青森(油川)飛行場跡地 [├空港]
2011年9月、2016年7月訪問 2022/6更新
(昭和18年10月16日撮影)高度400米 方位S
(昭和18年10月16日撮影)高度400米 方位SW
1945年(昭和20年)5月調査資料添付地図 Translation No. 63, 8 May 1945, photographs of airfields of Karafuto-Hokkaido and Aomori. Report No. 3-d(52), USSBS Index Section 6■ (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)
撮影年月日1948/05/15(昭23)(USA M1011 51)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。赤矢印は飛行場道路の踏切)
青森県青森市、青森駅からほんの数キロ、陸奥湾に面した所に、「青森(油川)飛行場」がありました。
昭和初期に東北地方を襲った大凶作に対し、政府による農民救済土木事業の一環として建設された飛行場です。
東京(羽田)-札幌間の民間定期航空路の中継地としての役割を見込み、昭和8年開場しましたが、
定期便の就航はなかなか実現せず、代わりに開場当初から軍用機等の飛来がありました。
地元念願の民間定期便運航がようやく始まったのは、開場から4年後の昭和12年のことで、
当時国鉄で最速13時間だった東京-青森間を僅か4時間で結んだのだそうです。
■朝鮮交通史1037p
日本航空輸送株式会社の東京-仙台-青森-札幌 定期便が設けられました。
資料:定期航空路線図 自昭和13年10月1日至昭和14年3月31日 によれば、毎日運航でした。
9:30東京発 11:00仙台着/11:20仙台発 1:00青森着/1:10青森発 2:40札幌着
9:00札幌発 10:30青森着/10:40青森発 0:20仙台着/0:30仙台発 2:10東京着
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ)■
経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-札幌
区間 東京-仙台間 毎日一往復
仙台-青森間 毎日一往復
青森-札幌間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年四月
■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行
の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ)■
名 称 青森飛行場
経営者 國
所在地 青森縣東津軽郡油川村
水陸の別 陸
滑走区域 東西七八〇米 南北七〇〇米
備 考 (記載無し)
■「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)
の中で、青森縣立商業學校滑空部が当飛行場を使用していたという記録が残されています。
アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に、青森飛行場 1/10,000図があり、先頭のグーグルマップの小さくて濃い黄色はこの図から作図しました。
この図には、飛行場敷地各辺の長さが記されていて、青マーカーから時計回りに、550m,463m, 300m、
青マーカーから反時計回りに、760m,410mとありました。
この通りに作図したところ、上に貼った1948年の航空写真の地割にピッタリ当てはまりました。
但し、青マーカーから南に延びる760mの辺だけ、この数字通りだとどうしても辻褄が合いません。
航空写真からレイヤを作って確認したのですが、この辺は760mではなく690mだと辻褄が合います。
同資料によれば、飛行場面積については「積量 約四十九万八千二百平方米」とあり(後述)、
一方、690mで作図するとグーグルマップには「0.525平方キロメートル」と表示されます。
資料の図にある通り760mだとこの差が更に開いていくことになりますので、
760mではなく、航空写真から導き出した690mだったのではないかと。
以下、同資料にあった情報を引用させて頂きます。
所在地
青森縣青森市大字羽白
積量
約四十九万八千二百平方米
地表の状況
赤砂 1/100 乃至1/460の傾斜あり、芝生密生す
周囲の状況
飛行場北方八百米付近に高さ四十米の無線鉄塔
あり、同西北方約千米付近に高さ六十米(木柱)の「ラ
ヂオ」ビーコン及四十米の無線鉄塔あり
南方五百米乃至千米に標高三十乃至四十米の山岳あり
天候気象交感
恒風概ね西
付属設備
航空局、電信局事務室各一 航空会社事務室一、
格納庫一 気象観測所事務室一、
交通連絡の状況
青森駅前より油川行市営バスにて約二十分にして飛
行場道路に至る、 青森県庁前より津軽急行バ
スにて約二十分にして飛行場に至る
宿泊地
青森市駅前通(新町)青森市濱町
浅蟲温泉
其の他
(記載無し)
付属設備の項目を見てもこの時点では未だ陸軍関連は出ていませんが、その後陸軍に接収されて拡張しました。
先頭のグーグルマップの薄黄色は陸軍飛行場当時の地割を示したものです。
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に陸軍飛行場となった飛行場情報がありました。
飛行場名 油川
位 置 青森県青森市油川町
規 模 1100? 1900
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 五〇〇名分
格納施設 無蓋掩体 四ヶ所
摘 要 施設官有
■新千歳市史通史編下巻 には、終戦直後の青森飛行場について記されていました。
372p
この間、日本機は飛行制限を受けた。「日本の飛行機は8月24日18時以
降の飛行を禁止する。飛行するものは撃墜する」というものであった。飛
行禁止命令は空襲で陸上交通と通信がマヒしていた日本の終戦事務処理の
連絡手段がなくなるに等しかった。
日本政府は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対して主要都市間
の連絡飛行を懇請、9月12日付SCAPIN23で東京を中心とした急行便
1、普通便3の4路線が認められた。
9月14日から日本人の自主運行によって1日4便の終戦連絡定期(緑十
字飛行-グリーンクロスフライト)が運航された。北海道方面は普通便の
第3航空路として東京-仙台矢本(現・空自松島)-青森油川-札幌間が、
月・火・木の週3便運航された。東京羽田飛行場が米陸軍に接収されてい
たため千葉県の陸軍松戸飛行場を代替として使い、札幌は北24条の札幌第
二飛行場を使った。緑十字飛行は10月9日をもってGHQから運航が禁止
された。その理由は陸上交通が次第に回復、整備されつつあり航空機を使
用する必要がなくなったということであったが、実情は惨憺たるもので
あった。
緑十字飛行の運航禁止によって終戦連絡事務の人員およひ郵便物と貨物
の移動が停滞した。これを受け10月10日からは代替として米軍による帝国
航空便(インペリアルクーリエ)が運航された(S21・2・6廃止)。週
4便が運航され東京立川飛行場から第一千歳(14日初便のみ北24条・札幌
第二)に飛来した。仙台矢本と青森油川に寄航して所要時間は6時間だった。
s.ossanさんからコメント頂きました。
日本飛行機の社員であったお父様が終戦時に油川飛行場の場長をされていたこと、
書類を全て焼却して何も残っていないこと等、教えて頂きました。
前述の通り、油川飛行場は陸軍に接収され、陸軍飛行場になった訳ですが、
逓信省管轄の民間飛行場として発足したといういきさつがありますから、
こういうこともあり得たのかもしれません。
もしかしたら終戦直後の緑十字飛行、帝国航空便飛来の際、場長としてご活躍されたのではないでしょうか。
紫マーカー地点。
資料にも登場する「飛行場道路」がドコなのか、長いこと不明だったのですが、
金さんから「踏切に記されている」と情報頂きました。
中学校通りは以前まで「飛行場通り」とも呼ばれていたのだそうです。
金さん情報ありがとうございましたm(_ _)m
看板で隠れている部分が見たかった。。。(涙)
踏切に背を向けて飛行場方向。
上に引用させて頂いた資料にも、
「青森駅前より油川行市営バスにて約二十分にして飛行場道路に至る」
とあります。
この道路を進めば、当時は飛行場施設のある地区まで文字通り一直線でした。
赤マーカー地点。
陸軍飛行場南端から飛行場方向。
陸軍接収後に拡張した訳ですが、グーグルマップで見てみると、
接収前の飛行場敷地は現在建物がギッシリと立ち並んでいるのと対照的に、
拡張後の用地は現在畑地となっている割合が非常に高いです。
青森県・青森(油川)飛行場跡地
飛行場の巨大格納庫がJAの倉庫として使用されていましたが、2004年解体されてしまいました。飛行場当時を偲ぶ唯一の建物として燃料庫が個人宅に現存するそうです
・青森(油川)飛行場(昭和8年開場当時) データ
設置管理者:逓信省
種 別:陸上飛行場
所在地:青森県青森市油川町(現・青森市羽白沢田)
飛行地区:780mx700m(不定形・転圧芝張)
・青森(油川)飛行場(陸軍接収時) データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:青森県青森市油川町(現・青森市羽白沢田)
座 標:N40°51′19″E140°40′57″
標 高:5m
滑走路:1,500mx300m転圧
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1932年09月 3候補地から油川町に民間飛行場建設決定
10月 着工
11月 起工式
1933年03月 竣工。滑走帯:780mx700m芝
06月 竣工式。その後陸軍機等により使用される
1937年04月 大日本航空輸送により、東京-仙台-青森-札幌間定期便開設
1940年07月 仏印進駐後、航空機ひっ迫のため停止命令。定期便廃止
大日本飛行協会青森支部の青森県第一滑空訓練場として使用されるようになる
10月 この頃青森縣立商業學校滑空部が滑空訓練に使用
1941年08月 陸軍転用工事開始
1945年07月 空襲
08月 空襲。機能喪失
09月 残存航空機による主要都市間の連絡飛行の許可(9/14~10/10)。米軍接収
09月 14日~10月9日まで緑十字飛行
16日 第8軍ゼネラル大将、青森視察
18日 調査班、青森に来る
10月 10日 帝国航空便(翌年2月6日まで)
1947年 引揚者の入植地となる
関連サイト:
旧青森飛行場の歴史と現存する遺構■(当飛行場についての非常に詳しいサイトです)
青森県の戦争遺構■(巨大格納庫・リンク切れ)
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻
「ミサワ航空史」
朝鮮交通史
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(アギラさん情報)
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」