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旧小倉陸軍造兵廠の防空監視哨跡 [├場所]

   2011年5月訪問 2020/10更新    


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1947年3月の写真(USA M122 78) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

前記事の「小倉北区魚町の防空監視哨」 の西側、紫川の対岸にあった「小倉陸軍造兵廠」。

昭和8年から昭和20年まであった、作業員約4万人を擁する西日本最大の兵器工場でした。

そしてその遺構がいくつか残されています。

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赤マーカー地点。

「健和看護学院」の建物南側に沿って遺構が展示されており、説明版がありました。

上の写真、見難くて申し訳ないのですが、手前から監視哨、造兵廠記念碑、給水塔レプリカです。

給水塔のレプリカについてですが、大手町公園の西側の丘の上に高さ14mの給水塔が設けられていたのですが、

平成7年に解体されのだそうです。

「小倉造兵廠跡」(全文)
 大正12年(1923)の関東大震災により、わが国の兵器生産機能を大阪と二分していた陸軍造兵廠東京工廠は壊滅しました。震災復興より新設したほうが経済的なことから、当時の大陸政策も考慮し、関門が大陸の進出基地としての地政学的意義を負うことにより、昭和2年(1927)10年24日、小倉に工廠設置が決定し、同8年(1933)10月正式に発足しました。設置場所は、旧城内ならびに隣接の民有地2万300坪を買収し、敷地面積17万6581坪でした。小倉工廠は当時の最新機械で装備され、就業者は普通工、臨時工を合わせて約4万人を数えたといわれています。昭和10年(1935)には、東京工廠からの移転が完了し、間もなく日中戦争に突入したことにより、操業は増大していきました。兵器生産の大工場が都心部を占めることによって、小倉は軍隊の駐屯地を兼ねる軍需都市となり、大陸に向けての補給基地としての機能を拡充していきました。昭和15年(1940)4月、陸軍造兵廠が陸軍兵器本部に改組され、小倉工廠は小倉造兵廠に改称し、兵器本部の直属となりました。

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旧小倉陸軍造兵廠「防空監視哨」(全文)
 この監視哨は、戦時中、空襲に備えるために、旧小倉陸軍造幣廠内の各所に設置されていたものの一つで、第一施工場の屋上にあったものです。(この場所から北側約400mの北九州市消防局庁舎附近)高さ約2.3㍍、直径約2.4㍍、コンクリート製の壁の厚さは、33㌢の六角形の塔で、側面には、監視用の小窓が5ヶ所あり、機関砲を備えていました。民間の倉庫として使われていた旧第一施工場が、平成8年(1996年)2月に解体される際、当時を物語る施設の一部として残されたものです。北九州市

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黒マーカー地点。

事前に響さんの記事 を拝見していて、是非見てみたかった「壁に塗り込まれた階段」。

近くのマンションの駐車場一角にあります。これも造兵廠の名残だそうです。

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紫マーカー地点。

跡地内に整備された勝山公園内にこんなものもあります。

長崎に投下された原爆は、本当は造兵廠があった当地小倉が第一目標地点でした。

ところが当日小倉上空の視界がきかず、第二目標の長崎に投下されたのでした。

「九州の戦争遺跡」によれば、なぜ原爆まで使用して、小倉市街もろとも造兵廠を壊滅しようとしたかについて、

「北九州平和資料館をつくる会」の話として、

小倉陸軍造兵廠ではアメリカ本土まで飛来して被害を与えた「風船爆弾」の材料を作っており、

これに毒ガスや細菌兵器を取り付けて攻撃されることをアメリカが恐れていたためであった。

としているのだそうです。

      福岡県・旧小倉陸軍造兵廠の防空監視哨跡      

旧小倉陸軍造兵廠の防空監視哨 データ

所在地:福岡県‎北九州市‎小倉北区‎大手町‎
座 標:N33°52′30″E130°52′16″
(座標はグーグルアースから)

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この記事の資料:
現地の説明版
「九州の戦争遺跡」


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