徳島第二(市場)飛行場跡地 [├空港]
2010年11月訪問 2022/1更新
撮影年月日1948/03/04(USA M822-1 71)■
「徳島阿波おどり空港」は旧海軍の「徳島航空基地」だったのですが、
そこから西南西約28キロのところに「徳島第二(市場)飛行場」がありました。
滑走路は芝張りで、後述しますが現地の碑文によれば、戦後極度の食糧難から、飛行場跡を全力で元の田畑に戻しました。
上に貼った航空写真は、終戦から2年半後のものです。
画面真ん中東西方向に滑走路があったのですが、ほぼ見分けがつかなくなっていますね。
先頭のグーグルマップはこの航空写真から無理やり作図しました。
おおよそこんな感じではないかと。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:市場 建設ノ年:1945-6 飛行場 長x幅 米:1200x100芝張 主要機隊数:小型 主任務:退避 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 大阪
牧場 市場(第二徳島)
滑走路 一〇〇×一,二〇〇EW
縣郡村 徳島、阿波 市場村(ママ)
記事 既成(川西社)
青マーカー地点にある碑。
市場飛行場跡記念碑(一部抜粋)太平洋戦争末期、戦局が著しく悪化しつつあった時、軍はこの地に急拠、市場飛行場(徳島海軍航空隊第二基地)の建設を決定し、昭和二十年三月より四月にかけ当該地域住民のうち三十数戸には家屋取り壊しを、八十数戸には家屋明け渡しを命じた。突然の命令に住民は一時白失呆然となったが、お国の為ならとお互いに励まし助け合いながら、永年住みなれた我が家や田畑に愛惜の念を残しつつ、約五百人以上の人々が家無き人となり、親類縁者を頼って疎開した。これにともない軍は施設部隊を投入するとともに 市場町並びに隣接町村より勤労報国隊が 又学徒動員による奉仕隊が派遣され 田畑や除去家屋の宅地は滑走路や誘導路となり、同年六月には海軍航空隊が駐屯し訓練を開始、残余の農地も耕作は殆んど不可能となる。同年八月十五日終戦となる 戦後の国家には当該住民を救済する力も方策も見当らず、住民は戦後の極度の食糧難、物資不足と経済的インフレに耐えながら家屋の再建或いは軍靴に踏み荒らされた家屋の修理、滑走路などの田畑の復旧に全力を尽くした。長い年月を要したその労苦は誠に計りしれないものがある。ここに戦後五十年の記念日を迎えるに当り、この飛行場にかかわった人々の流した汗と涙の労苦を 今後永く記念するとともに永遠の平和を願い、町当局の絶大な御支援をいただき、往時の滑走路のほぼ中央にこれを建てるものである 平成七年八月十五日 市場飛行場立退者の会長 北岡忠以下、立退者の会役員、立退世帯名が並ぶ
赤マーカー地点。
田畑を潰して建設した飛行場でしたが、また元の姿に戻ったのですね~。
徳島県・徳島第二(市場)飛行場跡地飛行場跡地
滑走路は1,200mで完成したのですが、東側部分を延長して2,000mにする計画で、一部工事が進んでいました。
徳島第二(市場)飛行場 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:徳島県阿波市市場町興崎北分
座 標:N34°05′54″E134°17′29″
標 高:71m
滑走路:1,200m×100m(芝)
方 位:08/26
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年03月 住民に立退命令
06月 1日 第二徳島基地設営。訓練開始
戦後、滑走路は田畑に戻される
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
この記事の資料:
現地の碑
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 大阪警備府航空基地現状表」