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鹿児島空港 [├空港]

  2011年6月、2024年1月訪問 2024/1更新  


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撮影年月日1970/09/28(昭45)(MKU704X C2A 13) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。着工から半年、開港まであと1年半)
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SkyVector.com

鹿児島県の空の玄関口、鹿児島空港。

元々1957年に鴨池地区(県庁のすぐそば)に開港したのですが、

「さらに大きな空港を」ということで、1972年に現在の場所に移転してきました。

国内主要都市と薩南諸島を結ぶハブ空港でもあります。

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国内線ターミナル内部。

1972年開港以降、増築を繰り返してきたのですが、それを感じさせないキレイで利用しやすい空港です。

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今時珍しいパラパラ。

この離島便の多さが鹿児島空港ですね~。

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ターミナル3階にある"SORA STAGE"。

航空に関する様々な資料が展示されています。

6:30~21:15 無料。

空港にこういう施設があること自体は珍しくないのですが、

ここは質、量共にすごかったです。普通にお金取れるレベルでした。

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JAL747-300ファンブレード

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…の裏側。

ファンブレードもタービンブレードみたいな取り付け方なんですね~。

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ANA747-400ウイングレット…の先っちょ。ヒゲみたいのはスタティック・ディスチャージャーかしらん。

実物展示の中には、ブリヂストン製787用タイヤもありましたよ。

高さ:1,270mm 奥行:508mm 重さ:99.3kg だそうです。

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各航空会社の紹介や…

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歴史的なヒコーキから現在の主力機、そして「これからのヒコーキ」も展示されてました。

写真からはちっとも伝わりませんが、ディスプレイの仕方も非常に上品で美しいです。

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こっ、こんな機体まで。。。 (;´Д⊂)

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フライトシミュレーター。

館内をじっくり堪能した後は…

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エンジンカウルをくぐって展望デッキに出られるようになってました。

ニクイ演出ですね~。

JAL747-300用エンジンのノーズカウルです。

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接合部はこんな感じ。

「取り付けに手間がかかるけど軽量化優先の形状」ですかね。

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展望デッキ。

ゲートナンバーが表示してあるので見送りに便利ですね^^

広々していていいのですが、唯一残念なのが高いフェンス。

セントレアと同じくワイヤ方式なのですが、手すりから手の全く届かない距離にあるので、

「ワイヤの間にレンズを入れて…」という撮り方ができません。

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どうしてもこんな感じになってしまいます。

それでもなんとか撮ってみることに。

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ハイ。ちょうどワイヤがかかってしまいました~。(;´Д⊂)

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1階入口にある足湯「おやっとさぁ」。無料

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R/W34エンド。広い駐車スペースがありました。

R/W16エンド側は、滑走路は見えませんが着陸進入灯の途中に道路が横切る形になっています。

 

 


以下2024年1月撮影

 

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      鹿児島県・鹿児島空港      

   ビュー:☆☆☆☆★  
ターミナル3階エプロン側かなりのスペースをデッキに解放しており、非常に広々している。
芝生、ベンチもあり、のんびりヒコーキを眺めることができる。
惜まれるのは手すりとワイヤの配置。
一部アクリル板でワイヤの通っていない部分もあるが、駐機中、タキシング中のヒコーキはなんとか撮れるものの、
離着陸は撮影には不向き。
お天気が良ければ正面に霧島連峰が(infinityさん情報)。

   施設:☆☆☆☆☆  
歴史のあるターミナルだがそれを感じさせない。明るく分かりやすい。
土産物、レストラン等充実
ターミナル前に有料駐車場。
おやっとさあ

   マニア度:☆☆☆☆☆  
"SORA STAGE"
周辺に撮影ポイント多数あり。

   総合:☆☆☆☆☆  
九州では福岡に次ぐ乗降客数を誇っており、活気に満ちている。
「快適に、楽しく利用して欲しい」という配慮が感じられる空港。


鹿児島空港 データ
設置管理者:国土交通省
3レター:KOJ
4レター:RJFK
空港種別:国管理空港
運用時間:7:30~21:30
所在地:鹿児島県‎霧島市‎溝辺町麓‎
標 点:N31°48′12″E130°43′10″
標 高:271.6m
面 積:182ha
滑走路:3,000m×45m
磁方位:16/34

航空管制周波数
・飛行場管制 
 鹿児島タワー 118.20 126.20
 鹿児島デリバリー 121.80
 鹿児島グランド 121.70
・進入・ターミナルレーダー管制
 鹿児島アプローチ 119.40 120.80 126.00
 鹿児島ディパーチャー 119.40
・航空路管制
 福岡コントロール(南九州西セクター) 133.85 132.60
・飛行場情報放送 
 鹿児島ATIS 127.05
・TCAアドバイザリー
 鹿児島TCA 120.00

沿革
1933年06月 日本航空輸送が、「内地~台湾間の飛行場を鹿児島か福岡に建設したい」と発表
1938年03月 鴨池地区に水陸両用飛行場を着工
1940年    海軍航空隊鹿児島基地として改装
1943年04月 鹿児島海軍航空隊が開隊
1949年06月 航空保安庁が設置
1953年05月 運輸省により鹿児島飛行場(鴨池空港)設置が告示
1956年04月 空港整備法の成立と同時に鴨池空港を第二種空港に指定
     10月 翌年3月までに滑走路、事務所、通信設備などの整備を目指して起工
1957年07月 航空管制権がアメリカ軍から返還される。「鹿児島空港」として開港式。滑走路1,080m
        極東航空、DC-3型機で 鹿児島~宮崎~大阪、鹿児島~福岡間を開設。
1958年     年間乗降客数約1万2千人
        誘導路、エプロンなどの舗装工事が行われ、夜間照明施設も完成
1962年04月 全日空が沖縄線開設。東京・大阪・福岡に次いで税関空港に指定
1963年09月 新たな大型空港建設のため、県の政財界と各種団体代表、民間航空会社の専門学識経験者を含めた
       「鹿児島県大潟空港調査会」が発足。横井原、吹上浜、十三塚原(現・溝辺)、知覧、谷山、鹿屋の
        6候補地から「横井原・十三塚原(現・溝辺)が新空港の適地である」と結論。
1964年10月 建設費2億円で地下1階、地上3階の鴨池空港新ターミナルビルが竣工
     12月 新空港の適地の検討を進めると同時に、鹿児島空港の(鴨池空港)の滑走路の延長工事に着工
1967年03月 鴨池空港 滑走路延長1,600mx45m
        県民一体の組織である「鹿児島県大型空港建設推進協議会」が発足
1968年06月 新空港の建設候補地の補完調査の結果を審議・検討。
        運輸省は「十三塚原(現・溝辺)」に2,500mの滑走路を有する新空港建設を決定。
        鹿児島県と売買方式で建設することに。
     12月 「新空港建設室分室」を設置。空港法面を除く用地の買収が完了
1969年04月 全日空:東京~鹿児島、B737が再就航
       「新空港建設本部」を設置し、空港建設の具体的準備を進める
1969年05月 新鹿児島空港設置告示
1970年03月 新空港建設着工
1971年    年間乗降客数は、149万6,467人に達し、東京・大阪・福岡・千歳に次いで全国第5位となる
1972年03月 鴨池空港の供用廃止
     04月 新鹿児島空港供用開始 滑走路2,500m
1973年02月 新鹿児島空港から鹿児島空港に名称変更告示
1980年10月 滑走路延長 3,000m供用開始
1982年03月 国際線ターミナルビル完成
     04月 国際線ターミナルビル供用開始
1989年10月 貨物ビル完成、供用開始
1993年    国内線ターミナルビル本館施設増築工事着工
1994年12月 国内線ターミナルビル1.5倍に増築
1996年03月 累計乗降客数1億人達成(国際線通過客含む)
1996年12月 国際線ターミナルビル増築工事
1999年10月 ターミナルビル南北(ゲートラウンジ)増築工事
2000年11月 ターミナルビル北側コンコース増築工事
2001年06月 国内線ターミナルビル1階南側ロビー拡幅工事
2007年04月 新空港開港35周年記念セレモニー
2017年03月 2日、知事、2018年の明治維新に向け、空港の愛称検討へ
     07月 4日、空港愛称「西郷どん空港」 案に賛否。決定は持ち越し 
2018年03月 2日 JAL、国内線サクララウンジをリニューアル
2020年07月  国際線旅客ターミナル拡張工事完了
2021年10月 20日  九州初のビジネスジェット専用のターミナル施設「桜島」竣工式
     11月 25日 空港内の草刈りにGPS使用の自動刈取トラクター導入。23年度までに全ての国管理空港導入へ
2023年04月 国内線と国際線ターミナルの間に「ほじょ犬トイレ」設置

関連サイト:
鹿児島空港    
国土交通省大阪航空局/鹿児島空港   
ブログ内関連記事
鴨池空港        


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万世陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新   


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撮影年月日 1947/03/07(昭22)(USA M103 36)   

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前記事の「知覧飛行場」の南西約16km、鹿児島県‎南さつま市‎の海岸沿いに知覧飛行場の補助基地が建設されました。

「万世(ばんせい)陸軍飛行場」です。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」の中に要図があり、

先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

滑走路東側、飛行場に至る橋(紫マーカー)を渡って少しの所から、細長く「旧兵舎地区」とあり(黄色マーカー)、

飛行地区南西角の部分は大きな円形の斜線が引かれており(赤のシェイプ)、

「水位高きため土地緩み車輛通過不能箇所多し」とありました。

要図が大まかなのと、要図を基に線を拾ったのが上に貼った航空写真なんですが、

なかかな線が見つからなかった箇所がありました。

それでも要図に記されている長さを示す数字のおかげでなんとか作図できました。

おおよそこんな感じと思います。

同資料に当飛行場についての詳細な記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 小型飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 四〇〇x一、三〇〇米(約十五糎表土敷設転圧)
 舗装路 なし
 土質 海岸砂丘を地均したる後約十五糎粘土敷設
 地表面の状況 表面張芝したるも未だ地耐力十分ならず
 周辺障碍有無 東側砂丘は離着陸特支障大なり

 誘導路 なし(面式)
 宿営 三角兵舎地方側の建築せるものを借用二十棟(千名収容)
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 兵舎地区に張線しあるも飛行場内にはなし
其の他
 給水 一般に井戸を利用しあるも水質悪く水量不足なり
風向 北西 北西の場合は海岸より砂塵飛揚し為に機関の故障を発生すること多し


■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  萬世
位 置   鹿児島県川辺郡萬世町
規 模   要図(南北1500)
舗 装   (記載無し)
付属施設
 収容施設 (記載無し)
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

 
■防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」にも要図があり、

滑走地区 1,300x400
飛行地区 1,300x1150

と書き込みがありました。また以下の通り情報がありました。

土  質 砂土質
通信保守 通信完備
宿営施設 900名

冒頭で書いた通り、「知覧飛行場の補助基地」であったこと、そして約4か月という短い期間しか使われず、

詳しい資料が残っていないため、これまで「幻の特攻基地」と呼ばれてきました。

当飛行場が「幻」、「補助」なのに対し、

同じ陸軍系の知覧があまりにも有名になったため、

当基地から出撃した特攻隊員のご遺族の中にも、「知覧から出撃した」と思い込む方がおられるのだそうです。

「戦跡を歩く」という本に書かれていたのですが、

子犬を抱く少年兵を中心に特攻隊員が並ぶ「子犬を抱いた少年飛行兵」という有名な写真も、

知覧基地で撮影されたものだとされていたのですが、実際には当基地で撮影されたものなのだそうです。

この子犬を抱いた少年兵の実兄が群馬県桐生市でご健在であり、

この写真を撮った時の状況についても同書に記されていました。

それによれば、この子犬は部隊の将校が拾って可愛がっていた犬で、

抱いている隊員は当時17歳で、昭和20年5月27日に当基地から出撃した第72振武隊員。 

写真は出撃前日に撮影されたものなのだそうです。

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青マーカー地点。

飛行場の営門が残っていました。

「当時軍の機密は厳重を極め、この営門には武装した衛兵が二十四時間立哨の任務についておりました。飛行場への出入りはすべてこの門からであり、万世基地から沖縄戦に出撃、突入した若き特攻隊員も、ここを通ったのであります。」

と説明されていました。

ここから121機が特攻機として飛び立っていきました。

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紫マーカー地点。

「万世特攻平和祈念館」。

12月31日、1月1日を除く毎日 9~17時まで。大人300円。

画面右端に碑文等がありました。

(全文)ここは、我が国三大砂丘の一つに数えられる吹上浜の南端に位置し、太平洋戦争の戦局が急を告げつつあった昭和十八年の夏から十九年の末にかけて本土防衛、沖縄決戦の軍航空基地として建設された「萬世陸軍飛行場」の一角にあたる大戦の思い出の地であります。昭和二十年三月から燃料を集積、三月末から飛行第六六戦隊が配備され、更に同年四月初第六航空軍の作戦計画によって特別攻撃隊及びその掩護と防空の飛行第五五戦隊も配備され特攻基地となり、沖縄作戦の最も熾烈を極めた七月下旬までに、ここ万世基地から飛行第六六戦隊及び特攻振武隊の諸隊、これを掩護する飛行第五五戦隊の若き勇士が祖国護持の礎たらんと勇躍沖縄方面へ出撃し、南海の大空に散華したのであります。終戦後幾星霜、今では当時の面影として、営門と水槽を残すのみとなりましたが、ここに立って松風や潮騒を耳にしながら「祖国のため」を合言葉に、征きて還らざる壮途についた紅顔の英姿をしのびつつ平和へ誓いを新たにしたいものです。

(全文)昭和十九年 太平洋戦争の戦局はとみに悪化し、すでに決定的段階を迎えんとしていた。ここ加世田市吹上浜の地に、戦勢転換の神機を期すべく地元民学徒ら軍民一致の協力によって、本土防衛沖縄決戦の基地萬世飛行場が建設された。昭和二十年三月二十八日より終戦に至るまで、陸軍特別攻撃隊振武隊の諸隊、飛行第六十六戦隊、飛行第五十五戦隊の若き勇士たちは、祖国護持の礎たらんと、この地より雲表の彼方へと飛び立った。一機また一機と。征きて帰らざる者あまた。或は空中に散華。或は自爆。壮絶にして悲絶。その殉国の至誠は鬼神もこれに哭するであろう。終戦以来幾星霜、ここに祖国は、その輝かしき復興をとげた。われら生き残りたる者と心ある人々は、英霊の魂魄を鎮め、その偉勲を讃えんがために、ここにこれを建立する。昭和四十七年五月二十九日

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赤マーカー地点。

吹上海浜公園内に設けられた「吹上浜展望台」へと至る直線の道。

現地にお邪魔した際は正確な滑走路の位置が分からず、ドコか滑走路っぽい場所はないかとたまたま撮ったんですが、

資料を基に作図したら、角度といい、位置といい、滑走路の中心線でした。

(オイラの作図が正しければ。ですけど)


■「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場に人員や物資の輸送を行っていた南薩鉄道万世線は、

敗戦後サイクリングロードになっています。

前述の通り当基地から特攻機の出撃があり、飛行場空襲も含め、200名を超える隊員が犠牲となりました。

終戦となり、飛行場は機密保持のために徹底的に破壊され歴史から消え去ったのですが、

当飛行場の元特攻隊員だった方々が慰霊碑を建て、全国の遺族から遺書や遺品を集め、

平成7年、旧加世田市と元隊員と遺族で結成した「萬世特攻慰霊碑奉賛会」の手に依り、

「加世田市平和祈念館」、現在の「万世特攻平和祈念館」が開館したのだそうです。


      鹿児島県・万世陸軍飛行場跡地     
ほとんど人力で建設しました。滑走路はセメントがなかったため、周囲の山からスイセイ岩を運び敷き詰めて造ったのだそうです。「万世特攻平和祈念館」資料によれば、海沿いの万世飛行場は元々砂地で地盤が脆いため、衝撃に強い旧型の固定式脚を付けた戦闘機が多く集められました。固定式脚の機体が全体の93%を占めていたのだそうです。

万世陸軍飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県川辺郡萬世町(現・南さつま市‎加世田高橋‎)
座 標:N31°26′23″E130°17′20″
標 高:7m
飛行地区:2,000mx1,300m不定形
滑走地区:1,300m×400m
方 位:16/34
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1942年    現地調査(当初は大刀洗飛行学校の分校を建設する予定だった)
1943年01月 83戸が飛行場建設のため移住、農地買収
     07月 着工
1944年    末頃 ほぼ完成
1945年02月 沖縄前進基地の燃料として使用するため、知覧から燃料(ドラム缶5,000本)の半分を移す。
     03月 飛行第66戦隊配備。空襲を受け、兵舎大破。
     04月 02日 特攻振武隊配備、
       06日 特攻隊第一回出撃
       13日 徳之島飛行場が爆撃により使用不能に。当飛行場が前進基地となる。

関連サイト:
鹿児島県観光サイト/万世特攻平和祈念館     
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の説明版、碑文
万世特攻平和祈念館展示資料
「戦跡を歩く」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」


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知覧飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月、2024年1月訪問 2024/1更新  


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撮影年月日1947/09/18(USA M489_1 10) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎知覧町にあった「知覧飛行場」。

鹿児島南部に位置する陸軍飛行場であることから、全国各地の多くの陸軍特攻機がここに集まり、

沖縄方面に出撃して行きました。

オイラの地元埼玉の旧桶川飛行場からも陸軍つながりということで、

桶川から12機が知覧に進出し、出撃したという記録が残っています。

先頭のグーグルマップ、滑走路は平和会館で頂いた資料を基に作図しました。

東西方向に傾いているのがメインの滑走路だったそうです。

平和会館については下記リンクをご覧くださいませ。 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の要図があり、飛行場敷地はこの要図から作図しました。

同資料の情報を引用させて頂きます。

 
飛行場名  知覧
位 置   鹿児島県川辺郡知覧町
規 模   要図(東西1700 南北1800)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 九〇〇名分
 格納施設 掩体 大五ヶ所 小五〇ヶ所
摘 要   施設軍有

■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

の中にも当飛行場についての資料がありました。

以下引用させて頂きます。

知覧
判決 自重6屯以下の飛行機の使用に適す
滑走地区 1,500x300  1,600x200
舗装路 なし
土質 砂質壌土?
地表面の状況 表面張芝にして地耐力可
周辺の障碍物有無 西方山地注意を要す
誘導路 3,000x7(17?)
宿営 15棟あるも使用に堪えず
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 有
給水 水道設備あり
風向 北風

 
■防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」にも要図があり、

滑走路 1800x200  1800x200
と書き込みがありました。また以下の通り情報がありました。

土  質 火山灰
掩  体 大5 小50
通信保守 通信完備
宿営施設 900名

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赤マーカー地点。

滑走路方向


以下2024年1月撮影

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青マーカー地点。

主(斜め)滑走路の北西端部分。

滑走路方向。

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こげ茶マーカー地点。

主(斜め)滑走路の南東端部分。

滑走路方向。

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黒マーカー地点。

副(南北)滑走路の南端部分。

滑走路方向

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緑マーカー地点。

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 掩体壕
 掩体壕は敵の爆撃から格納してある飛行機を守るための防空壕です。太平洋戦争末期、斜面を利用したり、土を盛ったりして馬の蹄鉄型の壕を造りました。
 天井はなく、擬装といって、杉の幼木を切り、機体に立てかけて飛行機を隠しました。杉が枯れて茶色になるとまた緑の幼木を立てかけました。擬装は主に女子挺身隊員の仕事でした。間口15m、奥行き13m、高さ3m程でした。

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知覧飛行場の戦争遺跡 6 掩体壕

 掩体壕とは、コの字型に土塁を築き、爆弾が近くに落ちた場合でもその破片及び爆風から飛行機を守るシェルターである。
 特攻隊は、日本及び満州などで編成され訓練を積み前身命令が下されると沖縄に近い南九州及び台湾の飛
行場に進出した。

 昭和20年以降、日本各地は空襲を受けるようになり、特に南九州の飛行場は標的にされた。そのため、特攻隊が知覧に進出すると機体は直ちに掩体壕に格納され、米軍機の目を欺くため松や杉、雑木の枝を被せて偽装(カムフラージュ)された。
 掩体壕の土塁の高さは戦闘機などの小型機用でも4m程あり、機体を覆えるようになっていた。(一式戦闘機隼Ⅲ型甲の全高は約3.2m)
 掩体壕は、爆撃による被害を軽減するため飛行場周辺に分散配置され、飛行機は誘導路を経て飛行場に運ばれた。

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「蛸壺壕跡」

掩体壕のすぐ後方にありました。

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すぐそばにあった円形。

コレのことかしらん。

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紫マーカー地点。

B25 墜落搭乗員慰霊碑。

The Memorial Mounument of B25 Crash Crew
(B25 墜落搭乗員慰霊碑)

B25-#42-64934  SleepyTimeGal (機体ニックネーム)
On August7 1945,TheB25 fighter aircraft was hit by anti aircraft fire
from the chiran base and crashed The whole crew died in battle
(昭和20年8月7日 知覧基地からの対空砲火をうけ墜落。搭乗員全員が戦死した。)

搭乗員名
操縦士    MAVRI,Frank Henry   中尉
副操縦士   LANCASER,Vernon,Jr   少尉
爆撃・航法士 KURKJIAN,Theodore A   中尉
機関士・銃手 LANE,George Thomas  二等軍曹
銃手     BECK,Philip Sydney   二等軍曹
無線士・銃手 LAWRENCE,Frederick G 伍長

We pray that the souls of this 6men crew may rest in peace,and hope for
eternal and friendly relations between Japan and the United States
and permanent world peace
(上記6名の魂の平安を祈るとともに、将来に続く日米の友好と世界の恒久平和を願う)

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灰マーカー地点。

三角兵舎跡。

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復元された三角兵舎(知覧特攻平和会館隣にあります)
 飛行場からおよそ1km離れたこの林には,特攻隊員や援護部隊員が宿泊した兵舎や炊事場,風呂場などが設けられた。
 兵舎は,半地下式木造の建物で屋根だけが地表に出ていたので外から見ると三角形に見えることから「三角兵舎」と呼ばれ,敵の飛行機に見つからないよう木の枝などで擬装してあった。風通しが悪く,雨露をしのぐだけの簡易な三角兵舎で特攻隊員は出撃命令を待ち,薄暗い裸電球の下で遺書や寄せ書き,別れの手紙などを書いていた。

 三角兵舎には,知覧高等女学校の生徒が動員され,清掃,洗濯,裁縫,食事の配膳等,飛行兵の身の回りの世話を行ったり,手作りのマスコットをお守りとして渡し,出撃の際には特攻隊員の見送りも行った。
 平成25年3月,この地において発掘調査が行われ,幅約4m,長さ約30m,深さ約70cmの三角兵舎跡が発見された。

 

三角兵舎地区の記録
 知覧飛行場が特攻基地になると、知覧高等女学校の新3年生に対し、三角兵舎地区への奉仕が命じられた。
 その内容は特攻隊員・援護部隊員の兵舎の清掃、食事の準備、洗濯など身の回りのお世話であった。
 特攻隊を担当した前田 笙子さんは、隊員たちの事を絶対に忘れてはいけない、書き留めておきたいとの思いから家にあった使いかけの家計簿を祖父から貰い受け「特攻日記」として書き留めることにした。
 特攻日記には、奉仕に出向いた昭和20年3月27日~4月18日までの出来事が詳細に描かれている。
 4月1日までを紹介する。

特攻日記
「三月二十七日」
作業準備をして学校へ行く。先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと、びつくりして制服にきかへ兵舎まで歩いて行く。はじめて三角兵舎にきてどこもここも珍らしいものばかり、今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。こんな狭苦しい所で生活なさるのだと思つたとき私達はぶくぶくした布団に休むのが恥づかしい位だつた。わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかへらぬお兄様方が明日の出撃の日を待つて休まれるのだと思ふと感激で一杯だつた。五時半かへる。

「三月二十八日」
今日は特攻隊の方のいらつしやるお部屋へまはされたが、初めてのことで恥づかしくしたり逃げたりしたが、自分の意気地のないことを恥ぢた。明日からはどしどし特攻隊のお兄様方のおつしやることをおきゝして、お洗濯やらお裁縫を一生懸命やらうと思ふ。

「三月二十九日」
朝お洗濯をして午後ちよつと兵舎の掃除をしたついでにお話を承る。大櫃中尉を隊長とする第三十振武隊の方々は若いお方々で、隊長さんの威厳とした態度、私達には至つてやさしい隊長さん、部下の方々も実に隊長様になついていらつしやつた。松林の中で楽しく高らかにうたふ。

「三月三十日」
今日は出発なさるとのこと。朝早く神社の桜花をいたゞいて最後のお別れとして私達のマスコット人形とを差し上げる。無邪気に喜ばれる。貨物(トラック)で飛行機のところまで行つて食糧等を詰込んであげる。皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言はれて愛機に飛び乗られる。愛機には、さまざまなマスコット人形が今日の出撃をものがたるやうに風にゆられてゐる。出発なさつたが天気の都合でかへられる。大変残念がつていらつしやつた。

「三月三十一日」
今日は一日のんびりと特攻隊の方々と芝生でお話しをする。全部の方々の住所をおきゝする。佐々木、池田兵長さん、地獄県三途川区三丁目草葉蔭とかゝれる。そして、女学校生活などお話ししてお兄様方の軍隊生活のお話しもおききする。福家伍長様には私達と同年の妹様がいらつしやるさうで妹さんのお話しもおきゝする。

「四月一日」
今日はお洗濯、掃除をした後皆でお話しをする。十八歳の今井兵長さん、福家伍長さん二人で杉の皮をけづられ「伍長グラマン」と書かれる。何時までも何時までもお二人のことを物語るやうに。そして妹さんに笑つて出撃したと書いてくれとおたのみになる。血書をして私も一緒にとマスコット人形、髪の毛、爪を渡されたさうで、この立派なお兄さん、そしてこの立派な妹さんのことをお聞きして感泣する。この日、岩脇さんと戦闘指揮所へ行く。

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由来
 三角兵舎は太平洋戦争末期の特攻隊員の宿舎であり飛行場周辺の松林の中に散在していましたが半地下式木造のバラック建てて地上には三角の屋根しか見えず屋根の上には大きな木を横倒しにして擬装されていました。この地はその一つの三角兵舎の跡地であります
 当時の隊員の心情をしのびみたまを慰めとこしえのご冥福と平和を祈念するものであります。昭和57年3月建立 知覧特攻慰霊顕彰会


      鹿児島県・知覧飛行場跡地     
434機、452人が特攻としてここから飛び立って行ったのだそうです

知覧飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県川辺郡知覧町(現・鹿児島県‎南九州市‎知覧町)
座 標:N31°21′35″E130°25′35″
標 高:154m
飛行地区:1,700mx1,800m
滑走路:メイン1,900m×200m(14/32), サブ1,600m×200m(01/19)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1941年12月 24日 大刀洗知覧分教場開所
1945年03月 18日 初大空襲
     04月 01日 特攻出撃始まる
     06月 11日 特攻出撃終了

関連サイト:
知覧特攻平和会館    
ブログ内関連記事   

この記事の資料:
現地の説明板
平和会館のパンフ
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」


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指宿海軍航空基地跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1947/09/18(昭22)(USA M489_1 127) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎指宿(いぶすき)市の東、鹿児島湾に「指宿海軍航空基地」がありました。

先頭のグーグルマップは現地の説明版(後述)と上に貼った航空写真から作図しました。

オイラの主観がかなり入っていますが、おおよそこんな感じと思います。

防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:指宿水上基地 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:400x75コンクリート 主要機隊数:中型2,0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:各種用5,700平米 掩体:分散 

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紫マーカー地点。

現在はご覧の通りで県道238沿いに慰霊碑公園が整備されています。

公園には、「駐車場は休暇村指宿をご利用ください」と書かれていました。

駐車場はこのまま県道を南西に100mほど行ったところにあります(青マーカー)。

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入口入ってすぐの所にある案内図。

当時の防空壕の上を慰霊碑にしていることがわかります。

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赤マーカー地点。

防空壕の上はこのように整備されていました。

碑、説明版、殉職者名簿、展示物など並んでいます。

由来(全文)、指宿海軍航空基地は水上機の基地として昭和19年1月1日に開隊し第453海軍航空隊(旧 宿毛空を改編)の基地となり同年12月15日、第951海軍航空隊に統合され同隊指宿派遣隊となった。配備されていた零式水偵(三座)、九四式水偵(三座)、零式観測機(二座)にて索敵訓練及び対潜哨戒、船団護衛等の任務に従事していた。尚佐伯空の派遣隊が二式練艇にて大型機操縦の訓練と九州南方海域の対潜哨戒を実施していた。沖縄戦が始まると南西諸島方面索敵の要衝の基地となり水偵増援のための佐世保空、佐伯空、串本空、大湊空、偵察302飛行隊(瑞雲)等の派遣隊が飛来した。此の頃より未帰還機が出る様になった。昭和20年4月1日沖縄本島に米軍が上陸、4月下旬に至り制海権、制空権共に米軍の手に落ち、沖縄戦に於いてはやがて特攻機の不足から水上偵察機も特別攻撃隊として使用された。参加した水偵機は、零式水偵と九四式偵(北浦空魁隊、詫間空琴平水心隊)、零式観測機(天草空第12航戦、福山空琴平水偵隊)の三機種であった。尚当基地は3月18日、米艦載機の攻撃に始まり5月5日のB-29に依る爆撃で壊滅的被害を受けた。

指宿海軍航空基地哀惜の碑
君は信じてくれるだろうか
この明るい穏やかな田良浜がかつて太平洋戦の末期本土
最南端の航空基地として琉球弧の米艦隊に対決した日々のことを
拙劣の下駄ばき水上機に爆弾と片道燃料を積み見送る人
とてないこの海から萬感をこめて飛びたち遂に還らなかった若き
特別攻撃隊員が八十二人にも達したことを
併せて敵機迎撃によって果てた百有余人の基地隊員との鎮魂
を祈ってここに碑を捧ぐ

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      鹿児島県・指宿海軍航空基地跡地      

指宿海軍航空基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:水上飛行場
所在地:鹿児島県‎指宿市‎東方
‎座 標:N31°15′42″E130°39′41″
滑走台:400mx75m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1944年01月 開隊 索敵訓練、対潜哨戒、船団護衛等を行う
       沖縄戦が始まると南西諸島方面索敵の要衝の基地となる
       戦況悪化により、水上機も特攻機として使用
1945年05月 壊滅的被害を受ける
     06月 1日 指宿特攻基地の緊急整備実施

関連サイト: 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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B787・6 デリバリー開始までの経緯 [├雑談]

関連記事
B787・1 開発開始までの迷走
   
B787・2 開発開始~ロールアウトまで 
    
B787・3 ロールアウト以降のつまずき
     
B787・4 概要
    
B787・5 初飛行までの経緯
    

初飛行からデリバリーまでをまとめてみました。

部分的に過去記事と重複しておりますのでご了承くださいませ。

今後も787関連の記事はアップすると思いますが、「787・※」シリーズはこれで完結です。


2009年12月
22日 テストフライト2号機(ZA002)初飛行


2010年1月
15日 耐空証明検査完了。より多くのパイロットやフライトエンジニアとテスト機によるフライトテストが可能に。
これまでに15回のフライトテストを実施。高度は最高30,000フィート(9,144メートル)まで上昇、速度もマッハ0.65を記録。
29日 失速テストを実施

2010年2月
03日 テストフライト3号機(ZA003)で客室内デザインを初披露
16日 747ドリームリフターの最終機となる4号機(N718BA)の運航を開始。(4機体制で運びまくるんですね)
19日 ZA001、エンジントラブルで緊急着陸
24日 ZA004によるテストフライト開始。787-9型機(ストレッチ型)の開発と認証取得に必要なデータをより早期に収集する必要があるため、ZA003より先にZA004のフライトテストを開始した。今後ZA004は、航空力学や高速性能、推進性能、飛行荷重、空港周辺地域への騒音、ならびにETOPS(双発旅客機用の運航ルール)を中心に、多くのテストを実施。
受注数:876機

2010年3月
09日 フライトテスト用の2号機(ZA002)がカリフォルニア州ビクタービルに到着。フライトテストを開始。
14日 フライトテスト4号機(ZA003)、初飛行。
28日 静止テスト用機体にて主翼の最大荷重、屈曲テストを完了。民間機が運航中に予想される最大値の150%の荷重を機体に加え、主翼は、上方に約25フィート(7.6メートル)屈曲。胴体は通常運航最大値の150%まで加圧。分析の最終結果は数週間後提出予定。

2010年4月
06日 整備士養成第1期クラスを終了。この第1期クラスには、787型機のローンチカスタマーであるANAから10名の整備士と、国土交通省航空局より2名が参加。 ANAからは今回の10名を含め、計150名の整備士が今後7か月間にわたって受講する予定。
07日 3月28日実施の主翼、胴体への最大荷重テスト詳細分析の結果、成功裏に完了と発表。
16日 フライトテスト、500時間を記録。
20日 米連邦航空局(FAA)より型式検査承認(TIA)を取得。これにより、テスト機へのFAAスタッフの搭乗が可能となり、必要とされるフライトテストからのデータ収集が加速することに。
22日 フロリダ州バルパライソのエグリン空軍基地にあるマッキンレー気候研究所の特別格納庫で、極限天候下での一連のテストを開始。46℃~-43℃までの条件下で787型機をテスト。
受注数:866機

2010年5月
10日 GEnxエンジンを初起動。
12日 2名のANAパイロット、787型機(ZA001)の初フライト実施。
25日 フライトテスト4号機(ZA004)アリゾナ州のフェニックス・メサ・ゲートウェイ空港にて高温地帯での低高度飛行テストを実施。これまでに820時間以上の飛行を実施。
26日 フライトテスト4号機(ZA004)、コロラド州コロラド・スプリングに移動。高地空港用テストを開始。
受注数:860機

2010年6月
16日 GE製エンジンを初搭載したフライトテスト5号機(ZA005)初飛行。
総飛行時間1,000時間を突破。新型機の認証取得に必要となるテストプログラムの約40%を完了。フライトテストは非常に順調。

2010年7月
01日 ストレッチ型である787-9型機の最終コンフィギュレーションを決定。787-9型初号機のデリバリーは2013年後半を予定。
787型機の初号機は、2010年第4四半期にデリバリー予定。
18日 ファンボロー空港に到着。米国外で初公開。
19日 ファンボロー・エアショーにて展示。

2010年8月
16日 787型機用パイロット・トレーニングコースの暫定承認を米連邦航空局(FAA)より取得。5~20日間の受講により787型機の操縦資格への移行を可能にするもので、787型機との共通性の高い777型機の操縦資格を有するパイロットの場合、5日間のトレーニングを行う。現在、ボーイング・トレーニング&フライト・サービスは、東京、シンガポール、上海、シアトル、ガトウィック(UK)の5か所に施設を擁しており、8セットのトレーニング装置を備えている。
27日 787初号機デリバリーを2011年第1四半期半ばに変更。ロールスロイスエンジン供給遅延、水平安定板の製造上の問題、テスト機への搭載器材の積み降ろし等の問題のため。

2010年9月
03日 各フライトテスト機による試験続く。離陸中断、高温、極寒地域での運用、飛行荷重、着氷等、各試験が行われる。
13日 機体疲労テスト開始。航空機の商業運航可能期間に予想されるフライトの3倍の回数を想定したテストを行い、長期間継続して運航を繰り返した場合の構造や材料の疲労に対する強度を調べる。米連邦航空局の認可取得には、航空機の商業運航期間に予想される2倍の回数を想定したテストが必要とされることから、ボーイングでは、初号機のデリバリーまでに10,000回の模擬フライトを予定。

2010年10月
04日 フライトテスト6号機(ZA006)がテスト開始。これで予定していた全6機体制に。これまでに着氷テスト、騒音テスト等を完了し、初期の787型機に必要な離陸や操縦性能テストは完了。フライトテストはこれまでに1,900時間以上、620回以上のフライトを実施しており、ロールスロイス製エンジン搭載機に必要なフライトテストの65%以上を完了。また、4,000時間以上の地上テストを成功裏に完了。

2010年11月
09日 フライトテスト2号機(ZA002)、飛行中に機内の電気系統で火災発生。主電源停止。機は緊急着陸。他テスト機によるフライトテストプログラムを延期することを決定。
11日 フライトテスト2号機(ZA002)緊急着陸についての最新発表。発火元は"P100パネル"で、火は断熱材によって自動消火された。P100パネルは、機体後部の電子機器格納室に搭載されている複数の電源盤の1つで、左エンジンからのパワーを受けてシステムに配電する機能を持つ。このパネルに問題が発生した際には、ラムエア・タービン(RAT)、補助電源装置(APU)、バッテリーなどを含むバックアップ電源が作動し、自動的に機体の操縦に支障の無い電源が確保されるように設計されている。今回の停電時にも、それらのバックアップシステムが予定通りに作動し、機体のコントロールにも支障が無く、同機は無事に着陸した。
16日 出火原因の究明を継続。フライトテスト1号機(ZA001)がサウスダコタ州ラピッドシティからシアトルに戻り、5号機(ZA005)はカリフォルニア州ビクタービルからシアトルへ戻す決定。不具合が生じていた時間は90秒以内、その間火災が発生していた時間は30秒以内。787型機のフライトテストプログラムの再開時期はまだ決定していない。決定までには、今回の原因に関してのより詳細な調査と、787型機のデザイン変更の有無も含めた検証が必要であり、787型機プログラムのスケジュールに関しては、フライトテストプログラムの再開スケジュールが決定後に発表する予定。
24日 出火原因はP100パネルのショートかアーク放電によるものであり、その要因となったのは異物混入の可能性が高いことが判明。対策として電力分配機能の保護、管理を強化するために、機内電力分配パネルの設計微修正と、システム用ソフトウェアのアップデートにより不具合が生じる可能性を低減させる。

2010年12月
23日 電力分配システムの暫定版アップデートソフトウェアをインストールし、本日よりフライトテスト4号機(ZA004)にてフライトテストを再開。フライトテストの中断期間も認証取得に向けた地上テストを継続しており、今後も量産用の機体を使用して更なる地上テストを実施する。787型機プログラム全体の新スケジュールは、今後のフライトテストの実施スケジュールが決定した段階で1月中に決定する予定。

2011年1月
18日 初号機デリバリーは本年第3四半期と発表。今回のスケジュール変更は、昨年11月のフライトテスト中に発生した問題の影響を受けたもので、新しい電力分配パネルの製造とアップデートソフトウェアの開発、それらを全機体に取り付け、インストールするために要する日数を考慮した。さらに、認証取得に必要な期間と予備日数を加えてこの新スケジュールを決定した。787型機のフライトテストプログラムは徐々に元の状態に戻りつつあり、6機のフライトテスト機のうち4機は暫定版アップデートソフトウェアと新パネルのインストール後、地上テストを経て既にフライトテストを再開している。近日中に残り2機もテストを再開し、テストプログラムはフル稼働となる。2011年内の787型機のデリバリー機数は、今月26日の2010年度決算発表時に合わせて発表する予定。
26日 2010年度第4四半期および2010年度の業績を発表。 787型機は2011年第3四半期、747-8型機は2011年半ばに初号機のデリバリーが予定されており、この2機種の2011年度の合計デリバリー数は25~40機の見込み。
受注数:57社より847機

2011年2月
24日 フライトテスト、1,000回達成。テストはここまで順調に推移しており、 フライト時間は約3,000時間、飛行距離の合計は100万マイル以上に達した。型式証明に必要なフライトテストに関しては、ロールスロイス製エンジン搭載機で約80%、GE製エンジン搭載機では60%以上完了している。

2011年3月
07日 チェンジ・インコーポレーション(これまでのテスト等で発見された改修を他の機体にも施す作業)開始。

2011年4月
18日 世界レベルで787パイロットトレーニング開始へ。
26日 ANAパイロット向けのトレーニングを開始。ANA10名のパイロットは、4月初旬から東京でのトレーニングを開始し、4月23日からはシアトルでフライトシミュレーターを使用したトレーニングに移行している。

2011年5月

26日 ANAとボーイングは、787をアジアで初めて日本に飛来させ、国内での検証プログラムを実施する。検証プログラムは2011年7月4日(月)から8日(金)に行われ、この期間に羽田空港と伊丹空港・関西空港・岡山空港・広島空港を結ぶ路線にて実飛行も予定。

2011年6月
07日 最初のANAパイロットチーム10名に対する運航乗務員用トレーニングを完了。今回トレーニングを受講したのはANAの教官操縦士と査察操縦士で、この10名は今後、日本においてシミュレーター訓練と路線訓練を実施する。この10名は787型機の商用運航を手掛ける初のパイロットとなる。
21日 フライトテスト1号機(ZA001)がパリ・エアショー会場に到着。22、23日の2日間、会場内に展示。
27日 フライトテストプログラムの最終段階となる実用飛行テスト(F&R:Function and Reliability Flight Test)、および双発機による長距離洋上飛行の要件となるETOPS(Extended Operations)の実証テストを開始。F&Rテストは、航空会社による商業運航に近い環境下で様々な飛行状況を想定したシミュレーションを実施するもの。またETOPSは、着陸可能な陸地から飛行時間60分以上離れた洋上航路の飛行を可能にするもので、実証テスト期間中、エンジン1基が停止した状態での長距離目的地外着陸を含むあらゆるケースを想定して安全性を実証する。

2011年7月
03日  ANAの通常塗装を施した787のフライト テスト2号機(ZA002)、羽田空港に着陸。アジア初飛来。
04日  ボーイングとANA、787の検証プログラム(SROV:Service Ready Operational Validation)を開始。1週間にわたるこの検証プログラムでは、日々の運航環境に近づけて検証を実施。メンテナンスや地上での作業を羽田、伊丹、関西、岡山、広島の各空港で行う。プログラム終了後、ANAは787の定期便としての初就航路線を、羽田=岡山、広島とする予定。
13日 ANAとの検証プログラムを成功裏に完了し、羽田空港からインドのデリー空港へ。

2011年8月

06日 ANAにデリバリーする787型初号機を初披露。初号機の機体には、「イノベーティブ」、「際立つ個性」、「モダンジャパン」をキーワードとするANAのプロダクト・サービスブランドを表現する特別塗装が施されている。この初号機は、ビジネス、エコノミーの2クラス仕様で、短距離国際線用の機内デザインを採用。
17日 ロールス・ロイス製エンジン搭載787型機の型式証明取得に必要とされるフライトテストを完了。最終フライトテストの機体は787型機の第9号機(ZA102)で、フライト中、発電システムや燃料流量計に不具合が生じた際のシミュレーションを実施した。GE社製エンジン搭載の787型機は引き続きフライトテストを継続。
26日 ANAへの初号機納入日決定。9月25日に引渡し、翌26日に祝賀式典を開催することを決定。この初号機は式典後、9月27日にシアトルを出発、翌28日に羽田空港に到着予定で、羽田においても787プログラム関係者、報道関係者を招き式典を開催する予定。
26日 787型機の米製造証明書、型式証明を米連邦航空局(FAA)および欧州航空安全局(EASA)から取得。
29日 日本型式証明取得。国土交通省航空局長からボーイングジャパン社長であるマイケル・デントンに授与。

2011年9月
25日 ボーイングとANAは航空機引き渡しに関する書類に調印、787ドリームライナー初号機のデリバリーを完了。
26日 ボーイングエバレット工場敷地内にて787初号機のデリバリー式典を開催。式典では約10,000名の参加者が見守る中、787型機プログラムに携わる500名以上のボーイング社員がANAの特別塗装を施したドリームライナーに歩み寄り、ボーイング民間航空機部門の社長兼CEOのジムオルボーから、ANAの伊東信一郎社長に787ドリームライナー初号機の『鍵』が手渡された。
28日 初号機、羽田到着。

 

未確認なのですが、A350XWBも最近になって「開発は2年遅れになる」と発表されたとかで、
エアバスも新型機の開発に相当手こずっているみたいです。
やっと初号機デリバリーまで漕ぎ着けた787ですが、世界中から部品を集めて作る方式を採用しており、
きちんと足並みを揃えて順調に生産をすることができるのか、不安視する声もあります。
ボーイングファンのオイラとしましては、今後787の製造が順調に進むことを願っております。


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南九州旅行・2 [■旅行記]


Ⓐ山江SA→Ⓑ指宿海軍航空基地跡地→Ⓒ知覧特攻平和会館/知覧飛行場跡地→Ⓓ万世飛行場跡地→Ⓔ鹿児島空港→Ⓕ第二国分基地跡地→Ⓖ国分飛行場跡地→Ⓗ牧ノ原飛行場跡地→Ⓘ桜島基地跡地→Ⓐ鹿屋基地→Ⓑ笠之原飛行場跡地→Ⓒ串良飛行場跡地→Ⓓ道の駅くにの松原おおさき(車中泊)

2日目

4:30 起床

小型車の駐車エリアに止めていたのですが、朝外に出てみたらトラックに囲まれてました Σ(゚Д゚;)

大型車の駐車スペースはガラガラだったのですが。。。

なんてフリーダム!

トイレ、売店が近いからかしらん。

大型車に囲まれると一晩中非常にうるさいです。臭いし。(XДX)

 

5:00 出発。今日から本格的に各飛行場/跡地の見学開始です。

7:30 高速、有料道路を使用して一気に指宿まで南下しました。

指宿海軍飛行場跡地を見学した後、知覧へ。

ここには戦時中陸軍の飛行場があり、多くの特攻機が出撃して行きました。

現在は「知覧特攻平和会館」が整備されています。

5年ぶりにお邪魔しました。

9時の開館と同時に入ったのですが、スタッフのおばちゃんが機体を水モップでゴシゴシこすってましたΣ(゚Д゚;)

レプリカだからいいのかしらん。

前回お邪魔した時もそうでしたが、隊員たちの手記もさることながら、

飾ってある絵を見るだけで胸がいっぱいになります。

飛行場跡地の滑走路の正確な位置にこだわるオイラとしましては、ここの滑走路位置も非常に気になってました。

館内の職員さんに「滑走路位置を示した資料は何かありませんか?」とお尋ねしたところ、

「ここに滑走路はありませんでしたよ」と断言されました。

(エッ? でもあったはずなのに??) と思ったら、

「滑走路はなかったけど、転圧した未舗装の滑走路があった」と資料をくれました。

…やっぱりあったんじゃなイカ。

 

その後、万世飛行場跡地を見学後、一気に北上して鹿児島空港へ。

鹿児島空港は2年前に乗客として利用したのですが、時間的にきちんと見学できなかったのです。

鹿児島空港は離島に行く時に使うことになるはずなので、見学はその時にしようと考えていたのですが、

その後調べてみたら、周辺に見所いっぱいなので、今回きちんと見学するためにお邪魔しました。

「定期便が飛んでいる空港」を新たに見学するのは久しぶりです。

調べたら、昨年6月の中標津空港以来1年ぶりでした。

実は以前、地元のinfinityさんから鹿児島空港の見所を教えて頂いていたのでした。

まずはそのお勧めの1つ、「昔からあって良い」という2FのROYALで昼食をとることに。

洋食レストランなので、ここはハンバーグやステーキを注文するのがブログ的にも正解だと思うのですが・・・

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「東日本復興応援丼」?があったのでそれにしました。

ソースが美味しかったです。

店内は落ち着いた雰囲気。ウエイトレスさんも気さくな方ばかりでした。

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2F エアポートギャラリーでちょうど陶展をやっていました。

撮っていたら、「どうぞ手に取って見てくださいね」と製作者ご本人から声をかけられましたΣ(゚Д゚;)

その後infinityさんお勧めのバラバラの発着ボード、足湯おやっとさあ、空港目の前にある西郷公園を見学。

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「現代を見詰める西郷隆盛」

この写真では伝わりませんが、デカイです。すごい迫力でした。

鹿児島空港、想像していたのよりずっと、と言ったら失礼ですが、見所満載で非常に楽しい空港で、

見学予定時間をはるかに超過してしまったのでした。

infinityさん、どうもありがとうございましたm(_ _)m

鹿児島空港のヒコーキ関連のものは後日「鹿児島空港」専用の記事にてアップ致します。

 

その後第二国分飛行場跡地、国分飛行場跡地、牧ノ原飛行場跡地、桜島基地跡地、鹿屋飛行場、

笠之原飛行場跡地、串良飛行場跡地を回ったところで日没を迎えました。

本日はここまで。

明日の見学地のすぐ近くに道の駅があったので、そちらに移動しつつお風呂を探すことに。

…と思ったら、走り始めて間もなく「○○の湯」という小さな立札を発見。

ポツポツとある立札に導かれるまま山の奥の方へ。

曲がりくねった山道の先に廃墟かと思ってしまうような木造家屋があり、

「○○温泉」と書かれていました。しかしまったく人の気配がありません。

(本当にやってるの??) と車を降りて玄関に回ってみると、

「本日休業」の文字が。 _| ̄|○ il||li

仕方がありません。別の温泉を探すことに。

ナビをスクロールすると、ちょっと先に○○温泉という文字が出ていたのでそちらに行ってみることに。

先ほどの温泉と非常に似ていて、車一台がやっと通れるような山道がぐねぐねと続き、

急激に下った先の行き止まりに温泉がありました。

もう真っ暗。木々がうっそうと茂り、トンネル状に道を覆っていることも相まって、

まるで地の底のようです。

ライトを消すと一寸先も見えません。

やっと温泉に到着したのが20:15。

駐車するスペースがなくて、無理やり車を停め、建物の方に行ってみると、

温泉のおかみさんが、「お客さん、電話した方?」と姿を現し、

「この辺でうちを利用するのは年寄ばかりでね、みなさん早いので8時には閉めちゃうんですよ。

また是非早めに、7時までにいらしてくださいね(ニコニコ)」と言われてしまいました。ガーン

これで二連敗です。_| ̄|○ il||li

温泉マップで探すと、方向が異なってしまうのと、少し遠いのですが、

23時までやっている温泉がありました。

毎度のことですが、こうして見知らぬ土地でお風呂を求めて彷徨っていると、

思い立ったら即入れる自宅風呂の有難味が身にしみます。

温泉マップに紹介されているこの温泉には道の駅も隣接していて超便利です。

ということで無事に入浴できたのでした。

前回もそうだったのですが、お風呂探しで2時間も費やしてしまいました。

そういえば鹿屋市内を走っていた時、何ヵ所か温泉を発見しました。

結果論ですが、鹿屋まで戻った方が早かったです。

温泉に入るとスイッチが切れてしまい、

それから車で車中泊の場所に向かうためには再びスイッチを入れ直さないといけないので、

温泉と道の駅が隣接していると非常に助かります。

道の駅「くにの松原おおさき」で車中泊。

おやすみなさい。

 

本日の走行距離:481km

(続きます)


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滝ケ原飛行場 [├空港]

     2011年6月訪問 2020/11更新  



富士山の裾野、静岡県御殿場市にある滝ケ原飛行場。 

D20_0007.jpg

悪天候のためこんな暗い写真になってしまいました。

D20_0002.jpg

県道沿いに見える滑走路


      静岡県・滝ケ原飛行場      

滝ケ原飛行場 データ

設置管理者:防衛省
4レター:RJAT
空港種別:軍用飛行場
所在地:静岡県御殿場市中畑
座 標:N35°19′02″E138°52′19″
標 高:670m
滑走路:650m×18m
磁方位:02/20
(座標、標高はグーグルアースから)

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南九州旅行・1 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ滝ヶ原飛行場→Ⓒ関門橋→Ⓓ山江SA(車中泊)

(これは2011年6月に九州に行った話です)

「高速料金休日千円は6月19日で終了」とのことで、それまでにどこかに行こうと考えていたのですが、

休みのとれる週はどこも天気が思わしくなくて、その中でも最もよさげな九州に行こうと決めたのが前日のことでした。

本当は暖かい九州は年末に行こうかと思っていたのですが、先月に引き続きの九州です。

前回は福岡、佐賀、長崎の三県を回りました。

それで今回は残りの県を、熊本→鹿児島→宮崎→大分の順で回ることに。

「し」の字ですね。

実は先月の九州旅行から戻った後になって、

福岡の大刀洗記念館にはネットには出ていない飛行場の情報があることを知ったのでしたΣ(゚Д゚;)

もしかしたら、他にも貴重な情報がいろいろ得られるかもしれません。

そこでまずは記念館で情報を仕入れることに。

どこにも寄らずに真っ直ぐ記念館に向かえば、本日18:30頃には着けるのですが、

残念ながら記念館は17時閉館です。

それで明朝9時の開館時間に合わせて記念館に行くことにしました。

時間が余ってしまうので、前回のように本州内の飛行場に寄りつつ九州入りすることに。

前回愛知県、岐阜県に寄ったので、今回は三重、滋賀に寄るつもりです。

今回は別にフェリーに乗ったりレンタカー借りたりしないので、遅刻しても誰にも迷惑かけません ^^;

 

3:30 出発。

まずは先月撮り損ねてしまった静岡県の飛行場を撮ることに。

ということで、中央道大月JCTを富士山方面に進んだところで地図を確認しようとPAへ。

オイラの自宅は住宅街にあるので、早朝の時間帯は特に駐車場でナビ設定している場合ではないのです。

以前も少し書きましたが、未見学の飛行場の情報はすべて5冊のファイルにまとめてあります。

因みにファイルは、

No,1 北海道、東北、北関東
No,2 南関東、中部
No,3 中部、近畿、中国
No,4 四国、九州
No,5 大隅諸島~沖縄

となっております(どうでもいい情報)。

だもんで今回は本州の西側と九州の見学ですから、N0,3とN0,4の二冊持って行けばよい。ということですね。

PAに停車し、後ろからN0,3のファイルを取り出して。と思ったら・・・

 

…無い。Σ(゚Д゚;)ガーン

 

なんとオイラ、 N0,4とNo,5を持ってきてました。ヽ( ゚∀゚)ノウヒョヒョー!!

沖縄のファイル持ってきてどーする!! (;´Д⊂)

昨晩寝ぼけ眼で準備したのがいけなかった。。。

でもまあ、仮に忘れたのがNo,4だったら完全アウトで、自宅に取りに戻らないといけないところなので、

忘れたのがN0,3のファイルだったのは不幸中の幸いでした。

取り敢えず記憶を頼りに静岡の飛行場にはなんとか辿り着き、無事滑走路を撮影することができました。

計画していた三重、滋賀の見学場所は、今では何の変哲もない畑とか道路にすっかり姿を変えている箇所を

含むため、資料がないと行きようがありません。

今回は無理です。どうしよう。。。

今後についてはとりあえず九州に向かいながら考えることに。

「資料無しでも本州内で寄れる所」で思いついたのが、広島の呉に行くことでした。

「てつのくじら館」と「大和ミュージアム」という超有名スポットが隣接しており、この二ヵ所だけで半日はかかりそうです。

それで(広島に寄ってから九州に入ろうかしらん)などと考えたのですが、

結局、今回は九州に専念することにしました。

九州内の見学予定箇所がとても多くて、とても今回だけでは回れそうになかったのです。

予定通り真っ直ぐ福岡入りすると到着が早すぎるので、できれば今日中に鹿児島まで行き、

鹿児島→宮崎→熊本→福岡→大分とまわることにしました。

南端からジグザグ北上です。

結局今回の旅行でも時間の関係で一カ所行くことができなかったため、

結果的には、九州に専念して正解でした。

18:30 関門海峡通過。九州に入りました。

通常3:30に自宅を出れば、16:30頃通過するはずなのですが、

本日は大阪まで延々集中工事中で車線規制があり、2時間遅れでした。

鹿児島の最初の見学地は指宿なので、できれば今日中にそこまで行きたかったのですが、

夜になり、眠くなってまいりました。

21:30 熊本県山江SA着。

21:45 寝る。

おやすみなさい。

 

本日の走行距離:1,343km

(続きます)


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