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目達原飛行場 [├空港]

   2011年5月、2017年5月訪問 2020/11更新   


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1948年4月当時の写真(USA M934-1 10)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

佐賀県吉野ヶ里遺跡の東約1kmにある「目達原駐屯地」。

その敷地内に「目達原飛行場」があります。

目達原飛行場は大戦中からあった飛行場で、「大刀洗陸軍飛行学校目達原分校」でした。

末期には特攻隊の出撃基地にもなりました。

現在は、旧滑走路の一部をヘリポートとして短縮して(幅も狭めて)使用しています。

グーグル等で見ると、北側のターニングパッド跡がうっすらと残っています。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

に当飛行場の資料がありました。

以下引用させて頂きます。

目達原飛行場
判決
自重五屯以下の飛行機の使用に適す

飛行地区
滑走地区 一七〇〇x一六〇〇 □転圧のみ
舗装路 一四〇〇x六〇 一部分のみ十五cmの「コンクリート」舗装  
土質及地表面の状態 砂壊土、表面張芝にして地耐力稍可なり
周辺障碍物の有無 なし

付属地区
誘導路 三〇〇〇x二〇 
宿営 A地区に兵舎(要修理)五棟(二〇〇名収容可) B地区はなし、C地区に三角兵舎十棟あるも収客力なし
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 A地区四棟に配線しあり
給水 水道設備なく井戸水にして水量豊富なるも質悪し

其他
風向 東東北風多し 一年を通し風向の変化少なし

上の航空写真にクッキリと浮かぶ滑走路、ターニングパッドを含む両端部分と中央部分で色が異なっていますが、

「一部分のみ十五cmの「コンクリート」舗装」とある通り、両端の白っぽい部分がコンクリート舗装であると

「要図」に示されていました。

 実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・判決:「自重五屯以下の飛行機の使用に適す」→「自重510頓以下の飛行機の使用に適す」
・宿営:「A地区に兵舎(要修理)五棟(二〇〇名収容可) B地区はなし、C地区に三角兵舎十棟あるも収客力なし」
   →「
A地区兵舎5棟(要修理) 5棟、他に三角兵舎10棟あるも収客力なし」
・給水:「水道設備なく井戸水にして水量豊富なるも質悪し」→「水道なし 井戸にして水量豊富なるも水質不良」

・風向:「東東北風多し 一年を通し風向の変化少なし」→「東東北」

 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  目達原
位 置   佐賀県神崎郡三田川村目達原
規 模   要図(東西1700)
舗 装   六〇×一四〇〇米
      基礎砂利転入
      表層コンクリート一〇糎
付属施設
 収容施設 一〇〇〇名分
 格納施設 掩体 大二〇ヶ所 小三〇ヶ所
摘 要   施設軍有

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外から滑走路は見えないものかと走ってみたのですが、結局見えませんでした。。。

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赤マーカー地点。

吉野ケ里公園駅南、「本戦橋交差点」の所が陸軍当時の正門の場所で、ここに碑と説明版が設置してあります。

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旧目達原飛行場正門跡(全文)
 旧目達原飛行場は、昭和十八年陸軍太刀洗飛行学校目達原分校として開設され、以来多くの若鷲が養成された。昭和十九年以降、戦局の進展に伴い特攻隊二七三振武隊として「若者よ後につづけ」を合い言葉に、欣然として国に殉じ敵艦を求めて次々と飛び立った由緒ある地である。昭和二十九年陸上自衛隊九州地区補給処がここに開設され、その後西部方面ヘリ隊、第四飛行隊等の駐留に伴い現在も旧滑走路の一部がヘリポートとして使用されている。 平成四年七月吉日 三田川町

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旧目達原飛行場正門跡(全文)
 かつて、旧長崎街道沿いの目達原宿から苔野宿にかけて広大な松原が広がっており、八丁松原と呼ばれていた。明治末期の払い下げで伐採されたが、大正4年に御大典記念事業として桜が植樹されてからは桜馬場と呼ばれ、九州指折りの桜の名所となり絵葉書にもなるほど名高く、桜の季節や競馬開催時には新宮田踏切に臨時駅が開設され、多くの人出で賑わっていた。昭和16(1941)年9月、大日本帝国陸軍太刀洗陸軍飛行学校目達原分校として飛行場建設計画が発表され、旧上中杖地区全戸と苔野・下中杖地区の一部の住民は、先祖伝来の地からの移転を余儀なくされた。昭和18年10月の飛行場完成後は、この地で多くの若者が日夜、救国の志を胸に特別操縦生として日夜訓練に励んだ。昭和19年7月のサイパン陥落以降、戦局は悪化の一途を辿り、昭和19年10月には爆弾を抱えた飛行機もろとも敵艦に体当たりする「特別攻撃隊」が編成された。事ここにいたり、目達原飛行隊は第273振武隊に改編され、延べ53名の若者が生きて再び還ることのない攻撃に飛び立っていった。彼らは、平和な時代であればどこにでもいる普通の若者であり、生まれ育った故郷と愛する家族を守るため、自らを肉弾として敵艦に突入し散華していったのである。この門柱は往時を偲ぶ唯一の遺構である。現代を生きる私たちが平和を享受しているのは、二十歳にも満たない若者たちがその身を盾としたからであることを、私たちは決して忘れてはならない。それは今に生かされている者の責務である。戦後、昭和29年3月、旧目達原飛行場跡には陸上自衛隊目達原駐屯地が開設された。かつて家族を思い、国を思って若者たちが刻苦精励したこの地で、新たなる日本の防人は日々訓練に励みながら、被災地支援など多岐にわたって国民を守るための活動を展開している。 平成26年1月吉日 吉野ヶ里町防衛協会

■「九州の戦争遺跡」によりますと、

「月光の夏」のモデルとなった特攻隊員は当基地の所属だったと言われているのだそうです。

当飛行場の北西約2.2kmにある西往寺は待機中の特攻隊員の宿舎で、現在でも彼らの手紙や遺品が残されています。

当時の住職の奥さんは若い隊員からお母さんのように慕われ、娘さんは、隊員は陽気でよく自分と遊んでくれたが、

母と面会できなかった隊員が夜になるとお寺の墓地の周りで「お母さん」と叫んでいたのを見たのだそうです。


      佐賀県・目達原飛行場      

・陸軍目達原飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:軍用飛行場
所在地:佐賀県神崎郡三田川村目達原
滑走地区:1,700mx1,600m
滑走路:1,400mx60m ターニングパッド直径100m(「要図」より)
方 位:04/22

・陸上自衛隊目達原飛行場(現在) データ  
設置管理者:防衛省
4レター:RJDM
種 別:軍用飛行場
所在地:佐賀県‎三養基郡‎上峰町‎坊所‎
座 標:N33°19′31″E130°24′50″
標 高:15m
滑走路:660mx30m
磁方位:04/22
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1941年09月 飛行場建設計画発表
1943年10月 飛行場完成。大日本帝国陸軍太刀洗陸軍飛行学校目達原分校として創立
1945年08月 終戦
1954年03月 目達原駐屯地開設

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文、説明版
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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