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岩川(八合原)飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1948/04/06(昭23)(USA R235 103) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎曽於市‎にあった「岩川(八合原)飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」の中に 1/50,000の青図があり、

先頭のグーグルマップはこの青図から作図しました。

青図がおおまかなものであることと、上に貼った航空写真でもなかなか線が拾えなかったため、

おおよそこんな感じと思います。

同資料の情報を引用させて頂きます。

滑走路 (1)1200x200
    (2)  〃
運搬路 (1)15x4,000
    (2)4850㎡
飛行機 戦闘機■11
置場  其他無蓋30
隧道  2752.5m
耐爆構造81㎡
備考  20-1-1

 

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
にも当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:岩川 
建設ノ年:1945 
飛行場 長x幅 米:1,500x300 1,200x400 
主要機隊数:小型2,0 
主任務:作戦 
隧道竝ニ地下施設:居住2,300平米、指揮所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:中、小型無蓋30 

末期には特攻機が多数投入されたわけですが、命と引き換えの作戦にもかかわらず戦果が低調であることから、

元々不時着用の基地であった所を、様々な工夫を凝らして夜襲作戦をとった「芙蓉部隊」が

終戦の年の5月末から終戦日まで使用していました。

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赤マーカー地点(以下3枚とも)。

周辺に案内標識があり助かりました。

「太平洋戦争末期の昭和二十年に、海軍夜間戦闘機隊の芙蓉部隊が利用し、沖縄方面等に出撃した。昭和五十三年に「芙蓉之塔」が建立され戦没者が祀られた。」と書かれています。

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芙蓉之塔の由来(全文) 昭和初期における国際情勢は、列国の産業資源確保と輸出増大のために、支配領域を拡大する競争に奔走していた時代であった。日本は東アジアの地で、明治維新以来積極的な対外政策を進めた。その結果、欧米諸国との衝突に加え、近隣諸国への軍事的進出が反発を招き、第二次世界大戦へと突入していった。日本の戦局は、昭和十九年になると各地で苦戦を強いられた。そこで、軍部は打開の為に特攻作戦を採用した。しかし、好転はしなかった。その頃、東南アジアを転戦していた海軍飛行隊の美濃部正少佐は、特攻による戦果の低調なるを進言し夜襲部隊編成を認めてもらった。静岡県藤枝基地において正式誕生した芙蓉部隊は、鹿児島県鹿屋基地に進出したが、激しい米軍攻撃に対処する為、昭和十九年から岩川飛行場の急造に取りかかった。昭和二十年五月に完成した岩川飛行場から、彗星飛行機を主とする夜襲隊が次々に沖縄方面に出撃した。この作戦は、昭和二十年八月十五日の終戦まで展開し、藤枝基地以来百余名の戦死者を出した。この「芙蓉之塔」は、その慰霊の為に、生き残りの搭乗者や旧大隅町役場及び地元有志により、昭和五十三年十一月に建立されたものである。平成二十一年三月 曽於市教育委員会

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おおよそこの方向に滑走路が伸びていたのではないかと


      鹿児島県・岩川(八合原)飛行場跡地     
芙蓉部隊を率いた美濃部正少佐は、「特攻に劣速の練習機まで投入しても、敵艦に近づくことすらできない」と主張し、幹部会では並み居る上官に対し、 「練習機を特攻に使うというのなら、試しにあなた方全員が乗って攻撃してみてください。私が零戦一機で全て撃ち落として見せます!」と語り、夜襲部隊編成を認させたという有名なエピソードがあります。戦果を上げるために様々な工夫を凝らし、昼間は滑走路全面に刈り草を敷き詰め、移動式建物を2棟、木を数本立て、牛10頭を放ち牧場に偽装しました。そのため終戦日まで一度も空襲を受けることなく、部隊運用を続けることが出来ました

岩川(八合原)飛行場 データ
設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:鹿児島県‎曽於市‎大隅町月野‎
座 標:N31°34′27″E131°00′50″
標 高:178m
滑走路:1,300m×200m(使用部分は1,300m×80mに限定)
 「日本海軍航空史」(終戦時)には、1,150mx300m(転圧)、(1,200mx200m)x2 と記載あり
方 位:16/34
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年    着工
1945年05月 完成

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の説明板、碑文
「日本海軍航空史」(終戦時)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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南九州旅行・3 [■旅行記]


Ⓐ道の駅くにの松原おおさき→Ⓑ岩川飛行場跡地→Ⓒ大淀川臨時場外離着陸場→Ⓓ木脇飛行場跡地→Ⓔ唐瀬原飛行場跡地→Ⓕえびの滑空場→Ⓖ出水航空基地跡地→Ⓗ人吉飛行場跡地→Ⓘ竜北道の駅(車中泊)

 

3日目

4:55 起床

5:35 出発

自宅を出る直前の天気予報では、今日と明日が最も降水確率が高く、

両日とも70%で「曇り一時雨」でした。

なんとか良い方に変わることを期待して出掛けたのですが、

残念ながら天気は悪い方に振れてしまいました。

実は昨日沖縄が梅雨明けしたのですが、ラジオ情報によりますと、

「沖縄が梅雨明けしたということは、梅雨前線が沖縄から九州に持ち上がった」ということなのだそうです。

そういうもんなんですか??

そしてその前線に暖かくて湿った空気を含む活発な低気圧が重なるため、本日から九州地方は数日間大雨となり、

河川の増水、洪水に注意が必要。とのことでした。(;´Д⊂)

予報通り、昨日はとてもいいお天気で日中は強烈な日差しで暑かったのですが、

今日は朝からどんよりと雨雲が広がっています。

もういつ降り出しても不思議はない空模様。

結局今回の旅行中、晴れていたのは昨日だけで、

この後オイラはたっっっっぷりと土砂降りを堪能することになるのでしたヽ( ゚∀゚)ノ

まずは鹿児島県の岩川飛行場跡を見学し、その後宮崎入り。

日向市に向かって、大淀川場外、木脇飛行場跡、唐瀬原飛行場跡と日向灘側を北上。

午前10時過ぎ、唐瀬原飛行場跡手前でついに大粒の雨が。

雨の中の見学って大変。 (〃´o`)=3

唐瀬原飛行場跡見学後、西に向かって九州を横断。えびの滑空場に向かいました。

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途中のSAで昼食ラーメン。うまー(o ̄∇ ̄o)

午後になって雨はますます酷くなり、まさに豪雨です。

山道では土色の水が道路を横切る川と化し、市街地では側溝から雨水が吹き出し、そこここで冠水しています。

国道のアンダーパスにはパトカーが出て通行止めにしていました。

(違う。これは梅雨と違う…)

なんだか見学している場合ではない気がしてきました(゚Д゚;≡;゚Д゚)

これが近場なら早々に見学切り上げて帰るところですが、せっかく九州まで来ているのでできるだけ続行です。

風もすごいです。それでも雨風ともに絶えず続くのではなく、ピタッと静まることがあります。

それで見学地到着後、豪雨の時間帯は車内でじっとしていて、雨が弱くなるタイミングで撮影を済ませたのでした。

なんとかえびの滑空場、出水飛行場跡の見学終了。

これで鹿児島県と宮崎県の(オイラが知っている)飛行場/跡地はすべて周ることが出来ました。

まだ少し時間があったので、熊本県の人吉飛行場跡へ。

後でよく地図を見たら、ここはえびの滑空場に近かったので、まとめて行けばよかったです。失敗。

さらにその次の見学地はかなり北上した場所にありますが暗くなってきたので時間切れ。

11km手前の「竜北道の駅」で車中泊することに。

夜になっても相変わらずの土砂降りです。

道の駅に行ってみると、こんな天候にもかかわらず車中泊しようという物好きな車が何台かあり、

トイレ前、売店前の屋根がかかっている部分に車を入れていました。

残念ながらオイラが到着した時にはもうそういう場所が残っていなかったため、

豪雨の中、雨ざらしのスペースで車中泊です。

オイラの車(フィット)で車中泊する場合、8枚の窓すべてに目隠しをして、荷物を前席に移す必要があります。

いつもは外に出て、あっちのドア、こっちのドアとうろうろしながら準備するのですが、

外はザーザー降りなので、フロントウインドーと運転席、助手席の窓の目隠し以外は車内からやってみることにしました。

やってみると意外と簡単。というか、動線がなくなり、むしろこっちの方が早いです。

以後、雨でなくても車中泊するための準備と朝出かけるための準備は極力車内からやるようになったのでした。

怪我の功名ですね。

20:30 寝る。

おやすみなさい。

 

本日の走行距離:492km

(続きます)


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串良海軍航空基地跡地 [├空港]

    2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1947/01/25(昭22)(USA M25A-22 83) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎鹿屋市‎串良町にあった「串良海軍航空基地」。

前記事の笠之原飛行場の北東約6kmにありました。

先頭のグーグルマップは上に貼った航空写真から作図しました。

線を拾い間違えている部分があると思います。

また、東西方向に滑走路が二本並んでいますが、南側の方は未完成だったようです。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:串良 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:1,500x50x2モルタール 1,200x50 主要機隊数:小型3,0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住800名、指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場、魚雷同時調整8本、同格納庫72本 掩体:中、小型無蓋48


■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「串良空開隊(S19.4.1)(昭19建)」とありました。 

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青マーカー地点。

滑走路の交差部に「平和公園」が整備されていて、碑、案内板が密集して設置されています。

平和公園(全文) この平和公園一帯は、旧海軍の航空隊があったところです。第二次世界大戦の末期、教育航空隊として開隊され、約五千人の飛行予科練習生が、航空機の整備、搭乗、通信等の猛訓練を、受けたところです。昭和十九年四月には、実戦部隊に編入され、さらに、昭和二十年三月一日からは、特別攻撃隊の基地となり、終戦までの半年間に、祖国の安泰を祈り、身をすてて南の大空へと勇躍飛びたち、散っていった若き精鋭たち特別攻撃隊三百六十三名、一般攻撃隊二百二名、合計五百六十五名の最期の地となったところであります。昭和四十四年十月一日、串良町及び旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者慰霊塔建設期成会が中心となり、平和の礎石となられた英霊の慰霊塔を建立し、戦争の悲惨さを後世に伝えるとともに、人類の恒久平和を願い「平和公園」と命名され、以来毎年十月十五日には、全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われております。慰霊橋のうえで、慰霊塔に向かって柏手を打つと、塔の上の白鳩が「クックッ」と鳴きます。東西千三百m南北千二百mの滑走路跡の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まります。公園内二千本余りの桜は、春にはその花で公園を埋め尽くす程になり、大隅半島の桜の名所となっており、毎年四月初旬には、桜まつりが賑やかに開催されるところです。昭和六十年一月 串良町 平成十年十月更新

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赤マーカー地点。

南北方向の滑走路跡。

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同じく赤マーカー地点。

東西方向の滑走路跡。

2019/5/10追記:
PUTIN様より情報頂きました。米軍資料に"TAKAYAMA飛行場"が登場します。飛行場名:Takayama(Koyama) 位置、Koyama(Takayama)の北北西1.75マイル、鹿屋の東南東5マイル、鹿児島湾の東8.5マイル 座標:N31-22、E130-56
発見時期:1945年1月  これは日米双方の戦闘報告書等を照合した結果、串良飛行場であると判明。とのことです。PUTIN様どうもありがとうございましたm(_ _)m


      鹿児島県・串良海軍航空基地跡地      

串良海軍航空基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県‎鹿屋市‎串良町有里‎
座 標:N31°24′54″E130°55′49″
標 高:75m
滑走路:1,300m×50m(08/26)、1,200m×50m(16/34)、1,500mx50m(09/27) 
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
教育航空隊として開隊
1944年04月  1日、串良空開隊。実戦部隊に編入
1945年03月  特別攻撃隊の基地となる

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の説明版
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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笠之原飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2022/1更新  


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(昭和10年11月撮影)高度800米 方位W 距離約1,000米
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1935年(昭和10年)11月調査資料添付地図 Translation No. 19, 20 December 1944, airways data; Kyushu Chiho. Report No. 3-d(15), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

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撮影年月日 1947/01/25(昭22)(USA M11 78)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

鹿児島県‎鹿屋市‎笠之原町‎にあった「笠之原飛行場」。

前記事の「鹿屋航空基地」の東約5kmに位置しています。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:笠ノ原 建設ノ年:1943 飛行場 長x幅 米:800x50コンクリート 主要機隊数:小型3.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住3,500平米、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:中、小型無蓋210


■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によりますと、

『鹿児島県史』によると「古く大正10年に建設された鹿屋市笠野原海軍飛行場と、
昭和11年に建設された同鹿屋海軍飛行場は、ともに日華事変中から海軍航空隊の基地として利用され」とある。


とのことです。 


■水路部資料「航空路資料 第7 昭11-8 九州地方飛行場及不時著陸場」に

当飛行場の資料、地図が出ています(下記リンク参照)。

当飛行場に関するページは「1935年11月調」とあり、飛行場の地図には上のマップの東西の滑走路のあった辺りに

滑走路ではなく、着陸帯が設定されているように描かれています。

南北方向の滑走路部分は飛行場敷地に含まれていません。

当飛行場は1922年開設と、かなり古くからある飛行場のため、

後年拡張、滑走路建設をして終戦時の形になったのだと思われます。

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紫マーカー地点。

コンクリート製入口。

笠野原小学校西側の通りを南下するとあります。

グーグルのストリートビューに思いっきり写ってました。

旧笠之原海軍航空基地跡地(全文) 沿革 現在地は旧笠之原飛行場として、大正十一年八月から昭和二十年八月十五日まで二十四年間に亙り、旧陸海空軍の飛行場基地として使用されていた。太平洋戦争末期の昭和十九年一月十五日には海軍航空基地が設置され、田中隊一個中隊が常駐することとなった。又、昭和二十年一月には第二百三航空隊零式戦闘機七十二機が配備され、特別攻撃隊として南海の戦場に散っていった。その後昭和二十年三月十八日の連合軍の集中爆撃のため、格納庫を始めとする基地施設は全滅し、当時を物語る唯一の遺物として、このコンクリート入り口が、東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道入口並びに地下通路指令室として現存しているものである。当地は民有地を買収して飛行場がつくられた関係上、終戦により地元地区民に農地として無償で払い下げられ、現在に至っている。鹿屋市観光協会

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反対側から見るとこんな感じ。

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赤マーカー地点。

東西の滑走路はこの少し先に真っ直ぐ伸びていたはずです。

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青マーカー地点。

南北の補助滑走路はここから伸びていたはずです。


      鹿児島県・笠之原飛行場跡地      

笠之原飛行場 データ

設置管理者:陸軍、海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県‎鹿屋市‎笠之原町‎
座 標:N31°22′48″E130°53′27″
標 高:43m
滑走路:800m×50m(09/27)
補助滑走路:820mx30m(18/36)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1922年08月 民有地を買収して飛行場建設。陸海軍の飛行場基地として使用
1944年01月 海軍航空基地設置
1945年01月 零戦が配備され、特別攻撃隊として出撃
     03月 連合軍による集中爆撃を受け、基地施設全滅
     05月 15日 零戦50機用緊急整備強化実施
     08月 基地閉鎖。 地元地区民に農地として無償で払い下げ

関連サイト:
水路部資料「航空路資料 第7 昭11-8 九州地方飛行場及不時著陸場」  
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この記事の資料:
現地の説明版
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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ふくスカ・リンゴ祭り  [■旅行記]

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アップが遅くなりましたが、カンクリさんにお誘いいただき

15日(土)にふくしまスカイパークの「がんばっぺ!ふくしまの空・りんご祭り」にお邪魔してきたのでした。

「九州強化月間」の途中ですが、タイムリーネタということで。

 

実はこの日のお天気は最悪で、降水確率70%。豪雨注意報まで出ていたのです。

にもかかわらず、開場の10時前には既にたくさんのお客さんが。

みなさんよほど楽しみにしてたのですね~。

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まずは腹ごしらえ。

「ごめんね~ まだ温まってないのよ。あと10分まってね~」

20分後。

「ごめんね~。もうちょっと待って~」

ということで、三顧の礼を尽くしてゲットした黒豚ジャンボシウマイ 380円。

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漁師鍋 鮭入り 300円。うー、温まる。

上の二つはレンズ交換が面倒で、300mmで席から立ち上がって撮りました。

ああ恥ずかしい。(///∇///)

以下バラバラと。

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エクストリームバイクスタントショー

滑走路上で妙技を披露してくれました。

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バイクの曲乗りの真似事をして遊んでいたオイラにとっては神業の連発で口をポカーンと開けて見入っていたのですが、

隣に居たお母さんが、「あーんだか暴走族の兄ちゃんみてだな」とバッサリ ^^;

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タイヤはすぐ想像つくとして、メインフレームすら消耗品なのだそうです。ビックリ!

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いよいよメインイベント! ということで張り切って撮り始めたのですが、撮影テクが散々で、

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こんなのとか。

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それからこんなステルス写真とかばっかしでもー散々ですた。 (;´Д⊂)

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近くを飛んだので比較的まともに撮れたのは、これと以下二枚位でした。

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はぁ、飛んでるヒコーキは難しいぜ。。。

いじけて山に下りるオイラ。

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この日のプログラムの最期に、バイクとヒコーキの競争をしてました。

これは直前の打ち合わせの様子。

撮影そっちのけで見入ってしまいました。(どうせまともに撮れないし)

 

おしまい。

(次回からまた「九州強化月間に戻るでゲソ)


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海上自衛隊鹿屋航空基地 [├空港]

   2011年6月訪問 2024/1更新  


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撮影年月日1947/01/25(昭22)(USA M11 80) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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SkyVector.com

鹿児島県‎鹿屋市にある「海上自衛隊鹿屋航空基地」。

戦時中は「鹿屋海軍航空隊」で、神風特攻隊最終出撃基地として、

また現在では資料館、二式大艇が展示してある場所として有名な基地です。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

当時は二本の滑走路が少し角度を変えてあったのですね。

北側滑走路の西側エンド位置はほぼ同じですが、現在は平行滑走路に変更されており、

南側の滑走路はそのまま使用していますが、東側に延長していることがわかります。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:鹿屋 建設ノ年:1940 飛行場 長x幅 米:1,760(x50) 1,700(x50) 500(x30)コンクリート 主要機隊数:小型2,0 中型2,0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住3,500平米、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷同時調整12本、同格納庫200本 掩体:小型有蓋10 中小型無蓋200 其ノ他記事:雷同時調整33本 同格納庫168本


■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「鹿屋空開隊(S11.4.1)(昭15建)」とありました。 


■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によりますと、

『鹿児島県史』によると「古く大正10年に建設された鹿屋市笠野原海軍飛行場と、
昭和11年に建設された同鹿屋海軍飛行場は、ともに日華事変中から海軍航空隊の基地として利用され」とある。

とのことです。

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フェンス越しなので影が入ってしまいました。。。^^;


      鹿児島県・海上自衛隊鹿屋航空基地     
特攻作戦では445機、828名の若者が出撃しました

・海軍鹿屋航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
滑走路:1,760mx50m、1,700mx50m(コンクリート) 
方 位:07/25、08/26
(方位はグーグルアースから)

・海上自衛隊鹿屋航空基地 データ
設置管理者:防衛庁
4レター:RJFY
所在地:鹿児島県‎鹿屋市‎西原‎
座 標:N31°22′03″E130°50′43″
標 高:65m
滑走路:
2,250m×45m(08R/26L)
着陸帯:1,200m×40m(08L/26R)

沿革
1936年04月 1日、鹿屋海軍航空隊開隊
1940年    建設 
1945年02月  第5航空艦隊司令部設置 特攻作戦開始
    08月 太平洋戦争終戦 米第5空軍進駐
1948年11月 米第5空軍撤退
1950年12月 警察予備隊鹿屋駐屯
1952年10月 保安隊 第12連隊鹿屋駐屯部隊 新編
1953年12月 警備隊鹿屋航空隊開隊
1954年07月 海上自衛隊 鹿屋航空基地 開隊
2024年01月 2025年度以降、 格納庫、隊舎、史料館で大規模な建て替え・改修実施。工期は最長で6年程度

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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海軍航空隊桜島(牛根)基地跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1947/12/04(昭22)(USA M680 49) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎垂水市‎にある「道の駅たるみず」。

鹿児島湾の向こうには桜島がどどんと見えるでごわす。

ここは「海軍航空隊桜島(牛根)基地」の跡地です。

末期に造られた水上機の秘匿基地で、本土決戦のための攻撃部隊がいました。

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赤マーカー地点。

道の駅敷地内「湯っ足り館」の西側に碑があります。

海軍航空隊桜島(牛根)基地跡の碑(全文) この地、鹿児島県垂水市牛根は雄大な桜島の麓に位置し錦江湾内でも唯一波静かな美しい処である。一九四五年(昭和二十年)第二次世界大戦末期福岡県船越村に第六三四海軍航空隊本部(秘匿玄海基地)が訓練基地として設置され、ここ垂水市牛根にも秘匿桜島(牛根)基地が前進攻撃基地として開設された。この桜島(牛根)基地には、比島戦から多大の戦果を挙げていた水上爆撃機瑞雲二十機と零式水上偵察機を零式水上雷撃機に改修した雷撃機十機、哨戒偵察機六機を配し、海軍航空史上初の玄海・桜島(牛根)両隊で百三十機を越える水上機による攻撃大部隊として本土決戦に備えていたが、八月十五日には大戦終決となった。茲にこの地の歴史を後世に伝えるとともに今日の日本の尊い礎となった若者達の鎮魂と平和を祈念しこの碑を建立する。 平成十七年八月吉日 記念碑建立賛同者一同 海軍関係者一同

福岡県の玄海基地が訓練基地、 当桜島基地が前進攻撃基地。という役割で繋がっていたのですね。

D20_0192.jpg


      鹿児島県・海軍航空隊桜島(牛根)基地跡地      

海軍航空隊桜島(牛根)基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:水上飛行場
所在地:鹿児島県‎垂水市‎牛根麓‎
座 標:N31°33′31″E130°44′37″
(座標はグーグルアースから)

沿革
1945年完成

関連サイト: 
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牧ノ原航空基地跡地 [├空港]

    2011年6月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/10/11(昭22)(USA M548 171) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎霧島市にある「鹿児島県 畜産試験場」。

ここに「牧ノ原航空基地」がありました。

本土決戦時の特攻機発進、不時着用飛行場として建設されました。

明確な場所が不明で、某サイト様(現在リンク切れ)にて位置を知り、その場所を航空写真で見たら、

斜めに滑走路っぽい地割がうっすらとですが残っており、その通りに線を引いたら、

資料にある通りの向き、サイズ(NW900x60)の滑走路が無理なく作れたので、ここで間違いないのではないかと。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:牧ノ原 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:900x60方向NW 主要機隊数:小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:工事中 掩体:工事中

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  佐世保
牧場  牧ノ原
滑走路 六〇×九〇〇NW
縣郡村 鹿児島、姶良 敷根村
記事  既成

D20_0187.jpg

赤マーカー地点。

東南東に向かって撮ってます。

ここから画面奥に向かって真っすぐ滑走路だったはず。


 

      鹿児島県・牧ノ原航空基地跡地     
数回離着陸を行っただけでほとんど使用されなかったようです

牧ノ原航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:鹿児島県‎姶良郡敷根村(現・霧島市‎国分上之段‎)
座 標:N31°40′41″E130°51′14″
標 高:391m
滑走路:900m×60m(芝)
方 位:11/29
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年 建設

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(22コマ) 
海軍航空隊 牧ノ原基地(リンク切れ)  
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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国分海軍航空隊(第一国分基地)跡地 [├空港]

    2011年6月、2024年1月訪問 2024/1更新  


無題a.png
撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 229) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎霧島市‎。

前記事の「第二国分基地」の南南東約8.5kmに位置するこの場所に「国分海軍航空隊(第一国分基地)」がありました。

現在跡地の一部は「陸上自衛隊国分駐屯地」になっています。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」に当飛行場の1/50000の青図があり、

先頭のグーグルマップはこの青図から作図しました。

但しこの青図、とても大まかなもので、上に貼った航空写真と比較し、最も近いと思われる地割を拾って作図しました。

航空写真にもハッキリ写っている駐機場は一部地割が残っている(青マーカー)ので、作図した位置で間違いないとして、

滑走路は航空写真で見てもドレがドレだか分かりませんでした。

青図内に滑走路は50x1500とあるため、「その通りの長さの滑走路が無理なく置ける場所」で位置決めしました。

おおよそこんな感じ。という程度のものですのでご了承くださいませ。

青図にあった情報は以下の通りでした。

滑走路 (1)50x1500 (3)125000㎡
    (2)50x1500 (4)65000㎡
■舗装 (1)コンクリート (3)栗石敷コンクリート
    (2)白砂セメント (4)白砂敷転圧
運搬路 144,000㎡
飛行機 戦闘機有蓋10
置場  中■有5 無22  W12
隧道  3,430㎡
耐弾構造 133㎡
備考  20-1-1


■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
にも以下の情報がありました。

基地名:国分 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:1,300x1,000芝張 主要機隊数:小型9,0 中型 主任務:教育 作戦 隧道竝ニ地下施設:居住,1,250平米、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型有蓋5 小型無蓋28 

D20_0183.jpg

国分駐屯地。

D20_0185.jpg

赤マーカー地点。

「天降川小学校」

 


以下2024年1月撮影

DSC_2196_00001.jpg

黄色マーカー地点。

滑走路方向。

DSC_2187_00001.jpg

青マーカー地点。

黄色マーカー地点と反対側。

滑走路東端。

広く滑走路方向に道路が整備されています。

また、駐機場の地割が住宅地に一部ですが、ハッキリ残っています。

個人のお宅を大写しすることになるため、撮影は控えました(灰マーカー地点)。

DSC_2194_00001.jpg

紫マーカー地点。

国分駐屯地向いにある特攻碑公園。

DSC_2188_00001.jpgDSC_2189_00001.jpg

特攻機発進之地

碑文(全文)
 この地は、大東亜戦争中の昭和十八年出水海軍航空隊国分分遣隊が設けられ翌十九年八月十五日国分海軍航空隊として開隊、連日隊員の訓練を重ねたところであったが、昭和二十年初め敵軍沖縄本土に迫る頃、海軍特別攻撃隊の基地として使用され、四百人余の若き勇士達が莞爾として雲流れる果て、遥か逝いて帰らざる壮途につき、祖国の危急に殉じた思出深い土地である。
この碑は国の安泰を念じながら散華せる、これら若人の御霊のとこしえに安らかならんことを祈念し以って祖国の平和復興に資せんため、国分氏及び自衛隊並びに一般有志たちの浄財と陸上自衛隊国分駐屯部隊員の労力奉仕により之を建立したものである。 昭和三十九年八月十五日


      鹿児島県・国分海軍航空隊(第一国分基地)跡地     

国分海軍航空隊(第一国分基地) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県‎霧島市‎国分福島‎
座 標:N31°43′25″E130°45′09″
標 高:11m
面 積:約300ha
飛行地区:1,350m×1,000m
滑走路:1,500mx50m
方 位:10/28?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1942年    この頃農地を収用して着工
1943年    出水海軍航空隊の分遣隊
1944年08月 15日 国分海軍航空隊開隊
1945年    特攻機の発進基地として使用
    05月 15日緊急整備強化実施
        戦後は民間に払い下げられ農地などに転用
1955年   跡地の一部に陸上自衛隊国分駐屯地開設

関連サイト:
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この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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第二国分基地(十三塚原海軍航空隊)跡地 [├空港]

    2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 261) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島空港東側に、ここだけやけに真っ直ぐの道路が整備されている地区があります。

かつてここに第二国分基地(十三塚原海軍航空隊)がありました。

当基地は特攻機の発進基地として建設されました。

滑走路から鹿児島空港の反対側まで誘導路がうねうねと幾重にも伸びています。

鴨池から移転してきた鹿児島空港は、第二国分基地の跡地に作られたのですね。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」の中に、1/50000 の青図があり、

先頭のグーグルマップはこの要図と、上に貼った航空写真から作図しました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:第二国分 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:1,500x50コンクリート 主要機隊数:中型3.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住1,500名、指揮所、電信所、爆弾庫、倉庫、工業場、魚雷同時調整8本、同格納庫72本 掩体:小型有蓋5 小型無蓋46

D20_0181.jpg

赤マーカー地点。

真っ直ぐ。

D20_0166.jpg

紫マーカー地点。

第二国分基地跡地から鹿児島空港をはさんで反対側になるのですが、国道504から少し上ったところに

「上床公園」があり、一角に第二国分基地の碑等が整備されています。

画面右側の銀色の物体は防府基地のT-34です。

D20_0150.jpg

説明(全文) 展示してあるコンクリート破片は第二国分基地滑走路の一部です 昭和十八年から二十年二月まで第二国分基地(旧十三塚原海軍航空隊)では特攻機の発進基地として軍民一体となって急造の滑走路を造ることとなり県下各地から勤労動員の男女学生、生徒などの血と汗と涙の突貫工事によって特攻機発進の飛行場を完成させたのです 水の乏しい高台でのこと コンクリートを練るのに迫間の川の水を一升びんに汲み各自四五本づつ背負い三粁もある坂道を運んだと当時を知る人は語っています そして五十年の歳月は流れ もの言わぬコンクリートは「平和の尊さ」をいま私たちに語りかけています 平成九年四月 溝辺町特攻碑保存委員会 

D20_0154.jpg

零戦のプロペラ。戦後二十数年を経て海底から引き揚げられたものだそうです。

D20_0157.jpg

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      鹿児島県・第二国分基地(十三塚原海軍航空隊)跡地      

第二国分基地(十三塚原海軍航空隊) データ

設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県‎霧島市‎隼人町嘉例川‎
座 標:N31°47′52″E130°43′39″
標 高:266m
滑走路:1,500m×50m
方 位:13/31
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年    着工
1945年02月 完成
     08月 終戦。戦後は民間に払い下げられて農地に

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」


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