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人吉(川村・高原)飛行場跡地 [├空港]

  2011年6月、2024年1月訪問 2024/1更新  


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撮影年月日 1947/12/07(昭22)(USA M685 32) (滑走路西端、南側に無蓋掩体壕らしきものが見えます)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

熊本県‎球磨郡の広大な高原(たかんばる)台地にあった海軍の「人吉(川村・高原)飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:人吉 
建設ノ年:1944 
飛行場 長x幅 米:1500x50コンクリート 
主要機隊数:飛行機整備小、中型 
主任務:教育作戦 
隧道竝ニ地下施設:電信所、各種用6,500平米 掩体:小型有蓋7

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「人吉開隊(S19.2.1)(昭19建)」とありました。 

 

現在周辺は畑地になっており、滑走路跡は二本の道路に挟まれる形で地割が残っています。

■「熊本の戦争遺跡 戦後65年」の中で当飛行場について詳しく扱われていました。

滑走路東端、北へ300mほどの所に木造三角屋根の2棟の格納庫がありましたが、

1945年3月18日に23機の米軍機による2度の空襲で大破炎上し、基礎コンクリートのみになってしまいました。

格納の並びに指揮所もあったのですが、これも爆撃され壊滅してしまいました。

滑走路は厚さ20cmのコンクリート製だったのですが、1955年以降の高度経済成長時に使用されて砂利となり、

球磨人吉の建築物や堤防、橋として再生されたのだそうです。

また、滑走路の東半分の地下5mほどは砂利が取られて低くなっているため、

西側部分が元々の滑走路の地盤の高さなのだそうです。

■「九州の戦争遺跡」によりますと、当飛行場建設当時、この地域の農家が高原台地開拓のため水利組合を作り、

川辺川から灌漑用水を引こうと計画していたのですが、海軍から飛行場の用水路とするように命じられ、

わずか1年間の突貫工事で、現在の六藤発電所放水口の向かい側から航空隊前まで10kmに及ぶ水路を完成させました。

前述の3月18日の米軍機による空襲では、兵員9名、飛行場東隣の集落でも住民4名の死者を出してしまいました。

戦後、飛行場跡は開拓地となり、地元の人々や引揚者が入植しました。

その農地の灌漑用として飛行場の用水路がさらに南に延長されて使用されましたが、

現在も「飛行場用水路」と呼ばれているのだそうです。

 

 


(以下2024年1月撮影)

 

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滑走路跡。

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ツアーガイド(スタンダードプラン)に参加して案内して頂きました。

(警告・ネタバレを含みますので、これから行かれる方は見ない方が良いです)

まずはどうして山の中に海軍のしっかりした飛行場(コンクリート・1,500m)があるのかについて説明頂きました。

出水、鹿屋への中継地としての役割があり、艦砲の射程外となる内陸に設けられたとのことでした。

但し、この地域は霧がよく発生するため、当初想定していた運用はあまりされず、

末期に練習機を使用しての特攻訓練基地として使用された。とのことだったのですが、

各飛行場について、 地元気象台から取り寄せた過去10年間の気象に関するデータ、ウインドローズ、

地元の気象に関する諺等が資料として現在まで多数残っているのに、

運用に支障をきたすほどの霧の多さに気が付かずに建設してしまうなんて、

末期の本土決戦用の秘匿飛行場ならいざ知らず、こんなしっかりした飛行場であり得るのだろうか。

というのが個人的には素朴な疑問でした。

(「恒風は西風」とのことで、滑走路の向きもちゃんとそれに合わせてあるけど、霧だけ気が付かないという…)

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赤マーカー地点。

滑走路東端から滑走路方向。

この道路が誘導路跡なのだそうで、画面左側のにしき ひみつ基地ミュージアムがあるのが滑走路跡。

前述の通り、滑走路はこの道路と同じ高さでしたが、現在は一段低くなっています。

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このすぐ上に滑走路東端があります。

この穴については、これまで長いこと単なる防空壕と思われていたのですが、

地元郷土史家による資料等調査の結果、2015年になってその用途が明らかになり、

当時を知る方々への聞き取り調査により、全体像が解明されていったのだそうです。

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地下魚雷調整場。

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角材による補強跡が等間隔に並んでいます。

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天井にあるのは、魚雷を吊り下げて運ぶためのものと思われる。とのことでした。

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穴の入口には当時、土嚢が積まれ、草木を刺してカモフラージュしていたのだそうです。

内部は穴が縦横に走っているのですが、傾斜が設けられています。

これは、空気は温かい所から冷たい方へと流れる性質を利用した換気のためのものだそうで、

換気装置等特別な装置無しで、この傾斜だけで1m/秒の空気の流れが生じたのだそうです。

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実物大模型 九一式魚雷(全文)
 昭和5(1930)年に成瀬正二技術少将が中心となり、イギリスの鋼製星形8気筒を模した魚雷を試作し、昭和6(1931)年に制式採用された。従来、航空機より投下された魚雷は、海面への入射角度によっては海底に突き刺さったり、海面を跳弾したりと、その運用が難しい兵器であった。そこで、空中での体制(ママ)を安定させるために、内臓するジャイロスコープと連動した水中安定舵に、空中安定舵として木板を装着している。また、スクリュー前部のヒレ、および縦横舵がつく「尾框(おがまち)」にも、「框板(かまちいた)」と呼ばれる空中姿勢を安定させる木板が装着されている。これらの木板は魚雷の空中姿勢を安定させる働きと、入射時に海中深くまで魚雷が潜るのを防ぐ働きがある。なお、入射時には海面との衝突による衝撃ではじけ飛ぶ仕組みとなっており、その実物はいずれにも残されていない。この空中安定舵と框板は、
航空魚雷による浅深度での魚雷攻撃を可能とし、昭和16(1941)年の海軍による真珠湾攻撃の際に実効性を証明している。
 九一式魚雷は、昭和6(1931)年から昭和20(1945)年の終戦まで、14年間使用された。その間、改良を繰り返し頭部が「改一」から「改七」、胴部が「改一」から「改五」まで製造された。昭和20年に運用されていた人吉航空基地では、昭和18(1943)年に生産が開始された、頭部が「改三改」もしくは「改七」、胴部が「改五」が配備されていた可能性が高い。なお、九一式魚雷改五は、昭和20年4月以降は「四式一号空雷」と改称され、約1,400本が製造された。<協力>三菱重工株式会社長崎造船所資料館

『海軍水雷史』(水交会 昭和54年発行)による九一式魚雷の特徴
①機構が極めて簡単、取り扱いが容易であった。
②ちょっとした改造で、どんな雷撃機がでて来ても、その要求に即応することができた。
③魚雷のバランスがよくとれて、芯の強い魚雷であった。
④一度調整した魚雷を約6カ月間保存して、そのままの状態で発射しても、少しの狂いもなく走って、目標に命中爆発した。
⑤一度調整した魚雷は燃料など消耗品を入れ替えるだけで、数回の連続発射(4~5回)が可能であった。訓練を繰り返す航空部隊の魚雷としては理想的なものであった。
⑥九一式改五魚雷は炸薬量420kg(九一式は149kg)となり、且つ艦底起爆装置の装備が可能になった。

【胴部:改五、頭部:改三改】
炸薬量(kg) 235
雷速(kt) 41
射程(m) 1,500
全長(m) 5.27
雷径(cm) 45
全重(kg) 848
備考 -

【胴部:改五、頭部:改七】
炸薬量(kg) 420
雷速(kt) 41
射程(m) 1,500
全長(m) 5.71
雷径(cm) 45
全重(kg) 1,080
備考 陸攻機専用

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DSC_2089_00001.jpg 今まで存在すらだったのですが、確かにちゃんと框板付けて飛んでますね。

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壁に刺さる釘は電線のためのものだそうです。

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ちょっとだけ掘っているのですが、これは試掘跡ではないか。とのことでした。

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地下作戦室・無線室へと続く穴。

明らかに地下兵舎壕より厳ついです。

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 見切れてしまっているのですが、部屋の中には、〇□〇と3つ穴がならんでいて、

□の穴は機器類のコードを外に出すためのもので、

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〇は外に繋がっており、当時は換気扇が取り付けられていたのだそうです。

無線機にはいつ連絡が入るか分からないから、電源を切らすことはできない。

電機は外部からとっていたらしいのですが、万一の停電に備えて発電機が設置してあり、

発電機を動かす場合はこの〇で排気を行なうのだそうです。

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冬眠中のコウモリ。

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多分この先だったと思うのですが、数千羽のコウモリが生息しているため、行き止まりにしているそうです。

壁には大型のゲジゲジが何匹もかたまっていたりする場所が何か所もありました。

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ツアーガイドの後、施設内を見学させて頂きました。

説明板より:

 太平洋戦争中の1943年(昭和18)11月、人吉球磨盆地のほぼ中央に位置する、錦町と相良村にかけて建設された人吉海軍航空基地。地元住民から「高ん原飛行場」の名で親しまれたこの基地は、県内唯一のコンクリート製滑走路を有する本格的な航空基地であった。
 1944(昭和19)2月、人吉海軍航空隊が発足。5月からは海軍飛行予科練習生(予科練)が入隊し、全国から集まった予科練生たちが飛行機整備術を学んだ。その数は6000名を越える。(ママ)その後、2度にわたる空襲と戦況の激化により、教育施設から特攻訓練基地、本土防衛基地へと基地の役割を変えていった。上空には、「赤とんぼ」の愛称で知られる九三式中間練習機が特攻訓練に明け暮れ、地上では本土決戦に備えた膨大な数の地下施設の建設が進められた。また、松根油採取の作業にも駆り出された。人吉海軍航空基地および航空隊の活動期間は2年に満たないものだった。
 戦後も隊員同士の交流は続いた。かつて予科練生が駆け抜けた軍用道路には慰霊碑が建立され、春には恒久平和を願う隊員や軍人たちによって植えられた桜が、老木となった今も咲き誇る。

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錦町内墜落 零式艦上戦闘機 残骸
零式艦上戦闘機五二型1/32スケール

昭和20年6月14日11時30分頃、球磨郡西村(現錦町西地区)の南の山中に日本軍戦闘機が白煙を噴きながら墜落した。米軍11機に単独で挑んだ空中戦の末の墜落であった。墜落地点では機体は大きく、3つに分散し、飛行服と共に肉片が散乱し、機銃弾がはじけていた。搭乗員の姓は「柴田」とされるがその詳細は不明である。戦後、幾度となく現場を訪れた森山哲夫氏がその機体部品を収集。その機体が「零式艦上戦闘機52型」であることが判明した。

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九三式中間練習機の主輪 1934年(昭和9)に制式採用された、複葉羽布張り型練習機、九三式中間練習機。当初、全面銀色塗装であったが、危険防止のため橙黄色に塗られ、「赤とんぼ」の通称で親しまれた。1944年(昭和19)に入ると、橙黄色が目立つことから、濃緑黒色迷彩が施されるようになった。人吉海軍航空隊では主に、予科練の整備教材、特攻隊の訓練に使用された。主輪は松根運搬用の荷車にも使用された。なお、戦後、第22海軍航空廠がGHQに提出した「引渡目録」には、終戦時、人吉海軍航空基地には96機の赤とんぼが残されていたと記されている。

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黄マーカー地点。

滑走路方向

DSC_2128_00001.jpg 紫マーカー地点。

交差点の南側にある「元人吉海軍航空隊飛行場隊門」(以下4枚とも)。

DSC_2129_00001.jpg 対の門柱。

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同じく紫マーカー地点。

交差点の北側に碑が幾つも建立されていました。

高ん原慰霊の碑(全文 原文ママ)
 太平洋戦争日々に苛烈を加えた昭和二十年(一九四五)三月十八日 ここ人吉海軍航空隊は 米艦載機延べ二十三機の空襲を受け 戦死者九名 格納庫全焼二棟 兵舎大破一棟 燃料ドラム罐爆発炎上の損害を蒙つた 続いて五月十四日 同じく小型機十六機の波状攻撃によつて建造物に多数の貫通孔と 滑走路にいくつかの爆弾穴を生じ 木上村の民家二戸が被災し 四名の爆死者が出た
 このほか 激務に殉じ 刻励に斃れた隊員もまた少くない 当時ここに 戦没の諸氏と寝食をともにし かつ生死を分かちあつた者の一人として 回想すれば痛恨今なお断腸の想いが去来する
 烈々たる闘魂を抱きながら終戦を迎え全国各地に四散して早や四十有六年 思えば困窮そして苦闘の歳月であつた し
かしこの間 祖国の復興はめざましく 経済成長による国民生活の繁栄は世界に冠たるものとなつた これ偏えに諸氏の
命の犠牲と 諸氏の祖国愛の衷情に支えられて実現した というべきであろう
 この地に かつて諸氏とともに戦い あるいは別途中国 あるいは南方諸域に幾度が死線を越えた身の いま独り命永
らえて今日あるは 思えば真に運命の不思議という外はない
 ここに ささやかながら慰霊の碑を建立し 戦没散華された諸氏の芳名を刻してその冥福を祈り 祖国の名誉ある隆昌
と 世界恒久の平和の実現を祈念して 回向の微意を捧げる
 諸霊願わくは来り享けよ 平成三年九月吉日 人吉海軍航空隊補充新兵教班長 元予科練人吉会事務局長 現人吉市遺族会副会長 八十翁 野方辰喜 撰文 渋谷敦

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霧□し 見はてぬ夢のたかんばる 子春

人吉海軍航空隊ハ大東亜戦争ノ際昭和十九年二月此ノ高ン原ノ台地ニ開隊シ庁舎居住地区飛行場地区合セテ約一二〇万坪ヲ占メ全国ノ熱烈ナ志願者カラ選抜採用サレタ飛行予科練習生ヲ教育シタ
昭和二十年八月終戦ヲ迎ヘルニ及ビ折角祖国ノ急ニ役立タウト奮ヒ立ツタ予科練ミナ復員四散シテ其ノ念願ハ空シク潰エ
其ノ施設ハ跡形モナク消ヘ去ッタ
途莫彼等ガ若キ日此ノ地ニ培ハレタ敢斗精神ハ確固トシテ身ニ着キ社会ノアラユル職域ニ各々指導的立場ニ立ツテ戦後ノ復興ニ貢献シ戦後三十年人吉市原ノ城望岳苑ニ建ツ留魂ノ碑トナリ高ン原ノ地は永ク祖国今後ノ進展ヲ期スル魂ノ故郷トナツテ今ニ遺ル
国破山河在 城春草木深 今繁ル夏草ノ其ノ根ヲ培ヒタル人吉海軍航空隊ヲ伝ヘテ略誌トスト云爾
昭和五十年八月十七日 元人吉海軍航空隊司令 海軍大佐 田中千春撰 □第三十二分隊練習生 千田良一書

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「霧□し 見はてぬ夢のたかんばる」

「霧」の次の文字が読めません。

DSC_2139_00001_01.jpg  先に有志相諮つて「軍人勅諭の碑」を再建したが 今回 人吉東小学校々庭の整地にともない その一隅に置かれていた「誠心石」を譲り受けたこの「誠心石」□□當て「軍人勅諭の碑」の上部に冠せられたもので 早速この地に運んで旧状の復元をはかつたが 碑の基礎負荷に多少の不安が残り 考慮の末 今回はやむなく碑の側に並べて保存することとした
 以上刻して後世に託する 平成四年八月 予科練人吉会 撰文 渋谷敦 倉橋信夫謹書

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明治十五年一月「軍人に賜りたる勅諭」の精神は軍人に限らず時代、時流を超えて天地の公道であり人倫の常経である。文明物質に偏り精神の荒廃、世の風潮退廃が嘆かれる今日、現代日本の精神作興の急務を痛感すること頻りである。乃ち、忠、礼、勇、信、質の五条を貫く誠心こそ其の基盤であらねばならぬ
 昭和七年四月下賜五十年記念に建立され昭和二十年八月終戦とともに人吉市東国民学校校庭に埋められ以来実に二十八年間地中にあつたこの軍人勅諭の碑を発掘し、再び世に示さんとする我らの趣意を記して後世に伝う
 昭和四十八年八月 予科練人吉会有志


      熊本県・人吉(川村・高原)飛行場跡地     
養成所だったのですが開設は末期の時期であり、松根油採取のための松の根掘りに多くの時間が割かれ、訓練もままならなかったのだそうです

人吉(川村・高原)飛行場 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県‎球磨郡‎相良村‎柳瀬‎
座 標:N32°13′13″E130°48′33″
標 高:152m
滑走路:1,500m×50m
方 位:09/27
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1942年    海軍飛行場建設計画
1943年11月 測量開始。近隣住民、学徒動員で建設工事
1944年02月 1日、人吉海軍航空隊として第18連合航空隊編入で開隊。練習・整備教育隊に指定
       乙種予科練を主体とし第1期は整備、第2~9期までは飛行訓練。鹿児島に出水分遣隊配備し独立
1945年03月 1日、第22連合航空隊に編入。実戦部隊の基地として使用。8日、初空襲。18日、壊滅的な攻撃を受ける
    04月 8日、爆撃にも堪え得る地下軍事施設を建設するため、第521設営隊編成。建設が進められる
    05月 14日、艦載機16機による空襲。この頃九三式中間練習機による特攻訓練が行われるようになる
        15日、緊急整備実施
    06月 1日、整備訓練教育が凍結され本土決戦用地上戦部隊に変更される 
    07月 10日、人吉海軍航空隊解隊。人吉航空基地施設と改称。その後は警備部隊と鉾部隊配備
    08月 15日、終戦時海軍特攻隊6名駐留。九三式練習機96機、雷電1機、零戦2機、九六式艦戦19機残存
       1,500メートルの滑走路は戦後しばらく残され、駐留軍の訓練に使用
       その後農用空港への転用が論議されたが結局撤去されて農地に
2018年08月 資料館「にしきひみつ基地ミュージアム」開設 

関連サイト:
錦役場飛行場公式サイト  
にしき ひみつ基地ミュージアム 
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この記事の資料:
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「九州の戦争遺跡」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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