(六六三基地、菅田飛行場)跡地」。

現在はのどかな田園風景が広がっています。

 

■防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)

この2つに同じ大判の青図と資料がありました。

青図右上には大きく「工事名称 上村島(菅田)飛行場位置図 六六三基地 縮尺 壱万分之壱」 

とあり、滑走路には、「滑走路 砂利敷 600m 30m」と記されていました。

先頭のグーグルマップはこの青図から作図しました。

資料表には、

上村島(牧場)航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 愛媛県温泉郡菅田村
最寄駅 (空白)線松山駅
創設年月 昭和二十年八月
主要機種 練習機
主要任務 発進用
 

とありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中では当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:上村島 建設ノ年:1945-7 飛行場 長x幅 米:600x30 主要機隊数:小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:工事中

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  上村島
滑走路 三〇×六〇〇EW
縣郡村 愛媛、温泉 管田村
記事  八月末既成

DSC_1895_00001.jpg

赤マーカー地点(2023年12月撮影。2枚とも)。

滑走路方向

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      愛媛県・上村島航空基地(六六三基地、菅田飛行場)跡地      

上村島航空基地(六六三基地、菅田飛行場) データ

設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:愛媛県‎温泉郡管田村(現・大洲市‎菅田町菅田‎)
座 標:N33°30′18″E132°35′49″
滑走路:600m×30m
方 位:07/25
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年03月 建設? 

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「昭和二十年 各航空基地平面図 岩国、呉、福山、長野、大浦、竹ノ下 等」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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宿毛水上機基地跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2020/10更新  


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撮影年月日1947/04/23(USA M274 30) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

高知県‎宿毛市‎にあった「宿毛水上機基地」。

ここはスリップのみならず、階段、トンネル等々たくさんの遺構が残っていて、

検索すれば充実したサイト様がいくらでも見つかります。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:宿毛(水上基地) 建設ノ年:1938 飛行場 長x幅 米:70x40コンクリート 砂利敷 主要機隊数:小型0.5 主任務:作戦

また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「宿毛空開隊(S18.4.1)(昭18建)」とありました。 

D20_0019.jpg

青マーカー地点。

宇須々木公民館に説明板がありました。

宇須々木の旧海軍基地(全文) 大艦隊の停泊が可能な宿毛湾には、大正10年(1922)に戦艦「長門」を旗艦とする艦隊が寄港して以降、昭和17年(1942)まで、次々と艦隊が姿を見せており、宇須々木が訓練、休養を支える基地として活用された。宿毛湾沖は、ワシントン軍縮会議により廃艦となった戦艦「土佐」を沈下させたり、戦艦「大和」が沖の島-鵜来島間を公式航行試験を行ったことでも知られている。この宇須々木に、常駐の基地が設置されたのは昭和8年ごろで、兵舎が2棟でき、航空隊が配備された時期もあったが、太平洋戦争が激化する中で、昭和20年3月、第21突撃隊の特攻基地本部となった。第21突撃隊は越浦(土佐清水市)、柏浦、柏島(大月町)などにも派遣隊を置き、特攻用の「震洋」が配備された。さらに戦況の推移にともない、豊後水道全域を指揮する、第8特攻戦隊の司令部も大分県佐伯(佐伯市)から移転した。終戦時 宇須々木は、須崎(須崎市)の第23突撃隊、佐伯の第24突撃隊も指揮下におく重要な基地だった。当時は兵舎、桟橋、無線塔、病院など多くの施設があったが、現在も弾薬庫、貯油庫、飛行艇揚陸スロープ、飛行艇の係留場、誘導灯、防空壕などの遺構が残り、戦争を今に伝えている。(遺構に許可なく立ち入りはできません。)現在の宇須々木公民館は兵舎跡に位置する。設置 宿毛市教育委員会

D20_0024.jpg

赤マーカー地点。

スリップは立ち入りが禁じられているのでここから見たスリップ。

分かりにくいですが、画面中央奥にあります。

分かりますでしょうか?


      高知県・宿毛水上機基地跡地      

宿毛水上機基地 データ

設置管理者:旧海軍
空港種別:水上機用
所在地:高知県‎宿毛市‎宇須々木‎
座 標:N32°55′23″E132°40′19″
滑走台:70m×40m 「日本海軍航空史」(終戦時)より
(座標はグーグルアースから)

沿革
1933年    この頃常設の基地が置かれ、一時期航空隊が配備される
1938年    建設(高知空港史より)
1943年04月 建設。1日、水上偵察機搭乗員練成のため宿毛空開隊
1944年    閉隊。指宿海軍航空隊に移動
1945年03月 特攻基地本部となる
       戦後は漁港に

関連サイト:
Wiki/宿毛海軍航空隊   

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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高知海軍第三(窪川/宮内)飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月、2023年12月訪問 2023/12更新  


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撮影年月日1947/10/08(USA M540 101) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

現在の「高知龍馬空港」の南西約60キロの所にあった「高知海軍第三(窪川/宮内)飛行場」。

アジ歴を含め、検索すると複数の地図を閲覧できるのですが、主に「施設目録(第三高知基地)」から

作図しました(「滑走路(長サ一一八〇米 巾平均七〇米) 」と書き込みがありました)。

上図の通り、飛行場のすぐ西側に並行して県道が走っていますが、

この道路が飛行場のあった宮内地区に通じる唯一の道で、当時は道路の南北に海軍の検問所が設けられ、

住民は通関札を提示しないと通行できなかったのだそうです。

 

ここの滑走路は非常に変わっていて、田んぼに砂利を敷き、

その上に直径5cm、長さ2m位の樫の木の丸太棒をシュロ縄で編んでスダレ状にして滑走路にしました。

ヒコーキは「カラコロカラコロ」と音を立てて離陸したのだそうです。

「木製滑走路」というと、石川県の「相馬飛行場(田鶴牧場)」がありますが、

こちらは板材をきちんと固定していました。

こんな滑走路もあるんですね~ (@Д@)

高知基地残留の練習機「白菊」を最後の特攻機として使うため、当飛行場に隠ぺい保存していたのだそうです。

アジ歴「窪川飛行場」でも詳しい資料が閲覧できますが、滑走路西の山側に分散秘匿していました。

「高知空港史」の中で当飛行場について記されていました。

当第三飛行場に配属になったパイロットの手記も含めて書いてみます。

昭和20年6月25日沖縄特攻作戦が打ち切られ、残存の白菊機は鹿屋から高知海軍航空隊に引き揚げた。

沖縄戦が始まったころ、次には米軍の日本本土進攻が必至とみられた。陸海軍は沖縄に総力を結集する一方、本土決戦に備えなければならない。その一つに、特攻機を隠蔽待機させておく飛行場の建設があった。当高知第三飛行場もそれである。

1945年春から突貫工事で急造されたが、それには20万㎡の田んぼがつぶされたという。

上空から偵察しても牧場か草原に見えるように、空襲がありそうな時は、滑走路の上に草付きの土をばら撒いたり、鶏を飼っている農場に見せかけるため唐丸カゴをあちこちに伏せてカムフラージュし、飛行機の離着陸のときだけ、小丸太を並べた。山の横穴に格納庫があった。

7月に白菊20数機がここに移り、特攻隊員と整備員約150人は民家に分宿した。米軍機来襲の情報のないときは、特攻訓練飛行が行われた。

高知海軍航空隊では、残存の白菊をここに隠蔽し、本土決戦に待機させたが、2か月後に終戦を迎えたため、当飛行場の残存機は全て日章の飛行場に戻し。

特攻隊員は米軍に処刑されるのではないか、という噂も出て、速やかに解散しようということになった。

17,18日頃と思うのが、東北、関東、中部、近畿など同方向の者が計画的にグループを作って、残存の白菊を使って帰郷した。

高知出身者で県外基地から飛行機を使って日章へ着陸したものもあった。

その飛行機もまた利用した。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:窪川 建設ノ年:1945-7 飛行場 長x幅 米:1180x150砂利敷 主要機隊数:小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  窪川(第三高知)
滑走路 六〇×一,二〇〇SN
縣郡村 高知、高岡 窪川町
記事  八月末既成

DSC_1955_00001.jpg

赤マーカー地点(2023年12月撮影)。

「谷間の隠し飛行場」という別名通りのロケーションでした。

周辺は四万十川の渓谷と点在する民家、田んぼ。

日本人なら、「田舎の風景」として必ずどこかで刷り込まれているであろう美しい景色が広がっていました。


      高知県・高知海軍第三(窪川/宮内)飛行場跡地      

高知海軍第三(窪川/宮内)飛行場 データ

設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:高知県高岡郡窪川町(現・高岡郡‎四万十町‎宮内‎)
座 標:N33°13′36″E133°07′46″
滑走路:1,180m×150m(防衛省資料より)
方 位:02/20
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年春着工
    07月 10日 飛行場開設
    08月 16日 終戦により、残存機は高知飛行場へ、一般隊員は現地解散、飛行場は地元に払い下げ 

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 
アジ歴/窪川飛行場(4コマ) 

この記事の資料:
「高知空港史」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」


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高知海軍第二(仁井田、浦戸)飛行場跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/10/13(USA M550-1 11) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

高知市仁井田にあった 「高知海軍第二(仁井田、浦戸)飛行場」。

高知海軍航空隊第一基地(現・高知龍馬空港)の西南西約8.5kmに位置していました。

作図にあたり、

対岸の孕東町まで含めて、1947年の航空写真と現在のグーグルマップで海岸線の形を照合してみたのですが、

埋立地は別として、当時と現在とで海岸線はほとんど変化していませんでした。

検索すると、対岸の孕東町まで含む当飛行場とその周辺の青焼き(高知第二飛行場平面図 縮尺二万五千分ノ一)

がすぐ見つかります。

(これで作図は楽勝だ)と思っていたのですが、この平面図、当時と現在とで海岸線が地殻変動レベルで異なっており、

滑走路に付されている長さを示す数字と、描かれている滑走路の形が結構大きく矛盾しています。

当時の航空写真には、滑走路跡を示すハッキリとした地割も残っておらず、

どうやって作図したものか困ってしまったのですが、

当地は山と海岸に挟まれた狭隘な地形であることと、濃い植生(赤矢印)が細長く残っており、

滑走路の場所はおのずと限られます。

全体の地形と、資料にある滑走路の長さを見比べながらおおよそで位置決めをしたところ、

航空写真に写っている角に見える部分(白矢印)が決め手になりました。

滑走路は白っぽく写ることが多いんですが、当飛行場滑走路は黒っぽく写っている部分だと思います。

そんな感じで作図したのでした。

多分こんな感じと思います。

 

当飛行場は、「高知空港史」、防衛研究所収蔵資料等で「秘匿/緊急避難/発進」飛行場とあります。

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に当飛行場について扱われていました。

以下一部引用させて頂きます。

「この飛行場は高知海軍航空隊の練習機の緊急避難用につくられた。
この地域一帯は藩政の昔から村の人たちが、営々と育ててきた疎菜園芸の本場であり、高知県の促成園芸発祥の地でもあった。 」

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
では当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:仁井田 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1830x220 100砂砂利 主要機隊数:中小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:施設アルモ数量不明 

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)

第二高知(浦戸)航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 高知県長岡郡三里村
最寄駅 土讃線高知駅
飛行場 滑走路(台)
主要機種 小中型機
主要任務 作戦、特種
其の他の主要施設 射撃場、隧道
 

■同資料(5航空関係-航空基地-90 航空基地図)にはもう1枚資料表が含まれていました。

浦戸航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上 陸上
所在地 高知県長岡郡三里村
最寄駅 土讃線高知駅
飛行場 滑走路(台) 第二高知飛行?場共用
主要機種 小型機、練習機
主要任務 予科練□教育
 

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  呉
牧場  仁井田(第二高知)
滑走路 一〇〇×一八〇〇EW
縣郡村 高知、□□ 仁井田村
記事  八月末既成

D20_0004.jpg

赤マーカー地点。

r14「黒潮ライン」。

東を向いて撮ってます。県道に沿って画面左側が滑走路だったはず。 

■「高知空港史」65,66pに当飛行場について記されていました。

「高知市仁井田に高知第二飛行場が作られた。飛行場といっても滑走路だけの簡易なもので、砂地に砂利を入れてローラーをかけ、針金で編んだ小丸太を敷き並べてあった。小丸太は飛行機の車輪が土中にめり込まないためである。練習機なら機体が軽く、固定脚で、脚が頑丈にできていたから、それでも離着陸できた。高知海軍航空隊の緊急避難用が目的であったらしい。だから日章の飛行場に対して、高知第二飛行場と呼んだ。」 

同書67,68pでは、当飛行場について防衛資料からの情報が記されていました。

隧道、地下施設、掩体があったこと、主要機は中小型機、主任務は発進とされ、

高知市池にあった浦戸基地(主任務=教育)は、飛行場を高知第二飛行場と共用。と記されていました。

日章飛行場は数回の空襲を受け、損害も出たため、日章の配備機(白菊)を当飛行場に緊急退避させる計画があり、

離着陸訓練も行ったのですが、実際の退避は行われずじまいでした。


      高知県・高知海軍第二(仁井田)飛行場跡地      

高知海軍第二(仁井田)飛行場 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:秘匿/緊急避難用
所在地:高知県高岡郡仁井田村(‎現・高知市‎仁井田‎)
座 標:N33°30′56″E133°35′00″
滑走路:1,830m×100/220m(砂利敷)
方 位:07/25
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年03月25日 開設

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 

この記事の資料:
「高知空港史」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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二宮忠八とライト兄弟・2 [├雑談]

 (2020/9更新)

ライト兄弟以前に飛んだパイオニアたち

「ヒコーキを発明したのは誰?」と問えば、「ライト兄弟!」と誰しも容易に答えると思いますが、

ライト兄弟よりとっくの昔に空を飛んだ(模型を飛ばした)人はたくさんいました。

1783年、フランスのモンゴルフィエ兄弟は熱気球で人類初の有人飛行に成功しています。

これはライト兄弟に先んじること120年も前です。

また、この熱気球から発展したものとして、空気より軽いガスで浮かび、動力を備えた「飛行船」があります。

こちらはライト兄弟の51年前に飛行に成功しており、その進化と実用度は一時期飛行機よりずっと先んじたものでした。

 

熱気球、飛行船は「空気より軽い」という意味で「軽航空機」の分類なのですが、

一方の「空気より重い」、「重航空機」(いわゆるヒコーキ)の分野の開発はどうだったかといいますと、

こちらはかなり手こずりました。

それでもライト兄弟が成功する約半世紀前の1800年代半ばからちょいちょい記録が残っています。

飛行実験は「滑空」だったり「無人」だったり、飛行というよりむしろ「ジャンプ」だったりするのですが。

1849年にイギリスの「航空学の父」ジョージ・ケイリーは有人グライダーの飛行に成功しました。

1857年、フランスのタンブル兄弟は動力付模型飛行機の飛行に成功し、

17年後の1874年には、有人の飛行機を製作、斜面を利用して僅かに離陸することに成功しました。

1884年、ロシア人のモジャイスキーは蒸気エンジンを搭載した有人飛行実験を実施しました。

スキーのジャンプ台のような斜面から滑走を始め、30メートルほど"ジャンプ"したものの、

この機体は操縦できるシロモノではなく、右に傾いて大破してしまったため、

一般に飛行とは認められていません(でもロシアでは「世界初の航空機」と呼ばれている)。

1890年、フランス人の発明家、クレマン・アデールは動力飛行を試み、

高度約20cmで約50メートルの距離を飛びました。

それまでの動力機の飛行実験が斜面やジャンプ台を利用したものであったのに対し、

こちらは史上初の、補助なしの動力離陸の成功でした。

1891年、ドイツのリリエンタールのグライダーが飛行に成功しました。

1901年、それまでヒコーキの動力は外燃機関が主流だったのですが、

オーストリアのヴィルヘルム・クレスが有人機の動力に内燃機関を初めて使用したとされています。

 

アメリカでも、ライト兄弟に多大の影響を与えたサミュエル・ラングレーが1896年に試作した無人動力付の飛行機が

2キロメートル以上の飛行に成功しています。

ライト兄弟が動力機による有人飛行に成功したのは1903年12月17日なのですが、

ラングレーは同年10月7日と12月8日に動力機による有人飛行に挑戦しています。

この機体が飛ぶためには大幅な改修が必要であったことが後に明らかになっており、実験はいずれも失敗に終わりました。
(前記事の通り、軍から多額の援助を受けての失敗だったため怒られた)

このように、単に「空を飛ぶ(浮かぶ)」だけなら、ライト兄弟の時代には、もうとっくに当たり前のことだったのです。

そしてこれは飛行に関する理論面でも同様でした。

 

先人たちの実験/研究成果

ライト兄弟がヒコーキの研究を開始したのは、1896年のリリエンタール墜落死の報に触れたのがきっかけでした。

研究開始を決意したライト兄弟は、同年スミソニアン協会から推薦図書のリストを受け取ったのですが、

その中にはラングレー、リリエンタール、オクターヴ・シャヌートの著作が含まれていました。

ライト兄弟が凧を使って一連の飛行実験を始めるのは1899年でしたから、

彼らはヒコーキ開発にあたって、まずそれら先人たちの研究成果を学ぶところからスタートしたことになります。

飛行理論の基礎を作った先人にはヨーロッパ人が多く、例えば

1840年代に固定翼と動力を実地に組み合わることを提唱したイギリス人のウィリアム・ヘンソン、

キャンパーのついた翼、ヒコーキに働く四つの力、ロール安定を得るための上半角を発見した

前出・イギリスの「航空学の父」ジョージ・ケイリー、

翼は単なる板状のものより、上面が膨らんだものの方が効率よく揚力を発生させることを

きちんとデータで実証したドイツのリリエンタールなどがいます。

余談ですが、ライト兄弟に関する伝記の中でも登場する有名な逸話にこういうものがあります。

父親が少年時代のライト兄弟に「コウモリのおもちゃ」として売られていたものをプレゼントし、

2人はそれに感銘を受けた。

というものなのですが、この「コウモリのおもちゃ」とは、前記事でゴム動力ヒコーキのおもちゃで登場した、

フランスのペノーが1870年に製作したヘリコプターのことでした。

このおもちゃによって二人は空への興味を抱くようになったのかもしれない。とする考察もあるのですが、

ともかくライト兄弟とペノーは思わぬところで繋がっていたのですね。

ペノーも偉大な航空界のパイオニアの1人であり、

極めて科学的な手法で飛行の理を解き明かし、それをゴム動力ヒコーキで実証してみせた他、

ずっと先の時代に実現する革新的なアイディアを示しました。

 

また、米国にもライト兄弟が多大の影響を受けた人物として、

前出のサミュエル・ラングレーとオクターブ・シャヌートがいます。

ライト兄弟はサミュエル・ラングレーに飛行機について教えを請い、何度か手紙で助言を受けています。

オクターヴ・シャヌートは、1894年に航空研究についてまとめた世界初の書籍『飛行機械の進歩』を著した人物で、

この本はライト兄弟に多大の影響を及ぼしました。

1900年、ライト兄弟はグライダーの製作に当たり、初めてシャヌートに手紙を出しており、

飛行機開発の援助、アドバイスを要請しています。

シャヌートがライト兄弟と交わした手紙の数は500通に上るとも言われているのだそうです。

彼は、複葉方式にすると重量をそれほど増加させることなく揚力を発生させることができることを、

きちんと示した人物であり、 ライト兄弟初期のグライダーの原型はシャヌートのグライダーに倣った複葉機でした。

また、翼を可動式にして飛行を制御することをライト兄弟に勧めたのは彼だと言われています。

グライダーの製作現場にシャヌートが訪問するなど直接の交流もあり、

資料によっては、「シャヌートはライト兄弟の師匠である」とするものもあります。

 

ライト兄弟のヒコーキ開発

1899年、彼らはまず凧を作ります。

凧と言っても今日店先で売っているオモチャの凧ではなく、後に動力飛行に成功するフライヤーと外観は似ていて、

複葉、水平安定板を備えており、紐で翼をねじって操縦操作が可能なものでした。

この凧で実験を繰り返し、翌1900年、今度は人が乗れるグライダーを作ります。

飛行実験を繰り返してデータを取り、1901年にグライダー2号機、1902年にもグライダー3号機を製作、

改良を加えました。

いずれのグライダーも基本的な外観はフライヤーと似ています。

1901年にはなんと200種もの翼型を風洞で試験、

様々なアスペクト比、キャンパーの翼で実験を行い、理想的な翼形を追及します。

その結果、最長飛行距離189m、対気速度56km/hという記録を得るまでになりました。

こうして有人グライダーで経験を積み、いよいよ満を持して最終段階に進みます。

基本形はこれまで発展させたグライダーを踏襲し、そこにエンジンとプロペラを取り付け、「動力飛行機」にするのです。

彼らの求めるヒコーキ用の適当なエンジンとプロペラがなかったため、これらも自作します。

プロペラは基礎研究からの製作でした。

プロペラの推進効率は現在でも75%~80%程度なのですが、

ライト兄弟製プロペラの効率は約70%と非常に高いものでした。

 

「制御された」飛行

ちょっとマニアックな話になってしまいますが。

彼らは、左右に旋回するために主翼をねじって左右の迎え角を変え、機体を傾け(ロール)ました。

例えば、右の翼の迎え角を大きく、逆に左の翼の迎え角を小さくすると、機体は左翼が沈む形で傾きます。

これで機体は左旋回するはずなのですか、実際にやってみるとうまく旋回してくれません。

現在では「アドバースヨー」として知られる現象なのですが、

右の翼の迎え角を大きくすると、この迎え角の大きさが抗力になってしまい、

機首を意図しているのと逆に振るように作用してしまうのです。

この問題を解決するために彼らはフライヤーの尾部にラダー(垂直尾翼の舵)を取り付けました。

これで強制的に機首の向きを意図通りの方向に向けようと考えたのです。
(ラダーだけだと機首の向きは変わるけど、ほとんど横滑りするだけ)

1903年、フライヤーを実験場所に運んでみると、昨年放棄したグライダー3号機が残っていました。

そこでまずはこのグライダーにラダーを取り付けて何度も飛行試験を行ったのでした。

主翼をねじって機体を傾け、ラダーも併用した機体は、見事旋回するようになりました。

現在は主翼をねじるのではなく、エルロンやスポイラーを使って機体をロールさせるのですが、

「機体を傾け、ラダーで旋回」という理屈はそのまま今日に受け継がれています。

さらに彼らの機体はエレベーター(機首の上下を制御する舵)も備えており、

エルロン、ラダー、エレベーターの三舵で操縦を行う現代のヒコーキと理屈は全く同じです。

 

「ライトオペレーション」ではなく

ライト兄弟は機体の開発だけでなく、操縦訓練にも力を入れていました。

フライヤー初飛行の前年、グライダーを使ってなんと千回以上の滑空訓練を行っています。

みっちりと操縦訓練を積んだ上で1903年の動力機による初飛行に臨んだのです。

千回の滑空訓練が現代のグライダーパイロットと比較してどれほどのキャリアに相当するのかオイラは知りませんが、

その機体は自らの実験と研究に裏打ちされた設計、製作をしていますから、

機体構造もその意図も隅々まで知り尽くしていたわけです。

そこに豊富な練習量が加わるのですから鬼に金棒だったんじゃないでしょうか。

余談ですが、初心者がラジコンヒコーキを単独で飛ばそうとすると、まず間違いなく墜落するのだそうで、

非常に危険でもあるので絶対にやってはいけないことなのだそうです。

以前どこかでこれを「ライトオペレーション」と表現しているのを見かけた記憶があります(違っていたらすみません)。

本物のヒコーキの場合、初心者がベテランパイロットの下で訓練を積むのは当然のことですが、

ライト兄弟にヒコーキ操縦を教えるベテランパイロットは当然存在しません。

そうするとライト兄弟は初心者なのにぶっつけ本番でヒコーキ飛ばしたっぽい気がします。

「ライトオペレーション」は、「初心者が独りでラジコンを飛ばそうとすること」を戒めるための

とても分かりやすい表現だと思いますが、

当のライト兄弟がこれを知ったらきっと、「それは適切な表現じゃないデスネ(キリッ)」と言うことでしょう。

1903年の初飛行の際、ヒコーキに乗り込んだ彼らの心境は、

例えば大きな羽をしっかと握り締めて屋根の上に立ち、今まさに飛び降りんとする人物とは、

大いに異なっていたに違いありません。

彼らは既に何度も飛び、機体をコントロールしていたのですから。

 

諸先輩の功績

ライト兄弟以前の先駆者たちは自らの研究成果を論文、書籍で発表したり講演を行うことも多く、

直接間接に刺激し合い、互いの理論を積み上げることができました。

そしてライト兄弟はこれら先人たちの優れた研究成果を活用して実験、機体設計を進めました。

前記事の「鳥の羽ばたきを真似するのではなく、推力と揚力の発生を分離する」という概念、

当時主流となっていた蒸気機関ではなく、ガソリンエンジンを使用すること、

科学的に機体をデザインするために絶対欠かせない揚力と抗力を求める公式、

揚力発生に効率の良い翼形を追及するための詳細なデータ、そしてグライダーで実際に飛ぶこと等々-

これら飛行に不可欠であり、ライト兄弟も大いに活用した理論は全て、

彼らがヒコーキ開発を決意する前に先輩パイオニアたちが既に提唱若しくは実証済みのものでした。

ライト兄弟以前に重要な理論は既にあり、先達たちはそれに基づいて飛行実験の面でも着実に成果を挙げていました。

こうして見ると、ライト兄弟の周囲には空を飛ぶための理論、それを実証する多くの先輩たちがいたことになります。

決して飛行に必要なありとあらゆるものを独力で発見、開発したわけではありません。

前述の通り、ライト兄弟よりも早く飛んだ人は大勢おり、成功までもう一歩に見える人も大勢います。

二宮忠八に限らず、「もう一歩で飛べたはずだ」とか「実はライト兄弟以前に飛んだ」という話は、

実は上に挙げた以外にも世界中に多数あるのですが、

それでも今日、「ヒコーキを発明したのは誰?」と問えば、「ライト兄弟!」という答えが返ってきます。

「ライト兄弟以外にヒコーキ開発に携わった人物」として今日人々の記憶に留められているのは、

せいぜいリリエンタール位じゃないでしょうか。

 

「世界初」

36.6m と50m。

前者はライトフライヤーの最初の飛行距離であり、

後者はその13年前にクレマン・アデールが補助なしの動力離陸に成功した際の飛行記録です。

飛行距離だけ見れば、ライト兄弟よりとっくの昔にそれを上回る数字が出ているのです。

そしてこういう話は世界中にいくつも存在します。

ではライト兄弟の一体何が世界初なのでしょう?

それは、「実用的な飛行機」に欠かせない要素である、

「動力を用い」、「離陸地点より高い高度を維持して飛行し」、「操縦可能な」、「有人機」

を世界で初めて全て盛り込むことに成功したということです。

ライト兄弟が多大の影響を受けた先人たちの偉業を1つ1つ見ていくと、

ぞれぞれが革新的な研究成果を挙げているのですが、

自身の理論にこだわり過ぎたり、他に大きな弱点を持っていたりして、

「実用的な動力飛行機」という最終目標の条件を単独で満たすことはできませんでした。

 

人類が欲したのは、そしてライト兄弟が目指したのは、単にどうにか浮かび上がれるという程度のモノではなく、

意図した方向に好きなように飛んで行けるもの、つまりきちんと操縦できる飛行機でした。

ライト兄弟は、まぐれでちょっとでも浮けばそれでよしとするのではなく、研究、試験を繰り返し、

きちんと操縦できる実用的な飛行機を作るためのステップを着実に進めました。

1903年の飛行は現代の我々からすれば、頼りないほんの小さなものに見えるのですが、

この時初めて、「これなら十分実用的になり得る」という可能性を見せました。

それはまぐれで浮かんだのではなく、ジャンプでもなく、持続可能な動力飛行でした。

そしてその飛行は、どっちに行くかは風任せなのではなく、パイロットの制御下に置かれた操縦可能なものでした。

ライト兄弟のヒコーキとそれ以外で決定的に違うのは、実用的なヒコーキとしての完成度の高さでした。

初めて「ああ、これなら十分使えるものになる」と思えるものを飛ばすことに成功したのです。

その意味で、前出の「翼をねじってロールさせ、ラダーで旋回」という操縦方法は、

他のライバルたちと一線を画する画期的なものでした。

多くの先人による多大の努力により「実用的な動力飛行機」のために必要なピースがほぼ出揃い、

不足を補いつつ、最後にそれらをバランスよく組み合わせたのがライト兄弟だった。と言えるかもしれません。

もっとも、当時飛行に関係する理論は鳥の羽ばたきを真似することに象徴される通り玉石混交であり、
(一例としてリリエンタールは晩年動力羽ばたき機の研究開発を行っており、事故死したのは開発中の羽ばたき機によるものだった)

飛ぶことがすっかり当たり前となり、結果論として正解不正解を容易に見分けられる現代とは状況が大いに異なります。

例えば、先にも書いた通りライト兄弟は風洞を作成し、科学的な手法で効率の良い翼形を追及しました。

そしてその中で先人の実験値の不備を発見、修正し、

アスペクト比が大きい翼(細長い翼)が高効率であることを見出しました。

有象無象の中からきっちり玉だけを拾い上げて自分たちのモノにしたライト兄弟はやっぱりすごいですから、

ここで「すわりしままに食うは徳川」という言葉を引き合いに出すのは、家康にもライト兄弟にも失礼な気がします。

 

それぞれの評価

ここから先はかなり個人的な主観で書いてしまうのですが。

確かにライト兄弟は忠八よりずっと早く、ヒコーキの開発に成功するのですが、

そこに至る過程を見ると、上述の通りその成功は多くの先人たちの功績の上に成り立ったものです。

その流れを理解した上で改めて忠八の成し遂げたことを見てみると、

忠八って本当に凄い人だったのだと思うのです。

忠八の飛行器には不備も多々あるのですが、

独力で飛行原理を発見し、模型飛行機で原理の正しさを実証し、それに基づいて飛行器を設計しました。

「カラス型模型飛行器」は、ビックリするほど現代のヒコーキの特徴が盛り込まれています。

主翼には上半角がついており、これでロール安定が確保できます。

水平尾翼を備え、頭の部分でヨー安定確保(できるかな?)、前輪式の脚も現在主流の配置です。

玉虫型よりこちらの方がすんなり飛行制御できそうです。

推力と揚力の分離、キャンパーのついた翼形等、

残されている文献通り本当にこれらが忠八の独学の成果だとしたら、

欧米で航空のパイオニアたちが束になって挙げた数々の研究成果を弱冠25歳の若者がたった一人で、

しかも滑空するカラスを見て飛行原理を発見してから僅か1年半で挙げたことになります。

お叱りを頂くことを覚悟して言いますが、正直、こうして書いていてもまだ少し信じ難いです。

 

記事の中でヒコーキ開発に携わったパイオニア何人かに触れましたが、

航空界にはその名を留める人物がまだまだたくさんいます。

「重航空機」に限っても、1800年代半ばから1903年までにたくさんのパイオニアが、

理論、飛行実験で多くの成果を挙げています。

パイオニアの多くは欧米に集中しており、彼らは地理的な面でも直接/間接に接触を持ち、

互いの成果を積み重ねるのに有利であり、また実際にそうしました。

人類初の有人飛行に至るまでの年表を見ると、1900年前後の、特に実験面での成果は目覚ましく、

「これはもうそろそろ欧米のだれかが成功するでしょ」と思わせます。

「1903年・ライト兄弟」という予備知識がまったくないとしても、そして肝心の部分を隠したとしても、

年表を眺めれば初飛行に成功するおおよその年は言い当てることができるんじゃないでしょうか。

そのくらい1903年の成功は必然だったのです。

 

大勢の開発者が少しずつ理論、実験の成果を積み上げてゆき、やがて大きな成果を挙げる-

ヒコーキ開発の歴史は間違いなくこの部類です。

ところが時々、たった1人の天才によって技術が一気に進化する分野があります。

例えば時計の世界には、数々の革新的な発明を1人で成し遂げた天才時計職人がおり、

人々はそんな彼のことを「時計の歴史を200年早めた」と称します。

忠八が地理的に他の航空界のパイオニアたちから隔絶された環境に置かれており、

文献通り本当に独自であれだけのことを成し遂げたとするなら、

オイラに言わせてもらえば、これこそ天才時計職人に匹敵することで、

「天才」という言葉でしか説明のつかない偉業だと思うのです。

それだけに研究の中断が惜しまれます。


それぞれのその後

初飛行に成功したライト兄弟はその後ライト社を設立、様々な飛行機の開発を進めるのですが、

飛行に関する特許を守るため法廷闘争に明け暮れたせいなのか、

大西洋を挟んでの熾烈な航空機開発競争の歴史に彼らの名前はもう登場しません。

ライト兄弟の成功からほんの数年後には、非常に美しい、洗練された高性能の機体が続々と登場するのですが、

同時期のライト社製のヒコーキは初飛行に成功したフライヤーと大して代わり映えがなく、

「未だにこんなドン臭いものを作っているのか!」という印象で、性能面でも凡庸です。

ライト兄弟もまた、自身の発見にこだわり過ぎたという弱点を持つ航空界のパイオニアの一人(組)

ということなのかもしれません。

その後のライト社は1929年、仇敵・カーチス社と合併。

カーチス・ライト社として全米最大の航空機メーカーになりますが、

第二次大戦後は経営不振から航空機部門をノース・アメリカン・アビエーションに売却し、

航空機メーカーとしての歴史に幕を引きました。

その後、カーチス・ライト社はコンポートネントメーカーとして今日でも航空機事業に関わりを持ち続けています。

一方、 カーチス・ライト社の航空機部門を引き受けたノース・アメリカン・アビエーションは、

その後合併、売却を経てボーイング社に組み入れられています。

 

一方の忠八は後に飛行神社を建立し自ら神主になりました。

忠八は資金を貯めるために軍を退役し、製薬会社に勤務するわけですが、

活動再開までの空白期間が4年(ライト兄弟の初飛行まで5年)あり、返す返すも勿体ないことをしたなぁ、と思います。

二宮忠八に関して以前読んだ本の中に、

「『日本人は猿真似は得意だがオリジナリティーがない』と言うが、そうではない。オリジナルの評価ができないのだ」

というような一節を見たことがあります。

全くその通りだと思います。

もしも忠八が研究を休むことなく続けていたとしたら、一体どのあたりまで行けていたのでしょうか。

 

(続かない)

この記事の資料
ライト兄弟のひみつ
     
二宮忠八小伝
よくわかるヒコーキ学入門


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二宮忠八とライト兄弟・1 [├雑談]

 (2020/9更新)

二宮忠八の飛行器開発

1889年、23歳の二宮忠八は香川県‎仲多度郡‎まんのう町‎で滑空するカラスを見て飛行原理を発見しました。

当時彼は陸軍に入隊していたのですが、空を飛ぶことの研究に没頭、休みのたびに研究を重ねます。

そして1年半後の1891年、25歳の時に「カラス型模型飛行」(飛行"器"は二宮氏の造語)を完成させます。

 

D20_0201.jpg

その名の通りカラスを模しているため、今売られているゴム動力のヒコーキと見た目は異なるのですが、

「ゴム動力でプロペラを回し、キャンパーの付いた主翼で揚力を発生させて飛ぶ」という理屈はまったく同じです。

今でこそ普通に売っているなんてことない玩具ですが、オリジナルでこれを作ってしまうのがすごいです。

この「カラス型模型飛行器」は見事飛行に成功。飛行距離は30mほどだったそうです。

「このときの愉快を忘るることあたわず、今なお眼底に彷徨せり」

と後年書き残しています。

余談ですが、「ゴム動力の飛行機」は忠八より20年早い1871年にフランスのペノーが造っています。

「プラノフォア」と呼ばれるもので、オーパーツかと思うほど恐ろしく洗練された形状をしており、

インテリアとして飾っておきたい位オシャレなヒコーキです。

 

「カラス型模型飛行器」の成功から2年後の1893年、27歳の時に今度は「玉虫型飛行器」の模型を完成させます。

これは2mほどもある大きなものでした。

 

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1894年、28歳の時、まだ軍隊にいた彼は偵察等の観点から「玉虫型飛行器」の設計図に上申書を添え、

上官を通じて当時の参謀長である長岡大佐に提出。

軍のバックアップを得て人が乗れる飛行器を作ろうとしたのですが、この上申書、

1897年までに三度提出して三度とも却下されてしまいました。

このため1898年、32歳の時に独力で開発することを決意。退役します。

この上申書の却下の一件については、

「上官に先見の明がなかったため軍で飛行器開発が実現できなかった」

「上官が長岡氏でなければ今頃…」

という論調の資料が散見されます。

しかし、「ダメ元でどんどんやらせればいいじゃん」と単に応援するだけなら話は簡単なのですが、

開発を認めるということは、「軍の予算と人員を割くだけの価値がある研究である」と認めた。ということです。

忠八が造ろうとしていたのは、この世に未だ存在しないもの、この先実現するとはとても思えないシロモノです。

モノがモノだけに失敗した場合、忠八のみならず上官に対しても、

「こんな奇天烈なものを裁可し、軍の貴重な予算を浪費した愚者」

という汚名が付いて回ることになり、

「とても通りそうもない上申書でもあの人に頼めばなんでも通るぞ」なんて言われてしまったり、

何某かの責任を問われることになるかもしれません。

次の記事で登場しますが、アメリカ航空界のパイオニアの1人であるサミュエル・ラングレーは、

軍から5万ドルの予算を得て有人飛行機の製作を試みたのですが失敗し、実際に強い非難を浴びています。

こういうリスクを覚悟の上で了承できるほど先見の明のある軍の上官て、当時どの位いたのでしょう?

一方忠八は「飛行器の独力完成準備金として1万円の資金を作らせてください」という願かけをし、

製薬会社に入社して手腕を発揮。見事1万円の貯金を得ることができました。

こうして退役から4年後の1902年、36歳の時に飛行器開発を本格的に再開することができました。

 

忠八の挫折と国内開発

ところで彼が開発再開した翌年の1903年にはライト兄弟が初飛行に成功しています。

二宮忠八がこの報に接した時期には諸説あり、1907年か、1909だろうと言われています。

現在の感覚だと、こんな大ニュースが達するのに4年も6年もかかるの?? と不思議な気がしますが、

当時は情報伝達が未発達だったことに加え、

「名もない自転車屋」の偉業の価値を認めることができず、ライト兄弟の地元でも小さな記事が載っただけなのでした。

ライト兄弟の報を聞いた忠八は、枠組の出来上がった飛行器にハンマーを打ち振り開発を断念。

以降飛行機の急速な発展を見守り続け、自身が開発を行うことはありませんでした。

 

一方、外国の飛行実験成功の報に刺激を受けた日本政府は1909年、

国内で航空機開発を行うための公的機関、「臨時軍用気球研究会」を発足。

そしてその最高責任者に、さる陸軍中将を据えたのですが、

この人物こそ、忠八の上申書を三度にわたって却下した長岡氏その人なのでした。

15年前に国内開発の芽を潰した人物が、一転その育成促進のトップになるという。。。

きっと部下に対して威勢のいい言葉を発していたはずです。

「ちゃんと飛べた!」ということを知った後なら、そりゃ手のひら返しになるのも分かりますけども。

仮に忠八の上申書提出のタイミングがこの時であったら、もしかすると反応は違っていたのかもしれません。

後に長岡氏は自身の非を認め、忠八に対して個人的にも公式にも謝罪し、2人は和解しています。

「臨時軍用気球研究会」発会の翌年(1910年)には、代々木練兵場でフランス製、ドイツ製の飛行機が国内初飛行、

さらにその翌年には、初の国産飛行機が飛行に成功します。

 

「日本国内で飛行機が初飛行をしたのは、1910年である。」

これまでのオイラはこう聞いて、「ライト兄弟からたった7年後か。早いなぁ」と思っていました。

ところがこれは、二宮忠八が長岡氏に初めて上申書を提出してから16年も後のことです。

忠八が研究を続けていたら、国内初飛行はもっと早まっていたかもしれません。

 

軍が航空機の有用性を認めてからは、以来、欧米を範とし模倣する時代が続くことになります。

「ライト兄弟に先を越された!」と知った忠八はそこで開発を止めてしまったわけですが、

世界初の栄誉は逃しても、国産機開発のために研究を続ければよかったのに。

なんと勿体ない…。などと個人的には考えてしまいます。

しかし、仮に忠八が飛行成功の報に接したのが1909年だったとすれば、

全精力を注ぎ、絶対に実現させるぞと、これからまさに情熱を燃やそうとしている夢が

6年も前に既に実現していた。ということになります。

彼がライト兄弟の初飛行について、そしてヒコーキがその後どれほど目覚ましい発展を遂げたかについて、

どの程度の情報を得たのか不明ですが、

その内容は、知れば知るほど自身の現状との落差を痛感させるものであったはずです。

加えて上申書を却下し続けた長岡氏を長とする会発足とも時期が重なっていますから、

研究を続行することに嫌気が差してしまったのかもしれません。

 

結局忠八が実際に飛ばしたのは小さな「カラス型模型飛行器」だけだったのですが、

高い所から ぽいっ と放り投げたらフラフラ落ちたのを「飛んだ!」と言い張った。とかでなく、

車輪付きで、自力滑走→離陸 という飛び方に成功しています。

このテのヒコーキを自作した経験のある方ならご存知の通り、これは手で放り投げるよりずっと難易度高い飛ばし方です。

小さいとはいえ、飛行の理に適っていなければ絶対にこういう飛び方はできません。

小さいもので見事成功し、次はいよいよ人が乗れるものを! という矢先の中断ですから惜しいことをしたものです。

 

忠八の飛行器は飛べたのか

さて。時は流れ1991年、玉虫型飛行器の復元改造機が作られ、人を乗せて高度1m、距離15mの飛行に成功しました。

もっともこの機体、「復元改造機」というその名の通り、

操縦安定を得るために、オリジナルには無い尾翼が付けられており、厳密には忠八の設計と異なる外観をしています。

「現代の技術で空力上の改善をして飛べるようにした」。と言った方が正確でしょう。

そして2004年、今度は忠八オリジナルデザインの「無尾翼型」のラジコンが飛行に成功しました。

ただしこの飛行器、外観こそオリジナルと同じく無尾翼なのですが、

操縦安定を得るためにこちらもオリジナルを少しずつ変更しており、飛べるようにするため様々な工夫が必要でした。

忠八の玉虫型飛行器は残念ながらオリジナルのままでは飛べなかったのです。

 

しかしこの事実をもって、「忠八は有人飛行器を造る能力がなかった」と断言するのは早計です。

なにしろ、最終的に飛行に成功したライト兄弟も、実現までには試行錯誤の繰り返しであり、

特に初飛行に成功する僅か2年前の1901年には、様々な壁にぶつかっていました。

そのためライト兄は、

「人類はこれから1000年たっても飛ぶことはできないだろう。。。><」

などと弱気発言を漏らしている位ですから。

忠八が実際に飛行テストの段階まで漕ぎ着けたなら、「このままでは飛べない」という問題はすぐ明らかになり、

すぐさま改良に取り掛かっていたはずです。

このラジコンの製作過程、実際に飛び回っている動画は、製作者ご本人のサイトに詳しく取り上げられています。

また、どこに問題があったかについても非常に具体的に分かりやすく出ています。

「玉虫型飛行器ラジコン」 で簡単にヒットしますので興味のある方は検索してみてください。

 

ただ鳥の羽ばたきを真似ても飛べない

ところで話はガラッと変わりますが。

もしも大きな翼を渡されて、「これで飛ぼうとしてみてください」と言われたら、翼をどう動かすでしょうか?

「大空を飛びたい」と真剣に考えた先人たちの多くは、鳥の羽ばたきをマネて失敗しました。

鳥の翼は、打ち上げから打ち下ろしの一連の動作の中で、揚力と推力の両方を発生させています。

鳥がプロペラ無しでも自在に飛び回れるのはそのためです。

その翼の動かし方は、うちわで斜め後ろに煽いで風を送るような単純なものではありません。

前方に切るような動作によって、羽ばたきの中で翼の滑空状態を作り出すという非常に高度なもので、

その理屈はヒコーキの翼と同じです。

更に、 翼の形状を刻々変化させることにより、最小のロスで最大の揚力と推力を生み出すようになっています。

大きな翼を与えられた人がそれをバサバサ振るのと鳥の羽ばたきとでは、次元が全く異なるのです。

 

人が飛ぶために鳥の羽ばたきを真似しようとする場合、以前の記事にも書きましたが、

「二乗三乗の法則」の問題 もあります。

これは、「大きさを変えると、面積は二乗、重さは三乗に比例して変化する」。というもので、

鳥の体重と翼面積の比をそのまま人間に置き換え、人の重さに見合った翼面積の翼を作ろうとした場合、

鳥と比べて人間は重いですから、うんと大きな翼にしないといけないのはすぐ分かるとして、

仮に翼の長さを4倍にしたとすると、翼面積は16倍、そして翼の重さは64倍になります。

翼そのものが三乗倍に比例して重くなるため、その分を補うためにさらに大きな翼が必要になり、

結局すんごい大きさの翼にしないとならなくなるのです。

人が如何に上半身を鍛えようと、ある程度の速さで動かすことのできる翼の大きさには限度があります。

鳥が非常に高度で複雑な羽ばたきであの翼面積に切り詰めていることも相まって、

単に翼面積の比を人間に移し替え、巨大な翼を必死にバタつかせた程度で飛べるわけがないのです。

創造主の意図をきちんと理解せずに形だけ模しても駄目ということです。

 

分離か羽ばたきか

上述の通り、空を飛ぶことを夢見た先人たちの多くは鳥と同じように羽ばたいて飛ぼうとしました。

この発想自体は非常に自然なもので、オイラが当時の人間なら、オイラもきっと必死にバサバサしたはずです。

しかしそこに大きな落とし穴がありました。

どんなに鳥の羽ばたきをマネしても、どんなに鳥の翼っぽく形を工夫してもちっとも飛ぶことができないため、

しまいには、「鳥の羽には何か不思議な力があるのではないか」と考え、

オカルト方向に迷い込んでしまった人もいたのだとか。

それとは対照的に、世界で飛行実験に成功した人たちも、そして忠八も、

鳥が羽ばたかずに滑空している瞬間に着目しました。

「羽ばたかなくても飛んでいる」ということに気が付いた彼らは、前進するための機構を別に考えることにします。

そして忠八はカラス型模型飛行器で最初から、揚力は翼で発生、推力はプロペラで発生、と分離を行いました。

 

実は羽ばたき機の実験は小規模ながら今日に至るまで続いており、かなり大きな羽ばたき機の模型が離陸したり、

昨年にはカナダトロント大学の航空宇宙研究所が人力の羽ばたき機の飛行に極めて限定的ではありますが成功しています。

実際にこうした例がありますので、羽ばたき機の可能性を否定するつもりはありませんが、

これは羽ばたきのメカニズムの解明、軽くて丈夫な素材の開発、設計、加工技術がずっと進んだ現代だからこその話で、

当時の技術レベルでは推力にプロペラを使った方がよっぽど簡単に飛行を実現できました。

当時飛行に成功したのはいずれも忠八と同じくこの分離方式でした。

これは実に画期的な事で、翼は羽ばたかずに済むことになり、揚力の発生だけに専念すればよくなります。

一度知ってしまえばコロンブスの卵ですが、「羽ばたかなくても飛んでいる」という部分に着目し、

多くの先人たちがつまずいてしまったところを回避したのはすごいことだと思います。

 

玉虫型飛行器の翼の問題

しかし、翼を固定して揚力だけを発生させることにしたまではよかったのですが、

カラス型の成功を受け、続けて製作した玉虫型飛行器の方は、形を模すのにこだわり過ぎたせいなのか、

その羽は正面から見ると大きく波打っています。

この形状は揚力を発生させるのに大きなロスになってしまいます。

効率の悪い翼で必要な揚力を発生させるには、その分速度を上げるか、速度を犠牲にして迎え角を大きくとるか、

なのですが、いずれにしろ出力が余計に必要です。

忠八はライト兄弟初飛行から4年後か6年後に開発を断念したと考えられるのですが、

断念した時点でその機体は枠組だけで、エンジンは強力なガソリンエンジンを自作しよう。という構想止まりでした。

忠八は必要馬力を12馬力と算出しており、この値は奇しくもライト兄弟のフライヤーと同じです。

実はライト兄弟飛行百周年を記念してフライヤーの復元機が作られたのですが、復元機は離陸すらできず、

これは出力不足が原因だと言われています。

そのためライト兄弟が飛行に成功したのは当日の強風と、

それをものともしない兄弟の操縦技術のおかげだという見解もあるのだそうです。

 

フライヤーの翼は風洞実験を繰り返し、極めて科学的な手法で効率の良い翼形を追及したものです。

それでも12馬力ではギリギリやっと飛んだ。という状態でした。

とすると、効率の悪い翼の玉虫型飛行器に仮に12馬力のエンジンを付けることができたとしても、

その飛行が容易ならざるものになるであろうことは想像に難くありません。

同じ12馬力を発生させるにしても、航空機用エンジンは信頼性と軽量が厳しく求められるのですが、

当時の日本はエンジン分野でも欧米と比べて大きく立ち遅れていました。

忠八は飛行器が偵察機として活用できることを軍にアピールするつもりだったようですが、

偵察機なら敵地まで飛んで(そこで降りることなく)、きちんとUターンして戻ってこれなくてはなりません。

旋回するためには更に余分な出力が必要ですから、やっぱり少々飛び上がれる程度ではダメなのです。

 

1903年ライト兄弟初飛行の時点で、そして忠八が開発を中止してしまった時点で、

忠八の飛行器がとても飛べるものでなかったのは事実です。

エンジンはありませんでしたし、仮にエンジンがあったとしても、後の復元機から明らかな通り、

空力的に飛べるものではありませんでした。当然飛行訓練もしていません。

それでも、忠八の研究が卓抜したものであったことには変わりなく、

1964年には英国王室航空協会から、「ライト兄弟よりも早く飛行原理を発見した」と認められました。

ライト兄弟の兄ウィルバーは1867年4月産まれ。忠八は1866年6月産まれ。

遠く離れた東洋の島国で自分と年齢の似通った人物が独力で飛行機開発を行っていたことを知ったら、

ライト兄弟はどう感じたのでしょうか。

(続きます)


この記事の資料
ライト兄弟のひみつ
   
二宮忠八小伝
よくわかるヒコーキ学入門


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二宮忠八飛行館 [├場所]

   2010年11月訪問 2020/9更新  




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香川県‎仲多度郡‎まんのう町‎に道の駅「空の夢もみの木パーク」があり、その隣に「二宮忠八飛行館」があります。

当地は1889年、23歳の二宮忠八が滑空するカラスを見て飛行原理を発見した記念すべき場所です。 

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開館と同時に入ったのですが、見学者は結局最後までオイラ1人でした。

オイラ以外に見学者がいなかったからだと思うのですが、カシャカシャ撮っていたら

スタッフの方から「照明落としましょうか?」と言われました。

とても親切な方でした。ありがとうございました。m(_ _)m

 

二宮忠八とライト兄弟で思いつくままにいろいろ書いてたらすんごい量になってしまったので別記事にしました。

明日から2記事に分けてアップ致しますので興味のある方は覗いてやってください。

例によってマニアックな記事なので興味のない方は引いちゃうと思います ^^; 


      香川県・二宮忠八飛行館      

二宮忠八飛行館 データ

運 営:まんのう町仲南支所
休館日:毎週水・木曜日、年末年始(12/29~1/6)
開館時間:10:00~16:00
入館料:一般300円(団体200円)、小人150円(団体100円)
所在地:香川県‎仲多度郡‎まんのう町‎追上‎358-1
座 標:N34°09′17″E133°49′20″
(座標はグーグルアースから)

関連サイト:
公式ホームページ    
空の夢もみの木パーク   


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詫間海軍航空隊跡地 [├空港]

   2010年11月訪問 2020/9更新  


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撮影年月日1948/03/31(USA M874 144) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

2013/8/26追記:詫間電波高校(当航空隊跡にできた学校)昭和33年卒のきんさんという方からこちら の記事にコメント頂きました。
「同級生が昨年母校を訪ねて記念碑を発見したこと そして 今夏 航空隊基地の取材記事がテレビ放送されたとのことで写真と手紙をくれました(中略)学校も寮も軍隊式で古臭くいい思い出はありませんが軍隊の航空基地だったことだけは わかっていました 入学当時 滑走路に降りてトンツーの練習したり上級生のシゴキを受けたり思い出いイッパイです なお 一昨年(2011年4月)高松市において五十数年ぶりの同窓会を開きまして百二十人中70人が集まり血気盛んおおいに盛り上がりました」
きんさん 貴重なお話ありがとうございました。


香川県‎三豊市‎詫間町にあった詫間海軍航空隊。

水上機の実用機教育隊として発足しました。

1944年9月、沖縄攻防戦に備えて横浜海軍航空隊から主力機がここ詫間に移り、

大型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になりました。

末期には特攻機の訓練、出撃も行われました。

現在基地跡は学校と工場になっており、スリップ(滑走台)が4つ残っています。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:詫間(水上基地) 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:100x50 3基 150x80コンクリート 主要機隊数:艇3.0 主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住(2.300㎡)指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型隠蔽20 小型無蓋17

また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「詫間空開隊(S18.6.1)(昭18建)」とありました。 

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赤マーカー地点。

跡地を見下ろす場所に碑、銘板と駐車場が整備されています。 

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詫間海軍航空隊跡(全文)
詫間海軍航空隊の建設は昭和十六年十一月に発表された。香田・和田内地域の突然の土地買収は住民にとって死活問題であった。また新浜に呉海軍軍需部詫間補給所が建設され、三地区で合計百三十六戸(買収面積約三十七町歩)が立ち退くことになった。移転にともなう労苦は筆舌に尽くし難いものであった。建設工事は呉海軍施設部が担当し、地元の勤労奉仕隊員を加えて官民一体で行われた。詫間空は昭和十八年六月一日に開隊され、水上機の実用機教育を担当した。主要配備機は九四式水上偵察機、二式飛行艇等であり、各地から二千余名の兵員が着任し、連日猛訓練が展開された。昭和十九年九月、横浜海軍航空隊は沖縄攻防戦に備えて主力を詫間に移すことになった。この時点で、ここ詫間は大型飛行艇隊を擁する水上機の一大作戦基地になった。昭和二十年四月二十五日、第五航空艦隊は決戦体制を整えるために、全飛行艇部隊を統合して実戦部隊詫間海軍航空隊を編成した。詫間空配備の二式飛行艇は高速性能のうえ大型レーダーを装備しており、米軍戦闘機と死闘を繰り返しながら、終戦の日まで第五航空艦隊の目となって活躍した。銀河爆撃機で米軍機動部隊をウルシー泊地に強襲した第二次及び第三次丹作戦では、長駆進撃路の天候偵察や特攻機隊の誘導で活躍した。これら作戦で二式飛行艇二十七機と二百五十名の精鋭を失った。昭和二十年二月十六日、全小型機による特攻訓練の実施が発令された。詫間空では、水上偵察機による神風特別攻撃隊琴平水心隊を編成した。同時期、茨城県北浦・鹿島両海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊魁隊が詫間空に進出、両隊は猛訓練の後、鹿児島県指宿を前線基地として沖縄周辺の艦船に体当たり攻撃を敢行した。指宿では先行した整備員が発動機調整・燃料補給・爆弾装着等の整備に心血を注いだ上、断腸の思いで出撃を見送ったという。四月二十八日以降四次にわたる出撃で二十五機が米軍艦船に突入し五十七名の若者が沖縄の空に散華した。これら詫間空の戦闘を強力に支援したのは、第十一海軍航空廠詫間工場である。昭和十九年十月から詫間補給所の施設を利用して修理工場を建設し、基幹技術者に徴用工員・増川女子挺身隊員・女子年少工・観音寺商業と善通寺高女の動員学徒等を加えた約八百名の陣容で、各種飛行機の修理に精根を尽くした。被弾破損した飛行機を一刻も早く飛ばそうと、必死の思いで業務に邁進した若い力が、二式飛行艇を決戦の空へ飛ばし続けたのである。戦後五十有余年、詫間海軍航空隊跡地は国立電波高専と民間工場等に、十一空廠跡地は詫間中学校に転用され、わずかに水際四箇所のスベリと横穴式防空壕を残すのみとなっている。我が国今日の繁栄は祖国の防衛に殉じた将兵や多くの人々の犠牲に負うことを銘記し、再び戦争の惨禍が起こることのないよう、恒久の平和を念願して、詫間海軍航空隊跡を詫間町の史跡に指定する。平成十二年(西暦二千年)十一月 詫間町教育委員会

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道路をはさんで向かい側にある防空壕と碑。

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黄マーカー地点。

スリップ(滑走台)に下りてみました。

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      香川県・詫間海軍航空隊跡地     
終戦当時、残っていた二式大艇は167機中わずか4機。そのうちの1機がここから横浜の根岸飛行場を経由してアメリカに送られ、後日船の科学館を経て鹿屋に戻ってきました。(根岸飛行場、鹿屋については下記リンク参照)

詫間海軍航空隊 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:水上機飛行場
所在地:香川県‎三豊市‎詫間町香田‎
滑走台:150mx50m,(50mx50m)x3  「日本海軍航空史」(終戦時)より
座 標:N34°14′12″E133°38′14″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1941年11月 建設発表
1943年06月 建設。1日、詫間空開隊
1944年09月 横浜海軍航空隊から主力機移駐

関連サイト:
Wiki/詫間海軍航空隊       
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