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日本とダグラス旅客機 [├雑談]

本日は日本と米ダグラス社製(主に)旅客機の深い深いお付き合いの話を。

 

・DC-2

日本とダグラス旅客機のお付き合いは、1934年初飛行のDC-2から始まりました。

日本航空輸送が8機を輸入した他、中島飛行機が1935年からライセンス生産を行ない6機を製造しました。

 

・DC-3

DC-2の後継型DC-3は1935年に初飛行したのですが、

日本海軍は1937年設立の昭和飛行機工業にDC-3の製造ライセンスを取得させました。

こうして日本で生産されたDC-3は「零式輸送機」として日本軍により運用され、

最終的に中島飛行機製と合わせて486機生産されました。

DC-3の国産化については過去記事でちょっと触れてますので興味のある方はご覧くださいませ     

 

・DC-4E

「DC-3より更に大型の機体を」ということで、ダグラス社としては初の4発旅客機となるDC-4を開発しました。

DC-4は1938年に初飛行したのですが様々な問題点があり、結局試作1機だけで取りやめとなってしまいました。

そしてダグラス社はこのDC-4をDC-4"E"(E:試作機)に名前を変えてしまい、

なかったことにして、改めてDC-4を最初から作り直すことにしました。

1機だけで中止となってしまったDC-4Eなのですが、なんと日本海軍がこの機体を買い取っています。

大型機開発が遅れていた日本で、未知の大きさとなる大型爆撃機を開発するための参考機として購入したのです。

なにしろこの機体よりずっと小さい双発輸送機の分野ですら日本は大きく立ち遅れており、

DC-3はライセンス契約をしていたにもかかわらず国産化は困難を極め、3年を要しました。
(新興メーカーに任せたから。というのもあるんでしょうけども)

DC-4Eに話を戻しますが、この機体の問題点の1つに、「新機構を欲張り過ぎて複雑になってしまった」。

というのがあり、こういう欠点は参考資料としてはむしろ有難いのだそうです。

購入したのが1939年10月で、日米開戦2年2カ月前。

既に日米関係はギクシャクしていたため流石に日本海軍が堂々と購入するわけにはいかず、

日本航空輸送がダミーになりました。

その後日米開戦。日本とダグラス社の交流は一時中断します。

 

・DC-4

1942年にDC-4が初飛行するのですが、

日本では戦後の民間航空活動の停止措置の解禁を受け、1951年10月に日本航空がノースウエスト航空との委託運航契約を結び、

DC-4を使って1951年11月から運航を開始しました。

その後買い増しを進め、最終的に6機のDC-4を運用しました。

 

・DC-5

DC-4が1942年に初飛行したわけですが、その3年前の1939年にDC-5が初飛行しました。

なんだかモデルナンバーと初飛行の順番が逆になってしまってます。

5の方が先に初飛行しているんですね。

DC-4の作り直しでゴタゴタしている間に先にDC-5が飛んじゃったんじゃないでしょうか。

それはともかく、DC-4は4発機で、続くDC-6,DC-7はDC-4の発展系4発機です。

一方、DC-5は双発でちょっと異色の小型機。

「狭い飛行場で運用可能な短距離用小型機」なので、現在で言うところのコミューター機に相当するんでしょうか。

DC-5はわずか12機しか生産されなかったのですが、

オランダ領東インドで使用されていた2機を日本軍が捕獲し、テスト飛行の後現地で運用した他、

日本本土に空輸し羽田空港で展示しました。

 

・DC-6

1946年、DC-4の発展型であるDC-6が初飛行しました。

1953年10月、日本航空が同機による運航を開始、その後同社の国際線主力機として活躍しました。

 

・DC-7

1953年、DC-7が運用開始しました。これはDC-6の改良型で、

次のDC-8はジェット機でしたから、DCシリーズ最後のレシプロ旅客機でした。

日本航空がDC-8までのつなぎ役として導入し、1958年~1965年まで使用しました。

 

・DC-8

そして1959年初飛行のDC-8。

日本では、 DC-8と同じく4発ジェット旅客機であるボーイング707とどちらを導入するか検討が行われました。

長年に亘るダグラス機の実績と、当時運航技術や機体整備で協力関係にあったユナイテッド航空が採用したことから、

1955年12月にDC-8の導入を正式に決定しました。

ボーイング社製にするか、ダグラス社製にするか、選定に当たっては国民感情も配慮したと言われています。

広島、長崎の原爆投下、また日本中の都市を火の海にしたB-29はボーイング製。

B-29の"B"は爆撃機(bomber)のBなのですが、これを「ボーイングの"B"」だと思い込む人もいました。

この辺は、日本本土を襲撃した艦載機を十把一絡げに「グラマン」と言ったのと似ているかもしれません。

その位当時の人々の脳裏には「ボーイング」という社名が空襲と関連して焼き付いていたのです。

戦中派のオイラの高校の時の古文の先生もその1人。

授業中、話が戦時中のことに脱線するたびB-29のことに触れ、「BはボーイングのB」と何度も発言し、

ムズムズしたのを覚えています。

DC-8の導入を正式に決定したのが1955年。

ボーイングB-29が日本中に爆弾を落としまくってから僅か10年後のことですから、

国民感情に配慮してボーイングを外すという決定は無理からぬことでしょう。

 

その後DC旅客機シリーズは、DC-9、 DC-10と続き、MD-11を作ったところでボーイングに吸収されて幕を閉じるのですが、

これらの機種はいずれも日本の航空会社で使用されました。

国内を飛び回る在りし日のダグラス機を懐かしく思い出す方も多いのではないでしょうか。

まとめるとこんな感じです↓

DC-2   輸入、ライセンス生産
DC-3   ライセンス生産
DC-4E  参考資料として輸入
DC-4   購入し、旅客機として運用
DC-5   日本軍が捕獲し運用、展示
DC-6    購入し、旅客機として運用
DC-7    購入し、旅客機として運用
DC-8    購入し、旅客機として運用
DC-9    購入し、旅客機として運用
DC-10  購入し、旅客機として運用
MD-11  購入し、旅客機として運用

こうしてみると、日本はDC-2からMD-11まですべての機種を、所有、運用、あるものは製造までしていました。

こうなると気になるのが抜けている"DC-1"ですが、 これは1機の試作だけで、すぐに量産型のDC-2に移行しました。
(この1機は7年後に全損事故で廃棄処分された)

日本のダグラス機収集熱は凄まじいものがあります。

特にたった1機の試作に終わった超レア機DC-4Eをわざわざお取り寄せし、

民間向け量産型はたった4機しか造られなかったDC-5を捕獲してまで収集するという熱の入れようです。

ちなみに、日本はDC-9の派生型であるMD-80,90シリーズ(-81,82,83,87,90)も全機種運用しました。
(MD-82のグラスコックピット化型のMD-88,設計のみのMD-95を除く)

「日本はダグラス旅客機を全機種コンプリートした」。と言っても過言ではないんじゃないでしょうか。

 

今でこそ日本は世界でも稀なほどのボーイング好きですが、

戦後に限っても、ボーイングが送り出した旅客機のうち、707,717,757を採用していません。

実は日本て、ボーイングなど比較にならない程の超ダグラス好きだったのです^^