大刀洗南飛行場跡地 [├空港]
2011年5月訪問 2022/1更新
(昭和10年3月撮影)高度300米 方位NW 距離1,200米
1935年(昭和10年)11月調査資料添付地図
Translation No. 19, 20 December 1944, airways data; Kyushu Chiho. Report No. 3-d(15), USSBS Index Section 6■ (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
1947年11月(USA M664-1 102)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
福岡県朝倉市にあった「大刀洗南飛行場」(大刀洗飛行場)。
■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日
に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
判決
自重七屯以下の飛行機の使用に適す
飛行地区
滑走地区 一三〇〇x一五〇〇
舗装路 なし
土質 砂貭壊土
地表面の状況 表面張芝にして地耐力稍可
周辺障碍物の有無 飛行場より北西一粁に□八二高地あり
付属地区
誘導路 二〇〇〇x十五
宿営 三角兵舎三棟 家屋一棟あるも収容力なし
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 なし
給水 (記載なし)
其の他
風向 北西(恒風)
両者には1ヵ所だけ差異がありました。
・判決:「自重七屯以下の飛行機の使用に適す」→「自重12頓以下の飛行機の使用に適す」
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 太刀洗
位 置 福岡県三井郡太刀洗
規 模 要図(東西1,150 南北1550 北西-南東2000)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 六〇〇名分
格納施設 掩体 大三〇ヶ所 小三〇ヶ所
摘 要 施設軍有
当飛行場は非常に有名なだけあり、様々なサイトで紹介されていて、内容もとても充実しています。
有名処の飛行場は詳しい記事を作る意欲がなくなる天邪鬼なオイラ。。。
ということで、この記事では極力他サイト様に載っている以外の内容を書きました。
また、当記事作成には大刀洗平和記念館の資料、説明員様から教えて貰ったり情報を使わせて頂いていますm(_ _)m
当飛行場は1919年完成で、陸軍の飛行場としては4番目に作られた非常に古いものです。
(1.埼玉県所沢 2.岐阜県各務原 3.滋賀県八日市)
大陸、南方方面に対する中継基地としての地理的条件から九州に建設が決定されました。
(当時のヒコーキの航続距離は約600kmだった)
また具体的な場所選定の条件として、
1.敵艦からの砲撃を避けるため、いずれの海岸からも40km以上離れていること
2.飛行に障害のある山がなく、十分な平野であること
3.風向きが一定で気候風土が飛行に適していること
4.用地取得が容易であること
が挙げられ、当地に飛行場が建設されることになりました。
2~4は飛行場用地としていつの時代も変わらずあてはまる条件だと思いますが、
1番目の条件は如何にも軍用飛行場ですね~。
パイロット養成校になったのですが、当初は「熊谷分校」として発足しました。
その後本校となり、関西以西と朝鮮の各地に18の分校を作りました。
説明員さんによりますと、「有名な知覧基地も当校の分校だったんだよ(エッヘン)」だそうです。
そして本校、分校合せて全国の陸軍飛行士の2/3を養成したのだそうです。
また当飛行場周辺には航空機工場、航空教育隊、技能者養成所、航空廠等諸施設が集まり、
東洋一と謳われた一大航空拠点となりました。
九州飛行機では一万人が働き、月産100機態勢だったのだそうです。
そして当然の如く末期には攻撃目標となり、計7度の空襲を受けます。
特に1945年3月27日には74機のB29が、そして3月31日には106機のB29による大空襲があり、
この2回の空襲で基地は事実上壊滅したのでした。
この時の空襲では周辺の民間人、幼い子供たちも多数犠牲になりました。
飛行場跡地中心部はこんな感じ。
説明員の方によりますと、滑走路のない原っぱの飛行場だったのだそうです。
アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、福岡縣朝倉中學校一原會滑空部が当飛行場を使用していたという記録が残されています。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
福岡県・大刀南洗飛行場跡地
大刀洗南飛行場 データ設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福岡県三井郡太刀洗(現・朝倉市中原)
座 標:N33°24′17″E130°37′10″
標 高:26m
着陸帯:1,300mx1,500m
「陸軍飛行場便覧」によれば細長い滑走路があるのでなく、「飛行場区画をいっぱいに使って2,000m」
という表現になっています。
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1919年 完成
1940年 この頃、福岡縣朝倉中學校一原會滑空部が当飛行場を使用
1945年 3月 空襲により事実上壊滅。周辺民間人にも被害
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
大刀洗平和記念館
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」
「陸軍飛行場便覧」
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」