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大日本飛行協会福岡飛行訓練場(元岡飛行場)跡地 [├空港]

   2011年5月訪問 2020/10更新   


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影年月日1947/03/22(昭22)(USA M180 41) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福岡県‎福岡市‎にあった「大日本飛行協会福岡飛行訓練場(元岡飛行場)跡地」。

大刀洗平和祈念館展示資料、WarBirds/元岡飛行場(下記リンク参照)によりますと、

福岡県の「福岡第一(雁ノ巣)飛行場」では、大日本青年航空団や海軍予備航空団による学生の飛行訓練も行っていました。

しかし、雁ノ巣飛行場は次第に国際空港として重要な飛行場となり、訓練に支障がでてきたため 

訓練用地を他に求めることになりました。

こうして「雁ノ巣飛行場」の南西約17km、同じく福岡市の西区に建設されたのが当飛行場です。

昭和16年、当地で飛行場が建設されました。

「九州の戦争遺跡」によれば、後に陸海軍の飛行兵、技術者の養成所と化したのだそうです。

そして戦後は水田に戻され、学校、宅地となり、現在に至ります。

跡地に建設された学校が「玄洋高校」(紫マーカー)と「元岡中学校」(青マーカー)で、

元岡中学校の辺りに飛行場の本部事務所、格納庫がありました。

戦後元岡中学校が開校した際、その建物がそのまま利用されたのだそうです(現在は新築されている)。

上の航空写真、矢印の辺りが元岡中学校、その北側が玄洋高校の辺りです。

 

実は当飛行場の敷地境界線が不明です。

場所を特定する情報としては、上記の通り二つの学校が建てられたこと、

そして「大刀洗平和祈念館」の展示資料によれば、東西500m,南北600m 草原の飛行場で、面積は33haとありました。

以上の情報と共に、

格納庫等諸施設は敷地の端っこに位置していると考えられること、

(次の記事で登場しますが)当飛行場の南西側に隣接する形で、後に海軍の飛行場が建設されたこと、

等考慮しつつ、当時の航空写真の地割を優先して線を引いたのが上のグーグルマップです。

これだと東西500m,南北670mで、しかも北東の角が少し欠けてしまうのですが、

面積はピッタリ33.0haでした。

多分、こんな感じだったのではないかと。

D20_0124.jpg

赤マーカー地点。


      福岡県・福岡飛行訓練場(元岡飛行場)跡地     
現在の中学校の体育館の位置にピットがあったのだそうです

福岡飛行訓練場(元岡飛行場) データ
設置管理者:大日本飛行協会
種 別:陸上飛行場
所在地:福岡県‎福岡市‎西区‎田尻
座 標:N33°35′07″E130°15′09″
標 高: 1m
飛行地区:東西500m,南北600m(草)
面 積:33ha
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1941年01月 工事
     12月 完成

関連サイト:
WarBirds/元岡飛行場  
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
大刀洗平和祈念館展示資料
「九州の戦争遺跡」


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ビードル号記念飛行 [├雑談]

以前の記事で、世界初の太平洋無着陸横断に成功した「ミス・ビードル号」の記事を書きました(下記リンク参照)。

1931年10月、米国人飛行家が操縦する単発レシプロ機「ミス・ビードル号」が青森県の淋代海岸を離陸、

見事米国ワシントン州ウェナッチに着陸した。というものです。

先日、報道関係にお勤めのコストさん から、

このビードル号の復元機が記念飛行を行ったという極秘資料(新聞)を送って頂きました。

 

太平洋横断に成功したビードル号はこの後すぐイタリア人医師の自家用機として売り払われたのですが、

1930年代にビスケー湾を飛行中に行方不明となり、大西洋に沈んでしまいました。

残念ながら記念すべき機体は失われてしまったのです。

それから時は流れ1999年、ウェナッチ市に「スピリット・オブ・ウェナッチ実行委員会(SOW)」が設立され、

ミス・ビードル号を復元し、当時と同じルートを再現飛行するという壮大なプロジェクトが計画されました。

このことは、ビードル号が縁で姉妹都市関係になった三沢市にも知らされました。

三沢市側では募金活動を行い、ビードル号復元の支援を行いました。

復元機は2003年4月中旬に完成、同年5月1日に初飛行を行いました。

…と、無事完成したところまではよかったのですが、再現飛行の方はといいますと、うまく進みませんでした。

当初再現飛行計画は、ライト兄弟のフライヤー号世界初動力飛行から100年目の2003年に予定されました。

ところがその後の世界情勢、事故、資金不足、準備等の問題から、延期に次ぐ延期となり、

再現飛行が実現できないまま今日に至っています。


一方三沢市では、「ビードル号に三沢市上空を飛んでもらおうではないか」ということで招致することに。

SOWはこの申し出を受け入れ、ビードル号は昨年船便で三沢市にやってきました。

この記念飛行には、 ウェナッチ、東ウェナッチの両市長、

そして当時の離陸を実際に目撃した方、記録達成に尽力した村長の子孫も招待。

そして8月18日に記念飛行が実現したのでした。元祖ビードル号が記録達成してから80年目のことでした。

9月4日の三沢基地航空祭の際にも飛行が予定されているのだそうです。 

SOW創設者は今回の記念飛行の際、「ビードル号の横断再現飛行は、日米両国のパイロットが実現できたらいい」と語りました。

ロマンですね~。

復元機は10月にはウェナッチに返還予定なのだそうです。

せっかく日本まで持ってきたんだから、そのまま飛んで帰ればいいのに。と思うんですけど、

実現は素人には考えつかないほどいろいろ大変ということなんでしょうね。

 

余談ですが、ビードル号が米国に向けて飛び立った三沢市淋代海岸の滑走路跡には、

ビードル号のレプリカが置かれていて、グーグルマップでもその真っ赤な機体をハッキリ認めることができました。

ところが現在グーグルマップ上にその姿を確認することができません。

恐らく3.11の影響だと思うのですが、その前から復元機が三沢市に搬入されていますから、

少なくとも今年の10月までは、ビードルは途絶えることなく三沢にいる。ということに。

 

実はこの「太平洋無着陸横断飛行」には日本人も挑戦しています。

ビードル号横断成功の1年後、3人の日本人飛行士による横断挑戦が行われたのですが、

残念ながら離陸後消息を絶ち、行方不明になってしまいました。

ビードル復元機による再現飛行とは別に、今回招致活動を行った三沢市の実行委員の顧問によれば、

「90、100周年の際に太平洋横断を行いたい」という計画があるのだそうです。

是非達成して欲しいものです。

 

関連リンク
Miss Veedol.jp(2013/3/3追記:絵しか表示されなくなってしまいました)  
ブログ内関連記事
(太平洋無着陸横断への挑戦/淋代海岸滑走路跡地)    


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小富士海軍航空隊基地跡 [├空港]

   2011年5月、2016年5月訪問 2020/10更新   



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1947年4月当時の写真(USA M271 56)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福岡県‎糸島市‎志摩小富士‎にあった「小富士海軍航空隊基地」。

前記事の「海軍航空隊玄界基地」の東約4kmに位置しています。

■アジ歴 C08011171100 引渡物件目録 小富士海軍航空隊(2)

に「小富士航空隊施設位置図1/3000」があり、先頭のグーグルマップはこの図から作図しました(下記リンク参照)。

同図には「滑空場坪数 約260,000㎡」とありました。

260,000㎡≒26haで、オイラの作図が25.4haなので、まあこんな感じではないかと。

■PUTIN様より当基地について情報頂きましたm(_ _)m
佐世保施設部担当の各飛行場について
件名:佐世保施設部管区航空基地緊急整備推進隊報告 の中で、
小富士基地
概位:現小富士空練兵場
工事概要:在来地盤ヲ整地 (ママ)圧シ飛行機隠匿場及組立場新設

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「小富士 工事中」とありました。 

舗装された滑走路はなく、草原の飛行場だったのだそうです。

■玄界基地の説明版の中に、「小富士海軍航空隊に弾薬庫を置く」という記述がありました。

お隣さんの同じ海軍同士融通していた。ということなのでしょうか。

DSC_0146.jpg

黄色マーカー地点。

県道54号沿いに碑があり、裏面に碑文がありました。

(全文)風雲急ナル大東亜戦下祖国防衛ノ念ニ燃エ決死報国ノ覚悟ヲ秘メタ若人ヲ集メ消耗スル航空戦力ノ補充ヲ目的ニ若鷲錬成ノ基地トシテ昭和十九年五月小富士海軍航空隊ヲ開隊終戦マデ甲十三期乃至十六期ノ各期予科練約五千名ヲ育成シタ当時十有余歳ノ学徒国難ニ殉ズル我ヲ措イテ他無シトノ悲壮ノ決意デ奮躍予科練ニ入隊シ青春ノ情熱ヲ傾ケ訓練ニ励ンダ然ルニ戦局愈々苛烈トナリ予科練教育ハ中止サレ夫々特攻基地ニ派遣サレタガ遂ニ戦運我ニ利ナク昭和二十年八月終戦トナリ小富士航空隊モ其ノ使命ヲ終ツタ思エバ富隊ノ歴史ハ僅カ二年ニスギナカツタガ我等ガ命ヲカケテ鍛錬シタ予科練魂ハ克ク戦後激動ノ試練ニ耐エ新日本発展ノ礎トナツタ我等ハ往時ノ予科練時代ヲ偲ビ茲ニ同隊ノ碑ヲ建立スル 昭和四十八年五月二十七日 小富士海軍航空隊出身者外有志一同

「九州の戦争遺跡」によれば、ここは江戸時代に開かれた干拓地で、昭和18年、突然海軍航空隊建設の話が持ち上がり、

住民は立ち退きを余儀なくされました。

昭和19年5月には正門のあった加布羅橋から裏門のあった相川地区までの東西2.5km、

現在の県道を挟む形で南北500mの範囲に航空隊施設と飛行場が完成し、

終戦までに約5,000名の予科練習生への教育訓練が行われました。

終戦とともに跡地は国有地となり、昭和25年に地元が買い戻し、入植者の手によって苦労に末、元の美田に戻しました。

現在航空隊の跡は唯一、道目木集落の西のはずれに衛生室だった建物が農家の倉庫として残っているのだそうです。 

DSC_0159.jpg

赤マーカー地点。

碑のところから飛行場方向

DSC_0144.jpg

黒マーカー地点。


      福岡県・小富士海軍航空隊基地跡      

小富士海軍航空隊基地 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福岡県‎糸島市‎志摩小富士‎
座 標:N33°33′37″E130°10′35″
標 高: 1m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1943年10月 用地買収通達、翌日から測量開始。水田を埋め立てて飛行場を作る
1944年05月 鹿児島海軍航空隊小富士分遣隊として発足
1945年   工事中。8月解隊
1950年   地元で買戻し元の美田に戻す

関連サイト:
アジ歴 C08011171100 引渡物件目録 小富士海軍航空隊(2) 
小富士海軍航空隊    
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29


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海軍航空隊玄界基地跡地 [├空港]

  2011年5月訪問 2020/10更新   


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1947年4月当時の写真(USA M271 58)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福岡県糸島市の船越湾に沿って漁村があり、かつてここに「海軍航空隊玄界基地」がありました。

後述しますが、「本土決戦に備えた最大の海軍秘匿航空基地」だったのだそうです。

・糸島市広報いとしま 2016年8月15日号 7p
・アジ歴 C08011077800 接収品施設目録 玄海航空基地

に図があり、先頭のグーグルマップはこの図から作図しました(下記リンク参照)。

目検討で作図してますので、かなり大まかなものです。

おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。

現地には碑、展示物等が整備されており、説明版がありました。

「玄界基地記念碑の説明」(全文)
第六三四海軍航空隊は本部を船越に置き、船越湾を水上飛行機の離着水路とし、本部周辺及び久家・香月の両地区に主要施設を配置すると共に、集落の民家、お寺等の施設を付帯設備並びに宿舎として玄界基地が開設された。また、対岸の松末、引津湾岸の岐志・新町から小学校、東貝塚更に小富士海軍航空隊に弾薬庫を置くなど、広い範囲に及んだ。沖縄航空戦が始まり、昭和20年4月6日から始まった菊水作戦には、この玄界基地から第六三四海軍航空隊の水上爆撃機瑞雲隊が沖縄周辺の敵艦船夜間攻撃を実施して、第五航空艦隊の作戦を支え、並行して零式水上偵察機が索敵哨戒の厳戒態勢をとっていた。沖縄の我が地上軍の組織的抵抗が衰え、敵が我が本土に迫るため「決号作戦」の準備が急がれていた。海軍総隊は、下令により零式水偵40機を第六三四海軍航空隊に配備し、水偵雷撃隊を編成させ、本土決戦には、水爆瑞雲隊との二隊の攻撃部隊をもって玄界基地からの突撃態勢をとった。昭和20年8月15日に終戦となり、戦闘部隊は解散となった。ここに、約60年の歳月を経て、玄界基地の存在が明らかとなり、地元三集落の有志が発起人となり、第六三四海軍航空隊の終焉基地であると共に、我が郷土の歴史を忠実に後世に伝える証とし、平和の尊さを語り継ぐ象徴として記念碑の建立を計画、地元中心に呼びかけてご賛同を得ると共に、広く玄界基地在隊者を始め、海軍関係者及び一般賛同者による全国からの浄財を得て、ここに完成の運びとなった。平成15年8月 海軍航空隊玄界基地記念碑建立発起人会

場所が場所だけに終戦直前まで非常に生々しい動きがあったのですね。

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説明板より:海軍レール
昭和20年 玄界基地で使用したレール 全長5メートル 水上飛行機の陸上格納に使用したレール。
「レール式陸揚装置」と呼び、基地全体で5線設置した。なお、陸揚装置は、ほかに「板敷式陸揚装置」4線を設置した。

「九州の戦争遺跡」に当基地について次のように記されていました。

当基地は、零式水上偵察機・瑞雲水上爆撃機合わせて107機、兵員は981名に及ぶ国内最大の

水上機による特攻機地でした。

ここで訓練を受けた水上機は鹿児島県桜島基地、奄美大島古仁屋基地経由で沖縄戦に出撃し、

搭載した魚雷で特攻を行い、20機37名が戦死しました。

その後も水上機による特攻が行われる計画でしたが、終戦により基地は閉鎖、兵員は全員帰郷しました。

元隊員の証言によれば、ここが基地に選ばれた理由は、水上機の離着水の際、風や波の影響を受けにくい水面であること、

水上機や物資の陸揚げの際、干潟にならない砂浜であること、「秘匿」の名の通り、水上機を隠す松林や山裾があること、

民家を宿舎や施設に使用できる規模の集落があること、輸送上鉄道の駅からあまり遠くないということがあったのだそうです。

基地設置とともに、船越集落と隣の久家集落の民家・旅館・寺院などを士官、兵員などの宿舎、事務所として借り、

その他両集落の神社境内には天幕を設置し、兵員の宿舎や物資の保管、整備場などに使用しました。

この基地は隊門はなく出入り自由で、また住民と兵員の交流も盛んだったのだそうです。

基地の痕跡として久家の老松神社境内北側には、

基地の烹炊所として使用されたレンガ造りのかまど跡が残っているのだそうです。


      福岡県・海軍航空隊玄界基地跡地      

海軍航空隊玄界基地 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:水上飛行場
所在地:福岡県‎糸島市‎志摩久家‎
座 標:N33°33′22″E130°07′41″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1945年03月 開設
    08月 解隊

関連サイト:
糸島市広報いとしま 2016年8月15日号 7p 
アジ歴 C08011077800 接収品施設目録 玄海航空基地 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の説明版
「九州の戦争遺跡」 


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北部九州旅行・3 [■旅行記]


Ⓐ基山SA→Ⓑ海軍航空隊玄界基地跡地→Ⓒ小富士海軍航空隊基地跡→Ⓓ大日本飛行協会福岡飛行訓練場跡地→Ⓔ福岡海軍航空隊跡地→Ⓕ今宿海軍飛行場跡地→Ⓖ大刀洗南飛行場跡地→Ⓗ大刀洗平和祈念館→Ⓘ大刀洗北飛行場跡地→ⒿⒶ高良台離着陸場→Ⓑ筑後陸軍(岡山)飛行場跡地→Ⓒ目達原飛行場→Ⓓ長崎航空機乗員養成所跡地→Ⓔ島原海軍飛行場跡地→Ⓕ長崎港(車中泊)

 

3日目

3:20 起床。

まず佐賀県唐津市に移動。

佐賀県唐津市の某所に滑走路があるかと思って探し回ったのですが発見できず。。。

その後福岡県糸島市周辺に移動。

この周辺には、玄界、小富士、福岡、今宿と、4つの飛行場跡地が固まっています。

その4つの中の1つ、「福岡海軍航空隊の飛行場跡地」については、「大体この辺り」ということは分かっていたのですが、

敷地も滑走路も明確な位置が不明で、遺構も残っていないようです。

「近くの公園に航空隊の碑がある」ということだけは分かっていたので、

周辺の公園を随分探し回ったのですが、発見できませんでした。

公園内におられた年配のご主人にお聞きしたりもしたのですが、

飛行場建設の様子は教えていただいたのですが、碑についてはご存じありませんでした。

残念なのですがこれ以上の探索は断念し、次に向かったのでした。

 

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次に「長垂海浜公園」にやって参りました。

ここに「今宿海軍飛行場跡地」があるのです。

ちょっと車を停めておくスペースが見つからなかったため、真面目にコインパーキング利用。

 

D20_0125.jpg

跡地の砂浜に向かう途中でこんな杭を見つけました。

「元寇防塁」

自宅に戻ってから調べてみたら、蒙古襲来に備えて石の防塁を築いていたのですね。まっったく知りませんでした。

そういえば、公園内には唐津街道からよく見える位置に何か大きな碑があったのですが、

「ヒコーキと無関係」と確認したところでスルーしてしまいました。

もしかしたらこれに因んだものだったのでしょうか。

 

海浜公園内での見学を終え、これで糸島市周辺の4ヶ所(のうち3ヵ所)見ることができました。

次に大刀洗に向かおうとコインパーキングから出ようとしたら、バーが上がらない。。。

なんで今回の旅行ではこう毎日トラブルが起きるのか。。。(;´Д⊂)

パーキング会社に連絡を入れ、係が来るのを待ちました。

待っている間に明日、福江島と中通島で借りるレンタカーの予約と記録つけ。

今度こそちゃんと約束守らないと。(`・ω・´)

20分後、係到着。すんなり出ることができました。

「北飛行場跡地」を見学し、「大刀洗平和祈念館」到着。

この記念館、今回の旅行で非常に楽しみにしてたのです。

記念館に着いたのは昼前だったのですが、昼食をとるのももどかしく館内へ。

この施設の方がみなさんとても親切で感じの良い方ばかりでした。

説明員の方がこれまたとてもいい方で、幾つか疑問点をお聞きしたのですが、

丁寧な説明を頂き、本当によく調べておられるなぁ、と感服したのでした。

教えて頂いた点は後日、各飛行場についての記事で反映させて頂きます。

 

説明員さんにお礼を述べ、館内に展示されている零戦三二型の撮影をしていると(館内ではこの機体のみ撮影可)、

ふいに見学者の1人のおぢさんから、「昔の戦闘機はね、格納庫に隠していたんだよ」と話し掛けられました。

ついうっかり「そうなんですか」と返してしまったのが運のつき。

教えたがりのおぢさんに捕まってしまいました。。。

昔の戦闘機のこと、自分が見に行ったドコドコの飛行場跡地や周辺施設のことなど、

機関銃のようにばーっと語り出しました。

その後おぢさんの話はヒコーキがなぜ飛ぶのかといった基礎的な話から、

いつの間にか海外旅行の話からご自身の輝かしい職歴へと移って参りました。

既に30分近く経っていますが、一方的なおしゃべりは一向に終わりそうにありません。

見知らぬ土地で見知らぬ人と話すのはいいのですが、

自分の興味のあること、自慢話だけを一方的に聞かされるのは辛いです。

そしてチョコチョコと事実と異なる内容が含まれています。

(お腹空いた。。。この後も今日中に行きたい所があるんだよなぁ。。。(〃´o`)=3)

オイラのリアクションは(もう勘弁して欲しい)オーラ全開のつもりなんですが、そんなことお構いなしです。

一方的に話を聞かされるのがどれだけつまらないことなのか知らないのでしょうか。そういう経験はないのでしょうか。

自分が楽しければそれでオッケーなんでしょうか。

(「すみません、予定があるので」とハッキリ言おうか)と思い始めた頃、

おぢさんの話が再びヒコーキに戻り、展示してある零戦三二型を指して言いました。

「翼端が真っ直ぐになってるでしょ? でも本当はね、零戦の翼端は真っ直ぐじゃなくて丸なんだよ。

これは復元の仕方が間違ってるね。こういう勘違いはよくあることなんだけど、

せっかく立派な施設なんだからさ、考証はきちんとしてもらわないと。

翼の長さも短過ぎる。これじゃあ満足に飛べないよ。復元がこんないい加減なことじゃ困るんだよなぁ。

だいいち遺族の方にも失礼でしょ? 覚えておいた方がいいよ。本当は真っ直ぐじゃなくて、丸。だからね。ふふふん。」

当ブログには大戦期のヒコーキに非常に詳しい方が何人も降臨されますので、

このおぢさんの説明は、モニターの前で「おっやぢぃぃ~!![むかっ(怒り)]って感じなんじゃないでしょうか。^^;

先刻の説明員さんたちの努力を否定されているようで、カチンときてつい言い返してしまいました。

「…あの、この展示機は三二型なので翼端は真っ直ぐで合ってるんですけど?」

展示機の側には詳しい資料本も自由に閲覧できるようになっており、

そこに書かれている三二型の翼形に関する記述箇所を示そうとしたのですが、

おぢさんは「…ハハッ」と引きつった笑みを浮かべると、クルッと背を向け、そそくさとその場を去ってしまいました。

オイラの周囲にもいますが、教えたがりの人って、自分が教わるのは死ぬほどキライなのです。

ついでながら翼の長さもこれで合ってますよ、おぢさん。

大人げない返しをしてしまいましたが、ようやく解放され、落ち着いて資料の見学再開。やれやれです。

 

2階の資料室には、福岡県内にあった飛行場の資料が展示されていて、

ネットで事前に調べてもまったく出てこなかった貴重な情報がたくさんありました。

一つ一つメモを取っていると、今朝散々探し回ったのに発見できなかった福岡航空隊の碑の住所情報があります!

そして、この福岡航空隊とは別に、名前だけ知っていた「元岡飛行場」が隣接していたことも判明!

糸島市周辺には4つの飛行場跡地があると思っていたのですが、実は5つだったのです。

早速福岡航空隊の碑と、新たに判明した飛行場を見に行きたいところですが、

残念ながら時間的に今から戻っている余裕はありません。

九州を出る前に最後にもう一度ここに寄ろう。

実は当館には翌月もお邪魔したのですが、その時にはもうこの資料展示はなく、

別の展示物に変わってましたので、今回はたまたまタイミングが良かったみたいです。

おぢさんとは館内でその後も何度か同じ場所に居合わせたのですが、もう二度とオイラに話し掛けてきませんでした。

 

その後、福岡県南部の高良台、岡山飛行場跡地、佐賀県の目達原駐屯地を見学し、

その後一気に長崎県の諫早と島原の跡地へ。

九州の方にとって島原は、水が綺麗で気候も温暖、人も暖かで、「是非終の住み家に」と考える場所なんだそうですね。

島原と言えば、雲仙普賢岳の大火砕流の災害が思い起こされます。

島原市側を走ったのですが、まるで火山島のようで、海岸に沿った僅かに平坦な部分に(それでも坂が多い)

人が住んでいる感じでした。

国道から間近に見上げる山は美しいのですが、これが噴火したら、と思うと確かに怖いです。 

島原の跡地に向かう途中、温泉を発見。

島原の跡地を見学したら、Uターンして再びここに戻ってきます。

ちょっと立ち寄って、ちゃんと営業していることと時間を確認。

日没が迫っていたので先に跡地へ。

18:30 本日の見学全て終了。車を停めさせてもらったスーパーでお弁当購入。

その後さっきの温泉に戻って入浴。

お風呂探しは、昨晩みたいに見つけるのに延々2時間彷徨うこともあれば、

こうやってタイミングよく見つかる時はすんなり見つかるんだよな~。

明日は長崎港7:40 発の船で福江に行きます。

ということで、今日のうちに港に向かうことにしました。

21:30 長崎港到着。

本当は港に向かう途中に道の駅、SA、PAがあれば車中泊したかったのですが、ありませんでした。

長崎港は県庁の近くにあって都心部なので、車中泊できそうな場所は簡単に見つかりそうにありません。

ターミナルの隣に立体駐車場があり、24時間2,880円なのですが、駐車券を離島に持っていき、

アレにナニすると1,440円になる。ということだったので、立体駐車場で車中泊することに。

こういう場所で寝るのは初めてです。

22:15 寝る


おやすみなさい。

 

(続きます)


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とり日記 [■ブログ]

現在弟とアパートで2人暮らしなオイラなのですが。

食事当番を決めて真面目に料理をしております。

1人暮らしの頃もあったのですが、その頃は真面目に料理なんてほとんどしませんでした。

自分以外にも食べる人がいると思うと案外真面目に作る気になるもんですね。

計量カップ、キッチンタイマーを駆使する弟とは対照的に、

オイラは時間も量もすべて目分量。レシピも見ません。(o ̄∇ ̄o)フフ

だって、「長い船旅では一流のコックより二流のコック」 って言うじゃないですか。

そう。オイラと弟は「兄弟船」という名の船に乗り、世間の荒波を(以下省略)

 

ところで。

先日、まだ酷暑続きだった頃の話なのですが、

冷蔵庫覗いたら、いろんな野菜が余ってました。痛んで廃棄は極力避けたいところです。

(この大量の野菜でナニ作ろうか。。。)

急に「実家で食べてたラタトゥーユが食べたい」と思い立ちました。

多分トマトを大目に入れて、カレー粉と麺ツユ入れればなんかラタトゥーユになるはず。

早速調理開始。

…。

なんとなくデキタ。

味見をしてみると、カレー粉が多すぎたらしく、

 

 

   「夏野菜のカレー」

 

になってました。

まあ、オシャレ[黒ハート]

 

 

おわし。


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入船町水上機基地跡地 [├空港]

   2011年5月訪問 2020/10更新  


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1/25000「福岡」大正15年測図・昭和4.11.30発行「今昔マップ on the web」より作成

 

前記事の海の中道の南側、福岡市中央区に入り江っぽくなっている場所があり、

かつてここが「入船町水上機基地」でした。

日本航空輸送株式会社の格納庫とクレーンがあり、定期便が飛んでいました。

ここの歴史は非常に古く、1925年に定期便の運航を開始しました。

4年後に当飛行場の北北東約7キロに名島水上飛行場(下記リンク参照)が完成するのですが、

それまでの間使用されていたようです。

上に貼った地図は大正15年(1926年)測図なので、水上基地として運用開始して間もない頃のものです。

当時はココが福岡港だったんですね!

 

■国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正15年」に、

「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」のページがあります(下記リンク参照)。

ここに当飛行場についての情報がありました。

管理人 川西龍三
種類 水上
位置 福岡県福岡市入船町456番地先水面
面積 250,000坪

■同じく「報知年鑑.大正16年」には、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕がありました(下記リンク参照)。

使用者 日本航空株式会社
種類 水上
位置 福岡市入船町
面積 約250,000坪の海面

面積の項目、「約250,000坪の海面」とあります。

これは82.6haに相当します。

これがどの程度の広さになるのかピンとこないので、

先頭のグーグルマップの入江っぽくなっている部分を囲ってみました(水色のシェイプ)。

これで8.84haなので、この8倍強の広さが入江の外側に設定されていたことになります。

D20_0093.jpg

船がたくさん浮かんでました。

      福岡県・入船町水上機基地跡地      

入船町水上機基地 データ
使用者:日本航空株式会社

種 別:水上飛行場
面 積:82.6ha(海面)
所在地:福岡県‎福岡市‎中央区‎港町
座 標:N33°35′48″E130°22′51″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1925年 大坂からの郵便物を主とする定期便開始
1929年 名島水上飛行場に移行?

関連サイト:
入船町水上機基地    
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ) 
ブログ内関連記事(福岡第二飛行場・名島水上飛行場)     


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西戸崎飛行場(博多航空基地)跡地 [├空港]

   2011年5月訪問 2020/10更新  


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撮影年月日1947/03/07(USA M105 57) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福岡県福岡市にある「国営海の中道海浜公園」。

戦時中ここに「西戸崎飛行場」がありました。

前々回の記事「博多海軍航空基地」のすぐ南西側に位置しています。

渡辺 洋二著「異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録」によりますと、「九州飛行機の専用飛行場」とありました。

 

「博多海軍航空基地」記事でもご紹介しましたが、

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」

で、次のように記載がありました。

位置:福岡県糟屋郡西戸崎 基地名:博多(水上陸上両基地) 最寄駅ヨリノ方位距離:西戸崎線西戸崎駅S1 建設ノ年:1939-10 飛行場 長x幅 米:900x700芝張 60x12木造 主要機隊数:小型練3.0 水小練3.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型無蓋58 其ノ他記事:陸飛行場ハ旧生産社所有ノモノ 

「海軍航空基地現状表」とある通り、この資料は東北~沖縄先島諸島に至る、

海軍の航空基地がズラリと並んだ一覧表です。

同資料に福岡県の海軍基地は7つ記載されているのですが、

当博多基地の最寄基地は、対岸の「福岡水上基地」になっていて、

前々回の記事の「博多海軍航空基地」は含まれておりません。

別資料なんですが、「航空関係-航空基地-115 海軍航空基地位置図」には、

「博多航空基地」と題する 5万分の1の青図があり、ちょうど上に貼った航空写真のような感じで、

「博多海軍航空基地」と西戸崎の周辺を含む地図でした。

確認できる資料が限られているため、飽くまで個人的な推測なんですが、

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」の

「其ノ他記事」 の項目に「陸飛行場ハ旧生産社所有ノモノ」とある通り、

「九州飛行機の専用飛行場」だった陸上飛行場が後に海軍基地となり、 

「博多海軍航空基地」と一まとまりになって、「博多航空基地」を構成するようになったのではないかと。

 

無題t15.png S11.png

「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」には、

最寄駅ヨリノ方位距離の項目で、「西戸崎線西戸崎駅S1」とあります。

また、飛行場の項目では、「900x700芝張」とあります。

すぐ上に並べて貼ったのは、「今昔マップ on the web」から切り取ったもので、

左が大正15年、右が昭和25年のものです。

西戸崎駅の南側は、大正時代から引き込み線?が張り巡らされていたんですね。

西戸崎駅から南に700m強で海岸に達してしまうのと、駅の南側は戦前から線路だらけのため、

ここに900mx700mの飛行場があったとは思えません。

それでも前述の5万分の1の青図では、「博多海軍航空基地」と共にこの場所が台形っぽい形で囲われています。

ここに何があったかは記されていないのですが、当時はここが航空基地の施設中枢だったのでしょうか。

 

そんな訳で、資料にある900mx700mの芝の飛行場は、西戸崎駅南側ではない別の場所にあると考えました。

で、上に貼った1947年の航空写真から、濃い植生の部分を避け、飛行場になりそうな更地部分を、

先頭のグーグルマップに赤線で囲いました。

そしてこの赤線の範囲に900mx700mの大きさをあてはめたのがグレーのシェイプです。

赤線の範囲内になじませたため、厳密に900mx700mではないんですが、

おおよそこんな感じになります。

資料がないため、まったくの想像でしかないんですが、

陸上飛行場はおそらくこんな感じだったのではないかと。

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公園内。

パターゴルフ場の様子。

この1枚だけのために駐車料(500円)を払い、入園料(400円)を払い…(;´Д⊂)


      福岡県・西戸崎飛行場(博多航空基地)跡地      

西戸崎飛行場(博多航空基地) データ

設置管理者:九州飛行機→海軍
種 別:水陸両用飛行場
所在地:福岡県‎福岡市‎東区‎西戸崎‎
座 標:N33°39′27″E130°21′03″
標 高:5m
陸上飛行場: 900mx700m(芝)
スリップ:60mx12m(木造) 
(座標、標高はグーグルアースから)

関連サイト:  
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料「航空関係-航空基地-115 海軍航空基地位置図」


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甲子園紀行 [■旅行記]

(九州強化月間の途中ですが、先週の水曜日妹夫婦に誘われてまた甲子園に行って来たので、その時の記事を割り込ませます)

 

オイラが観戦する前日の火曜日は、地元埼玉県、そしてオイラの心の故郷、沖縄県が出場することになっており、

(見に行くのが前日だったらよかったのに・・・)とか、

台風が接近中だったので、(台風で試合日程が狂って沖縄戦が観れたらいいのに・・・)などと傍迷惑なことを考えていました。

ところがフタを開けてみれば、この日は埼玉も沖縄も揃って初戦敗退という暗黒火曜日だったのです。

オイラの今年の夏は終わりました。

やっぱり見に行くのが翌日でよかった。

 

自宅から甲子園に行くのに一番安上がりなのは、地元駅から深夜バスに乗る方法(片道8,000円)なのですが、

甲子園観戦から戻ったら、三日間の研修が控えており、遅くとも夕方には自宅に戻らないといけなかったので、今回バスは×。

後は、新幹線、ヒコーキ、高速なのですが、これらは割引を利用するとほぼ同額(片道約15,000円)です。

高校の修学旅行以来、新幹線はご無沙汰なので久々に乗ってみようか。とも思ったのですが、

ここはブログ的にヒコーキを利用することにしました。

ヒコーキに乗るのは、スターフライヤー羽田~北九州間を利用して以来、ほぼ2年ぶりです。

こんなブログやってる割に全然ヒコーキ乗ってないですね ^^;

因みに。

調べてみたら、JALを利用するのは沖縄の離島を回って以来4年半ぶりでした。

 

4:15 自宅を出ました。

前日埼玉県熊谷市は38℃。オイラの地元もほぼそんな感じ。

本日の最低気温は確か29℃。早朝にも関わらず、ドアを開けるとムワッと熱気が。

徒歩で最寄りの駅に向かいました。ここから羽田行きのバスに乗るのです。

駅に着くと、薄暗い中たくさんの客が列をつくっていました。

流石夏休みだけあって小学生の子も数人いて、既にテンションMAX!! (゚Д゚;≡;゚Д゚)

どうやら今日初めてヒコーキに乗るようです。

こんな早朝から家族でバスに乗って羽田空港へ。

何もかもが初めてのワクワクドキドキ感。懐かしいな~。

 

レインボーブリッジの所で初めてナマスカイツリー見ました。霞んでましたけども。

5:45 定刻より少し早く羽田到着。

6:35発の伊丹行きJAL101便に搭乗。

機内に入ると、窓のシェードが全て降ろされてました。

エコの一環でこんなことするんですね。初めて知りました。

「準備はすべて整っておりますが、あと1人お客様をお待ちしております」とのことで定刻より5分遅れでプッシュバック。

 

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ドリンクサービスのCAさんから、「いつもご利用ありがとうございます^^」。 と爽やかな笑顔で言われました。

い、いやぁ、それほどでも (///∇///)

 

7:30 伊丹空港到着。

出発は遅れたのですが、到着は少し早かったです。

伊丹空港から甲子園行のバスがあります。

妹夫婦とは甲子園前のダイエーで9:45集合だったので、9:00発のバスに乗ればOK。

ということで切符を購入し、バス停を確認後、展望デッキに上がったのでした。

 

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 ↑オイラが乗ったヒコーキ。

 

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伊丹のデッキは本当に緑豊かで、セミがもーワンワン鳴いてました。 

気温は既に30℃を超えているはずなのですが、デッキには木陰があって、風も吹いていて、心地よかったです。

9:00 のバスに乗って甲子園へ。

予定では9:30頃には球場に着けるはずだったのですが、高速道路の自然渋滞と球場周辺の混雑で、

到着は20~30分遅れるとのことでした。

ところがその後渋滞は解消して、おおよそ予定通り到着したのでした。

甲子園前のダイエー入口で妹夫婦待ち。

甲子園は再入場不可なので、まずはここでいろいろ買い込んでから入場しますのだ。

ダイエー入り口でじっと待っていると、周辺には同じくダイエー10時開店待ちの人が増えてきました。

飛び交う関西弁が心地いい。なんだか聞いているだけで元気になってくる感じです。

その後妹夫婦と合流し、ダイエーで買い物を済ませて球場へ。

ビールも忘れずに購入。

球場はビンカン持ち込み禁止なのですが、移し替え用の大きな紙コップがもらえるので安心です。

 

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「ケガするからキャッチの時、利き手は絶対後ろ」と習ったのですが。そうじゃないケースもあるんでしょうか?

 

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最初薄曇りだったのですが、徐々に青空になっていきました。

前日天気予報をチェックしたら、この日大阪の最高気温は35℃となってました。玉のような汗ダラダラ。

約6時間炎天下ジッとしていたのですが、遊びだと不思議とそれほど苦になりません。

試合後、漫喫に避難していた妹と合流してホテルへ。

荷物置いて、シャワー浴びて、タクシーで心斎橋へ。

ビールうめーーーー!!!!

「飲み放題行くから」と聞かされていたので、1時間前から水分自重していたのですが、

無類の酒好きのアニキは、午後の試合中からアルコールを自重するという気合の入れようで、

甲子園観戦後だけにすんごいピッチで呑んでました。(うまいこと言った)

ここでお肉のコース料理というものを初めて食べました。

写真を撮ってみたのですが、店内は薄暗く、且つフラッシュを焚く雰囲気でなかったため断念しました。残念。

 

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↑ 1枚だけコンデジでフラッシュ焚いて撮っちゃった写真。

ここは居酒屋チェーン店より少し格式の高いお店なのですが、

着物姿の仲居さんとお客さんの間がすごく近い。ポンポン冗談のような会話が続きます。

〆はなべ物のスープでラーメンだったのですが、

「コラーゲンたっぷりですよ~。私のエキスも入ってますから。よく味わってたっぷり飲んでくださいね~。

明日の朝はプルプルですよ~」という感じ。 大阪だな~。(o ̄∇ ̄o)

「私のエキスも入ってますから[黒ハート]」なんて言われて、一体何て返せばいいのかしらん。

当ブログをご覧の百戦錬磨の皆様、是非気の利いた返しを教えてください。

 

しこたま呑み、コース料理を堪能し、 すっかり満腹状態でゆるゆると歩いて道頓堀へ。

陽はすっかり落ちましたが、まだまだサウナのようにもわっとしてます。

道頓堀の欄干に手をかけると、まだ熱が残ってました。

 

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セツデンですねん。

すっかり遅い時間だというのに、通りは人人人。活気に溢れていて、不景気とはとても思えない勢いがありますねん。

雑多な店が並んでいますが、タコヤキ屋が多いのがやっぱり大阪。

間口の狭い店先でお兄ちゃんお姉ちゃんがタコヤキを焼いてます。

そんなタコヤキ屋の一軒に入りました。

3つ4つ椅子の並ぶカウンターと壁に挟まれた狭い通路を体を斜めにして奥に入ると、

4人掛けのテーブル1つとイスでもういっぱいというスペースが。

縮こまるようにして席に収まると、お兄ちゃんが注文取りに来ました。

「サワーとタコヤキのセット」といういかにもなメニューを注文。こんなセットがあるのが面白い^^

壁一面にベタベタと貼られたメニューなど眺めていると、さっき注文を取りに来たお兄ちゃんが、

「テレビ、好きなの観てくださいね~」リモコン持ってきました。

「今、ボクシングやってますよ。サッカーはさっき終わったばっかり^^」

妹:「サッカー、ドコとの試合だったんだろ?」

オイラ:「Σ分かった! きっと、なでしこジャパンだよ!」d( ̄∇ ̄*)バクショウノヨカン

すると、今の今まであんなにノリのよかったお兄ちゃんが急に真顔で踵を返し、そそくさと立ち去ったのでした。

(アレ? リアクション薄いなぁ???) そんなオイラを待っていたのは、妹夫婦からの非難の集中砲火でした。

「ダメだよ、大阪でそんなサムいこと言っちゃ!」

「きっと、『なでしこはないわ~』と思ってるよ!」

うぅ、大阪のお笑いの厳しさを味わったっす。。。_| ̄|○ il||li 

 

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その後ホテルに戻ったはずなのですが、アルコールのせいなのか、

はたまた大阪のお笑いの厳しさを味わったショックのせいなのか、

その後のことはよく覚えてません。

 

翌日。

この日も甲子園観戦の妹夫婦と別れ、上本町駅からバスで伊丹空港へ。

 

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復活後、初ナマ鶴丸。

以前の鶴丸と字体が違うので微妙に印象が異なります。

以前の鶴丸→    

 

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時間になったので搭乗口へ。

東京モノレールは羽田空港から浜松町まで470円なのですが、

「モノレールと山手線込みで500円」という切符を売っていたのでゲット。

使用滑走路は定番のR/W32L。離陸後ぐーっと旋回し、一度空港上空に戻ってから羽田に向かったのでした。

 

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「本日着陸に際し、揺れはございません」。

機長の断言通り、全く揺れることなくR/W22に着陸。

ということで自宅に戻り、休む間もなく明日からガッツリ三日間研修のためホテルに向かったのでした。

とりとめのない記事にお付き合い、ありがとうございました。m(_ _)m

 

(次回からまた九州強化月間に戻ります)


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博多海軍航空基地 [├空港]

    2011年5月訪問 2020/10更新  


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撮影年月日1948/04/07(USA R236-No2 64) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前記事の福岡管制部からさらに少し西に行った所にある「海の中道マリーナ」、「マリンワールド海の中道」。

かつてここは「博多海軍航空基地」でした。

海軍水上機の最終訓練基地だったのだそうです。

1948年の写真(下記リンク参照)と比較すると、海岸線はほとんど変化していないようです。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

位置:福岡県糟屋郡西戸崎 基地名:博多(水上陸上両基地) 最寄駅ヨリノ方位距離:西戸崎線西戸崎駅南1 建設ノ年:1939-10 飛行場 長x幅 米:900x700芝張 60x12木造 主要機隊数:小型練3.0 水小練3.0 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型無蓋58 其ノ他記事:陸飛行場ハ旧生産社所有ノモノ

資料の中で、 「水上陸上両基地」とか、「陸飛行場ハ」とか、非常にきになるワードが出てきます。

これについては、次の次の記事 で。

また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「博多空開隊(S15.11.15)(昭14建)」とありました。 

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      福岡県・博多海軍航空基地飛行場跡地      

博多海軍航空基地 データ

設置管理者:旧海軍
種 別:水上飛行場
所在地:福岡県‎福岡市‎東区‎西戸崎
滑走台:60mx12m
座 標:N33°39′45″E130°21′52″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1939年    建設
1940年11月 15日、博多空開隊
       戦後GHQが進駐して「ハカタ・エアフォース・ステーション」と呼ばれる

関連サイト: 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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