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万世陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2024/8更新   


無題l.png
撮影年月日 1947/03/07(昭22)(USA M103 36)   

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前記事の「知覧飛行場」の南西約16km、鹿児島県‎南さつま市‎の海岸沿いに知覧飛行場の補助基地が建設されました。

「万世(ばんせい)陸軍飛行場」です。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」の中に要図があり、

先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

滑走路東側、飛行場に至る橋(紫マーカー)を渡って少しの所から、細長く「旧兵舎地区」とあり(黄色マーカー)、

飛行地区南西角の部分は大きな円形の斜線が引かれており(赤のシェイプ)、

「水位高きため土地緩み車輛通過不能箇所多し」とありました。

要図が大まかなのと、要図を基に線を拾ったのが上に貼った航空写真なんですが、

なかかな線が見つからなかった箇所がありました。

それでも要図に記されている長さを示す数字のおかげでなんとか作図できました。

おおよそこんな感じと思います。

同資料に当飛行場についての詳細な記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 小型飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 四〇〇x一、三〇〇米(約十五糎表土敷設転圧)
 舗装路 なし
 土質 海岸砂丘を地均したる後約十五糎粘土敷設
 地表面の状況 表面張芝したるも未だ地耐力十分ならず
 周辺障碍有無 東側砂丘は離着陸特支障大なり

 誘導路 なし(面式)
 宿営 三角兵舎地方側の建築せるものを借用二十棟(千名収容)
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 兵舎地区に張線しあるも飛行場内にはなし
其の他
 給水 一般に井戸を利用しあるも水質悪く水量不足なり
風向 北西 北西の場合は海岸より砂塵飛揚し為に機関の故障を発生すること多し


■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  萬世
位 置   鹿児島県川辺郡萬世町
規 模   要図(南北1500)
舗 装   (記載無し)
付属施設
 収容施設 (記載無し)
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

 
■防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」にも要図があり、

滑走地区 1,300x400
飛行地区 1,300x1150

と書き込みがありました。また以下の通り情報がありました。

土  質 砂土質
通信保守 通信完備
宿営施設 900名

冒頭で書いた通り、「知覧飛行場の補助基地」であったこと、そして約4か月という短い期間しか使われず、

詳しい資料が残っていないため、これまで「幻の特攻基地」と呼ばれてきました。

当飛行場が「幻」、「補助」なのに対し、

同じ陸軍系の知覧があまりにも有名になったため、

当基地から出撃した特攻隊員のご遺族の中にも、「知覧から出撃した」と思い込む方がおられるのだそうです。

「戦跡を歩く」という本に書かれていたのですが、

子犬を抱く少年兵を中心に特攻隊員が並ぶ「子犬を抱いた少年飛行兵」という有名な写真も、

知覧基地で撮影されたものだとされていたのですが、実際には当基地で撮影されたものなのだそうです。

この子犬を抱いた少年兵の実兄が群馬県桐生市でご健在であり、

この写真を撮った時の状況についても同書に記されていました。

それによれば、この子犬は部隊の将校が拾って可愛がっていた犬で、

抱いている隊員は当時17歳で、昭和20年5月27日に当基地から出撃した第72振武隊員。 

写真は出撃前日に撮影されたものなのだそうです。

D20_0040.jpg

青マーカー地点。

飛行場の営門が残っていました。

「当時軍の機密は厳重を極め、この営門には武装した衛兵が二十四時間立哨の任務についておりました。飛行場への出入りはすべてこの門からであり、万世基地から沖縄戦に出撃、突入した若き特攻隊員も、ここを通ったのであります。」

と説明されていました。

ここから121機が特攻機として飛び立っていきました。

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紫マーカー地点。

「万世特攻平和祈念館」。

12月31日、1月1日を除く毎日 9~17時まで。大人300円。

画面右端に碑文等がありました。

(全文)ここは、我が国三大砂丘の一つに数えられる吹上浜の南端に位置し、太平洋戦争の戦局が急を告げつつあった昭和十八年の夏から十九年の末にかけて本土防衛、沖縄決戦の軍航空基地として建設された「萬世陸軍飛行場」の一角にあたる大戦の思い出の地であります。昭和二十年三月から燃料を集積、三月末から飛行第六六戦隊が配備され、更に同年四月初第六航空軍の作戦計画によって特別攻撃隊及びその掩護と防空の飛行第五五戦隊も配備され特攻基地となり、沖縄作戦の最も熾烈を極めた七月下旬までに、ここ万世基地から飛行第六六戦隊及び特攻振武隊の諸隊、これを掩護する飛行第五五戦隊の若き勇士が祖国護持の礎たらんと勇躍沖縄方面へ出撃し、南海の大空に散華したのであります。終戦後幾星霜、今では当時の面影として、営門と水槽を残すのみとなりましたが、ここに立って松風や潮騒を耳にしながら「祖国のため」を合言葉に、征きて還らざる壮途についた紅顔の英姿をしのびつつ平和へ誓いを新たにしたいものです。

(全文)昭和十九年 太平洋戦争の戦局はとみに悪化し、すでに決定的段階を迎えんとしていた。ここ加世田市吹上浜の地に、戦勢転換の神機を期すべく地元民学徒ら軍民一致の協力によって、本土防衛沖縄決戦の基地萬世飛行場が建設された。昭和二十年三月二十八日より終戦に至るまで、陸軍特別攻撃隊振武隊の諸隊、飛行第六十六戦隊、飛行第五十五戦隊の若き勇士たちは、祖国護持の礎たらんと、この地より雲表の彼方へと飛び立った。一機また一機と。征きて帰らざる者あまた。或は空中に散華。或は自爆。壮絶にして悲絶。その殉国の至誠は鬼神もこれに哭するであろう。終戦以来幾星霜、ここに祖国は、その輝かしき復興をとげた。われら生き残りたる者と心ある人々は、英霊の魂魄を鎮め、その偉勲を讃えんがために、ここにこれを建立する。昭和四十七年五月二十九日

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赤マーカー地点。

吹上海浜公園内に設けられた「吹上浜展望台」へと至る直線の道。

現地にお邪魔した際は正確な滑走路の位置が分からず、ドコか滑走路っぽい場所はないかとたまたま撮ったんですが、

資料を基に作図したら、角度といい、位置といい、滑走路の中心線でした。

(オイラの作図が正しければ。ですけど)


■「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場に人員や物資の輸送を行っていた南薩鉄道万世線は、

敗戦後サイクリングロードになっています。

前述の通り当基地から特攻機の出撃があり、飛行場空襲も含め、200名を超える隊員が犠牲となりました。

終戦となり、飛行場は機密保持のために徹底的に破壊され歴史から消え去ったのですが、

当飛行場の元特攻隊員だった方々が慰霊碑を建て、全国の遺族から遺書や遺品を集め、

平成7年、旧加世田市と元隊員と遺族で結成した「萬世特攻慰霊碑奉賛会」の手に依り、

「加世田市平和祈念館」、現在の「万世特攻平和祈念館」が開館したのだそうです。

 

■K氏の長い長い一日

寺嶋さんから情報頂きました。

昭和20年5月27日、万世飛行場から特攻出撃したK氏の手記を寺嶋さんが書き起こしたものです。

五月二十七日
 午前三時半に起こされ出発準備、眠いのを堪え乍ら朝食に差し出された握り飯を各々手に、宿舎の人に別れを告げ、バス(軍用)で飛行場に向かう。未だ月明かりもなく暗い。
 司令官の前に集合、全員攻撃成功を祈念して乾杯。そうして司令官の一人一人に対する握手と短い別れの言葉を受け(その頃には全機発動機運転中のため、何時でも出発可能である)S隊長より最後の別れで敬礼。いざ行かん、暗い中で日の丸鉢巻きが特に白く目立つ。
 各自愛機を求めて四散。やがて出発線から爆音も高らかに、翼下には二百五十キロの黒い爆弾を吊り下げて単機で離陸。空中集合に依る編隊を場周で組む予定。
 如何にせん、我が愛機のみ試運転でレバー全開した処、ボスとエンジンが息をつくではないか。上空を見上げると、既に第二小隊まで離陸が終わり、A機が出発せんとしている急ぎ基地の参謀の取り計らいで、飛行場南端松林の中に置いてある予備機を貰い、追いつくべく試運転もそこそこに、出発点にて上空を見れば、空中集合の編隊も終わり、高度千米で枕崎の上空を基点に南進を開始せんとする。

 暗闇の海岸線の松林の土手を目標にして、一気にエンジン全開、なかなか浮力がつかず(爆弾が重いので)かろうじて車輪が浮いたので、高度を取ったが、土手に車輪が引っかかりそうで気が気でない。しかし無事離陸できたが本隊は整然と編隊を組み南進中である。
 同機種、同速故、何れ本隊が少し減速すれば追いつくものと、懸命に全速で追ったが、なかなか距離が縮まらぬ。気がせくがいかんともならず、その中上空は夜が明けたため、大分明るくなったのでよく見ると、もう南西諸島の奄美大島の北端の上空だが、友軍機は二千米位先をスズメの大きさ位で相変わらず見事な編隊で南進中を望見できるようになったが、高度を取れば速度が下がり、本隊とますます離れるので、困った。
 この広い空で本隊を見失ったら、最早最後で二度と会うのは困難だ。仕方なく、高度維持は諦め、距離を縮めるべく努力したが、悲しいかな同機種の悲しさ、本隊の方が減速して呉れない以上追いつき様がない。無情にも知ってか知らずか、減速して待ってくれない。

 やがて奄美大島中間を通過後、行く手に雲が出始めた。愈々雲の中に入れば万事休すだ。本隊と合流は諦めなければならぬ。そこで考えた。目的地に到着するためには、雲の上を飛ぶべきか、否下を飛ぶべきや。咄嗟に小生は下を選んだ。理由は敵の電波探知機を避けるため、天蓋を空けたまま。索敵飛行中の機上は、誰も、一人もいない。自分一人の孤独感で一杯になる。何故か編隊を離れて単独飛行は淋しい。でも、これも運命なら仕方がない。単機で、単機攻撃あるのみ。覚悟は既にできているので、自分でも不思議なくらい落ち着いている。

 思えば昨夜の作戦命令に依れば、第一第二飛行小隊合計六機は、沖縄本島北西部の海上に浮かぶケラマ列島周辺に集結中の敵艦船を攻撃目標と定め、我が第三飛行小隊は四機を以て、A機が指揮の上、沖縄本島東南部の全域湾に集結中の敵機動武隊を攻撃の目標と決定。故に我は単機命令通り全域湾に突入したが何も無い。このまま飛行時間を空費して燃料ばかり少なくなり、唯海上に燃料切れのため死んでは割に合わぬ気がして、それじゃあ又出直すことに決め帰路に途く。然し、海上の雲中航法で、旨く帰り着けるかどうか燃料も少ないし、不安であったことは事実である。燃料計を見ると、到底基地迄は無理なようである。ままよ、どうせ何処かで死ぬ身じゃないか、思えば気が楽である。それにしても本隊はどうしたか気になる。攻撃予定時間は既に過ぎている。旨く目標を捕捉出来たか、攻撃は成功したか、全員散華の後だろうか。否小生と同じ天候不良のため目標捕捉が出来ず、引き返したのではないだろうか。犬死には誰でも欲しない筈だ。(後で考えられることは、本隊は雲上飛行で目標に迫ったので、敵の電波探知機により、早くから敵空軍に捕捉され、途中でやられた可能性大なり)
(中略))
北進を始めると雲の切れ間が現れ天候が良くなっている気がしたが、相変わらず視界は〇米である。

 気がついてみると、出発して大分時間が経っている。空腹を覚えたが何も食べる物はない。朝食の握り飯は、本来の愛機の座席に積んだままである。やがて前方の視界が少し明け、次に見たことのない島影を見て、一瞬緊張(どこの島か不明故、或いは戦場の島かも)その中、航法の再点検により奄美大島らしいが確信がない。それで行く時に望見した北端半島の形の見覚えがあるので、それを探して見た処、間違いなく奄美大島であることがわかり、更に名瀬の市街地も確認したが、ちょうど名瀬湾内には商船がやられていて、半分船体を海中に没していたのが一艘あった。

 さて、燃料計は残り少なく、基地までは遠い故着陸せねばならぬが、この島には飛行場も無いので、陸地は平坦部分もないし、海岸に着陸以外方法はないと考え旋回中見た飛行地図の中に、奄美大島の東方海上に喜界島があり、而も島の北西海岸に、海軍の不時着場のマークがあるではないか。
 そこで考えたこの奄美大島の東海岸の僅かな短い砂浜の海岸に、決死で不時着するか、然し爆弾を抱いたままでは、助かる見込みは少ない。実在有無確認の上、万一東方海上に喜界島が見つからぬ時は、奄美大島の不時着も致し方ないと考え、まず地図上の島を求めて、名瀬を後に数分飛んでみた。やがて目指す方向は太平洋である。島の捕捉に失敗すれば、何もない海岸で、広い海では一巻の終わりである。

 後の奄美大島が視界から消えぬ間に、前方目的の島が視界に入らねば、引き返すつもりであったが、西の海上に島影が消えんとする頃、ようやく(東方)前方海上に淡く水平線上に島影が見えたので、そのまま近づくと、まさしく島で而も北西の海岸に面していたため、飛行場もすぐ目に入った。
 喜んだのは束の間で、よく見ると飛行場は全面が爆弾を受け穴だらけ、直線部分が無いので、着陸は不能である。然し海岸に不時着するよりはまだましだが、真直ぐに穴のない部分を探して、二、三回旋回して見て、やっと四、五百米の直線部分を発見、海岸より高度〇米で近着き、着地と同時にエンジンスイッチを切り乍ら直進滑走あるのみ。

 ところがである、基地には誰一人いない。無人島かもしれぬし、何とかして爆弾を放棄せぬと着陸できぬ。抱いたまま着陸に失敗すれば自爆以外にない。まず投下スイッチを入れても落ちない。海上で機体を急転等、色々試して見たが、全く反応なし、燃料もないし、斯くなる上は、共に抱いて洋上を何時間も飛んだので別れ難いか。

  えい、ままよそのまま、海上を超低空で海岸の端から着地。後は滑走力が弱り自然停止迄待つ外ない。中々停まらぬ長い長い時間が終わった気がして、やっと速度が減って来て、止まりそうになって、ほっとした瞬間、左車輪を軸に機体が左旋回を始めながら尾部が浮き上がり始めた。しまった最後かと思った処、尾部が水平近く浮き上がり、方向が左九十度向きを変えた時、完全に機体は停止して、尾部が元の位置に下ったので助かった。

 よく見ると爆撃の穴の円周に盛り上がった土が、車輪止めの代わりをして呉れたのだった。やっと助かったが、さて無人島では困ったと思いきや、飛行場の端から三三、五五と、人影が現われ、当方に近づいてくる。敵か味方か不明だ。要心のため機銃とピストルで身構えたが、どうも味方らしい見覚えのある合図を始めたので、安心した。それにしても、何処にいたのか姿も見えなかったのに。
 早速、皆が手伝って急ぎ機体を、飛行場端の雑木林内に隠して呉れたので、司令官に報告のため案内を乞うた処、山麓の地下壕に連れて行かれ申告したが、最高責任者は海軍の兵曹長であった。
(中略)
 この島の山頂に過去一年位い前から、地上で或いは空中での事故、戦闘も含め機体の損傷等により、愛機を持たぬ身となった者が約三十名程救助を待っている由、尚、鹿児島南端から遠からぬ此の島にして、斯くも救助困難な情況なるに、燃料のみ充分存在する分けも不思議であるので聞いた処、使った機体が、片端から攻撃を受け、残骸のみ空しく飛行場端の海岸線に、山積みされている由、制空権の無き哀れさよ。

 多数の中より選ばれた二名(少尉と軍曹)を後部席にして、帰途に着く訳だが、機体は先ず爆弾を降し、燃料を満タンにしたが、滑走路の心配があったが、よく調べてみると、東西に約五十米巾で直進滑走できる部分があるではないか。実は、爆撃された穴を毎回補修していたが、その繰り返し中、隅々穴埋め用の土を色違いの山麓の土で埋めた処、空中から見た目には、何時までも未補修に見えるのである。小生も実はそれに錯覚をして、不用の困難な着陸をしたのである。

 尚補足すれば、小生の着陸時、何人も補助をしなかった訳は、実は、巡洋艦でも一発で轟沈できる巨大な爆弾を抱いたまま降りてくる小生は、過去の例通り自爆するであろうことを予測して、危険を避け地下壕に全員退避していた由である。(着陸失敗がほとんどの由)斯くて十四時頃、息を切らして山頂より降りてきた二人を乗せ、狭い草原の短い滑走路を全速で滑走(唯、救いは爆弾を抱いていたより半分以上軽いこと)前方目印の二本のドラム缶が目前に迫るが、中々浮力がつかず、やっとの思いで浮上した。

 後の二人の笑顔が印象的である。高度千五百米迄場周しながら上昇したが、敵機の攻撃を恐れ、至急現場離脱、基地に直進すべく後の二人に催促され、洋上を索敵飛行。途中、硫黄島を左に見、その強烈な臭いを味わい乍ら、一路万世基地に進路を向けて飛び続け、無事着陸した。

 若し、わが本隊もと思ったが、残念乍ら基地にはなく、司令部に報告の時聞いたところ、全機任務完遂の由、なぜか涙が出て止まらない。一人残された身の置き処に苦しむことになった。

 これも運命かと諦め、救助した二名と別れ、昨夜皆と最後の一夜を共にした宿舎の飛龍荘に案内され、別命のあるまで待機を命ぜられた。私の長い長い一日がやっと終った。



寺嶋さん情報ありがとうございましたm(_ _)m


      鹿児島県・万世陸軍飛行場跡地     
ほとんど人力で建設しました。滑走路はセメントがなかったため、周囲の山からスイセイ岩を運び敷き詰めて造ったのだそうです。「万世特攻平和祈念館」資料によれば、海沿いの万世飛行場は元々砂地で地盤が脆いため、衝撃に強い旧型の固定式脚を付けた戦闘機が多く集められました。固定式脚の機体が全体の93%を占めていたのだそうです。

万世陸軍飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県川辺郡萬世町(現・南さつま市‎加世田高橋‎)
座 標:N31°26′23″E130°17′20″
標 高:7m
飛行地区:2,000mx1,300m不定形
滑走地区:1,300m×400m
方 位:16/34
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1942年    現地調査(当初は大刀洗飛行学校の分校を建設する予定だった)
1943年01月 83戸が飛行場建設のため移住、農地買収
     07月 着工
1944年    末頃 ほぼ完成
1945年02月 沖縄前進基地の燃料として使用するため、知覧から燃料(ドラム缶5,000本)の半分を移す。
     03月 飛行第66戦隊配備。空襲を受け、兵舎大破。
     04月 02日 特攻振武隊配備、
       06日 特攻隊第一回出撃
       13日 徳之島飛行場が爆撃により使用不能に。当飛行場が前進基地となる。

関連サイト:
鹿児島県観光サイト/万世特攻平和祈念館     
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この記事の資料:
現地の説明版、碑文
万世特攻平和祈念館展示資料
「戦跡を歩く」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」


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