国分海軍航空隊(第一国分基地)跡地 [├空港]
2011年6月、2024年1月訪問 2024/1更新
撮影年月日1946/04/19(昭21)(USA M57 229)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
鹿児島県霧島市。
前記事の「第二国分基地」の南南東約8.5kmに位置するこの場所に「国分海軍航空隊(第一国分基地)」がありました。
現在跡地の一部は「陸上自衛隊国分駐屯地」になっています。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」に当飛行場の1/50000の青図があり、
先頭のグーグルマップはこの青図から作図しました。
但しこの青図、とても大まかなもので、上に貼った航空写真と比較し、最も近いと思われる地割を拾って作図しました。
航空写真にもハッキリ写っている駐機場は一部地割が残っている(青マーカー)ので、作図した位置で間違いないとして、
滑走路は航空写真で見てもドレがドレだか分かりませんでした。
青図内に滑走路は50x1500とあるため、「その通りの長さの滑走路が無理なく置ける場所」で位置決めしました。
おおよそこんな感じ。という程度のものですのでご了承くださいませ。
青図にあった情報は以下の通りでした。
滑走路 (1)50x1500 (3)125000㎡
(2)50x1500 (4)65000㎡
■舗装 (1)コンクリート (3)栗石敷コンクリート
(2)白砂セメント (4)白砂敷転圧
運搬路 144,000㎡
飛行機 戦闘機有蓋10
置場 中■有5 無22 W12
隧道 3,430㎡
耐弾構造 133㎡
備考 20-1-1
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
にも以下の情報がありました。
基地名:国分 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:1,300x1,000芝張 主要機隊数:小型9,0 中型 主任務:教育 作戦 隧道竝ニ地下施設:居住,1,250平米、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型有蓋5 小型無蓋28
国分駐屯地。
赤マーカー地点。
「天降川小学校」
以下2024年1月撮影
黄色マーカー地点。
滑走路方向。
青マーカー地点。
黄色マーカー地点と反対側。
滑走路東端。
広く滑走路方向に道路が整備されています。
また、駐機場の地割が住宅地に一部ですが、ハッキリ残っています。
個人のお宅を大写しすることになるため、撮影は控えました(灰マーカー地点)。
紫マーカー地点。
国分駐屯地向いにある特攻碑公園。
特攻機発進之地
碑文(全文)
この地は、大東亜戦争中の昭和十八年出水海軍航空隊国分分遣隊が設けられ翌十九年八月十五日国分海軍航空隊として開隊、連日隊員の訓練を重ねたところであったが、昭和二十年初め敵軍沖縄本土に迫る頃、海軍特別攻撃隊の基地として使用され、四百人余の若き勇士達が莞爾として雲流れる果て、遥か逝いて帰らざる壮途につき、祖国の危急に殉じた思出深い土地である。
この碑は国の安泰を念じながら散華せる、これら若人の御霊のとこしえに安らかならんことを祈念し以って祖国の平和復興に資せんため、国分氏及び自衛隊並びに一般有志たちの浄財と陸上自衛隊国分駐屯部隊員の労力奉仕により之を建立したものである。 昭和三十九年八月十五日
鹿児島県・国分海軍航空隊(第一国分基地)跡地
国分海軍航空隊(第一国分基地) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県霧島市国分福島
座 標:N31°43′25″E130°45′09″
標 高:11m
面 積:約300ha
飛行地区:1,350m×1,000m
滑走路:1,500mx50m
方 位:10/28?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1942年 この頃農地を収用して着工
1943年 出水海軍航空隊の分遣隊
1944年08月 15日 国分海軍航空隊開隊
1945年 特攻機の発進基地として使用
05月 15日緊急整備強化実施
戦後は民間に払い下げられ農地などに転用
1955年 跡地の一部に陸上自衛隊国分駐屯地開設
関連サイト:
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」