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佐伯航空基地跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  

 
無題5.png
撮影年月日1947/03/04(USA M100 73) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

大分県佐伯市にあった「佐伯航空基地」。

現在は興人佐伯工場等になっています。

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)の中に、

右上に大きく「佐伯航空隊略図 縮尺約壱萬分之壱」と書かれた大判の青図があり、

「飛行場約960,000㎡」「格納庫又居住施設ハ全テ大中破」と記されていました。

また同資料には「戦時中の施設配置図」もあり、「滑走路幅50m 長さ850m」とありました。

先頭のグーグルマップは、この青図、位置図、それから上に貼った航空写真を比較しながら作図しました。

また、位置図にあった「水上隊」、「航空隊」等の名称を上の航空写真に反映させました。

同資料の資料表には、

佐伯航空基地(隊)施設調査資料
水陸別 水上(中小) 陸上(小)
所在地 大分県佐伯郡佐伯町
最寄駅 日豊本線佐伯駅
飛行場 滑走路六〇x八〇〇米 (台)五〇x一〇〇、五〇x一七〇 
主要機種 小中型機、練習機
主要任務 訓練基地
収容力 人員 終戦時 一,五〇〇平米
収容力 飛行機 終戦時 掩体 小(五)四二 小(一七〇
其の他の主要施設 送信所、舟溜、桟橋、射撃場、隧道
 

とありました。

また、「戦時中の施設配置図」には二本ある滑走路について、

南北方向の長い滑走路はどちらの方向にも離着陸可能なんですが、

斜めの短い滑走路の方は、離陸方向が南東側からの一方向のみと記されています。


■Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases.(下記リンク参照)

の中に2つの滑走台位置について出ていました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:佐伯(水上陸上両基地) 
建設ノ年:1939 
飛行場 長x幅 米:800x60 台100x50 170x50コンクリート 
主要機隊数:陸小1.5 水小2.5 
主任務:作戦 
隧道竝ニ地下施設:居住(1500㎡)指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、工業場、倉庫、魚雷調整場 魚雷格納庫 掩体:小型有蓋5 小型隠蔽170 小型無蓋42 其ノ他記事:雷同時調整6本 同格納庫24本

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「佐伯空開隊(S10.8.15)(昭14建)」とありました。 

D20_0329.jpg

赤マーカー地点。

「佐伯ヘリポート」。

D20_0374.jpg

紫マーカー地点。

「佐伯市平和記念館」。

公園が整備されていて、

D20_0351.jpg

引き揚げられた戦時中のヒコーキの残骸が数点展示されていました。

D20_0332.jpg

「聯合艦隊機動部隊 真珠湾攻撃発進之地」碑

碑文(全文) 日米関係が緊迫し、時の大勢に抗し難く、意を決した聯合艦隊司令長官山本五十六大将は、有事の作戦を想定して各地て激しい訓練を重ね、佐伯湾に集結した聯合艦隊の旗艦「長門」から聯合艦隊機密作戦命令を発令した。昭和十六年十一月五日命令第一号「対米英蘭戦争ニ於ケル聯合艦隊ノ作戦ハ別冊ニ依リ之ヲ実施ス」。同十一月七日命令第二号「第一開戦準備ヲナセ。Y日ヲ十二月八日ト予定ス」 発令に並ひ、十一月四日から六日にかけて、山本長官査閲のもとに、佐伯湾在泊中の聯合艦隊主力と佐伯航空隊を真珠湾の敵戦力と仮定し、飛行機隊による最終の攻撃訓練が行われた。十一月十七日の午後には、湾内の機動部隊旗艦 空母「赤城」艦上において壮行会が開かれ、山本長官の切々たる訓辞を受け、翌十八日、山本長官らに見送られて、南雲忠一中将の率いる機動部隊が、真珠湾攻撃の秘策を胸に、三三五五、択捉島単冠湾に向けて発進したのが、ここ佐伯湾である。一縷の望みを託した日米最後の交渉も空しく、昭和十六年十二月八日未明、機動部隊は真珠湾を急襲し、遂に悲劇的な太平洋戦争に突入した。戦後はや五十数年の月日は流れ、明治の末から昭和にかけて度々聯合艦隊が演習のため入港し、また太平洋戦争の起点となった佐伯湾は、過去の戦争も知らぬげに波静かである。かつて国の存亡を賭けた闘いに、死を覚悟して出撃した雄々しくも哀しい海のつわもの達が 波枕に夢を結んだ風光明媚な佐伯の海よ永遠に平和なれと願い、戦没者の御霊安らかならんことを祈るものである。平成九年十一月十八日 建之 歴進会

ここから真珠湾攻撃の機動部隊が発進したのですね。

まったく知りませんでした。

この碑のすぐ近くに日米友好記念植樹の碑等も設置されています。


      大分県・佐伯航空基地跡地     
掩体壕が現存するらしいのですが、工場敷地内で立ち入りできませんでした(2015/4/18追記:掩体豪見て来ました)

佐伯航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:水陸両用飛行場
所在地:大分県佐伯郡佐伯町(現・佐伯市‎東浜‎)
座 標:N32°58′05″E131°55′11″
標 高:10m
面 積:96ha(陸上飛行場地区)
滑走路:850mx50m(02/20)、450mx40m(14/32)
滑走台100mx50m、170mx50m(コンクリート) 
(座標、標高、方位はグーグルアースから。他は防衛研究所各収蔵資料から)

沿革
1934年12月 開隊。艦隊の出入港に合わせて豊後水道の航路警戒を行う
1935年08月 15日、佐伯空開隊
1939年    建設
1945年03月 空襲が始まる
       戦後、滑走路が造成された女島地区は民間に開放された

関連サイト:
Translation No. 65, 12 May 1945, digest of Japanese air bases.(20コマ) 
ブログ内関連記事     

この記事の資料:
現地の碑文
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-90 航空基地図(本土関係)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 呉鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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南九州旅行・5 [■旅行記]


Ⓐ道の駅やよい→Ⓑ佐伯航空基地跡地→Ⓒ臼杵航空基地跡地→Ⓓ旧大分空港跡地→Ⓔ久住滑空場→Ⓕ日出生台飛行場跡地→Ⓖ草地航空基地跡地→Ⓗ犀川飛行場跡地→Ⓘ白鳥PA(車中泊)

5日目

4:20 起床。

本日は見学の最終日です。

見学したい箇所が7つ残っているのですが、お天気と交通情報によっては、昼には九州を離脱するつもり。

4:55 道の駅やよい出発。

すぐ近くの佐伯基地跡見学。その後臼杵飛行場跡、旧大分空港跡と東九州道を利用して進みました。

この周辺は来週まで無料化社会実験区間なのでしっかり利用させていただきました。

DSCN0055.jpg

旧大分空港近くのジョイフルで朝食。

D20_0013.jpg

旧大分空港のすぐ西側にホーバー乗り場跡があったので寄ってみました。

ここは2009年の10月に、廃止ギリギリで来た場所です     

画面左半分にホーバー乗り場の建物があったはずなのですが、更地になってました。

最初、あまりの変わり様に気が付かず、2周してしまいました(@Д@)ドコ?

現在ここは大分交通バスの回転場になっています。

その後、雨は大分小降りになり、帰る方向に通行止めもなかったため、

久住滑空場、日出生台飛行場、草地飛行場跡、犀川飛行場跡と、本日予定していた箇所を全て回ることができました。

最後の見学を終えたのが14:56。

ここから一路埼玉の自宅に戻ることに=(⊃゜Д゜)⊃

D20_0043.jpg

九州最後のSAだったと思うのですが、ちょっと休憩。

「どうぞ気を付けて」と笑顔で手渡してくれたのが嬉しかったです。

関門大橋を通過したのが16時過ぎ。

本州内に入っても結構雨が降っていて、また前回みたいに通行止めになったりしないかヒヤヒヤで、

ブログ的には通行止めになってしまった方がオイシイのでしょうが、

その後特に障害もなく順調に走ることが出来ました。

白鳥PA着。

22:00 寝る。

 

~翌日~

4:00 起床して出発

12:05 自宅到着。

ということで、無事自宅に戻ったのでした。

これで旅行記はおしまいです。長々とお付き合いありがとうございました m(_ _)m

(続かない)

 

5日目の走行距離:804km

総計:4,219km 21.0km/l


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大刀洗東飛行場 [├空港]

    2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1947/11/21(昭22)(USA M664-1 99) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福岡県朝倉市、大刀洗飛行場の東側に位置する「大刀洗東飛行場」。

戦時中九州内にあった飛行場は、防衛研究所で幾つもの収蔵資料をこれまで見てきましたが、

ココは未だに登場せず、ネットで検索してもまったく出てきません。

この飛行場は大刀洗平和記念館で初めてその存在を知り、説明員さんからいろいろ教えて頂いたのでした。

先頭のグーグルマップは、記念館の床面に貼られた航空写真から作図しました。

おおよそこんな感じではないかと。

「北飛行場」、「大刀洗飛行場」がやられてしまったため、

もう一つ、ということで建設が始まりましたが途中で終戦を迎えました。

男手がなく、細々と造っていたのだそうです。 

上に貼った航空写真、一体ドコに滑走路があるのか相当難易度高いですが、

先頭のグーグルマップ同様、一応左上~右下にかけ、滑走路があったはずです。

よーく見ると、なんとなく田畑の地割が消しゴムをかけたように斜めにどんよりしている部分があるような。。。

D20_0327.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向にレンズを向けたつもり。

大刀洗飛行場の真東、約8kmに位置しています。

建設途中だったせいか、滑走路跡を示す地割はないようです。

説明版でもないかしらん。と思って走り回ったのですが、発見できませんでした。


      福岡県・大刀洗東飛行場跡地      

大刀洗東飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:福岡県‎朝倉市‎三奈木‎
座 標:N33°24′16″E130°42′36″
標 高:42m
滑走路:1,500mx80m?
方 位:11/29
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

沿革
北飛行場、大刀洗飛行場の空爆を受けて着工
建設途中で終戦。

関連サイト:
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大浜(玉名、高瀬)飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新   


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撮影年月日 1949/03/03(昭24)(USA M1243-A 114) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

熊本県‎玉名市‎大浜・北牟田の水田一帯に造られた「大浜飛行場跡地」。

「玉名飛行場」、「高瀬飛行場」とも呼ばれていました。

現在は水田に戻っています。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  高瀬
位 置   熊本県玉名郡豊水村
規 模   要図(北西-南東1400 北東-南西1570)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 五〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

当地から北数キロの所に「玉名市立歴史博物館こころピア」という現代アートのような風変わりな施設があり、

ここで「玉名の戦争遺跡 大浜飛行場」というパンフレットをいただきました。

上図の飛行場境界線、滑走路はこのパンフを参考に作りました。

おおよそのものですのでご了承くださいませ m(_ _)m

D20_0317.jpg

青マーカー地点。

修復した正門門柱。

この周辺に遺構が密集しており、案内板等分かりやすく整備されていました。

上の写真の説明版とは別に、すぐ近くに説明版がありました。

大浜飛行場跡(全文) (陸軍大刀洗飛行学校玉名教育隊) 大浜・北牟田の中央部水田一帯に、昭和十九年三月(一九四四)縦横一五〇〇m、総面積二百四十町歩を飛行場施設・滑走路として使用開始した。滑走路は遂度土工法で暗渠をはさみ、全長千m幅七十五mの二本で、航空隊本部・大小格納庫八基、兵舎棟などの関連建物があり、昭和二十年(一九四五)に完成した。昭和一九年三月、各地から操縦指導員五十名が当地に着任、同年四月陸軍少年飛行兵操縦十五期生二十名が入校開隊し、四ヶ月間の訓練の後各飛行隊に配属された。八月には、陸軍特別幹部候補生第一期生百二十名が入隊、赤とんぼ・ユングマン九七戦改等の練習機を使用し訓練をはじめた。昭和二十年五月十日と十三日朝、連合軍B二九(二機)と艦載機(グラマン)五十九機による空襲を受け、飛行場付帯施設は壊滅的な被害を受けた。※五月十日二百五十kg爆弾二十発(うち時限爆弾八発)を投下 ※五月十三日 五十~二百五十kg爆弾三百五十発を投下 また、瀬戸・天神・下町は空襲による被害もうけた(死者十八名・家屋の損害七棟) その後教育隊は改編され、二十年夏鳥取県米子市へ移転、八月十五日の終戦までは守備隊・実戦部隊が残り使用した。現在、正門・大小格納庫基礎・風呂・井戸・診療所基礎が良好な状態で残っている。戦後、昭和二十二年三月(一九四七)跡地に玉名農地開拓団として六十四戸が入植し現在に至っている。 ※大刀洗飛行学校は現在の福岡県三井郡大刀洗町にあった。

大浜飛行場(パンフレットより) 昭和19年、大浜に大刀洗陸軍飛行学校玉名教育隊が開隊しました。それにあわせて、格納庫・医務室・修理工場・風呂場・兵舎などの諸施設がおかれ、若い操縦生が訓練に励みました。しかし、昭和20年5月に米軍機による空爆によって大浜飛行場はその機能を失い、修復する間もなく、8月の終戦を迎えることになったのです。大浜・豊水・横島にわたる広大な用地は、戦後民間に払い下げられ、水田や宅地となりました。

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に当飛行場について扱われていました。

以下一部引用させて頂きます。

有明海に面したこの一帯は、海岸堤防が壊れた場合の、海水の侵入にたいする対策が必要であった。(中略)
「滑走路は島式と呼ばれ、たとえ、海岸堤防が壊れて、海水が侵入しても、
島のように残るように1m位の盛土をする計画であった。幅100m位、長さは1000mの予定であった。
19年3月完成。また、全体的に75cm盛土する計画であったが、戦争激化で間に合わなくなったので(中略)、
そこで、飛行場外の田を買取り、地下げして建築部位に積み上げた。
このため、下(しも)の出口や寺のうしろは池となり、養魚場となったこともある」。

D20_0320.jpg

赤マーカー地点。

飛行場中心付近。


      熊本県・大浜飛行場跡地      

大浜飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県玉名郡豊水村(現・熊本県‎玉名市‎大浜町‎)
座 標:N32°54′00″E130°33′32″
標 高:2m
面 積:238ha
飛行地区:1,400mx1,570m
滑走路:1,000m×75m2本?
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年    夏に用地説明、買収、家屋移転
1944年03月 大刀洗陸軍飛行学校玉名教育隊開隊。少飛15期120名入校。
     07月 少飛卒業後、特幹1期120名入校
1945年02月 大飛校廃校。錬成飛行第8戦隊へ改編。空542(第8練習飛行隊)は決と号要員として米子飛行場へ移駐
     05月 空爆により機能喪失
     07月 第30戦闘飛行集団配当飛行場。中旬、第90,91振武隊12名が駐留
     08月 終戦
1947年03月 玉名農地開拓団64戸入植

関連サイト:
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この記事の資料:
現地説明版
玉名市立歴史博物館こころピア資料
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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黒石原(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場)飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新   


無題2.png
撮影年月日 1947/04/11(昭22)(USA M247 45)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

熊本県‎合志市‎にあった「黒石原(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場)飛行場」。

逓信省の「熊本地方航空機乗員養成場」として開設しましたが、後に陸軍に接収され、

「黒石原陸軍飛行場」となりました。

現在は畑地、自衛隊敷地等になっています。


■「九州の戦争遺跡」によりますと、黒石原は明治時代から陸軍演習場として利用されていたのだそうです。

また演習場以外には射撃場、県種畜場、農林省種鶏場などの農業施設、ゴルフ場、

ハンセン氏病患者が強制隔離された九州らい病療養所(後の国立療養所菊池恵楓園)がありました。

逓信省の飛行場として完成した当飛行場でしたが、徐々に軍事色を強め、南西部の須屋地区まで施設は拡張し(後述)、

その目的も特攻隊員の養成が中心となりました。

また、らい療養所の南側には昭和17年「傷痍軍人療養所再春荘」も建設され、黒石原は一大軍事地域となりました。

熊本電気鉄道が人員や物資の輸送を行ったのだそうです。

昭和20年5月13日米軍の爆撃を受け壊滅状態となり、

らい療養所の患者2名、再春荘の医療関係者6名、民家でも2名が犠牲となりました。

ここは戦後米軍に接収されましたが、昭和33年に返還され、

農地、農業施設、公園、住宅地、公園、陸自演習場などになりました。

D20_0306.jpg


D20_0305.jpg

「黒石原コミュニティーセンター」にあるコンクリート製の遺構。

乗員養成所時代に設けられた「奉安殿」。

天皇陛下の御真影や教育勅語などを保管する専用建物で、第二次大戦まで学校等教育機関には多くあり、

当飛行場唯一の遺構だそうです。

「九州の戦争遺跡」によりますと、この奉安殿は飛行場敷地の中にあったとあります。


■防衛研究所収蔵資料:「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)で当飛行場が扱われていました。

以下引用させて頂きます。

黒石原
判決 自重6屯以下の飛行機の使用に適す
滑走地区 1,400x300
舗装路 なし
土質 酸性火山灰
地表面の状況 表面張芝にして地耐力可なるも一部軟弱地帯あり
周辺の障碍物有無 なし
誘導路 なし
宿営 三角兵舎15棟(500名)
夜間着陸設備 なし
動力線 なし
電灯線 なし
給水 なし
風向 北西風

同資料内で当飛行場敷地の間略図と共に敷地の長さが記されていました(作成日不明)。

それによれば、敷地は南北1,100m、東西1,000m、北東の角~南西の角まで1,300mです。

この数字は、1947年の航空写真と比較しても明らかに小さく、

この数字の通りなら、奉安殿のあった場所は敷地範囲に含まれません。

つまり、当初は防衛研究所収蔵資料に出てくる通りの数字の「小さな飛行場」だったのが、

後に「九州の戦争遺跡」にある通り、奉安殿のある須屋地区まで拡張したということなのではないかと思います。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  黒石原
位 置   熊本県菊地郡合志村
規 模   要図(長さ、かすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設  
 収容施設 一二〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設官有

 

ところで話はガラリと変わりますが、官報 昭和十五年五月二十四日 第四千十二号 金曜日 九六二 

の中にこんな記事がありました。

逓信省告示第千三百九十三号
左記飛行場の設置を許可せり
昭和十五年五月二十四日
逓信大臣 勝 正憲
一、設置の目的 公共用
二、経営者の指名又は名称及び住所 熊本県
三、用地所有者の氏名又は名簿及住所 熊本県
四、飛行場名及所在地 愛国熊本飛行場 熊本県菊池郡合志村
五、陸上、水上又は水陸両用飛行場の別 陸上飛行場
六、面積及地形 総面積三十一萬一千六百十平方米
        滑走路区域 長北北西-南南東約六百八十米幅約百六十米
        及長東北東-西南西約六百米幅約百六十米略十字形
七、恒風位 北北西
八、設置期間 自昭和十五年五月二十一日至同二十三年三月十四日

昭和15年、熊本県菊池郡合志村に設置された熊本県の公共用飛行場「愛国熊本飛行場」。

設置場所からして黒石原飛行場の近隣にあったと思われるのですが、現在のところ位置が不明です。

情報お待ちしておりますm(_ _)m


      熊本県・黒石原飛行場(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場)跡地      

黒石原飛行場(幾久富、熊本地方航空機乗員養成場) データ

設置管理者:逓信省→陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県菊地郡合志村(現・熊本県‎合志市‎豊岡‎)
座 標:N32°52′48″E130°45′52″
標 高:89m
滑走地区:1,400mx300m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1937年    逓信省、九州循環線の寄航地として熊本飛行場(後の黒石原飛行場)設置決定
1938年    逓信省の養成所として開設
1941年04月 逓信省熊本地方航空機乗員養成所開所。本科第一期生入所
1942年    本科第1~5期生が訓練実施
    10月 第12期操縦科生入所、翌10月卒業
1943年    操縦科・機関科の教育・訓練を継続実施
1944年04月 大刀洗陸軍飛行学校石黒原教育隊開校。少飛15期入所。本科6期入所。
    08月 陸軍接収で養成所閉所
1945年07月 第30戦闘飛行集団の配当飛行場。周辺部に無蓋掩体壕設営

関連サイト:
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この記事の資料:
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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白川滑空場 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


熊本市‎内を流れる白川河川敷にある「白川滑空場」。

D20_0302.jpg

赤マーカー地点。

こうやってちゃんと分かりやすいと非常に助かります ^^;

D20_0303.jpg

青マーカー地点から赤マーカー方向


      熊本県・白川滑空場     
九州工業大学航空部が使用しているようです

白川滑空場 データ
所在地:熊本県‎熊本市‎小島地先白川河川敷右岸
座 標:N32°46′33″E130°37′59″
標 高:4m
滑走路:880m
方 位:10/28
(座標、標高、方位はグーグルアース)

関連サイト:
九州大学航空部 
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八代陸軍(文政)飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月、2016年5月訪問 2020/11更新  


無題m.png
1947/03/29(昭22)撮影年月日(USA M194-2 22) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

熊本県‎八代市‎にあった「八代(文政)陸軍飛行場」。

■「熊本県の戦争遺跡」に詳しい資料があり、先頭のグーグルマップの長方形はこの資料から作図しました。

この地図は当時飛行場造りに動員された方々、地元の方々の協力でできたものだそうです。

また資料によりますと、当時文政村だったので「文政飛行場」の別称があるのだそうです。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」にも要図があり、

丸っこい形はこの要図から作図しました。

要図がかなり大まかなことと、上に貼った1947年の航空写真でもほとんど線が拾えなかったため、

相当アバウトな作図です。

当干拓地で飛行場適地になりそうな広さは(部外者のオイラの見立てですが)、2,200mx2,200m程度と思うのですが、

要図には、飛行場敷地が1,500mx1,700mとあり、有効面積のかなりの割合を占めます。

オイラの作図は、正確なもとはとても思えないのですが、おおよそこんな感じではないかと。

同資料に飛行場の情報がありました。

飛行場名  八代
位 置   熊本県八代郡文政村
規 模   要図(北東-南西1500 北西-南東1700)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 (記載無し)
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有


大正時代に大規模な干拓事業で完成した場所でしたが、近隣住民及び学徒労働員の造成により、

戦時中陸軍の飛行場になりました。

完成後部隊配置はなされず、着陸場として使用しました。

敗戦後、海軍艦爆彗星、九五式中等練習機が復員のために着陸し、

その部材は、鍋・釜に転用され現存しているのだそうです。

現在は本来の用途に戻っています。

DSC_0157.jpg


      熊本県・八代陸軍(文政)飛行場跡地      

八代陸軍(文政)飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県八代郡文政村(現・八代市‎鏡町北新地‎)
座 標:N32°34′37″E130°36′36″
標 高:0m
飛行地区:北東-南西1,500m 北西-南東1,700m
着陸帯:1,350mx360m
方 位:18/36
(座標、滑走路長さ、方位、標高はグーグルアースから)

沿革
1921年 干拓事業着工
1926年 潮止めが完工
1932年 第一次178戸入植
1942年 飛行場建設のため284町強制買収。5月から造成開始
1944年 滑走路のみ完成(1,000mx250m)。完成後は着陸専用飛行場とされ、部隊配備はなされず
1945年 08月 終戦時まで利用皆無。20日海軍艦爆彗星、23日95式中等練習機が復員のため着陸

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
「熊本県の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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南九州旅行・4 [■旅行記]


Ⓐ竜北道の駅→Ⓑ八代飛行場跡地→Ⓒ白川滑空場→Ⓓ黒石原飛行場跡地→Ⓔ阿蘇滑空場→Ⓕ高瀬飛行場跡地→Ⓖ太刀洗記念館→Ⓗ大刀洗東飛行場跡地→Ⓘ道の駅やよい(車中泊)

4日目

4:55 起床。

雨もさることながら、風も一晩中激しくて、車体がグラグラ揺れました。

3.11以降、揺れに対して敏感になった気がします。

いつの間にか体に力が入って縮こまってます。

昨晩同様、車外に出ずに荷物移動と目隠し取り。

前席の目隠しは、取り付けは前席からでないと無理なのですが、

外すだけなら後席からでもできました。

おかげで一歩も降りずに出発準備完了です。

5:25 出発。

天気予報では、相変わらず九州に前線が停滞し、そこに低気圧が。と言ってました。

本日も1日大雨なので覚悟が必要ですのだ(;´Д⊂)

今日は熊本県内を回ります。実は天草市に水上飛行場跡(赤マーカー)があるのですが、

ここだけ飛び地のようになっていて、往復で4時間かかる上に、

遺構が飛び飛びであるらしく、探し回らなくてはなりません。

豪雨の中だと方々歩き回れるかどうか不明です。

ギャンブルなのでここはパスすることにしました。

結局今回は時間いっぱいまで回って、飛行場に関してはここだけ残してしまったのでした。

ということで1日かけて、 八代飛行場跡、白川滑空場、黒石原飛行場跡、熊本地方航空機乗員養成所跡、

阿蘇観光滑空場、大浜飛行場跡を回りました。

阿蘇観光滑空場は阿蘇外輪山にあります。

豪雨の中だしちょっと迷ったのですがダメ元で行ってみることに。

豪雨、濃霧が続くかと思えば一瞬青空が見えたりして不思議な空模様でした。

時折対向車とすれ違ったのですが、(この先もちゃんと走れるのかしらん)と不安な時の対向車は、

「とりあえずこの先も走れる」ということなのでホッとします。

無事到着して、「関係者以外立ち入り禁止」と入り口に看板があったので、ここまでしか入れないのだと思って、

その場所の写真を撮り引き返しました。

ところが自宅に戻ってからよく調べたらここには公式サイトがあり(見学前には気が付かなかった)、

スタッフの指示に従い滑走路手前までは入っても構わないのでした。超がっくし。 _| ̄|○ il||li

ここはまた九州に行った時に行き直します。記事はとりあえずお蔵入り。

 

で、 阿蘇観光滑空場を後にして熊本市内に戻る途中、

カーナビが「この先3km行き止まりです」とか言い出しました。Σ(゚Д゚;)

ずっとぐねぐね道が続き、迂回路は当分ありません。このカーナビは突然何を言い出すか。

恐れていた「大雨による通行止め」の影響をついに受けてしまったようです。

すぐさまUターンしようか。とも思ったのですが、ひとまずその行き止まりまでいってみることに。

一般道で通行止めに出くわすのは初めてです。

どうなってるのか写せばブログネタにもなるし。

(もしかしてくまモンが通せんぼしてるのかも) …と思っていたのですが、

現地についてみるとT字路になっていて、オイラの進路とは無関係の道が閉鎖されていたのでした。

こうして熊本県内の跡地を回り終えたところで時刻は13:00。

まだ時間があるので、先月も行った福岡の大刀洗記念館に再びお邪魔することに。

閉館は17:00なのであと4時間しかないのですが、高速を使えば1時間位で行けるので余裕です。

…と思ったのですが、最寄りの南関ICから、オイラが向かうのとは逆方向の熊本ICまでが

大雨のため午前中からずっと通行止めになっていて、

南関ICに向かう一般道が8km手前からすんごい渋滞になっており、ICに入るまで1時間40分もかかってしまいました。

明日の夕暮れまで九州内をあちこち歩きまわり、帰路に就くつもりだったのですが、

こうも大雨続きだと、前回みたいに九州のみならず中国地方以降でも通行止めが出るかもしれません。

仕事が鬼のように待ち構えているので、帰宅時間を遅らせることは絶対許されません。

ラジオで情報を取りつつですが、場合によってはもっと早めに九州を出ないといけないかも。

 

結局大刀洗記念館に到着したのは閉館1時間前でした。急いで情報を集めなければ。

当記念館のある大刀洗飛行場跡地と、北飛行場は有名なのですが、

大刀洗には更に「東飛行場」もあります。

この東飛行場は非常にマイナーで、現在のところ正確な場所はネットには出てきません。

当記念館で位置情報と飛行場のことについて説明員の方からお聞きすることができました。

明るいうちに東飛行場跡地に行ってみよう。

と、その前に大刀洗駅前に展示してあるヒコーキ眺めて、コンビニ弁当で腹ごしらえ。

無事に東飛行場跡地周辺をうろつき回り、ちょっと先にあった温泉で入浴。

すんなり入れる時は本当にすんなり入れます。

 

温泉から上がったらちょうど雨がやんでました。

目の前に川が流れていたので湯涼み。土色の水が勢いよく流れていて、屋形船が数艘岸に引き上げられていました。

オイラはよそ者ですから普段の水量を知りませんが、芝生部分まで勢いよく水が流れてましたから

普段よりずっと水嵩があるのでしょう。

しかし今日も一日本当によく雨が降りました。

実は埼玉から九州に入るまでの間にフロントバンパーを中心におびただしい数の小さな虫が貼りついてしまい、

まるでゴマを振ったようだったのですが、この豪雨のせいでキレイに取れてました。

明日は時間の許す限り大分県の飛行場/跡地を見学して帰ります。

高速道を使って見学地のすぐ近くまで移動することに。

見学地のすぐ近くに道の駅があったので、今夜はそこで泊まることにしました。

高速道路走行中だと、もう選り取り見取りで簡単にSAやPAで車中泊することができ、

小型車用のスペースが奥まった場所に設けてあることもあり、その時は快適車中泊ライフを満喫できます。

でもそんなことは稀で、大抵は一晩中トラックの出入りとエンジン音を聞かされる可能性が高いです。

目隠しして真っ暗な車内で、トラックのエンジン音がゴウゴウと近づいてくると、結構落ち着かないものなのです。

 

一方道の駅の場合、大型車と小型車の駐車スペースがハッキリ区分されていることが多く、安眠しやすいです。

ただし道の駅は、ホテルのようにピカピカでタダで使用するのが申し訳ないほどの所と、

施設が廃ビルとか廃屋を改装した薄暗くて気味の悪い所があり、アタリハズレが大きいです。

SA、PAなら、酷い場合は簡単に次のSA/PAに移動できますが、

道の駅の場合はそんなに近くにはないので、オイラのように体力の限界まで動き回る場合、

ハズレだったらもう諦めるよりありません。

どちらも一長一短ですね。

その日の泊地があらかじめハッキリしていれば、(どんな道の駅かしらん)と事前に調べることができるのですが、

オイラの場合行き当たりばったりなのでそれも難しいです。

大分県道の駅やよい到着。

ここはアタリでした~。ヽ(*´ヮ`)ノ

21:40 寝る。

おやすみなさい。

 

本日の走行距離:469km

(続きます)


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人吉(川村・高原)飛行場跡地 [├空港]

  2011年6月、2024年1月訪問 2024/1更新  


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撮影年月日 1947/12/07(昭22)(USA M685 32) (滑走路西端、南側に無蓋掩体壕らしきものが見えます)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

熊本県‎球磨郡の広大な高原(たかんばる)台地にあった海軍の「人吉(川村・高原)飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:人吉 
建設ノ年:1944 
飛行場 長x幅 米:1500x50コンクリート 
主要機隊数:飛行機整備小、中型 
主任務:教育作戦 
隧道竝ニ地下施設:電信所、各種用6,500平米 掩体:小型有蓋7

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「人吉開隊(S19.2.1)(昭19建)」とありました。 

 

現在周辺は畑地になっており、滑走路跡は二本の道路に挟まれる形で地割が残っています。

■「熊本の戦争遺跡 戦後65年」の中で当飛行場について詳しく扱われていました。

滑走路東端、北へ300mほどの所に木造三角屋根の2棟の格納庫がありましたが、

1945年3月18日に23機の米軍機による2度の空襲で大破炎上し、基礎コンクリートのみになってしまいました。

格納の並びに指揮所もあったのですが、これも爆撃され壊滅してしまいました。

滑走路は厚さ20cmのコンクリート製だったのですが、1955年以降の高度経済成長時に使用されて砂利となり、

球磨人吉の建築物や堤防、橋として再生されたのだそうです。

また、滑走路の東半分の地下5mほどは砂利が取られて低くなっているため、

西側部分が元々の滑走路の地盤の高さなのだそうです。

■「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場建設当時、この地域の農家が高原台地開拓のため水利組合を作り、

川辺川から灌漑用水を引こうと計画していたのですが、海軍から飛行場の用水路とするように命じられ、

わずか1年間の突貫工事で、現在の六藤発電所放水口の向かい側から航空隊前まで10kmに及ぶ水路を完成させました。

前述の3月18日の米軍機による空襲では、兵員9名、飛行場東隣の集落でも住民4名の死者を出してしまいました。

戦後、飛行場跡は開拓地となり、地元の人々や引揚者が入植しました。

その農地の灌漑用として飛行場の用水路がさらに南に延長されて使用されましたが、

現在も「飛行場用水路」と呼ばれているのだそうです。

 

 


(以下2024年1月撮影)

 

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滑走路跡。

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ツアーガイド(スタンダードプラン)に参加して案内して頂きました。

(警告・ネタバレを含みますので、これから行かれる方は見ない方が良いです)

まずはどうして山の中に海軍のしっかりした飛行場(コンクリート・1,500m)があるのかについて説明頂きました。

出水、鹿屋への中継地としての役割があり、艦砲の射程外となる内陸に設けられたとのことでした。

但し、この地域は霧がよく発生するため、当初想定していた運用はあまりされず、

末期に練習機を使用しての特攻訓練基地として使用された。とのことだったのですが、

各飛行場について、 地元気象台から取り寄せた過去10年間の気象に関するデータ、ウインドローズ、

地元の気象に関する諺等が資料として現在まで多数残っているのに、

運用に支障をきたすほどの霧の多さに気が付かずに建設してしまうなんて、

末期の本土決戦用の秘匿飛行場ならいざ知らず、こんなしっかりした飛行場であり得るのだろうか。

というのが個人的には素朴な疑問でした。

(「恒風は西風」とのことで、滑走路の向きもちゃんとそれに合わせてあるけど、霧だけ気が付かないという…)

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赤マーカー地点。

滑走路東端から滑走路方向。

この道路が誘導路跡なのだそうで、画面左側のにしき ひみつ基地ミュージアムがあるのが滑走路跡。

前述の通り、滑走路はこの道路と同じ高さでしたが、現在は一段低くなっています。

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このすぐ上に滑走路東端があります。

この穴については、これまで長いこと単なる防空壕と思われていたのですが、

地元郷土史家による資料等調査の結果、2015年になってその用途が明らかになり、

当時を知る方々への聞き取り調査により、全体像が解明されていったのだそうです。

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地下魚雷調整場。

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角材による補強跡が等間隔に並んでいます。

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天井にあるのは、魚雷を吊り下げて運ぶためのものと思われる。とのことでした。

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穴の入口には当時、土嚢が積まれ、草木を刺してカモフラージュしていたのだそうです。

内部は穴が縦横に走っているのですが、傾斜が設けられています。

これは、空気は温かい所から冷たい方へと流れる性質を利用した換気のためのものだそうで、

換気装置等特別な装置無しで、この傾斜だけで1m/秒の空気の流れが生じたのだそうです。

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実物大模型 九一式魚雷(全文)
 昭和5(1930)年に成瀬正二技術少将が中心となり、イギリスの鋼製星形8気筒を模した魚雷を試作し、昭和6(1931)年に制式採用された。従来、航空機より投下された魚雷は、海面への入射角度によっては海底に突き刺さったり、海面を跳弾したりと、その運用が難しい兵器であった。そこで、空中での体制(ママ)を安定させるために、内臓するジャイロスコープと連動した水中安定舵に、空中安定舵として木板を装着している。また、スクリュー前部のヒレ、および縦横舵がつく「尾框(おがまち)」にも、「框板(かまちいた)」と呼ばれる空中姿勢を安定させる木板が装着されている。これらの木板は魚雷の空中姿勢を安定させる働きと、入射時に海中深くまで魚雷が潜るのを防ぐ働きがある。なお、入射時には海面との衝突による衝撃ではじけ飛ぶ仕組みとなっており、その実物はいずれにも残されていない。この空中安定舵と框板は、
航空魚雷による浅深度での魚雷攻撃を可能とし、昭和16(1941)年の海軍による真珠湾攻撃の際に実効性を証明している。
 九一式魚雷は、昭和6(1931)年から昭和20(1945)年の終戦まで、14年間使用された。その間、改良を繰り返し頭部が「改一」から「改七」、胴部が「改一」から「改五」まで製造された。昭和20年に運用されていた人吉航空基地では、昭和18(1943)年に生産が開始された、頭部が「改三改」もしくは「改七」、胴部が「改五」が配備されていた可能性が高い。なお、九一式魚雷改五は、昭和20年4月以降は「四式一号空雷」と改称され、約1,400本が製造された。<協力>三菱重工株式会社長崎造船所資料館

『海軍水雷史』(水交会 昭和54年発行)による九一式魚雷の特徴
①機構が極めて簡単、取り扱いが容易であった。
②ちょっとした改造で、どんな雷撃機がでて来ても、その要求に即応することができた。
③魚雷のバランスがよくとれて、芯の強い魚雷であった。
④一度調整した魚雷を約6カ月間保存して、そのままの状態で発射しても、少しの狂いもなく走って、目標に命中爆発した。
⑤一度調整した魚雷は燃料など消耗品を入れ替えるだけで、数回の連続発射(4~5回)が可能であった。訓練を繰り返す航空部隊の魚雷としては理想的なものであった。
⑥九一式改五魚雷は炸薬量420kg(九一式は149kg)となり、且つ艦底起爆装置の装備が可能になった。

【胴部:改五、頭部:改三改】
炸薬量(kg) 235
雷速(kt) 41
射程(m) 1,500
全長(m) 5.27
雷径(cm) 45
全重(kg) 848
備考 -

【胴部:改五、頭部:改七】
炸薬量(kg) 420
雷速(kt) 41
射程(m) 1,500
全長(m) 5.71
雷径(cm) 45
全重(kg) 1,080
備考 陸攻機専用

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DSC_2089_00001.jpg 今まで存在すらだったのですが、確かにちゃんと框板付けて飛んでますね。

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壁に刺さる釘は電線のためのものだそうです。

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ちょっとだけ掘っているのですが、これは試掘跡ではないか。とのことでした。

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地下作戦室・無線室へと続く穴。

明らかに地下兵舎壕より厳ついです。

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 見切れてしまっているのですが、部屋の中には、〇□〇と3つ穴がならんでいて、

□の穴は機器類のコードを外に出すためのもので、

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〇は外に繋がっており、当時は換気扇が取り付けられていたのだそうです。

無線機にはいつ連絡が入るか分からないから、電源を切らすことはできない。

電機は外部からとっていたらしいのですが、万一の停電に備えて発電機が設置してあり、

発電機を動かす場合はこの〇で排気を行なうのだそうです。

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冬眠中のコウモリ。

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多分この先だったと思うのですが、数千羽のコウモリが生息しているため、行き止まりにしているそうです。

壁には大型のゲジゲジが何匹もかたまっていたりする場所が何か所もありました。

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ツアーガイドの後、施設内を見学させて頂きました。

説明板より:

 太平洋戦争中の1943年(昭和18)11月、人吉球磨盆地のほぼ中央に位置する、錦町と相良村にかけて建設された人吉海軍航空基地。地元住民から「高ん原飛行場」の名で親しまれたこの基地は、県内唯一のコンクリート製滑走路を有する本格的な航空基地であった。
 1944(昭和19)2月、人吉海軍航空隊が発足。5月からは海軍飛行予科練習生(予科練)が入隊し、全国から集まった予科練生たちが飛行機整備術を学んだ。その数は6000名を越える。(ママ)その後、2度にわたる空襲と戦況の激化により、教育施設から特攻訓練基地、本土防衛基地へと基地の役割を変えていった。上空には、「赤とんぼ」の愛称で知られる九三式中間練習機が特攻訓練に明け暮れ、地上では本土決戦に備えた膨大な数の地下施設の建設が進められた。また、松根油採取の作業にも駆り出された。人吉海軍航空基地および航空隊の活動期間は2年に満たないものだった。
 戦後も隊員同士の交流は続いた。かつて予科練生が駆け抜けた軍用道路には慰霊碑が建立され、春には恒久平和を願う隊員や軍人たちによって植えられた桜が、老木となった今も咲き誇る。

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錦町内墜落 零式艦上戦闘機 残骸
零式艦上戦闘機五二型1/32スケール

昭和20年6月14日11時30分頃、球磨郡西村(現錦町西地区)の南の山中に日本軍戦闘機が白煙を噴きながら墜落した。米軍11機に単独で挑んだ空中戦の末の墜落であった。墜落地点では機体は大きく、3つに分散し、飛行服と共に肉片が散乱し、機銃弾がはじけていた。搭乗員の姓は「柴田」とされるがその詳細は不明である。戦後、幾度となく現場を訪れた森山哲夫氏がその機体部品を収集。その機体が「零式艦上戦闘機52型」であることが判明した。

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九三式中間練習機の主輪 1934年(昭和9)に制式採用された、複葉羽布張り型練習機、九三式中間練習機。当初、全面銀色塗装であったが、危険防止のため橙黄色に塗られ、「赤とんぼ」の通称で親しまれた。1944年(昭和19)に入ると、橙黄色が目立つことから、濃緑黒色迷彩が施されるようになった。人吉海軍航空隊では主に、予科練の整備教材、特攻隊の訓練に使用された。主輪は松根運搬用の荷車にも使用された。なお、戦後、第22海軍航空廠がGHQに提出した「引渡目録」には、終戦時、人吉海軍航空基地には96機の赤とんぼが残されていたと記されている。

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黄マーカー地点。

滑走路方向

DSC_2128_00001.jpg 紫マーカー地点。

交差点の南側にある「元人吉海軍航空隊飛行場隊門」(以下4枚とも)。

DSC_2129_00001.jpg 対の門柱。

DSC_2131_00001.jpgDSC_2130_00001.jpg

 

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同じく紫マーカー地点。

交差点の北側に碑が幾つも建立されていました。

高ん原慰霊の碑(全文 原文ママ)
 太平洋戦争日々に苛烈を加えた昭和二十年(一九四五)三月十八日 ここ人吉海軍航空隊は 米艦載機延べ二十三機の空襲を受け 戦死者九名 格納庫全焼二棟 兵舎大破一棟 燃料ドラム罐爆発炎上の損害を蒙つた 続いて五月十四日 同じく小型機十六機の波状攻撃によつて建造物に多数の貫通孔と 滑走路にいくつかの爆弾穴を生じ 木上村の民家二戸が被災し 四名の爆死者が出た
 このほか 激務に殉じ 刻励に斃れた隊員もまた少くない 当時ここに 戦没の諸氏と寝食をともにし かつ生死を分かちあつた者の一人として 回想すれば痛恨今なお断腸の想いが去来する
 烈々たる闘魂を抱きながら終戦を迎え全国各地に四散して早や四十有六年 思えば困窮そして苦闘の歳月であつた し
かしこの間 祖国の復興はめざましく 経済成長による国民生活の繁栄は世界に冠たるものとなつた これ偏えに諸氏の
命の犠牲と 諸氏の祖国愛の衷情に支えられて実現した というべきであろう
 この地に かつて諸氏とともに戦い あるいは別途中国 あるいは南方諸域に幾度が死線を越えた身の いま独り命永
らえて今日あるは 思えば真に運命の不思議という外はない
 ここに ささやかながら慰霊の碑を建立し 戦没散華された諸氏の芳名を刻してその冥福を祈り 祖国の名誉ある隆昌
と 世界恒久の平和の実現を祈念して 回向の微意を捧げる
 諸霊願わくは来り享けよ 平成三年九月吉日 人吉海軍航空隊補充新兵教班長 元予科練人吉会事務局長 現人吉市遺族会副会長 八十翁 野方辰喜 撰文 渋谷敦

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霧□し 見はてぬ夢のたかんばる 子春

人吉海軍航空隊ハ大東亜戦争ノ際昭和十九年二月此ノ高ン原ノ台地ニ開隊シ庁舎居住地区飛行場地区合セテ約一二〇万坪ヲ占メ全国ノ熱烈ナ志願者カラ選抜採用サレタ飛行予科練習生ヲ教育シタ
昭和二十年八月終戦ヲ迎ヘルニ及ビ折角祖国ノ急ニ役立タウト奮ヒ立ツタ予科練ミナ復員四散シテ其ノ念願ハ空シク潰エ
其ノ施設ハ跡形モナク消ヘ去ッタ
途莫彼等ガ若キ日此ノ地ニ培ハレタ敢斗精神ハ確固トシテ身ニ着キ社会ノアラユル職域ニ各々指導的立場ニ立ツテ戦後ノ復興ニ貢献シ戦後三十年人吉市原ノ城望岳苑ニ建ツ留魂ノ碑トナリ高ン原ノ地は永ク祖国今後ノ進展ヲ期スル魂ノ故郷トナツテ今ニ遺ル
国破山河在 城春草木深 今繁ル夏草ノ其ノ根ヲ培ヒタル人吉海軍航空隊ヲ伝ヘテ略誌トスト云爾
昭和五十年八月十七日 元人吉海軍航空隊司令 海軍大佐 田中千春撰 □第三十二分隊練習生 千田良一書

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「霧□し 見はてぬ夢のたかんばる」

「霧」の次の文字が読めません。

DSC_2139_00001_01.jpg  先に有志相諮つて「軍人勅諭の碑」を再建したが 今回 人吉東小学校々庭の整地にともない その一隅に置かれていた「誠心石」を譲り受けたこの「誠心石」□□當て「軍人勅諭の碑」の上部に冠せられたもので 早速この地に運んで旧状の復元をはかつたが 碑の基礎負荷に多少の不安が残り 考慮の末 今回はやむなく碑の側に並べて保存することとした
 以上刻して後世に託する 平成四年八月 予科練人吉会 撰文 渋谷敦 倉橋信夫謹書

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明治十五年一月「軍人に賜りたる勅諭」の精神は軍人に限らず時代、時流を超えて天地の公道であり人倫の常経である。文明物質に偏り精神の荒廃、世の風潮退廃が嘆かれる今日、現代日本の精神作興の急務を痛感すること頻りである。乃ち、忠、礼、勇、信、質の五条を貫く誠心こそ其の基盤であらねばならぬ
 昭和七年四月下賜五十年記念に建立され昭和二十年八月終戦とともに人吉市東国民学校校庭に埋められ以来実に二十八年間地中にあつたこの軍人勅諭の碑を発掘し、再び世に示さんとする我らの趣意を記して後世に伝う
 昭和四十八年八月 予科練人吉会有志


      熊本県・人吉(川村・高原)飛行場跡地     
養成所だったのですが開設は末期の時期であり、松根油採取のための松の根掘りに多くの時間が割かれ、訓練もままならなかったのだそうです

人吉(川村・高原)飛行場 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県‎球磨郡‎相良村‎柳瀬‎
座 標:N32°13′13″E130°48′33″
標 高:152m
滑走路:1,500m×50m
方 位:09/27
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1942年    海軍飛行場建設計画
1943年11月 測量開始。近隣住民、学徒動員で建設工事
1944年02月 1日、人吉海軍航空隊として第18連合航空隊編入で開隊。練習・整備教育隊に指定
       乙種予科練を主体とし第1期は整備、第2~9期までは飛行訓練。鹿児島に出水分遣隊配備し独立
1945年03月 1日、第22連合航空隊に編入。実戦部隊の基地として使用。8日、初空襲。18日、壊滅的な攻撃を受ける
    04月 8日、爆撃にも堪え得る地下軍事施設を建設するため、第521設営隊編成。建設が進められる
    05月 14日、艦載機16機による空襲。この頃九三式中間練習機による特攻訓練が行われるようになる
        15日、緊急整備実施
    06月 1日、整備訓練教育が凍結され本土決戦用地上戦部隊に変更される 
    07月 10日、人吉海軍航空隊解隊。人吉航空基地施設と改称。その後は警備部隊と鉾部隊配備
    08月 15日、終戦時海軍特攻隊6名駐留。九三式練習機96機、雷電1機、零戦2機、九六式艦戦19機残存
       1,500メートルの滑走路は戦後しばらく残され、駐留軍の訓練に使用
       その後農用空港への転用が論議されたが結局撤去されて農地に
2018年08月 資料館「にしきひみつ基地ミュージアム」開設 

関連サイト:
錦役場飛行場公式サイト  
にしき ひみつ基地ミュージアム 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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出水海軍航空基地跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


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撮影年月日1948/02/22(昭23)(USA M798-A 35) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

鹿児島県出水(いずみ)市にあった「出水海軍航空基地」。

先頭のグーグルマップは上に貼った航空写真から作図しました。

四角の飛行場敷地の東側に飛び出した諸施設地区がどの範囲まで及ぶのか不明の為、

線を拾い間違えていると思います。

南西角にも、いかにも関連施設のようなものがあるのですが、これも適当な資料が見つからず、

主観で線を引いています。

おおよそこんな感じということでご了承くださいませ。

青マーカー地点に「特攻碑公園」が整備されており、碑、プロペラ等が展示してあります。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)に情報がありました。

いか引用させて頂きます。

基地名:出水 
建設ノ年:1940 
飛行場 長x幅 米:1500x50コンクリート 
主要機隊数:小型9.0 中型 
主任務:教育作戦 隧道竝ニ地下施設:居住、指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 魚雷同時調整8本、同格納庫56本 掩体:小型有蓋3 中型無蓋12


■防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」

には、「出水空開隊(S18.4.1)(昭15建)」「二出水開隊(S19.8.15)(昭19建)」とありました。 

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」には、

昭和16年4月~20年2月12日まで、陸上機、操縦訓練。甲、乙 予科練出身者及び飛行専修予備学生の教育
1520x43(主) 800x50(補)  900x50(補) 何れも転圧

とありました。

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「大戦中近海に沈んだ彼我の飛行機は数多いが戦後出水地先の海中において漁網にかかった友軍機のプロペラの一つである。」

と説明板が埋め込まれていました。

出水海軍航空隊の歴史(全文) 出水における飛行場築造は昭和十三年ごろから行われ、昭和十五年から飛行機の発着が始まりました。昭和十六年四月一日には佐世保海軍航空隊出水分遣隊が置かれ、昭和十八年四月一日に出水海軍航空隊として開隊されました。当初は訓練航空隊でしたが、昭和十九年から実戦部隊の基地となり、二百六十名を超える多くの特攻隊員が南方の空に散ることとなりました。また、この基地を含めて周辺も、アメリカ軍による激しい空襲を受けて、航空隊員や民間人に多くの死傷者が出ました。この公園は昭和四十三年に一部開設され、若き英霊を弔うために昭和三十五年に建立された特攻碑が、基地跡とともに昭和五十四年に特攻碑保存会(当時)から市に寄贈されて、現在の姿となっています。

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赤マーカー地点。

周辺の道路の向きとは異なる滑走路の名残道路。


      鹿児島県・出水海軍航空基地跡地      

出水海軍航空基地 データ

設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:鹿児島県‎出水市‎平和町‎
座 標:N32°05′18″E130°19′22″
標 高:22m
滑走路:1,500mx50m(コンクリート)
方 位:16/34
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年    この頃着工
1940年    建設。飛行機の発着始まる
1941年04月 佐世保海軍航空隊出水分遣隊設置
1943年04月 出水海軍航空隊開隊
1944年    実戦部隊の基地となり、特攻出撃
       第二出水航空隊建設。8月15日、開隊

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の説明版
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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