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黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


無題c.png
撮影年月日1947/11/14(USA M649 17) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

栃木県‎那須塩原市‎埼玉(さきたま)‎にあった旧陸軍の「黒磯(埼玉、那須野)飛行場」。

飛行場の存在自体は以前から知っていたのですが、(栃木県なのに、何故に埼玉??)と非常に不思議でした。

地名なんですね。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中で、当飛行場の項目がありました。

以下引用させて頂きます。

黒磯陸軍飛行場
栃木県那須郡高林村
36°57′5N 140°1′0E

面積 北西-南東1,580米 北東-南西1,600米 
地面の状況 植芝
目標 黒磯町、東北本線
障碍物 (記載無し)
離着陸特殊操縦法 (記載無し)
格納設備 格納庫(60x45米)1、(40x35米)2棟あり
照明設備 (記載無し)
通信設備 (記載無し)
観測設備 (記載無し)
給油設備 航空用燃料あり
修理設備 応急修理可能なり
宿泊設備 生徒舎あり
地方風 (記載無し)
地方特殊の気象 夏季雷雨多し
交通関係 黒磯駅(東北本線)東方約3.5粁
其の他 本場は宇都宮陸軍飛行学校分教場なり
(昭和18年4月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  那須野
位 置   栃木県那須郡黒磯町
規 模   要図(1600x1600)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 二〇〇名分
 格納施設 飛行機庫一棟 一五〇〇平方米二棟
摘 要   施設軍有

D20_0016.jpg

青マーカー地点。

埼玉小学校の隣り、県道55号沿いにある大きな碑。 すごく目立ちます。

D20_0017.jpg

那須野 陸軍飛行場跡 建立の記(全文) 日支事変から第二次世界大戦に突入した日本陸軍は飛行操縦将兵の早期養成に迫られ この地に昭和十三年から三年の歳月をかけて面積約二百八十ヘクタールの飛行場を完成した 爾来 熊谷及び宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として下士官 特別操縦見習士官 少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を繰り返し 卒業後はつぎつぎと第一戦へ配属されていった 戦況熾烈となった昭和二十年四月茨城県より鉾田教導飛行士団が移駐して実戦部隊となり双襲双軽爆撃機による特攻機の訓練基地として神鷲隊十二隊が編成され うち二隊は終戦直前 岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた 七月 八月には敵艦載機の来襲を受け将兵竝びに附近住民多数の戦死傷者を出し また飛行場開設以来猛訓練に依り幾多有為の士が殉職せられた その間防衛整備にあたった軍人軍属も 近隣から動員された老少婦女子を含む各種奉仕隊も共に祖国の勝利を念じつつ辛酸を分かち合ったのである 時代の流れは刻刻にかつての面影を消し去つてゆく 幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者は世界の平和と日本民族永遠の繁栄とを祈りこの地に記念碑を建立する 願わくはここを巣立ち ここに戦死せられた人々の霊の安らかんことを 昭和五十三年十一月五日建立 撰文 月江冨治朗 

D20_0014.jpg

赤マーカー地点。

この道路に沿って右側に滑走路が伸びていたはずです。

撮影場所の背後には清掃センターがあります。


      栃木県・黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場跡地     
非常に詳しく調査されているサイトが複数あります。1942年4月に開所式があり、特殊飛行を行った一機が急降下後に上昇しようとして地面に突っ込んでしまうという出来事がありました。(本人は視力が下がっただけで命は助かった) このパイロットは前日に那須で酒を呑み、朝になって帰って行ったのだそうです。。。 末期の時期は訓練用のガソリンも乏しく、当飛行場の高級参謀はほとんど毎日吉祥寺の第一航空軍の作戦参謀と直通電話で作戦の打ち合わせをしていたのですが、そのほとんどがガソリンの請求だったのだそうです

黒磯陸軍(埼玉、那須野)飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:旧陸軍
所在地:栃木県那須郡黒磯町(現・栃木県‎那須塩原市‎埼玉‎)
座 標:36°57′5N 140°1′05E
標 高:318m
面 積:280ha
滑走路:1,350mx53m?
方 位:16/34
(標高、方位はグーグルアースから、他は防衛研究所収蔵資料から)

沿革
1937年    この頃陸軍から地権者に対して買収の通告
1938年    着工
1942年01月 開所。熊谷陸軍飛行学校那須野教育隊開隊
    04月 開所式。5万人が近隣から集まる
1943年09月 宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊となる
1944年10月 熊谷陸軍飛行学校那須野教育隊となる
1945年04月 茨城県鉾田教導飛行士団移駐 特攻機の訓練基地となる
    07月 約2か月の突貫作業で砕石で固めた滑走路完成(それまでは滑走路がなかった)
    7,8月 空襲を受ける
     8月 13日 神鷲201隊(双襲)6機出撃。2機突入、3機目標未確認のため帰還。1機帰還途中不時着         

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
「那須の太平洋戦争」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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栃木に行った話・2 [■旅行記]


Ⓐ道の駅・那須高原友愛の森→Ⓑ黒磯陸軍飛行場跡地→Ⓒスカイフィールドナス→Ⓓ男鹿高原駅前広場緊急ヘリポート→Ⓔ金丸原陸軍飛行場跡地→Ⓕ湯津上飛行場跡地→Ⓖ今市飛行場跡地→Ⓗ鬼怒川滑空場→Ⓘ宇都宮場外離着陸場→Ⓐ宇都宮陸軍飛行場跡地→Ⓑ道の駅はが(車中泊)

(2011年10月の話です)

 

2日目

5:15 起床。小雨が降ってる。

5:50 出発。

まずは「埼玉飛行場跡地」へ。

栃木県にあるのになぜか「埼玉飛行場」で、埼玉県民のオイラは非常に気になっていた場所でした。

6時台、まだ薄暗い小雨交じりの中、飛行場跡地にある小学校、清掃センター周辺でフラッシュを焚きつつウロウロ。

あ、あやしい。犬の散歩中のおばさんがこっち見てる。ジョギングしているおぢさんもこっち見てる。

犬が吠えている。

通報されないうちに次の「スカイフィールド ナス」へ。

ここは「だいたいこの辺り」ということしか分かっておらず、通じる道もなかなか見つからず、苦労しました。

案内板もないので、入れそうな道に取りあえず入ってみるのですが、道は狭く、轍は深く、

お腹すりそうで、慌ててバックで脱出。を何度か繰り返し、やっと見つけました。

ここはオイラの大好きな雰囲気の飛行場でした。

途中、ガストで朝食を済ませ、「男鹿高原駅前広場緊急ヘリポート」へ。

ここは北宇のピューマさんに教えてもらって初めて存在を知った場所です。

無人の広場にヘリポートが整備されていました。

次、「大田原飛行場跡地」へ。

ここは隣接するゴルフ場に有蓋掩体壕があるとのことで、頼めば見せてもらえるかしらん。

と思っていたのですが、受付で男性スタッフにお聞きしたら、

「ここにはそういうものはないですねぇ」とにこやかに言われました。

ないの??Σ(゚Д゚;)

 

その後、

「湯津上飛行場跡地」、「御前原飛行場跡地」、「今市飛行場跡地」、「鬼怒川滑空場」、「宇都宮場外離着陸場」、「清原飛行場跡地」

を見学。本日はこれで終了。

明日の見学箇所に合わせて最寄りの道の駅へ移動。

17:30 「道の駅はが」到着。

明日の見学箇所を考えてここで車中泊することにしたのですが、ここは「ロマンの湯」というお風呂も併設していて便利でした。

この時間なら、食事もここの施設で済ませられるだろうと思っていたのですが、既に売店は真っ暗でした。

最寄りのコンビニで弁当を食べていたらFさんから電話。

Fさんは、オイラが旅行に出掛けると、まるで見張っているかのようなタイミングで電話をくれます。

1時間近く長電話。

その後風呂へ。

ゆっくり風呂に入り、車に戻りました。

ドアを開け放ち、涼みながら記録をつけたり、明日の予定を組んだり、ナビに明日の箇所を打ち込んだり。

すっかりやることがなくなってもまだ20:00。

それでもまどろんできたので、

20:10 寝る。

おやすみなさい。

(続きます)

 

本日の走行距離:260km

D20_0072.jpg

 

D20_0089.jpg

本日 栃木県内某所にて。


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(福島と)栃木へ行った話・1 [■旅行記]


Ⓐ自宅→Ⓑふくしまスカイパーク→Ⓒ郡山市中央図書館→Ⓓ道の駅・那須高原友愛の森(車中泊)

(2011年10月の話です)

1日目

 

今回はふくしまスカイパークの「ふくスカリンゴ祭り」にお邪魔するために出掛けたのでした。

「リンゴ祭り」については、既に記事をアップしておりますので、興味のある方はご覧くださいませ    

5:10 自宅出発。

途中、某知人宅を探して福島飯坂IC近くをウロウロ。

伝えられていた住所で向かうと、そこには4棟の長屋が。

2軒には表札があり、この2軒ではないことが確定。

残りの2軒のベルを押すと、1軒は不在。

もう1軒で応対に出てこられたのは年配の女性。

「避難のためここに越して来たばかりなので、表札の出ていないお宅の名前は分からない」とのことでした。

リンゴ祭りが終わってからまた来てみよう。

 

9:50 ふくスカ到着。

てっきりガラガラだと思っていたのに、すごい賑わい。

駐車場に車を止め会場に向かうと、「ふくしま会議2011 運営委員会」のアンケート用紙が渡されました。

【ご質問は福島県の復興ビジョンに関しての質問です】

とあり、

・福島県の復興ビジョンに脱原発依存が書かれたことを知っていましたか。
 →はい/いいえ

・今後の再生可能エネルギーの必要について
 →原発代替として強く推進/必要に応じて推進/推進の必要なし

・ビジョンでは再生可能エネルギーによる福島復興を書いていますが、その経営母体はどのような仕組みが望ましいと思いますか。
 →大資本企業体(現在の電力会社のような)/行政による企業体(公社・行政の外郭団体)/地域住民の小口出資の共同体/その他

となっていました。

アンケートに答えるとクッキーがもらえました。

カンクリさんに教えてもらった通り、最後の室谷さんのフライト終了と同時に速攻で会場を後に。

おかげで渋滞なしにICへ。

再び福島飯坂IC近くに戻って家探し。

表札無しでお留守だった残りの1軒のベルを押すと、年配の女性が出てきました。

知人の名前を伝え、探していることを伝えましたが、「そんな名前は聞いたことがない」とのことでした。

むむむ、手掛かりがなくなってしまった。まあよい。

 

その後ふくスカから少し離れた某図書館へ。

実は福島県内の飛行場と跡地は、前回の東北旅行の際、「梁川場外離着陸場」にお邪魔して、

オイラが場所を知っている所はこれで全てお邪魔することができたのですが、

福島県には建設候補地も含めて、ネットでどんなに検索しても不明の飛行場跡地が7ヵ所あり、

場所の手掛かりを得るために地元の図書館に向かったのでした。

辿り着いたのは小さくて家庭的な図書館でした。

郷土資料コーナーを探し、司書さんにも確認したのですが、この町の町史の肝心な巻が抜けていることが判明。

オイラが調べたいのは昭和の町史なのですが、丁度その部分がなかったのです。

更に郷土史コーナーに地元飛行場関連の史料は見つかりませんでした。

 

結局何一つ情報は得られなかったのですが、「地元図書館に資料無し」とハッキリしただけでも意味があります。

市立、県立図書館に行くと、地元にはなかった町史がずらりと揃っていることもままあるので、

それに期待して次に郡山市の中央図書館へ。

ここは以前一度来たことがあるのですが、かなり大きな図書館です。

(もしかしたらここでさっきの町史が見つかるかも)などと期待しながら向かったのですが、

なぜか図書館は真っ暗。

「土曜日の18時なのに???」と不思議に思いながら駐車場に入ってみたのですが、やっぱり閉館しています。

後日ネットで調べたら、

「地震被害のため、当面の間、臨時休館とさせていただきます。(復旧工事後の平成24年3月開館を予定しております) 」

とのことでした。

もう今から福島県内の他の図書館に移動しても調べる時間が取れないので、福島県の図書館調べはこれで終了。

 

自宅に戻りつつ、明日から2日間栃木県内の飛行場/跡地を見学する予定だったので、国道4号で南下。

福島と栃木の県境近くにある道の駅に向かいました。

福島県内を走ると、店は普通に営業してるし、お客さんで賑わってるし、

夕方の市中心部の国道は渋滞してるし、なんだか拍子抜けするほど何事も無かったかのように見えます。

前回東北を回った時も、意識して地元のラジオを聞くようにしていて、

今回も福島県内ではずっと地元ラジオを聞いてました。

つくづく感じたのは、関東との温度差です。

オイラの自宅から直線距離たった140kmで福島県。

その福島県内では、ラジオで「各地の環境放射線量」というコーナーがあって、

日に数度たくさんの箇所の数値が読み上げられていました。

夕食で郡山市内のガストに立ち寄れば、若いお母さんたちが騒ぐ子供たちそっちのけで

除染について喋りっぱなし。

店内には数組の子供連れがいたのですが、子供たちがやけに騒々しい気がしました。

オイラこういうのは非常に苦手なのですが、ふと、(もしかしてストレスなのかも)と思うともう気にならない。

そういえばふくスカでも子供たちのテンションがやけに高く感じました。

 

僅かばかりのことですが、こうやって現地の空気に触れ、ラジオを聴くと、

政府や東電の一挙手一投足を見詰め、現状をどうにかしたい、どうにかして欲しいという強い気持ちを

ひしひしと感じます。

オイラのようなよそ者が津波や地震による直接的な被害を受けた現場にわざわざ赴くのでない限り、

それ以外の場所では被災三県でも表面的には一見何事も無いように見えてしまうのですが、

それでも、建物も道路も特に被害を受けていない場所でよくよく見ていると、あちこちに被災の暗い影が。

そういう様子を目の当たりにし、それから改めて政府や東電の対応を見ると、なんとももどかしいギャップを感じます。

一介の小市民のオイラには、東電にどの程度の割合の責任があるのか分かりません。

それでも、東電の被災者に対する賠償のやり方、役員報酬の話など見るにつけ、

地元の方が被曝という現実問題を抱えながら、それでもなんとか前を向こうと日々を送っているのに、

東電は自己保身の方に主な関心がいっているように見え、「…ズレてるなぁ」と思ってしまいます。

 

20:50 「道の駅・那須高原友愛の森」到着。

非常に広々とした道の駅でした。

施設建物の裏側で自転車を止め、寝袋で寝ている人がいました。

そしてトイレ前で明け方までたむろして騒いでる若者たちも。

 

本日の走行距離:466km

おやすみなさい。

(続きます)


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蕃昌飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


無題j.png
撮影年月日1947/09/08(昭22)(USA M452 15) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県‎野田市。

前記事の「関宿滑空場」の南東約4.7kmに「蕃昌(ばんしょう)飛行場」がありました。

先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。

これ以外に滑走路の詳しい資料が見当たらないため、おおよそこんな感じと思います。

周辺は大型店舗、住宅密集地で、一部昔ながらの広い区画が残っていました。

現在滑走路の地割は残っていないようです。

D20_0337.jpg

赤マーカー地点。

七光台小学校の角から。

多分この方向に滑走路が伸びていたと思います。


      千葉県・蕃昌飛行場跡地     
未確認ですが、「滑空練習場として建設中に終戦」という情報があります

蕃昌飛行場 データ
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県‎野田市‎七光台‎
座 標:N35°58′51″E139°51′02″
標 高:17m
滑走路:1,000mx60m?
方 位:12/30
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年 着工
1945年 未完のまま終戦

関連サイト: 
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関宿滑空場 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



千葉県‎野田市‎にある「関宿滑空場」。

前記事の「宝珠花滑空場」からわずか1.5km程南にあります。

同じ江戸川河川敷を使用しているのですが、向こうは埼玉県。こちらは対岸の千葉県にあります。

一応「川のあっち側こっち側」になっているのですが、

2つの滑走路の間で川が蛇行しており、ちょっと位置関係がつかみにくいです。

D20_0324.jpg

土手から川に向かってA,B,C,D,E と5本も平行滑走路があります。

 

D20_0330.jpg


      千葉県・関宿滑空場      

関宿滑空場 データ
河川占用者:(財)日本航空協会
管理者:特定非営利活動法人 関宿滑空場
種 別:滑空場
所在地:千葉県‎野田市‎平井‎地先 江戸川左岸河川敷
標 点:N36°00′53″E139°49′10″
標 高:8.6m
面 積:22.065ha
着陸帯:1,500m×100m
方 位:18/36
(座標、方位はグーグルアースから)

航空管制周波数
・飛行場アドバイザリー
 セキヤドフライトサービス 130.65

沿革
1970年 運用開始

関連サイト:
NPO法人 関宿滑空場    
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宝珠花滑空場 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



埼玉県春日部市 江戸川河川敷にある「宝珠花滑空場」。

昭和5年創部という非常に歴史のある「明治大学体育会航空部」の滑空場です。

D20_0319.jpg

公式サイトを拝見すると、磁方位が12/33になっているのですが、

これは通常はあり得ないことで、数字上の矛盾が生じているのですが、

滑走路が湾曲しているためこうなっているのだと思います。

グーグルアースで確認しましたが、確かにおおよそ12/33になってました。

上の写真でも、奥に行くに従って左側にぐーっと曲がっているのがなんとなく分かりますでしょうか。

D20_0313.jpg


      埼玉県・宝珠花滑空場      

宝珠花滑空場 データ

設置管理者:明治大学体育会航空部
種 別:滑空場
所在地:埼玉県春日部市西宝珠花地先 江戸川右岸河川敷
標 点:N36°02′04″E139°48′07″
標 高:9m
面 積:6.0ha
滑走路:1,000m×60m
磁方位:12/33
航空管制周波数  26.342MHz

沿革
1930年 創部

関連サイト:
明治大学体育会航空部    
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古河航空機乗員養成所飛行場(岡郷/小堤/関戸の飛行場)跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


無題c.png
上:撮影年月日1946/03/24(USA M83-A-6 24) 
下:撮影年月日1946/03/24(USA M83-A-6 13) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

茨城県‎古河市‎にあった「古河航空機乗員養成所飛行場」。

東北本線古河駅の西北西約4kmにありました。

現在も跡地南側に地名が残っていますが、旧岡郷村小堤地区、関戸地区にあったため、

「岡郷の飛行場」、「小堤の飛行場」、「関戸飛行場」とも呼ばれていたそうです。

■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」の中に、

当飛行場の付図があり、先頭のグーグルマップはそこから作図しました。

同資料に記載の情報を下引用させて頂きます。

第4 古河航空機乗員養成所飛行場(昭和18年1月調)

管理者 航空局。
位置 茨城県猿島郡岡郷村大字小堤。
   (古河町の東方約4.5粁、北緯36°12′0、東経139°46′0)。
種別 非公共用陸上飛行場。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約23米。
広さ及形状
 本場は長さ東西1,000米及南北1,000米の正方形地域なり・着陸地域は各
 周辺より内方約100米の地域を除く東西800米、南北800米の地区を最適
とす(付図参照)。
地表の土質
 粘土混りの砂地。
地面の状況
 地表は凸凹起伏なき平坦地なるも中央稍高く北東より南西端を結ぶ線を境
 とし南方へ1/500、西方へ1/500の下り勾配を為す・一面に良好なる張芝密生
するも地盤稍軟弱なり・降雨後は排水概して不良にして時により2-3日
 間使用し得ざることあり・冬季西風強吹する際砂塵激しきも飛行に障碍と
 なる程度ならずと言う。
場内の障碍物
 なし。
適当なる離着陸方向
 何れの方向よりするも可能なり。
離着陸上注意すべき点
 なし。
施設
 格納庫(間口80米、奥行50米、高さ6.3米、収容機数小型機50)1・修
 理工場1・庁舎・校舎・油庫・食堂・宿舎・医務室等あり。
 昼間標識 吹流1あり。
 夜間標識 なし。

周囲の状況
樹林
 周囲は広濶なる平原地にして至近に山岳、丘陵等の障碍物なきも処々に樹
 林点在し特に南西及北東方付近のものは高樹林にして高さ約30米の杉林
 存在す。
建築物
 北東側に格納庫及修理工場等其の他の付属建物あり又周囲に民家点在す。
電線
 東方約2粁及西方約2.5粁に略南北方向に架設せる高さ約25米の高圧送
 電線各1條あり。
着目標
 古河町、道路(古河-下妻間)、格納庫、吹流。

地方の状況
警察署及役場
古河警察署(古河町)西方約6粁、岡郷村駐在所(岡郷村大字大野)東方約
 2粁・岡郷村役場(岡郷村大字小堤)東方約1粁。
医療
 場内に医務室あるも医員は定置しあらず・古河町に完備せる病院1あり。
宿泊
 古河町に旅館10(収容員数計100)あり。
清水
 場内に水質良好なる井水あり。
応急修理
 場内の修理工場にて一時的応急修理程度ならば可能なり。
航空需品
 不時着機の最寄り基地への帰還飛行に要する程度の航空用燃料及潤滑油あり。

交通、運輸及通信
鐡道
 古河駅(東北本線)西方約5粁。
乗合自動車
 本場の北側県道(下妻-古河間)を乗合自動車運行す。
道路
 場の北側に沿い西は古河町、東は下妻方面に至る県道あり。
電信及電話
 小堤郵便局(電信及電話取扱)東方約600米・場内事務所に電話(467番)
 あり。

気象
測候所
 筑波測候所(筑波山頂)東方約40粁。
地方風
 冬季は北西風強く、夏季は弱き南風吹くを常とす・11月-翌年3月上旬
 間は北西の季節風強きも10米/秒前後にして15米/秒以上の暴風は稀なり。
天候
 古河地方に於ける各年に於ける天気日数次の如し。
 快晴日数70・曇天日数147・降水日数128・雪日数10なり。
 雨期は6月中旬より7月中旬間にして該期間中屡豪雨あり。
地方特殊の気象
 冬季は概ね快晴多く晩冬より春季間は飛行場内の風塵甚し・冬季低気圧の
 本邦南方海上通過の際降雪を見るも継続時間は概ね10数時間にして天候
 恢復するを常とす従って降雪量も少く積雪30糎を超ゆること極めて稀な
 り。霧の発生は年平均約30-40回にして5月下旬より9月上旬に亙り特
 に頻発す、之等は殆ど輻射霧にして午前9時乃至10時頃迄に消散す。
 電雷の発生回数は専ら夏季に限られ梅雨期(6月中旬-7月中旬間)には
 殆ど発生を見ざるも梅雨期前に数回、梅雨後は9月中旬頃迄2-3日に約1
 回の割合にて発生又は来襲するを常とす。

其の他
本場は昭和17年4月航空局の設置せる民間航空機乗員養成所(陸軍関係)にし
て目下練習機を常備し飛行訓練実地中なり。

 

D20_0310.jpg
赤マーカー地点。

現在跡地は方形の工業団地になっており、真ん中に「丘里公園」があります。


      茨城県・古河航空機乗員養成所飛行場(岡郷/小堤/関戸の飛行場)跡地      

古河航空機乗員養成所飛行場 データ

管理者:航空局
種 別:非公共用陸上飛行場
所在地:茨城県猿島郡岡郷村大字小堤(現・古河市‎丘里‎)
座 標:N36°12′0″E139°46′0″
標 高:23m
飛行場:1,000mx1,000m
着陸帯:800m×800m

沿革
1942年04月 設置
1944年04月 宇都宮陸軍飛行学校古河分校併設
1945年08月 終戦により閉校

関連サイト: 
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この記事の資料
防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」


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下館陸軍飛行場(陸軍宇都宮飛行学校下館分教場)跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2022/4更新  


無題.png
撮影年月日1946/06/08(USA M159-A-5 85) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

茨城県‎筑西市‎にあった旧陸軍の「下館陸軍飛行場(陸軍宇都宮飛行学校下館分教場)」。

前記事の「関城ULP飛行場」の東北東約4kmにあります。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」

の中に地図があり、先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。

地図の通りに作図したのが薄紫の部分。

南側のグレーの部分はその後拡張したのではないかと。

同資料の情報を以下引用させて頂きます。

「下館陸軍飛行場 茨城県真壁郡黒子村 36°16′0N 139°57′5E」

面積 南北1,380米 東西1,200米 
地面の状況 概ね平坦なるも北東-南西に向け1/250乃至1/400の下り傾斜を為す、硬度は普通なるも降雨後排水稍不良に
して北東及東側の一部は軟弱と為る
目標 (記載なし)  
障碍物 (記載なし)  
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は南又は北を可とす
格納設備 格納庫 鉄造(42x50米)1棟 木造(38x22米)3棟、(40x30米)2棟
照明設備 (記載なし) 
通信設備 (記載なし)  
観測設備 (記載なし)  
給油設備 (記載なし)  
修理設備 (記載なし)  
宿泊設備 (記載なし)  
地方風 年最多風向は北北西風なり
地方特殊の気象 特記事項なし
交通関係 飛行場前駅(常磐線)1粁 下館駅(水戸線)5.5粁
其の他 (記載なし)  
(昭和18年4月調)
 

交通関係の項目に、「飛行場前駅(常磐線)1粁」とあります。

Wiki情報なんですが、常磐線(現・関東鉄道常総線)大田郷駅~黒子駅間にかつて野殿駅(紫マーカー)がありました。

これは1938年~1950年頃まであった駅なのですが、「飛行場前乗降場」と呼ばれた時期があったのだそうです。

先頭のグーグルマップと航空写真を比較して頂ければ明らかなのですが、

「飛行場前乗降場」から飛行場までの一本道は当時からあり、ここに飛行場の中枢がまとめられていましたので、

非常に便利だったはずです。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  下館
位 置   茨城県真壁郡黒子村
規 模   要図(南北2100 東西1100)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 二〇〇〇名分
 格納施設 掩体 大三〇ヶ所
摘 要   施設軍有

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 下館飛行場 がありました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 茨城縣真壁郡黒子村
積量
 約四十六万八千坪
地表の状況
 平地にして堅硬好天の場合に於ては各機種
 の離着陸支障なきも水位高く排水不良
 なるを以て雨量三〇粍以上の場合は雨後二日間
 は使用困難なり
周囲の状況
 四周は畑地又は水田にして格納庫以外離着
 陸の為障碍となるものなし
天候気象の交感
 一、恒風東北但し六、七、八月は雨多く十二、一、二月には
   強き西北の風あり
 二、好天の場合は砂塵極めて多し
格納施設
 中練十二機収容四棟同十八機収容一棟同約
 五十機収容一棟飛行機工場、発動機工場其
 の他工場施設を有す
居住施設
 兵舎約二〇〇名収容二講堂同上炊事約一五〇
 名分
交通連絡の状況
 常総線鉄道あるも下館飛行場間交通機
 関なし
其の他
 飛行場付近に住宅なく宿泊地は下館
 とす

D20_0303.jpg

赤マーカー地点。

滑走路方向にこんな標識が立っています。

この標識と道路を含めた写真を撮ったのですが、某政治家の宣伝ポスターがどうしても一杯に入ってしまうため没に。

D20_0306.jpg

同じく赤マーカー地点。

恐らくこれが滑走路跡だと思うのですが。。。

D20_0299.jpg

青マーカー地点。

都市センター敷地内裏手に靖空神社があり、目立たない所に碑があります。

拓魂(全文) 拓者記念碑 此の土地は支那事変及大東亜戦争中旧陸軍宇都宮飛行学校下館分教場跡地である 私達は戦後食糧増産の為め昭和二十一年二月 政府より開拓者とし開拓を初め幾多の困難を克服し戦後の食糧難を克服し現在の美田となった 中山喜八郎 昭和五十八年四月二十九日建


      茨城県・下館陸軍飛行場跡地     
当地区は今でも地元の方から「飛行場」と呼ばれているのだそうです

下館陸軍行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県真壁郡黒子村(現・筑西市‎藤ケ谷‎)
座 標:36°16′0N 139°57′5E
標 高:35m
飛行地区:2,100mx1,100m
滑走路:1,600m×80m
方 位:17/35
(標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1938年05月 陸軍、村長に買収予定地内示。地主との買収契約
1939年07月 1日、飛行学校の第六分教場として建設される
1944年秋   迎撃基地となる。その後特攻隊出撃基地に
1945年08月 15日 終戦
1946年02月 開拓開始
1983年04月 29日 碑建立  

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の碑文
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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関城ULP飛行場 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



茨城県‎筑西市‎ 鬼怒川の河川敷にある「関城ULP飛行場」。

前記事の「下館ULP飛行場」の南約1.5kmにあります。

D20_0293.jpg


      茨城県・関城ULP飛行場飛行場      

関城ULP飛行場 データ

種 別:場外離着陸場
所在地:茨城県‎筑西市‎船玉‎ 鬼怒川左岸河川敷
座 標:N36°16′16″E139°54′20″
標 高:32m
滑走路:220m?
方 位:17/35
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

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下館ULP飛行場 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



茨城県‎筑西市内を流れる鬼怒川河川敷ある‎「下館ULP飛行場」。

ちょうど休日にお邪魔したのですが、何機も集まってました。

D20_0288.jpg


      茨城県・下館ULP飛行場     
すぐ西側(土手の外側)に結城ヘリポートがあります

下館ULP飛行場 データ
種 別:場外離着陸場
所在地:茨城県‎筑西市‎女方‎ 鬼怒川右岸河川敷
座 標:N36°17′06″E139°54′25″
標 高:33m
滑走路:390m?
方 位:18/36
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

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