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大浜(玉名、高瀬)飛行場跡地 [├空港]

   2011年6月訪問 2020/11更新   


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撮影年月日 1949/03/03(昭24)(USA M1243-A 114) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

熊本県‎玉名市‎大浜・北牟田の水田一帯に造られた「大浜飛行場跡地」。

「玉名飛行場」、「高瀬飛行場」とも呼ばれていました。

現在は水田に戻っています。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  高瀬
位 置   熊本県玉名郡豊水村
規 模   要図(北西-南東1400 北東-南西1570)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 五〇〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

当地から北数キロの所に「玉名市立歴史博物館こころピア」という現代アートのような風変わりな施設があり、

ここで「玉名の戦争遺跡 大浜飛行場」というパンフレットをいただきました。

上図の飛行場境界線、滑走路はこのパンフを参考に作りました。

おおよそのものですのでご了承くださいませ m(_ _)m

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青マーカー地点。

修復した正門門柱。

この周辺に遺構が密集しており、案内板等分かりやすく整備されていました。

上の写真の説明版とは別に、すぐ近くに説明版がありました。

大浜飛行場跡(全文) (陸軍大刀洗飛行学校玉名教育隊) 大浜・北牟田の中央部水田一帯に、昭和十九年三月(一九四四)縦横一五〇〇m、総面積二百四十町歩を飛行場施設・滑走路として使用開始した。滑走路は遂度土工法で暗渠をはさみ、全長千m幅七十五mの二本で、航空隊本部・大小格納庫八基、兵舎棟などの関連建物があり、昭和二十年(一九四五)に完成した。昭和一九年三月、各地から操縦指導員五十名が当地に着任、同年四月陸軍少年飛行兵操縦十五期生二十名が入校開隊し、四ヶ月間の訓練の後各飛行隊に配属された。八月には、陸軍特別幹部候補生第一期生百二十名が入隊、赤とんぼ・ユングマン九七戦改等の練習機を使用し訓練をはじめた。昭和二十年五月十日と十三日朝、連合軍B二九(二機)と艦載機(グラマン)五十九機による空襲を受け、飛行場付帯施設は壊滅的な被害を受けた。※五月十日二百五十kg爆弾二十発(うち時限爆弾八発)を投下 ※五月十三日 五十~二百五十kg爆弾三百五十発を投下 また、瀬戸・天神・下町は空襲による被害もうけた(死者十八名・家屋の損害七棟) その後教育隊は改編され、二十年夏鳥取県米子市へ移転、八月十五日の終戦までは守備隊・実戦部隊が残り使用した。現在、正門・大小格納庫基礎・風呂・井戸・診療所基礎が良好な状態で残っている。戦後、昭和二十二年三月(一九四七)跡地に玉名農地開拓団として六十四戸が入植し現在に至っている。 ※大刀洗飛行学校は現在の福岡県三井郡大刀洗町にあった。

大浜飛行場(パンフレットより) 昭和19年、大浜に大刀洗陸軍飛行学校玉名教育隊が開隊しました。それにあわせて、格納庫・医務室・修理工場・風呂場・兵舎などの諸施設がおかれ、若い操縦生が訓練に励みました。しかし、昭和20年5月に米軍機による空爆によって大浜飛行場はその機能を失い、修復する間もなく、8月の終戦を迎えることになったのです。大浜・豊水・横島にわたる広大な用地は、戦後民間に払い下げられ、水田や宅地となりました。

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に当飛行場について扱われていました。

以下一部引用させて頂きます。

有明海に面したこの一帯は、海岸堤防が壊れた場合の、海水の侵入にたいする対策が必要であった。(中略)
「滑走路は島式と呼ばれ、たとえ、海岸堤防が壊れて、海水が侵入しても、
島のように残るように1m位の盛土をする計画であった。幅100m位、長さは1000mの予定であった。
19年3月完成。また、全体的に75cm盛土する計画であったが、戦争激化で間に合わなくなったので(中略)、
そこで、飛行場外の田を買取り、地下げして建築部位に積み上げた。
このため、下(しも)の出口や寺のうしろは池となり、養魚場となったこともある」。

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赤マーカー地点。

飛行場中心付近。


      熊本県・大浜飛行場跡地      

大浜飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:熊本県玉名郡豊水村(現・熊本県‎玉名市‎大浜町‎)
座 標:N32°54′00″E130°33′32″
標 高:2m
面 積:238ha
飛行地区:1,400mx1,570m
滑走路:1,000m×75m2本?
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年    夏に用地説明、買収、家屋移転
1944年03月 大刀洗陸軍飛行学校玉名教育隊開隊。少飛15期120名入校。
     07月 少飛卒業後、特幹1期120名入校
1945年02月 大飛校廃校。錬成飛行第8戦隊へ改編。空542(第8練習飛行隊)は決と号要員として米子飛行場へ移駐
     05月 空爆により機能喪失
     07月 第30戦闘飛行集団配当飛行場。中旬、第90,91振武隊12名が駐留
     08月 終戦
1947年03月 玉名農地開拓団64戸入植

関連サイト:
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この記事の資料:
現地説明版
玉名市立歴史博物館こころピア資料
「熊本の戦争遺跡 戦後65年」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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