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木脇(六野原)飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新  


無題.png
撮影年月日 1947/01/25(昭22)(USA M25A-20 103)
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・2枚とも)

宮崎空港から西北西約19kmに位置する宮崎県‎東諸県郡‎国富町‎三名‎。

現在は広々とした畑が広がっていますが、かつてここに「木脇(六野原)飛行場」がありました。

沿革にも書きましたが、1926年には陸軍補助着陸場になっており、仮設滑走路約700mが設けられていました。

その後1942年から1年半かけて陸軍の飛行場として整備したのでした。

当地は古くから飛行場適地として目を付けられていたのですね。 

 

■防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」

の中で、当飛行場の要図がありました。

かなりアバウトなものなんですが、1947年の航空写真と比較しながら作図しました。

飛行場境界線は、現在までほぼそのまま残っている感じなんですが、東側の方形に飛び出している二か所については、

かなり不明確なため自信ないです。 

同資料内にあった「木脇飛行場記録」を以下引用させて頂きます。

判決 自重三屯程度の飛行機の使用に可
飛行地区
 滑走地区 一六〇〇x六〇〇 張芝舗装
 舗装路 なし
 土質 粘質壊土 地表面張芝にして地対力概ね可
 周辺障碍物の有無 なし
付属地区
 誘導路 なし
 宿営 三角兵舎十二棟(二五〇名収容可)
 夜間着陸設備 なし
 動力線 なし
 電燈線 三角兵舎に配線ありしも暴風に依り大部破損しあり
 給水 井戸約五ヶコ?有するも水量少
風向 西北風多く海陸風の影響あり

実は同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・判決:「自重三屯程度の飛行機の使用に可」→「自重3頓程度の飛行機(練習機)の使用に適す」
・滑走地区:「張芝舗装」→「張芝転圧」

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  木脇
位 置   宮崎県東諸県郡木脇村
規 模   要図(北西-南東1400 東西1350)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 五〇〇名分
 格納施設 掩体 三〇ヶ所
摘 要   施設軍有

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紫マーカー地点。

跡地の一角に公園があり、碑がいくつかまとまって建立されていました。

「大刀洗陸軍飛行学校 木脇教育隊記念碑」

碑文(全文) 広大な六野原台地は、太平洋戦争中の昭和十八年十一月、大刀洗陸軍飛行学校木脇教育隊が開設され、昭和二十年五月までの一年六か月、当時の熾烈なる時局化、全国各地から愛国の至情に燃えてまだ少年の面影を残す若人達が、碧空に夢を託し連日飛行訓練に精励した地である。時はうつろい、四十有余年の歳月は緑豊かな農地に変容し、思いでの基地一帯は当時をしのぶすべもない。時あたかも平成元年、各方面の関係者により記念碑建立の気運高まり、本年六月奉賛会が結成された。ここにその青春の群像を讃えるとともに恒久平和への願いをこめて碑を建立する。平成元年十一月十八日 記念碑建立奉賛会 国富町長(以下氏名) 国富町議会議長(以下氏名) 在隊者代表(以下氏名) 在勤者代表(以下氏名)

他にも記念植樹の際の碑など、いくつかあったのですが、省略させて頂きますm(_ _)m 

D20_0257.jpg

現地にお邪魔した際、偶然みつけたトーチカ。

全部で4つ現存しています(グーグルマップ赤マーカー)。

飛行場敷地東半分に集中しているのですが、西側にトーチカは作らなかったんでしょうか?

撤去したのかしらん。

無題1.png

これは敷地北西を一部拡大したものです(グーグルマップオレンジマーカー)。

敷地境界線すぐ外側に位置しており、矢印部分の物体がオイラには無蓋掩体壕に見えます。

幅は15~20mあり、大きさとしては申し分ないと思うのですが、

「木脇飛行場 掩体壕」で検索しても、それらしいものはヒットしないんですよね。

木々に囲われていて、位置としては申し分ないと思うのですが。。。


      宮崎県・木脇(六野原)飛行場跡地      

木脇(六野原)飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮崎県‎東諸県郡‎国富町‎三名‎
座 標:N32°01′26″E131°20′49″
標 高:99m
飛行地区:1,600m×600m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1926年01月 仮設滑走路「飛行第四連隊野外飛行演習六野原補助着陸場」完成。約700m 
        地元の在郷軍人会が建設に従事した。茶屋と吹上の中間点辺りにあり、滑走路は南西から北東にのびていた
        同年冬、飛行機が三機飛来し飛行演習。見物者多数
1942年04月 陸軍省、飛行場計画地に決定
     11月 15日 起工式
1943年11月 大刀洗陸軍飛行学校 木脇教育隊訓練場完成 
1945年03月 21日 初空襲
     05月 戦局の悪化、再三の空襲により操縦訓練場としての機能を喪失したため、
        鳥取県湖山飛行場(後の鳥取市営飛行場)に全隊員移動、木脇教育隊操縦訓練場閉鎖

関連サイト:
国富町/大刀洗陸軍飛行学校・教育隊     
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この記事の資料:
宮崎の戦争遺構
防衛研究所収蔵資料「第四十一航空地区飛行場記録 昭和二十年九月二十日(陸空-本土周辺-114)」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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