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知覧飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月、2024年1月訪問 2024/1更新  


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撮影年月日1947/09/18(USA M489_1 10) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県‎知覧町にあった「知覧飛行場」。

鹿児島南部に位置する陸軍飛行場であることから、全国各地の多くの陸軍特攻機がここに集まり、

沖縄方面に出撃して行きました。

オイラの地元埼玉の旧桶川飛行場からも陸軍つながりということで、

桶川から12機が知覧に進出し、出撃したという記録が残っています。

先頭のグーグルマップ、滑走路は平和会館で頂いた資料を基に作図しました。

東西方向に傾いているのがメインの滑走路だったそうです。

平和会館については下記リンクをご覧くださいませ。 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の要図があり、飛行場敷地はこの要図から作図しました。

同資料の情報を引用させて頂きます。

 
飛行場名  知覧
位 置   鹿児島県川辺郡知覧町
規 模   要図(東西1700 南北1800)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 九〇〇名分
 格納施設 掩体 大五ヶ所 小五〇ヶ所
摘 要   施設軍有

■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

の中にも当飛行場についての資料がありました。

以下引用させて頂きます。

知覧
判決 自重6屯以下の飛行機の使用に適す
滑走地区 1,500x300  1,600x200
舗装路 なし
土質 砂質壌土?
地表面の状況 表面張芝にして地耐力可
周辺の障碍物有無 西方山地注意を要す
誘導路 3,000x7(17?)
宿営 15棟あるも使用に堪えず
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 有
給水 水道設備あり
風向 北風

 
■防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」にも要図があり、

滑走路 1800x200  1800x200
と書き込みがありました。また以下の通り情報がありました。

土  質 火山灰
掩  体 大5 小50
通信保守 通信完備
宿営施設 900名

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赤マーカー地点。

滑走路方向


以下2024年1月撮影

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青マーカー地点。

主(斜め)滑走路の北西端部分。

滑走路方向。

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こげ茶マーカー地点。

主(斜め)滑走路の南東端部分。

滑走路方向。

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黒マーカー地点。

副(南北)滑走路の南端部分。

滑走路方向

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緑マーカー地点。

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 掩体壕
 掩体壕は敵の爆撃から格納してある飛行機を守るための防空壕です。太平洋戦争末期、斜面を利用したり、土を盛ったりして馬の蹄鉄型の壕を造りました。
 天井はなく、擬装といって、杉の幼木を切り、機体に立てかけて飛行機を隠しました。杉が枯れて茶色になるとまた緑の幼木を立てかけました。擬装は主に女子挺身隊員の仕事でした。間口15m、奥行き13m、高さ3m程でした。

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知覧飛行場の戦争遺跡 6 掩体壕

 掩体壕とは、コの字型に土塁を築き、爆弾が近くに落ちた場合でもその破片及び爆風から飛行機を守るシェルターである。
 特攻隊は、日本及び満州などで編成され訓練を積み前身命令が下されると沖縄に近い南九州及び台湾の飛
行場に進出した。

 昭和20年以降、日本各地は空襲を受けるようになり、特に南九州の飛行場は標的にされた。そのため、特攻隊が知覧に進出すると機体は直ちに掩体壕に格納され、米軍機の目を欺くため松や杉、雑木の枝を被せて偽装(カムフラージュ)された。
 掩体壕の土塁の高さは戦闘機などの小型機用でも4m程あり、機体を覆えるようになっていた。(一式戦闘機隼Ⅲ型甲の全高は約3.2m)
 掩体壕は、爆撃による被害を軽減するため飛行場周辺に分散配置され、飛行機は誘導路を経て飛行場に運ばれた。

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「蛸壺壕跡」

掩体壕のすぐ後方にありました。

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すぐそばにあった円形。

コレのことかしらん。

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紫マーカー地点。

B25 墜落搭乗員慰霊碑。

The Memorial Mounument of B25 Crash Crew
(B25 墜落搭乗員慰霊碑)

B25-#42-64934  SleepyTimeGal (機体ニックネーム)
On August7 1945,TheB25 fighter aircraft was hit by anti aircraft fire
from the chiran base and crashed The whole crew died in battle
(昭和20年8月7日 知覧基地からの対空砲火をうけ墜落。搭乗員全員が戦死した。)

搭乗員名
操縦士    MAVRI,Frank Henry   中尉
副操縦士   LANCASER,Vernon,Jr   少尉
爆撃・航法士 KURKJIAN,Theodore A   中尉
機関士・銃手 LANE,George Thomas  二等軍曹
銃手     BECK,Philip Sydney   二等軍曹
無線士・銃手 LAWRENCE,Frederick G 伍長

We pray that the souls of this 6men crew may rest in peace,and hope for
eternal and friendly relations between Japan and the United States
and permanent world peace
(上記6名の魂の平安を祈るとともに、将来に続く日米の友好と世界の恒久平和を願う)

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灰マーカー地点。

三角兵舎跡。

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復元された三角兵舎(知覧特攻平和会館隣にあります)
 飛行場からおよそ1km離れたこの林には,特攻隊員や援護部隊員が宿泊した兵舎や炊事場,風呂場などが設けられた。
 兵舎は,半地下式木造の建物で屋根だけが地表に出ていたので外から見ると三角形に見えることから「三角兵舎」と呼ばれ,敵の飛行機に見つからないよう木の枝などで擬装してあった。風通しが悪く,雨露をしのぐだけの簡易な三角兵舎で特攻隊員は出撃命令を待ち,薄暗い裸電球の下で遺書や寄せ書き,別れの手紙などを書いていた。

 三角兵舎には,知覧高等女学校の生徒が動員され,清掃,洗濯,裁縫,食事の配膳等,飛行兵の身の回りの世話を行ったり,手作りのマスコットをお守りとして渡し,出撃の際には特攻隊員の見送りも行った。
 平成25年3月,この地において発掘調査が行われ,幅約4m,長さ約30m,深さ約70cmの三角兵舎跡が発見された。

 

三角兵舎地区の記録
 知覧飛行場が特攻基地になると、知覧高等女学校の新3年生に対し、三角兵舎地区への奉仕が命じられた。
 その内容は特攻隊員・援護部隊員の兵舎の清掃、食事の準備、洗濯など身の回りのお世話であった。
 特攻隊を担当した前田 笙子さんは、隊員たちの事を絶対に忘れてはいけない、書き留めておきたいとの思いから家にあった使いかけの家計簿を祖父から貰い受け「特攻日記」として書き留めることにした。
 特攻日記には、奉仕に出向いた昭和20年3月27日~4月18日までの出来事が詳細に描かれている。
 4月1日までを紹介する。

特攻日記
「三月二十七日」
作業準備をして学校へ行く。先生より突然特攻隊の給仕に行きますとのこと、びつくりして制服にきかへ兵舎まで歩いて行く。はじめて三角兵舎にきてどこもここも珍らしいものばかり、今日一日特攻隊の方々のお部屋の作り方。こんな狭苦しい所で生活なさるのだと思つたとき私達はぶくぶくした布団に休むのが恥づかしい位だつた。わら布団に毛布だけ、そして狭い所に再びかへらぬお兄様方が明日の出撃の日を待つて休まれるのだと思ふと感激で一杯だつた。五時半かへる。

「三月二十八日」
今日は特攻隊の方のいらつしやるお部屋へまはされたが、初めてのことで恥づかしくしたり逃げたりしたが、自分の意気地のないことを恥ぢた。明日からはどしどし特攻隊のお兄様方のおつしやることをおきゝして、お洗濯やらお裁縫を一生懸命やらうと思ふ。

「三月二十九日」
朝お洗濯をして午後ちよつと兵舎の掃除をしたついでにお話を承る。大櫃中尉を隊長とする第三十振武隊の方々は若いお方々で、隊長さんの威厳とした態度、私達には至つてやさしい隊長さん、部下の方々も実に隊長様になついていらつしやつた。松林の中で楽しく高らかにうたふ。

「三月三十日」
今日は出発なさるとのこと。朝早く神社の桜花をいたゞいて最後のお別れとして私達のマスコット人形とを差し上げる。無邪気に喜ばれる。貨物(トラック)で飛行機のところまで行つて食糧等を詰込んであげる。皆ほがらかに「元気で長生きするんだよ」と言はれて愛機に飛び乗られる。愛機には、さまざまなマスコット人形が今日の出撃をものがたるやうに風にゆられてゐる。出発なさつたが天気の都合でかへられる。大変残念がつていらつしやつた。

「三月三十一日」
今日は一日のんびりと特攻隊の方々と芝生でお話しをする。全部の方々の住所をおきゝする。佐々木、池田兵長さん、地獄県三途川区三丁目草葉蔭とかゝれる。そして、女学校生活などお話ししてお兄様方の軍隊生活のお話しもおききする。福家伍長様には私達と同年の妹様がいらつしやるさうで妹さんのお話しもおきゝする。

「四月一日」
今日はお洗濯、掃除をした後皆でお話しをする。十八歳の今井兵長さん、福家伍長さん二人で杉の皮をけづられ「伍長グラマン」と書かれる。何時までも何時までもお二人のことを物語るやうに。そして妹さんに笑つて出撃したと書いてくれとおたのみになる。血書をして私も一緒にとマスコット人形、髪の毛、爪を渡されたさうで、この立派なお兄さん、そしてこの立派な妹さんのことをお聞きして感泣する。この日、岩脇さんと戦闘指揮所へ行く。

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由来
 三角兵舎は太平洋戦争末期の特攻隊員の宿舎であり飛行場周辺の松林の中に散在していましたが半地下式木造のバラック建てて地上には三角の屋根しか見えず屋根の上には大きな木を横倒しにして擬装されていました。この地はその一つの三角兵舎の跡地であります
 当時の隊員の心情をしのびみたまを慰めとこしえのご冥福と平和を祈念するものであります。昭和57年3月建立 知覧特攻慰霊顕彰会


      鹿児島県・知覧飛行場跡地     
434機、452人が特攻としてここから飛び立って行ったのだそうです

知覧飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県川辺郡知覧町(現・鹿児島県‎南九州市‎知覧町)
座 標:N31°21′35″E130°25′35″
標 高:154m
飛行地区:1,700mx1,800m
滑走路:メイン1,900m×200m(14/32), サブ1,600m×200m(01/19)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1941年12月 24日 大刀洗知覧分教場開所
1945年03月 18日 初大空襲
     04月 01日 特攻出撃始まる
     06月 11日 特攻出撃終了

関連サイト:
知覧特攻平和会館    
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この記事の資料:
現地の説明板
平和会館のパンフ
防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」


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