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東北旅行・1 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑ稲沢場外MLP専用飛行場→Ⓒ能代飛行場跡地→Ⓓハイランド滑空場跡地→Ⓔ道の駅よこはま(車中泊)

 

4:45 自宅出発

すぐに最寄りのインターから高速へ。

(関越道)→高崎JCT→(北関東道)→岩舟JCT→(東北道)→北上JCT→(秋田自動車道)

というルートで秋田県へ。

東北道を利用する場合、これまでは自宅から東北道の加須ICまで下道を使っていた(1時間弱)のですが、

今年3月に関越道と東北道が北関東道で完全につながったので早速利用したのでした。

従来の方法より大回りになり、時間はほとんど変わらないのですが、

こうすると4時前に自宅を出れば、早朝割引で料金が半額になるのです。

早く圏央道が東北道と繋がってください。おねがいしますm(_ _)m

 

東北道で福島県に入った途端、道は凸凹。

路肩はそこここで崩れ、土嚢が積んであり、休憩でPA,SAに入ると、必ず自衛隊やレスキュー隊の隊員、車両が。

被災地に入ったのだということを実感。

その後秋田県に入り、

「稲沢場外MLP専用飛行場」、「能代(東雲)飛行場跡地」、「ハイランド滑空場跡地」の見学を終え、

明日の見学のために青森県に向かいました。

20:20 道の駅よこはま着。

20:50 寝る。

おやすみなさい。

(続きます)

 

本日の走行距離:959km

D20_0017.jpg


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とり日記 [■ブログ]

先日仕事で運転中の話なのですが。

路地から幹線道路に出ようとしていました。

オイラの前には1台車があって、2台で並んで車が途切れるのを待っていました。

すると突然前の車のバックランプがピカッと光り、バックし始めました。Σ(゚Д゚;)

バックランプが光った時点で一応Rに入れたのですが、

クラクションを鳴らしても効果なしだったので、後方確認しつつオイラも急いでバック。

突然下がり始めた車は、路地脇の空き地に車を入れると、携帯使ってました。

オイラには1mmたりとも気付いてませんよ。はあ。。。。

以前もコンビニの駐車場等で、こうやってパックして衝突回避したことが2度あります。

携帯絡みで運転が疎かになってしまう車、時々見ますね。

これから年末になると、ますますアブナイ車が増えてきます。

皆様もどうぞご注意くださいませ。

 

(次回から東北強化月間ですヨ)


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日本とダグラス旅客機 [├雑談]

本日は日本と米ダグラス社製(主に)旅客機の深い深いお付き合いの話を。

 

・DC-2

日本とダグラス旅客機のお付き合いは、1934年初飛行のDC-2から始まりました。

日本航空輸送が8機を輸入した他、中島飛行機が1935年からライセンス生産を行ない6機を製造しました。

 

・DC-3

DC-2の後継型DC-3は1935年に初飛行したのですが、

日本海軍は1937年設立の昭和飛行機工業にDC-3の製造ライセンスを取得させました。

こうして日本で生産されたDC-3は「零式輸送機」として日本軍により運用され、

最終的に中島飛行機製と合わせて486機生産されました。

DC-3の国産化については過去記事でちょっと触れてますので興味のある方はご覧くださいませ     

 

・DC-4E

「DC-3より更に大型の機体を」ということで、ダグラス社としては初の4発旅客機となるDC-4を開発しました。

DC-4は1938年に初飛行したのですが様々な問題点があり、結局試作1機だけで取りやめとなってしまいました。

そしてダグラス社はこのDC-4をDC-4"E"(E:試作機)に名前を変えてしまい、

なかったことにして、改めてDC-4を最初から作り直すことにしました。

1機だけで中止となってしまったDC-4Eなのですが、なんと日本海軍がこの機体を買い取っています。

大型機開発が遅れていた日本で、未知の大きさとなる大型爆撃機を開発するための参考機として購入したのです。

なにしろこの機体よりずっと小さい双発輸送機の分野ですら日本は大きく立ち遅れており、

DC-3はライセンス契約をしていたにもかかわらず国産化は困難を極め、3年を要しました。
(新興メーカーに任せたから。というのもあるんでしょうけども)

DC-4Eに話を戻しますが、この機体の問題点の1つに、「新機構を欲張り過ぎて複雑になってしまった」。

というのがあり、こういう欠点は参考資料としてはむしろ有難いのだそうです。

購入したのが1939年10月で、日米開戦2年2カ月前。

既に日米関係はギクシャクしていたため流石に日本海軍が堂々と購入するわけにはいかず、

日本航空輸送がダミーになりました。

その後日米開戦。日本とダグラス社の交流は一時中断します。

 

・DC-4

1942年にDC-4が初飛行するのですが、

日本では戦後の民間航空活動の停止措置の解禁を受け、1951年10月に日本航空がノースウエスト航空との委託運航契約を結び、

DC-4を使って1951年11月から運航を開始しました。

その後買い増しを進め、最終的に6機のDC-4を運用しました。

 

・DC-5

DC-4が1942年に初飛行したわけですが、その3年前の1939年にDC-5が初飛行しました。

なんだかモデルナンバーと初飛行の順番が逆になってしまってます。

5の方が先に初飛行しているんですね。

DC-4の作り直しでゴタゴタしている間に先にDC-5が飛んじゃったんじゃないでしょうか。

それはともかく、DC-4は4発機で、続くDC-6,DC-7はDC-4の発展系4発機です。

一方、DC-5は双発でちょっと異色の小型機。

「狭い飛行場で運用可能な短距離用小型機」なので、現在で言うところのコミューター機に相当するんでしょうか。

DC-5はわずか12機しか生産されなかったのですが、

オランダ領東インドで使用されていた2機を日本軍が捕獲し、テスト飛行の後現地で運用した他、

日本本土に空輸し羽田空港で展示しました。

 

・DC-6

1946年、DC-4の発展型であるDC-6が初飛行しました。

1953年10月、日本航空が同機による運航を開始、その後同社の国際線主力機として活躍しました。

 

・DC-7

1953年、DC-7が運用開始しました。これはDC-6の改良型で、

次のDC-8はジェット機でしたから、DCシリーズ最後のレシプロ旅客機でした。

日本航空がDC-8までのつなぎ役として導入し、1958年~1965年まで使用しました。

 

・DC-8

そして1959年初飛行のDC-8。

日本では、 DC-8と同じく4発ジェット旅客機であるボーイング707とどちらを導入するか検討が行われました。

長年に亘るダグラス機の実績と、当時運航技術や機体整備で協力関係にあったユナイテッド航空が採用したことから、

1955年12月にDC-8の導入を正式に決定しました。

ボーイング社製にするか、ダグラス社製にするか、選定に当たっては国民感情も配慮したと言われています。

広島、長崎の原爆投下、また日本中の都市を火の海にしたB-29はボーイング製。

B-29の"B"は爆撃機(bomber)のBなのですが、これを「ボーイングの"B"」だと思い込む人もいました。

この辺は、日本本土を襲撃した艦載機を十把一絡げに「グラマン」と言ったのと似ているかもしれません。

その位当時の人々の脳裏には「ボーイング」という社名が空襲と関連して焼き付いていたのです。

戦中派のオイラの高校の時の古文の先生もその1人。

授業中、話が戦時中のことに脱線するたびB-29のことに触れ、「BはボーイングのB」と何度も発言し、

ムズムズしたのを覚えています。

DC-8の導入を正式に決定したのが1955年。

ボーイングB-29が日本中に爆弾を落としまくってから僅か10年後のことですから、

国民感情に配慮してボーイングを外すという決定は無理からぬことでしょう。

 

その後DC旅客機シリーズは、DC-9、 DC-10と続き、MD-11を作ったところでボーイングに吸収されて幕を閉じるのですが、

これらの機種はいずれも日本の航空会社で使用されました。

国内を飛び回る在りし日のダグラス機を懐かしく思い出す方も多いのではないでしょうか。

まとめるとこんな感じです↓

DC-2   輸入、ライセンス生産
DC-3   ライセンス生産
DC-4E  参考資料として輸入
DC-4   購入し、旅客機として運用
DC-5   日本軍が捕獲し運用、展示
DC-6    購入し、旅客機として運用
DC-7    購入し、旅客機として運用
DC-8    購入し、旅客機として運用
DC-9    購入し、旅客機として運用
DC-10  購入し、旅客機として運用
MD-11  購入し、旅客機として運用

こうしてみると、日本はDC-2からMD-11まですべての機種を、所有、運用、あるものは製造までしていました。

こうなると気になるのが抜けている"DC-1"ですが、 これは1機の試作だけで、すぐに量産型のDC-2に移行しました。
(この1機は7年後に全損事故で廃棄処分された)

日本のダグラス機収集熱は凄まじいものがあります。

特にたった1機の試作に終わった超レア機DC-4Eをわざわざお取り寄せし、

民間向け量産型はたった4機しか造られなかったDC-5を捕獲してまで収集するという熱の入れようです。

ちなみに、日本はDC-9の派生型であるMD-80,90シリーズ(-81,82,83,87,90)も全機種運用しました。
(MD-82のグラスコックピット化型のMD-88,設計のみのMD-95を除く)

「日本はダグラス旅客機を全機種コンプリートした」。と言っても過言ではないんじゃないでしょうか。

 

今でこそ日本は世界でも稀なほどのボーイング好きですが、

戦後に限っても、ボーイングが送り出した旅客機のうち、707,717,757を採用していません。

実は日本て、ボーイングなど比較にならない程の超ダグラス好きだったのです^^


沼垂(焼島)飛行場跡地 [├空港]

   2011年9月訪問 2020/11更新  


無題g.png
1/25000「新潟北部」明治44年測図「今昔マップ on the web」より作成
無題h.png
1/25000「新潟北部」昭和6年修正「今昔マップ on the web」より作成

新潟県新潟市にあった「沼垂(ぬったり)、焼島飛行場」。

前記事の万代島飛行場に地盤等の欠陥があったため、僅か半月(資料によっては十日、数日とあり)の使用に留め、

新潟市が次に建設した飛行場です。

当飛行場も非常に短命に終わった割には、"幻の飛行場"とならず、ググると複数のサイト様がヒットします。

が、飛行場の具体的な位置については情報が非常に少ないです。

新潟市史によりますと、

「昭和四年までに焼島潟の東側水面約二万九〇〇〇坪が埋め立てられ、ここが飛行場として使用された」

とあります。

上に貼った今昔マップ、上が明治44年、下が昭和6年の焼島潟です。

焼島潟で昭和6年にかけて大きく変化しているのは、下の地図で新たに出現した長方形の部分ですね。

先頭のグーグルマップは、この長方形の埋立地のうち、

特に飛行場として使用できそうな部分をグレーのシェイプで作図しました。

市史では埋め立ての面積が二万九〇〇〇坪(≒9.6ha)とあります。

グレーのシェイプ部分は8.8haなので、面積的にも、埋立地出現のタイミング的にも、

飛行場はココで間違いないのではないかと。

この埋立地は昭和6年(飛行場として使用していた時期から2年後)の時点で、何の障害物もなく、

700mx90m~190mの広さがありましたから、大きさとしては飛行場の使用に支障はなかったはずです。

ということで、万代島→沼垂と立て続けに飛行場を建設した新潟市なのですが、

市は更に本格的な飛行場が必須と考え、翌昭和5年には松ヶ崎村に「新潟市営飛行場」を建設。

これが現在の新潟空港へと至るのでした。

D20_0031.jpg

赤マーカー地点。

D20_0035.jpg

同じく赤マーカー地点。

焼島橋から見た飛行場方向。


      新潟県・沼垂(焼島)飛行場跡地      

沼垂(焼島)飛行場 データ

設置管理者:新潟市
種 別:陸上飛行場
所在地:新潟県‎新潟市‎東区‎榎町‎
座 標:37°55'47.2"N 139°04'48.7"E
標 高:1m
面 積: 8.8ha?
着陸帯: 700mx90m~190m?
方 位:08/36
(座標、標高、面積、着陸帯長さ、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
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万代島飛行場跡地 [├空港]

    2011年9月訪問 2020/11更新  


無題b.png
1/25000「新潟北部」昭和6年修正「今昔マップ on the web」より作成

新潟県新潟市、‎信濃川の河口付近にある万代島‎。

かつてここに「万代島飛行場」がありました。

昭和4年5月、新潟市最初の市営飛行場として建設されました。

同年8月、朝日新聞社が万代島飛行場~東京立川飛行場間に郵便飛行機を就航させました。

夏期のみ毎週3往復のみの季節運航としてスタートさせたのですが、

残念ながら地盤の欠陥等のため半月しかもたなかったのだそうです。

そのため新潟市はすぐ東側に新たな飛行場を建設することにしたのでした。

残念ながら今のところ飛行場の地図が見つからず、万代島をどのように使用していたのか不明なのですが、

上に貼った地図は、飛行場廃止から約2年後とかなり近い時期のものなので、

運用当時の万代島も恐らく同様の形だったと思います。

全面更地で、北の飛び出た細長い部分を除外しても、

1,000mx70m~250mの長さがとれるので、広さとしては十分だったはずです。

 

国立国会図書館レファレンス共同データベース: レファレンス事例詳細の中で、

「昭和初期に万代島にあった飛行場について,関連書籍や新聞記事が見たい。」

というものがあり、回答は以下の通りでした(下記リンク参照)。

(1)『新潟市史 通史編4』(新潟市 1997)p203「郵便飛行の開始」
昭和4年8月17日の定期郵便飛行開始について,わずか半月間使用されただけ,との記載あり。
(2)『萬代橋と新潟』(新潟市 2005)p65「喜びの開通」
(3)『日本ヒコーキ物語 北陸信越篇』(平木国夫著 冬樹社 1980)p156「新潟路線」
昭和4年8月15日に定期航空開始。
開航式には県下の官民百五十余名が出席した,などの記載あり。
(4)『山本五十六と民間航空政策』(長谷川甲子郎著 長谷川印刷 1995)p10
「萬代橋竣工記念行事の一環として東京朝日新聞社は社有飛行機の記念飛行を市当局に申し出た。これを歓迎した中村市長は暫時朝日機の滞在を要求し,このため万代橋直近下流側の万代島に市費を支出して臨時の離着陸場を新設した。(中略)万代島離着陸場が狭少とあって,中村市長は本格的な飛行場新設の必要を認めこの決心をする。」と記載あり。

新潟新聞マイクロフィルムの記事について,開航した昭和4年8月15日を含む前後5日間ずつを確認。

(5)昭和4年8月13日 東京・新潟間に郵便飛行を開始
(6)昭和4年8月15日(夕刊)東京・新潟間 郵便飛行店開き
(7)昭和4年8月16日(夕刊)東京・新潟間 郵便飛行コース開く

続けて建設された飛行場については次の記事で。

D20_0028.jpg

赤マーカー地点。

立体駐車場の歩道橋から南側に向かって撮りました。

新潟コンベンションセンター、万代島ビルが並んでます。


      新潟県・万代島飛行場跡地      

万代島飛行場 データ

設置管理者:新潟市
種 別:陸上飛行場
所在地:新潟県‎新潟市‎中央区‎万代島‎
座 標:N37°55′36″E139°03′39″
飛行場:1,000mx70m~250m?
(座標はグーグルアースから)

沿革
1929年05月 初の市営飛行場として建設
    08月 15日 東京便季節運航開始

関連サイト:
国立国会図書館レファレンス共同データベース 
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村松飛行場跡地 [├空港]

   2011年9月訪問 2020/11更新  


無題a.png
撮影年月日1946/06/16(昭21)(USA M167-A-5 33) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

新潟県‎五泉市‎‎石曽根の村松飛行場。

建設を始めたものの間もなく終戦を迎えたとする記録が残されています。

資料が非常に限られていて飛行場の正確な位置は不明なのですが、

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

多分に主観が入っていますので、その程度のものということでご了承くださいませ。

仮にこうだったとすると、1,500mの滑走路です。

 

新潟日報ウェブ版2020/11/05 11:00(下記リンク参照)によりますと、

新潟大学では2014年から周辺住民らへの聞き取り調査を続けており、2020年8月に、

新大農学部付属フィールド科学教育研究センター村松ステーション内で発掘調査を実施。

自然堆積では形成されない石や砂が混ざった地質を確認しました。

これは人為的に搬入されたと考えられ、「塹壕を平らにした」、「滑走路はローラーで固めた」

などの証言と符合することから、「この場所に秘匿飛行場があったと思われる」とのことです。

D20_0017.jpg

赤マーカー地点。

オイラが考える滑走路と周辺の道は方向がずれており、この写真も滑走路延長方向とはズレてます。

D20_0025.jpg

青マーカー地点。

「日の出町交差点」。

明治29年から終戦まで、当地に歩兵第30聯隊が設置されたのだそうです。

村松陸軍少年通信兵学校当時の営門が残っていました。 


      新潟県・村松飛行場跡地     
着工から間もなく終戦を迎え、結局1機も飛び立つことはなかったのだそうです

村松飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:新潟県‎五泉市‎石曽根
座 標:N37°41′42″E139°11′47″?
標 高:35m
滑走路:1,500mx100m?
方 位:18/36?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1945年06月 建設開始
     08月 終戦により工事中止
2020年08月 発掘調査

関連サイト:  
新潟日報ウェブ版2020/11/05 11:00 
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小千谷陸軍(中越、小粟田原)飛行場跡地 [├空港]

    2011年9月、2016年7月訪問 2022/6更新  


9.png
(昭和8年9月撮影)高度500米 方位W 距離1,000米
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1934年(昭和9年)5月調査資料添付地図
Translation No. 29, 20 February 1945, Airways data: Chubu Chiho. Report No. 3-d(27), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
無題2.png
1946/06/16(USA M167-A-5 51)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

新潟県‎小千谷市‎小粟田(こわだ)‎。

東西を山地に囲まれる中、信濃川沿いに平野が広がり、美しい水田が広がっています。

ここに地元周辺の方々の協力により民間飛行場が開場します。

■「小千谷の歴史・市制施行十周年記念」 に飛行場ができたいきさつについて、こんなことが書かれていました。

「明治四十一年十月、工兵第十三大隊隷下の工兵大隊が千田村小粟田原に駐屯しました。

この駐屯はそれほど長続きせず、大正十四年四月二十六日に大隊の解散式が行われました。

その後昭和六年に入り、満州事変が発生すると、地元でも愛国心の高まりを見せる様になります。

小千谷町はこの機をとらえて工兵大隊廃止跡の小粟田原約十万坪を整備して陸軍飛行場とすることを軍当局に請願しました。

昭和七年七月、小千谷町と三島郡片貝町の招きによる東京飛行学校のユニボル式戦闘機一機が飛来して

数万の観衆の拍手を浴びました。

これに勢いを得て八月、附近十四カ町村の在郷軍人分会、青年会は、

小学校児童を含む述べ四千人の労力奉仕と、二千人の失業対策工事によって、五万坪の地ならしを行いました。

十月二十二日開場式が挙行され、

黒山のような群衆の上で陸軍機、民間機計七機の華やかなページェントが繰り広げられました。

昭和七年十二月、一口一円以上寄付の会員四千余名に上る"中越飛行協会"が組織され

労力奉仕による数回の拡張が行われました。

陸軍に献納する請願運動も継続されましたが、それはついに成功せず、

十二年二月"中越飛行場"は帝国飛行協会に寄付されて民間飛行場となりました。

支那事変に入ると、そこには中学校生徒のグライダー練習が見られるようになりました。」

要するに小千谷町としては、工兵大隊駐屯跡地に飛行場を整備し、

そこに陸軍飛行場を招致したかったのですが実現せず、

民間飛行場「中越飛行場」になりました-ということのようですね。

これを「国内初の町有飛行場」と説明しているサイト様もあります。

 

民間の「中越飛行場」は、後に陸軍の「小千谷飛行場」となります。

当飛行場については、明確な測量年は不明ながら、時代の異なる2つの地図があります。

■航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場(下記リンク参照)の中に、

昭和9年5月調」の当飛行場情報と地図があり、

■防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部 の中に、

昭和18年4月調」の当飛行場情報と地図がありました。

先頭のグーグルマップ、昭和9年の民間飛行場をグレー系で、昭和18年の陸軍飛行場は薄紫で作図しました。

ここは線が拾いにくくて、作図の途中で何度も心が折れそうになったんですが、

おおよそこんな感じと思います。

こうして比較して見ると、後にちょっとスマートになって、北東方向に拡張したのですね。

(オイラの作図が合ってれば。ですが)

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」非公共用飛行場 として以下記されていました(9コマ) 

名 称  中越飛行場
経営者  帝國飛行協会
所在地  新潟縣北魚沼郡千田村大字小粟田
水陸の別 陸
滑走区域 長八五〇米 幅四〇〇米
備 考  (記載無し)

防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」の当飛行場情報を以下引用させて頂きました。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも、

「小千谷陸軍飛行場 新潟県北魚沼郡千田村」として、以下全く同じ記載がありました。

面積 北東-南西1,200米 北西-南東200乃至400米 総面積37万萬平方米
地面の状況 平坦且堅硬なるも降雨後は軟化す・一面に山芝密生す・南より北方に向け
緩かに傾斜す・排水概ね良好なり
目標 信濃川、小千谷町
障碍物 南西方付近に樹木(高さ20米)北方に電線あり
離着陸特殊操縦法 離着陸は北東又は南西の2方向とす
格納設備 なし
照明設備 標識灯(1萬燭光)1あり
通信設備 中隊司令部に特設電話あり 千田郵便局(南方100米)にて電信及電話を取扱ふ
観測設備 なし
給油設備 航空用燃料貯油槽あり
修理設備 小千谷町に理研工業工作部自動車修理工場あり
宿泊設備 小千谷町に旅館17(収容員数計300)あり
地方風 11月-翌年3月間は北西又は南東風にして4,5,8,9月は東又は南東風なり
地方特殊の気象 12月-翌年2月間は晴天日数少なく天候不定なり 降雪は12月-翌年4月間にして
最大積雪338糎なり
交通関係 小千谷町より「バス」の便あり
其の他 本場は元中越飛行場と称せる民間飛行場なりしが昭和16年7月陸軍第1航空軍司令部の所轄と為る
(昭和18年4月調)
  

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  小千谷
位 置   新潟県北魚沼郡土田村
規 模   要図(北東-南西1000 北西-南東300)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一二〇名分
 格納施設 (記載無し)
摘 要   施設軍有

防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」其の他の項目で、

「本場は元中越飛行場と稱せる民間飛行場であったが、昭和16年7月陸軍第1航空軍司令部の所轄となった」

とありますから、民間の「中越飛行場」は、1941年7月に陸軍「小千谷飛行場」になったのですね。

 

・1934年5月調査「航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場」・中越飛行場
・1943年4月調査「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.20 水路部」・小千谷飛行場

どちらも海軍水路部作成の資料であり、飛行場の地図と説明があるのですが、比較してみると幾つか違いがあります。

1934年5月の方では格納庫、事務所、そして滑走路のこちら側とあちら側に吹き流しの表示があるのですが、

1943年4月にはこれら諸施設、設備の表示がありません。

格納庫、事務所等施設があった場所に小さな建物が幾つか並んでいるのですが、

格納設備、観測設備の欄は「ナシ」とあります。

先頭のグーグルマップ、続く航空写真にも追加しましたが、

1934年5月の地図で「コンクリート」とあった箇所が1943年4月の方では「ペトン跡」とあります。

別資料ですが、「帥作命甲第2号別紙」では、当飛行場は秘匿飛行場の中に含まれていることからすると、

秘匿化のため既存の施設を撤去、隠匿した。ということかもしれません。

民間飛行場が軍の飛行場になった際、大規模拡張という例が多いように思うのですが、

必ずしもそうとばかりは限らないのですね。



■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/10000 小千谷飛行場(昭和十八年六月)がありました。

地図には「判決」として以下の通り書き込みがありました。

判決
 本飛行場は整備後九七戦一中隊程度の機動飛行場たり得
 二式戦以上の新機種に対してはA地区を拡張整備するを要す
 最大限拡張し1500x100の滑走地区可能
 B,C拡張の余地なし

ということで、飛行場拡張の可能性について記されているのですが、

A地区→赤で囲った部分。
B地区→赤マーカーの辺り。
C地区→青マーカーの辺り。

B,C地区は、地図で確認すれば、確かに「拡張の余地なし」とするのも当然ですね。

現行の飛行場(黄色のシェイプ)だと、最大でも1,200m程度の直線しかとれません。

かといって、そのまま飛行場を北東方向に延長することもできないため、

少々西側にずらして拡張すれば、1,500mの滑走地区を確保できる。ということのようです。

資料の地図は上が見切れているので、「1,500m確保しようとすると、こんな感じ」ということで線を引いてます。

位置
 新潟縣北魚沼郡千田村小粟田
地表の状況
 土質極めて堅硬にして□(旦?)排水可良
 北低南高(高低差十米)
天候気象の交感
 十二月より四月中旬まで積雪あり飛行
 に不適 殆んど現状の儘にて重機種
 の使用に耐ふ
 降雨の交感少し
建物
 燃料庫四棟五五〇本品質検査立川航空
      廠実施近く更新
 弾薬庫一棟 五〇〇〇〇発(施)昭一六・七月積
交通連絡の状況
 おぢや駅より約二里
其の他
 三八部隊(村松歩一五八)より曹長一、
 上一、一等兵八計十名一ヶ月交替警戒服
 務 模型飛行機 九機
特殊事項
 一、西北部に陥没個所所々にあり補修の
   要あり
 二、小型機の使用に適す
 三、照明設備なく夜間使用に不適

 

小千谷が秘匿飛行場だったことを裏付ける地元資料もあります。

「小千谷市史下巻」の中に終戦間近の「小粟田原飛行場」についてこんな一節が残っていました。

「昭和二十年八月一日の長岡空襲は隣接する我が市域の人心に大衝撃を与え、戦局の危急を身を以て感じさせた。

その頃敵機はしばしば飛来して、小粟田原飛行場を目標として機銃掃射を加えたりした。

ある日勤報隊が滑走路のカムフラージュのために芝を植え、飛行機を隠すために土穴を掘る作業をしていたところへ、

数機の飛行機が現れた。

一同空を仰いで万歳万歳と手を振っていると、いきなり機銃掃射を受け、文字通り仰天して

林の中へ逃げ込んだといった話もある。

戦局の急迫は人々の想像のほかだったのである。終戦当時、小粟田原飛行場には燕部隊が駐屯していた。」

陸軍が当飛行場に「小千谷」という名称を付けようと、

地元の方にとってここは「小粟田原飛行場」だったのですね。

2013/9/22追記:KIJ-AP-BLDG様より情報頂きました。昭和30年9月21日付の新潟日報によりますと、小千谷市は当飛行場跡地に市営飛行場建設構想検討とのことで、運輸省の視察でも好感触を得たこと等書かれていました。ところがそれから3年足らずの昭和33年6月21日付の同紙面では、 小千谷市が当地を牧野として開発計画を立てていることが記されていました。なぜか途中で計画が変更になってますが、昭和30年の時点では、当地に再び ヒコーキが飛び回る可能性が濃厚だったのです。KIJ-AP-BLDG様情報ありがとうございましたm(_ _)m 

2014/9/8追記:アギラさんから情報頂きました。「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、新潟縣立小千谷中學校グライダー部が当飛行場を使用していたという記録があります。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

DSC_0003.jpg

青マーカー地点

飛行場西側はこんな感じ。

DSC_0006.jpg

赤マーカー地点

中越飛行場当時、画面右側に滑走路が奥に向かって伸びていたはずです。


      新潟県・小千谷陸軍(中越、小粟田原)飛行場跡地      

・中越飛行場(1932年開設) データ
設置管理者:小千谷町
種 別:陸上飛行場
所在地:新潟県北魚沼郡千田村
座 標:37°20'34.4"N 138°47'50.1"E
標 高:85m
面 積:16.5ha
着陸場:550mx120m
方 位:04/22
(座標、方位はグーグルアースから。他はアジ歴資料から)

・中越飛行場(1937年2月~) データ
設置管理者:帝国飛行協会
種 別:陸上飛行場
所在地:新潟県北魚沼郡千田村
座 標:37°20'39.2"N 138°47'53.6"E
標 高:86m
面 積:27.1ha
飛行地区:900mx500m不定形
方 位:04/22
(座標、標高、面積、方位はグーグルアースから。他は水路部資料から)

・陸軍小千谷飛行場(1941年7月~) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:新潟県北魚沼郡千田村(現・小千谷市小粟田)
座 標:37°20'45.9"N 138°47'56.6"E
標 高:84m
面 積:37ha
飛行地区:北東-南西1,200m 北西-南東200~400m
方 位:04/22
(座標、標高はグーグルアースから。他は水路部資料から)


沿革
1908年10月 工兵大隊が千田村小粟田原に駐屯
1925年04月 26日 大隊解散式
1931年09月 満州事変勃発。 小千谷町、大隊廃止跡を陸軍飛行場とすることを軍当局に請願
1932年07月 小千谷町と三島郡片貝町の招きにより戦闘機1機が飛来。数万の観衆が集まる
    08月 周辺住民により五万坪の地ならしを行う
    10月 22日  開場式
    12月 "中越飛行協会"が組織され、数回の拡張を実施
1937年02月 帝国飛行協会に寄付されて民間飛行場となる
1940年10月 この頃新潟縣立小千谷中學校グライダー部が滑空訓練に使用
1941年07月 陸軍第1航空司令部所管の陸軍小千谷飛行場となる
1945年08月 この頃しばしば空襲を受ける
1955年09月 小千谷市は当飛行場跡地に市営飛行場建設構想検討、運輸省視察-新潟日報
1958年06月 小千谷市は当飛行場跡地を牧野として開発計画-新潟日報

関連サイト:
アジ歴/航空路資料 第4 昭10-1 中部地方不時著陸場  
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
「小千谷市史下巻」
「小千谷の歴史・市制施行十周年記念」
新潟日報 昭和30年9月21日、昭和33年6月21日
「帥作命丙第119号別紙」
「帥作命甲第2号別紙」
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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