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万世陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新   


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撮影年月日 1947/03/07(昭22)(USA M103 36)   

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

前記事の「知覧飛行場」の南西約16km、鹿児島県‎南さつま市‎の海岸沿いに知覧飛行場の補助基地が建設されました。

「万世(ばんせい)陸軍飛行場」です。

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」の中に要図があり、

先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

滑走路東側、飛行場に至る橋(紫マーカー)を渡って少しの所から、細長く「旧兵舎地区」とあり(黄色マーカー)、

飛行地区南西角の部分は大きな円形の斜線が引かれており(赤のシェイプ)、

「水位高きため土地緩み車輛通過不能箇所多し」とありました。

要図が大まかなのと、要図を基に線を拾ったのが上に貼った航空写真なんですが、

なかかな線が見つからなかった箇所がありました。

それでも要図に記されている長さを示す数字のおかげでなんとか作図できました。

おおよそこんな感じと思います。

同資料に当飛行場についての詳細な記述がありましたので、引用させて頂きます。

判決 小型飛行機の使用に適す
飛行地区
 滑走地区 四〇〇x一、三〇〇米(約十五糎表土敷設転圧)
 舗装路 なし
 土質 海岸砂丘を地均したる後約十五糎粘土敷設
 地表面の状況 表面張芝したるも未だ地耐力十分ならず
 周辺障碍有無 東側砂丘は離着陸特支障大なり

 誘導路 なし(面式)
 宿営 三角兵舎地方側の建築せるものを借用二十棟(千名収容)
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 兵舎地区に張線しあるも飛行場内にはなし
其の他
 給水 一般に井戸を利用しあるも水質悪く水量不足なり
風向 北西 北西の場合は海岸より砂塵飛揚し為に機関の故障を発生すること多し


■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  萬世
位 置   鹿児島県川辺郡萬世町
規 模   要図(南北1500)
舗 装   (記載無し)
付属施設
 収容施設 (記載無し)
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

 
■防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」にも要図があり、

滑走地区 1,300x400
飛行地区 1,300x1150

と書き込みがありました。また以下の通り情報がありました。

土  質 砂土質
通信保守 通信完備
宿営施設 900名

冒頭で書いた通り、「知覧飛行場の補助基地」であったこと、そして約4か月という短い期間しか使われず、

詳しい資料が残っていないため、これまで「幻の特攻基地」と呼ばれてきました。

当飛行場が「幻」、「補助」なのに対し、

同じ陸軍系の知覧があまりにも有名になったため、

当基地から出撃した特攻隊員のご遺族の中にも、「知覧から出撃した」と思い込む方がおられるのだそうです。

「戦跡を歩く」という本に書かれていたのですが、

子犬を抱く少年兵を中心に特攻隊員が並ぶ「子犬を抱いた少年飛行兵」という有名な写真も、

知覧基地で撮影されたものだとされていたのですが、実際には当基地で撮影されたものなのだそうです。

この子犬を抱いた少年兵の実兄が群馬県桐生市でご健在であり、

この写真を撮った時の状況についても同書に記されていました。

それによれば、この子犬は部隊の将校が拾って可愛がっていた犬で、

抱いている隊員は当時17歳で、昭和20年5月27日に当基地から出撃した第72振武隊員。 

写真は出撃前日に撮影されたものなのだそうです。

D20_0040.jpg

青マーカー地点。

飛行場の営門が残っていました。

「当時軍の機密は厳重を極め、この営門には武装した衛兵が二十四時間立哨の任務についておりました。飛行場への出入りはすべてこの門からであり、万世基地から沖縄戦に出撃、突入した若き特攻隊員も、ここを通ったのであります。」

と説明されていました。

ここから121機が特攻機として飛び立っていきました。

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紫マーカー地点。

「万世特攻平和祈念館」。

12月31日、1月1日を除く毎日 9~17時まで。大人300円。

画面右端に碑文等がありました。

(全文)ここは、我が国三大砂丘の一つに数えられる吹上浜の南端に位置し、太平洋戦争の戦局が急を告げつつあった昭和十八年の夏から十九年の末にかけて本土防衛、沖縄決戦の軍航空基地として建設された「萬世陸軍飛行場」の一角にあたる大戦の思い出の地であります。昭和二十年三月から燃料を集積、三月末から飛行第六六戦隊が配備され、更に同年四月初第六航空軍の作戦計画によって特別攻撃隊及びその掩護と防空の飛行第五五戦隊も配備され特攻基地となり、沖縄作戦の最も熾烈を極めた七月下旬までに、ここ万世基地から飛行第六六戦隊及び特攻振武隊の諸隊、これを掩護する飛行第五五戦隊の若き勇士が祖国護持の礎たらんと勇躍沖縄方面へ出撃し、南海の大空に散華したのであります。終戦後幾星霜、今では当時の面影として、営門と水槽を残すのみとなりましたが、ここに立って松風や潮騒を耳にしながら「祖国のため」を合言葉に、征きて還らざる壮途についた紅顔の英姿をしのびつつ平和へ誓いを新たにしたいものです。

(全文)昭和十九年 太平洋戦争の戦局はとみに悪化し、すでに決定的段階を迎えんとしていた。ここ加世田市吹上浜の地に、戦勢転換の神機を期すべく地元民学徒ら軍民一致の協力によって、本土防衛沖縄決戦の基地萬世飛行場が建設された。昭和二十年三月二十八日より終戦に至るまで、陸軍特別攻撃隊振武隊の諸隊、飛行第六十六戦隊、飛行第五十五戦隊の若き勇士たちは、祖国護持の礎たらんと、この地より雲表の彼方へと飛び立った。一機また一機と。征きて帰らざる者あまた。或は空中に散華。或は自爆。壮絶にして悲絶。その殉国の至誠は鬼神もこれに哭するであろう。終戦以来幾星霜、ここに祖国は、その輝かしき復興をとげた。われら生き残りたる者と心ある人々は、英霊の魂魄を鎮め、その偉勲を讃えんがために、ここにこれを建立する。昭和四十七年五月二十九日

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赤マーカー地点。

吹上海浜公園内に設けられた「吹上浜展望台」へと至る直線の道。

現地にお邪魔した際は正確な滑走路の位置が分からず、ドコか滑走路っぽい場所はないかとたまたま撮ったんですが、

資料を基に作図したら、角度といい、位置といい、滑走路の中心線でした。

(オイラの作図が正しければ。ですけど)


■「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場に人員や物資の輸送を行っていた南薩鉄道万世線は、

敗戦後サイクリングロードになっています。

前述の通り当基地から特攻機の出撃があり、飛行場空襲も含め、200名を超える隊員が犠牲となりました。

終戦となり、飛行場は機密保持のために徹底的に破壊され歴史から消え去ったのですが、

当飛行場の元特攻隊員だった方々が慰霊碑を建て、全国の遺族から遺書や遺品を集め、

平成7年、旧加世田市と元隊員と遺族で結成した「萬世特攻慰霊碑奉賛会」の手に依り、

「加世田市平和祈念館」、現在の「万世特攻平和祈念館」が開館したのだそうです。


      鹿児島県・万世陸軍飛行場跡地     
ほとんど人力で建設しました。滑走路はセメントがなかったため、周囲の山からスイセイ岩を運び敷き詰めて造ったのだそうです。「万世特攻平和祈念館」資料によれば、海沿いの万世飛行場は元々砂地で地盤が脆いため、衝撃に強い旧型の固定式脚を付けた戦闘機が多く集められました。固定式脚の機体が全体の93%を占めていたのだそうです。

万世陸軍飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県川辺郡萬世町(現・南さつま市‎加世田高橋‎)
座 標:N31°26′23″E130°17′20″
標 高:7m
飛行地区:2,000mx1,300m不定形
滑走地区:1,300m×400m
方 位:16/34
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1942年    現地調査(当初は大刀洗飛行学校の分校を建設する予定だった)
1943年01月 83戸が飛行場建設のため移住、農地買収
     07月 着工
1944年    末頃 ほぼ完成
1945年02月 沖縄前進基地の燃料として使用するため、知覧から燃料(ドラム缶5,000本)の半分を移す。
     03月 飛行第66戦隊配備。空襲を受け、兵舎大破。
     04月 02日 特攻振武隊配備、
       06日 特攻隊第一回出撃
       13日 徳之島飛行場が爆撃により使用不能に。当飛行場が前進基地となる。

関連サイト:
鹿児島県観光サイト/万世特攻平和祈念館     
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の説明版、碑文
万世特攻平和祈念館展示資料
「戦跡を歩く」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵「飛行場記録「上別府・万世・知覧」(陸空-本土周辺-115)」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「九州地区飛行場配置図」


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