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東北旅行・5 [■旅行記]


Ⓐ道の駅七ヶ宿→(Ⓑ梁川場外離着陸場)→Ⓒ下館ULP飛行場→Ⓓ関城ULP飛行場→Ⓔ下館陸軍飛行場跡地→Ⓕ古河航空機乗員養成所飛行場跡地→Ⓖ宝珠花滑空場→Ⓗ関宿滑空場→Ⓘ蕃昌飛行場跡地→Ⓙ自宅

5日目

5:00 起床。青森からどんどん南下している訳なのですが、冬用シュラフの上に毛布をかけても少し寒い位で、

この宮城県南端の道の駅での車中泊が旅行中一番の冷え込みでした。

5:30 出発。気温は9℃でした。さ、寒い! 

実はオイラ、昨日までで長袖を使い果たしてしまい、もう半袖しか残ってません。

旅行中予想以上に寒かったのと、山形県の楯山防空監視哨跡見学の山歩きで大汗をかいたのが計算外でした。

福島県の梁川場外着陸場到着。阿武隈川の河川敷に滑走路があるのですが、

土手にはランニング、犬と散歩する人など結構いました。

福島県はこの1カ所だけなので、その後一気に茨城県まで南下。

ひたすら国道4号を走ったのですが、日曜日なのに終日ほぼガラガラ状態でした。

みなさん来週の三連休に備えてるのかしらん。

D20_0278.jpg

昨晩仙台空港で買った牛タン弁当の朝食。

D20_0280.jpg

ということで、国道4号に近い茨城県、千葉県、埼玉県の飛行場、跡地を見学して後、自宅に戻ったのでした。

これで東北強化月間の話は終了です。

長々とお付き合い、ありがとうございましたm(_ _)m

(もう続かない)

総走行距離:2,749km
総燃費:22.9km/l


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四壇原(高清水)飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2022/1更新  


無題h.png
撮影年月日1947/03/24(昭22)(USA M152-2 14) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

宮城県‎栗原市‎瀬峰にあった「四壇原(高清水)飛行場」。

現在は長閑な田畑が広がっています。

先頭のグーグルマップは、サイト:滑走路探検隊様(下記リンク参照)から作図させて頂きました。

瀬峰といえば、ここから北北西約5kmに「瀬峰場外離着陸場」(下記リンク参照)があります。

瀬峰場外離着陸場は個人の飛行場なのですが、

以前瀬峰場外離着陸場にお邪魔した際代表の方が、「ここが大戦中の飛行場だと思って来る人もいる」と仰っていました。

■防衛研究所収蔵資料「横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」

の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:高師水 
飛行場長x幅 米:恒風方向2500m可能 
主要機隊数:中型機 
主任務:作戦 
隧道竝ニ地下施設:1.当初中央両航本協定ニ依リ海軍候補地ナル処現地陸軍強行ニ工事着工セリ 2.土量?大ナルモ周囲ニ支障物ナシ 
其ノ他記事:候補地

なんと、ここは元々海軍の候補地だったのに、陸軍が強引に工事を進めてしまったようですね。

(この資料は海軍作成のものなので、陸軍側にも何か言い分があるのかもしれませんけど)

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  横須賀
牧場  四壇原
滑走路 五〇x一,二〇〇更に延長 EW
縣郡村 宮城、栗原 藤里村
記事  八月既成

D20_0241.jpg

赤マーカー地点。


      宮城県・四壇原(高清水)飛行場跡地      

四壇原(高清水)飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:宮城県‎栗原市‎瀬峰‎
座 標:N38°38′07″E141°01′58″
標 高:27m
滑走路:1,200m×50m?
方 位:10/28
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
滑走探検隊/四壇原飛行場跡(地元の方の貴重な証言を基に構成された詳細な資料です) 
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 
ブログ内関連記事
(旅行記/瀬峰場外離着陸場) 

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」


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真室川飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2022/3更新  


 

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撮影年月日1947/11/11(USA M638 78) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

山形県真室川町にあった「真室川飛行場」。

元々は塩野台地の広大な荒野善用策として建設された民間飛行場だったのですが、後に陸軍飛行場に転用されました。

2019/8/17追記 : SATOHさんから情報頂きました。終戦から約20年後、跡地にはまだ戦争の跡が生々しく残っていたのだそうです。詳しくはコメント欄をご覧ください。SATOHさん貴重な情報をどうもありがとうございましたm(_ _)m

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に1/10,000 真室川飛行場(昭一八、七、一調) があり、先頭のグーグルマップはここから作図しました。

資料には飛行場の敷地として、赤で示した長四角(1,100mx700m・南東の角が飛び出ている)が描かれていました。

更に黄色で示した北側と西側に張り出した形が描かれ、「拡張中」と書かれており、

この「拡張中」の文字と、赤で示した線が×で消されています。

それから赤い長四角の南北方向の長さとして「700」とあるのが消され、

黄色で示した南北方向の「1080」が書き加えられています。

元々の飛行場敷地は赤い長四角だったものが、後に北と西に拡張した、ということなんでしょうね。

同要図には、恒風:西北西/東 とも記されていました。

同資料の情報を以下記させて頂きます。

位置
 山形県最上郡真室川村
積量
 飛行場約四十二万五千坪(付属設備除く)
地表の状況
 地表堅硬概ね平坦にして排水良好なり
 芝の発育状態概ね良好なるも丈高
 き雑草多し
周囲の状況
 東方五十米南方百七十米を隔て五十一米の
 山に囲まれ北方及西方は約五十米の凹地
 なり
□□□□□
 拡張の余地なし
天候気象の交感
 十一月より四月降雨及雪解の為使用し得ず
 本年二月の積雪一米五十糎―ニ米なり
格納施設
 格納庫二棟(中練□大機)
 自動車庫一棟(七台)
飛行機掩体数
 なし
居住施設
 一〇〇名収容の兵舎あり
 炊事浴場の設備完備す
交通の状況
 奥羽本線真室川駅より約三粁
 交通機関なし
其の他
 付近居住施設なし

現在は飛行場の地割が残っていない箇所があり、かなりフリーハンドな作図をしてしまったのですが、

上記資料の「積量」の項目で、「飛行場約四十二万五千坪(付属設備除く)」とあります。

オイラの作図のうち、付属設備を除いた黄色部分は 1.41㎢≒426,525坪 でしたので(編集画面だと面積が表示される)、

おおよそこんな感じだったと思います。

■「飛行場要図綴 其の二 一復(陸空-本土周辺-105)」にも当飛行場の大きな青焼きがあり、

黄色の滑走地区はこの青焼きから(大雑把ですが)作図しました。

■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に当飛行場情報がありました。
■防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」にも、
 「真室川陸軍飛行場 山形県最上郡真室川村」38°51′N 140°16′E として、以下全く同じ情報が載ってました)

面積 東西1,200米 南北1,050米
地面の状況 平坦なるも南東より北西に向け1/120の下り傾斜を為す
      硬度は普通にして排水良好なり冬期は降雪多し
目標 真室川、奥羽本線、羽州街道
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は北西を可とす
格納設備 木造格納庫(20x30米)2棟あり
照明設備 (記載なし)
通信設備 西方約1粁に真室川郵便局(電信及電話取扱)あり
観測設備 なし
給油設備 少量あり
修理設備 なし
宿泊設備 兵舎あり
地方風 全年を通じては北西風多し
地方特殊の気象 冬季積雪多し
交通関係 真室川駅(奥羽本線)西方約1粁同駅より本場間に自動車道路あり
其の他 (記載なし)
(昭和18年4月調)

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  真室川
位 置   山形県最上郡真室川
規 模   要図
舗 装   記載無し
付属施設
 収容施設 空襲により大破使用不可能
 格納施設 飛行機庫棟(六〇〇平方米)
摘 要   施設軍有

D20_0231.jpg

赤マーカー地点。

山形県真室川町にある「真室川町総合運動公園・多目的運動広場」。


      山形県・真室川飛行場跡地     
末期には空襲を受けました。飛行場は戦後開田開畑されましたが、今でも所々にコンクリートの残床があるのだそうです。

真室川飛行場 データ
設置管理者:民間→陸軍
種 別:陸上練習用飛行場
所在地:山形県最上郡真室川村(現・最上郡‎真室川町‎新町‎)
座 標:38°51′N 140°16′E
面 積:140.5ha
標 高:115m
飛行場:1,100mx700m→1,100mx1,080m
滑走地区:900mx200m?
方 位:12/30
(標高、方位はグーグルアースから、他は防衛研究所収蔵資料から)

沿革
1936年 民間飛行場完成
1940年 陸軍飛行場に転用 

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
新庄市史
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「飛行場要図綴 其の二 一復(陸空-本土周辺-105)」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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山形県・楯山防空監視哨跡 [├場所]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



山形県‎村山市‎にある楯山。ここに「楯山防空監視哨跡」があります。

D20_0213.jpg

現地にあった案内図。

黄色の矢印の場所が監視哨跡。

D20_0220.jpg

現地到着。

城跡と隣接していました。写真奥にあるのが監視哨跡の説明版。

D20_0218.jpg

D20_0226.jpg

この写真だと分かりにくいですが、説明版の左奥にあった穴。これが説明版にある「八角の壕」だと思うのですが。。。

D20_0210.jpg

おまけ。東楯山山頂付近にある「航空障害灯」


      山形県・楯山防空監視哨跡      

楯山防空監視哨跡 データ

運用期間:昭和17年~20年8月
運用時間:24時間
所在地:山形県‎村山市‎楯岡楯
座 標:N38°29′10″E140°23′45″
標 高:209m
(座標はグーグルアースから)

沿革
1942年 監視開始
1945年 8月終戦

関連サイト:
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大蔵村南山の場外離着陸場 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  



山形県最上郡大蔵村南山にある場外離着陸場。

先頭のグーグルマップは、グーグルアースの過去画像(画像取得日:2005/6/30)から作図しました。

グーグルアースで過去画像を見ると、2017年以前は確かにここで離着陸をしていたような形跡があります。

D20_0208.jpg

山道を上がっていくとあります。

周辺に案内板はなく、公式サイトも見当たらないため詳細は不明です。


      山形県・大蔵村南山の場外離着陸場      

大蔵村南山の場外離着陸場 データ

空港種別:場外離着陸場
所在地:山形県‎最上郡‎戸沢村‎角川‎
座 標:N38°39′37″E140°11′57″
標 高:262m
滑走路:270mx20m?
方 位:16/34
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
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東北旅行・4 [■旅行記]


Ⓐ道の駅とざわ→Ⓑ大蔵村南山の場外離着陸場→Ⓒ楯山防空監視哨跡→Ⓓ真室川飛行場跡地→Ⓔ四壇原飛行場跡地→Ⓕ仙台空港→Ⓖ道の駅七ヶ宿(車中泊)

4日目

4:50 起床

5:30 出発。

本日は山形県と宮城県の飛行場/跡地を回る予定です。

D20_0204.jpg

昨晩からの激しい雨は明け方になって少々弱くなって参りました。

車中泊した道の駅から少し離れた大蔵の飛行場跡地に到着した頃にはほとんど止んでました。

その後、楯山にある防空監視哨跡を見に行こうと、登山道入り口に車を止め、歩き始めたのが7:20。

登山口にあるガイドマップにこの山の見所が幾つか紹介されており、

道は「○○コース」として幾つかに分岐しているのですが、

登山口から監視哨跡までは1kmもないような距離だったので、カメラと携帯だけ持って出発。

監視哨跡は山頂近くにあり、標高209m。

オイラにとってこの程度では「山歩き」とは呼びません。楽勝だゼd( ̄∇ ̄*)

旅行中はいつも8時に朝食なのですが、それまでには余裕で戻って来れるでしょう。

…と思ったのですが、程なく迷いました。

道を間違えた。とかではなく、道がなくなってしまったのです。

踏み固められた形跡がまったくなく、キツイ傾斜の崖に枯葉、折れた枝、シダがびっしりです。

(なんでイキナリ道がなくなる??)

道がハッキリあった場所まで戻ることに。

もしかしてオイラが見落としたのかも。と思ったのですが、やっぱり途中から道がなくなっています。

オイラには気が付かない分岐があったのかもしれませんが、

普段山道を歩かない素人のオイラには見えていない印のようなものを見落としてしまったのかもしれません。

周囲を見回してみると、4m位上の方に、なんか道っぽいものがあるような気が。

10分程度で監視哨見学してすぐ戻ってくるつもりの、お気楽ハイキングのはずが、いつの間にか崖をよじ登る羽目に。

山肌は腐葉土っぽくなっていてボロボロです。なんとか苦労して登り、道に出ることができました。

その後もこんなことを繰り返しつつ、非常に苦労して進みました。

所々に地図があるので、それで現在地を確認しながらなんとか監視哨跡到着。

なんと登山道に入ってから50分も経ってます。

もう汗だくでヘロヘロ。息も途中から完全に上がってしまいました。

少し休みたいところなのですが、急に空が暗くなってきて、パラパラっと雨が降ってきました。

水分の補給もまったくしてませんし、 ハンガーノックになりそうです。

撮影を済ませ、早々に出発。行きはナメテかかって時間くっちゃったけど、帰りは30分位で戻れるかしらん。

…と思っていたのですが、出発早々また道に迷いました。。。_| ̄|○ il||li

道が3つに分岐するのですが、ドッチに行けばいいのか分かりません。

地図を見てもよくわからん(XДX)

実は、行きでは途中から完全にどのコースを歩いているかも分からなくなってしまったのですが、

「標的は山頂にアリ」と知っていたので、とにかく上を目指してなんとか辿り着いた。というのが実情だったのです。

この山には登山口がいくつもあるので、違う登山口に下りてしまうと、麓で大回りする羽目になってしまうため、

適当に下りる訳にはいきません。

少し進んでは「なんか違う気がする」と戻り、地図を見て、別の道を進んでは「なんか違う気がする」と戻り、

を3回繰り返して後、「この道だ」と信じる道を進んだのですが、

程なく道がまたなくなってしまいました。。。(つД⊂;)ウッ

なんか下の方に道らしきものが見えたので、幹や枝にしがみ付きながら降りてみたのですが、

そこに道はありませんでした。

足場が非常に悪くて危険です。再び元の場所に戻ることに。

完全にスタミナ切れ。これ以上ないほど息が上がってハアハアしてます。

だれか人が来たら道を尋ねたかったのですが、こんな激しい息遣いでは通報されてしまいそうです。

顔のすぐ横に山肌があるような急な傾斜地で完全に行き場を無くしてしまいました。

木の枝に乗り、もたれかかるようにして少し休憩することに。

んー。困った。。。しゃがみ込みたくなるほど疲労しているのですが、

水も食料も持ってきてないのでグズグズしていると体調は悪化する一方です。

しばらく山肌に沿って横に移動してみたのですが、足場が悪くて苦労する割には全然進めません。

眼下には住宅地が広がっているので遭難の心配はないのですが、

すぐそこに民家があるのにそこにまったく辿り着けないのがもどかしい。

横移動しても苦労するだけで危険でもあるので諦め、上に移動することに。

足場が非常に悪くて、下への移動ができず、オイラの体力ではもう上に行くしか選択肢がなかった。

というのが正直なところです。

ズルズルしながら山をよじ登って行くと、しばらくしてやっと道に出ることができました。

ドッチに向かう道なのか分かりませんが、なんて楽なんだろう! と感動し、道の有難さを噛み締めたのでした。

これは車でしばらくダートを走った後、舗装道に戻った時の感覚に似ているかも。

分岐にさしかかったのですが、その頃のオイラは、

もうどこに降りても構わないから一刻も早く下界に行きたい気持ちでいっぱいでした。

途中標識があり、「この先倒木、石が浮いている場所があるので、転落に十分気を付けるように」と書かれていました。

確かに足を滑らせたら、かなりの高さを真っ逆さま。な場所がありました。

頭では、ここに足を置いたらヤバイ。というのは分かるのですが、

疲労困憊で、体のコントロールが思ったほど効きません。

コ、コワイ!

ということで無事辿り着いたのは、めでたくオイラが車を止めたのとはまっっったく違う登山口でした。(o ̄∇ ̄o)

(ココドコ??)

時計を見たら、なんと監視哨跡を出発してから2時間、山歩きを始めてから3時間も経過していました。

ここから車を止めた登山口を探して歩かねばならないのですが、もう転落、動物に襲われる心配はありません。

それは非常に喜ばしいことなのですが、もう喉カラカラ。

自販機があったのですが、財布も車に置いてきたので飲めません。

オイラが車を止めた登山口の名前をキチンと把握していなかったのが悔やまれます。

車を止めたのは、すぐ前に池があって、砂利の長四角の駐車場のある登山口。

多分アッチの方角。と信じる方角にてくてく住宅地を歩き始めました。

ところでちょっと落ち着いて我が身を顧みてみますれば、オイラの服は蜘蛛の巣だらけ。

初めのうちは腰をかがめて蜘蛛の巣を避けていたのですが、途中からそんな余裕はまったくなくなり、

クモの巣破り放題でした。=(っ・Д・)つバリバリ

あまりにも服に糸が貼り付いているので、服を脱いで糸を取ることに。

脱いだ服の下にはPANAMのTシャツ。Σ(゚Д゚;)しまったー! ちがう! これは違うんだ! (///∇///)アウゥ

クモの糸って、白だけじゃなく、黄色もあるんですね。ソーメンの当たりみたい。

服にはクモの糸以外にも葉っぱやら小枝やら。足元はびっしりとひっつき虫が。ひー。

やっぱり山で人に会わなくてヨカッタ。。。

この微妙に自然と一体化した風体のせいなのか、

周辺のお宅から生活音はするのに、固く戸を閉ざし、誰も出てこようとしません。

やがて池が見えてきたのですが、それはオイラが探していたのとは別の池でした。

そこから更に歩き、やっと車を見つけたのは30分後。よ、よかった~ _| ̄|○ il||li

山をナメてました。

その後、11時に遅めの朝食をとり、見学を続けたのでした。

D20_0239.jpg

宮城県四壇原飛行場跡地にて。

明日は早朝に福島県の一ヵ所にお邪魔して、すぐ茨城に移動してしまうので、東北での日没はこれが最後。

午前中ちょっとしたハプニングがありましたが、なんとか明るいうちに到着できました。

その後、屋上に展望デッキが新設された仙台空港へ。

道中Fさんに「展望デッキは20時まで入れる」と調べてもらったので余裕です。

仙台空港に到着したのは19時頃だったのですが、周辺にはまだまだ津波の爪痕が残っていました。

空港駐車場の照明施設は全滅。よく道路工事で使用するような仮設照明器具が灯り、発電機がうなってました。

明日はここから福島県に入ってすぐの飛行場を見学する予定だったので、

その手前の道の駅で車中泊することに。

でもその前にお風呂に入りたかったのですがなかなか見つかりません。

諦めかけた頃、やっと看板発見。

古いホテルだったのですが、到着したのが21時頃だったので、入れるか心配でしたが、

ご主人がどうぞどうぞと快く迎え入れてくれました。

ここの温泉は入ってくる人と既に中にいる人同士が「コンバンハ!」とハッキリ挨拶します。

最初は友人同士なのだろうかと思ったのですが、挨拶を交わした後は皆無言です。

宮城県てこうなんでしょうか? それともご主人の人柄なのかしらん。

その後、22:00 道の駅七ヶ宿到着。

寝。

おやすみなさい。

(続きます)

 

本日の走行距離:390km


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小山(水澤)飛行場跡地 [├空港]

   2011年9月訪問 2020/12更新  


無題f.png
撮影年月日1947/11/01(昭22)(USA M621 177) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岩手県‎奥州市‎、前記事の金ヶ崎飛行場の南南東約11kmにあった「小山飛行場」。

先頭のグーグルマップは、現地図書館の史料と、上に貼った航空写真から作図しました。

滑走路東側に一部滑走路方向の地割が残っているものの、それ以外ほとんど形跡は残っていません。

戦争末期に急造した転圧滑走路だったため、戦後急速に元に戻ったということなのだと思います。

秘匿飛行場だったため、極力周辺になじむようにしたことも関係しているのかもしれません。

現在滑走路跡地は中央部を県道236号が横切っており、

周辺には立派な防風林のある地元農家が点在し、美しい田畑が広がっていました。

当飛行場の滑走路長については諸説あり、ネット上では1,500m、現地図書館の史料では1,200m、

現地の碑では2,000m とバラバラで、上図は1947年の写真を忠実に再現した(つもりな)のですが、

これだと1,700mです。

後述しますが、当飛行場が秘匿飛行場で、竣工後も偽装工事を行うほどであったこと、

参考にした写真の撮影時期が終戦から2年以上経過していること等あり、諸説入り乱れてしまうのかもしれません。

滑走路の長さが資料によりバラバラなのはここの飛行場に限らずよくあることです。

D20_0197.jpg

赤マーカー地点。

飛行場の碑。

青マーカー地点に「小山飛行場の碑→」という小さな看板が出ているのですがなかなか探せず、

場所をお尋ねするため、幼稚園バスにお孫さんのお迎えを急ぐご主人の足を止めてしまいました。m(_ _)m

撮影した時は気が付かなかったのですが、ここは滑走路の端に位置します。よくぞこの場所に造ったものだと思います。

碑文(全文) 小山飛行場は、太平洋戦争の末期本土決戦に備えた特攻秘密基地として建設されました。昭和二十年四月から六月まで、県内外二十余校、二千数百名の高等、専門学校生、師範学校生、中学生、実業学校生の学徒動員により、長さ二千メートル幅六十メートルの滑走路が完成されました。わずか二機の着陸を見ただけで敗戦を迎えるに至りました。ここに動員学徒、在京丹沢町友会有志と地元有志により記念碑を建立し、この歴史を後世に伝えます。

「小山飛行場跡地」の大きな文字の左右にはそれぞれ、

「昭和二十年六月二十八日竣工 特攻専用陸単秘匿飛行場」

「平成十五年七月二十七日 小山飛行場跡地記念碑建立協賛会
揮ごう 丹沢町長 後藤 完」

と記されていました。 

 

前記事で登場した「金ヶ崎飛行場」と当飛行場は密接な関係があり、繰り返しになってしまいますが、

現地図書館にあった本によれば、

1938年、陸軍岩手飛行場(後藤野飛行場)が完成すると、続けて県内第二、第三の飛行場用地探しを行い、

その候補となったのが、「丹沢郡金ヶ崎町」と、当地「丹沢郡小山村(現丹沢区小山)」でした。

そしてこの2つの候補地でそれぞれ建設が始まりました。

当地での飛行場建設の具体的な動きは1944年から始まったようなのですが、

陸軍の史料「飛行場配當図」の中で当飛行場は、「○水澤」と表記(○は破線で描かれている)してあります。

凡例に○印は「秘匿飛行場(と号専用)」と記載されており、「と号」とは「特別攻撃隊」のことでした。

碑文の中で当飛行場は、「特別攻撃隊用の秘匿飛行場である」と記されていますが、

それが陸軍の史料からもきちんと裏付けられるということですね。

東北地方で○印の表記があるのは、岩手県水澤、宮城県玉城寺原、福島県棚倉の三か所のみです。

 

小山飛行場は最初から秘匿飛行場として建設がなされたようで、

現地建設事務所の名称は「東北軍管区水澤応用演習場建設本部」とされ、

事務所の名称からも、ここで飛行場を作っているとは分からないように偽装されました。

動員された学徒は約二千数百名にも上ったのだそうで、

上空からは発見できない偽装化した飛行場とし、林の中に隼36機を配備したのだそうです。

 

前記事の金ヶ崎には元々飛行場があり、通常の飛行場を建設しました。

当飛行場は新規に建設した秘匿飛行場であるため、通常の飛行場より偽装化の手間がかかったはずです。

同時に建設したにもかかわらず、金ヶ崎は未完成、こちらは6月末完成です。

詳しい経緯はわかりませんが、なんだかアベコベのようで不思議な気がします。


      岩手県・小山(水澤)飛行場跡地     
碑は滑走路の中央部分付近に作られたものの、後に現在の場所に移設されたとするサイト様が複数あります

小山(水澤)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:秘匿特攻専用飛行場
所在地:岩手県‎奥州市‎胆沢区小山‎上柴山‎
座 標:N39°06′17″E141°05′51″
標 高:90m
滑走路:1,700m×60m?
方 位:10/28
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

沿革
1944年 春   工事用道路の拡張工事
1945年 03月 飛行場建設のため、測量班15名小山入り
      04月 建設学徒隊入村、着工
      06月 6日 一番機着陸。お祝いに食パンが2個ずつ配られた
          20日 滑走路完成。その後周辺の偽装工事
          24日 小山飛行場竣工。軍に引き渡される。

関連サイト:
丹沢観光協会/小山飛行場跡    
ブログ内関連記事       

この記事の史料:
現地の碑文
「幻の小山飛行場-最期の秘匿特攻基地建設の謎を解く少年学徒と村人たちの証言」


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金ヶ崎(高谷野原)飛行場跡地 [├空港]

   2011年9月訪問 2020/12更新  


無題a.png
撮影年月日1947/11/01(USA M621 73) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岩手県‎胆沢郡‎金ケ崎町‎。

美しい田んぼが広がり、真っ直ぐの道路が伸びていてとても長閑なところです。

かつてここに「金ヶ崎(高谷野原)飛行場」がありました。

北上平和記念展示館に当飛行場部分を囲った航空写真が展示してあり、

先頭のグーグルマップはこの展示写真から作図しました。

同展示館には当飛行場について非常に興味深い資料も展示されていました。

関係個所を以下引用させて頂きます。

岩手初の飛行場は高谷野原(金ヶ崎)にあった
 1928年(昭和3年)10月、岩手県下において皇族や将官を迎え、陸軍特別大演習が挙行されることになり、8月、仮設とはいえ金ヶ崎村高谷野原に県内初の飛行場が建設され一躍脚光をあびていた。

 1936年(昭和11年)8月には、熊谷飛行学校生徒26名が約1ヵ月間の練習飛行のため金ヶ崎飛行場を訪れた。それを見ようと水沢、岩谷堂から団体の見物客が連日押し寄せ、自動車業者が大繁盛し列車の乗降客は前年の1.5倍に増えた。飛行場周囲には氷屋や食べ物の露店が出て活況を呈し、「金ヶ崎の飛行機景気」と呼ばれるほどの大騒ぎとなって、地元の期待はいやが上にも高まっていった。

 飛行場の誘致は、表面的には県民の愛国心の発露という形を取っていたが、地元政界や経済界では飛行場を誘致すればやがては、軍民共用の飛行場として岩手の空の玄関口となり、それによって交通網が整備され、人が集まることによる経済的効果に波及するだろうとの読みがあった。それが『飛行機景気』という言葉をも生んだのである。

飛行場誘致は、土地交渉で暗礁に
 7月12日、航空ペイジェントに参加するため熊谷飛行学校練習機が金ヶ崎飛行場に飛来することになっていた。その矢先の6月27日、飛行場の主要地帯2万7千坪(約9ヘクタール)がトラクターで掘り返されるという事件が起こった。

 元来、金ヶ崎町高谷野原は総面積372町歩(実測369町8反1畝12歩、約370ヘクタールの皇室御料地であった。それを1923年(大正12年)に金ヶ崎村が縁故払い下げを受け、更にこれを個人菅原新蔵氏に農業経営を条件として払い下げたものであった。地代について『高谷野原耕地整理組合』代表と最後の交渉を行っていたが、1坪あたり20銭を主張する村と32銭を要求する組合側とで交渉は平行線となっていた。その時、交渉の難航に業を煮やした組合側は、飛行場の掘り返しを行ったのである。とりあえず双方の話し合いで飛行場を東部に拡張し熊谷飛行学校機の飛来に備えることになった。

 

同展示館の「岩手飛行場」についての資料によりますと、

満州事変後、「東北に一ヵ所飛行場を」という陸軍の意向が示され、

飛行場を誘致すれば、三陸沖地震で疲弊していた地域経済対策に絶大な効果があるとして、

各地で激しい誘致合戦が繰り広げられます。

そんな中、当金ヶ崎には既に県内初の飛行場と、陸軍大演習での実績があり、

1935年には陸軍航空本部から実地調査があり、

1936年には熊谷飛行学校の1ヵ月の訓練がありました。

「岩手飛行場」資料によれば、「陸軍側でも、金ヶ崎が最適地と見ていた」とあります。

そんな誘致合戦のさ中、最有力候補の金ヶ崎がオウンゴールを決めてしまいます。

上述の1937年6月の飛行場掘り返し事件です。

翌月の熊谷飛行学校からの飛来は受け入れることができたようですが、

こうした地主との土地交渉問題から、金ヶ崎は飛行場誘致を断念。

同年11月、後藤野に飛行場建設が正式に決定となります。

土地の単価で折り合いがつかず誘致断念とは、地名を地でいくような話ですね。

なんて言ったら地元の方は怒るかしらん。

 

現地図書館にあった「幻の小山飛行場-最期の秘匿特攻基地建設の謎を解く少年学徒と村人たちの証言」

という本には、1937年のゴタゴタから飛行場誘致を断念した金ヶ崎のその後について記されていました。

1938年、陸軍岩手飛行場(後藤野飛行場)が完成すると、

陸軍では続けて県内第二、第三の飛行場用地探しを行い、

その候補となったのが、丹沢郡金ヶ崎町と、丹沢郡小山村でした。

そしてこの二ヵ所で1945年3月から飛行場建設が始まっています。

(小山村の飛行場については次の記事で紹介します)


D20_0187.jpg


      岩手県・金ヶ崎(高谷野原)飛行場跡地     
当飛行場に不時着した彗星が盛岡市内の高校教育会館に保管されているのだそうです

金ヶ崎(高谷野原)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:岩手県‎胆沢郡‎金ケ崎町‎西根‎
座 標:N39°12′15″E141°02′59″
標 高:114m
滑走路:1,500m×150m 転圧舗装滑走路(展示館資料より)
方 位:12/30
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1928年08月 金ヶ崎町高谷野原に仮飛行場建設(県内初飛行場)
    10月 陸軍特別大演習
1935年09月 陸軍防空本部、金ヶ崎を実地調査
1936年08月 金ヶ崎で熊谷飛行学校生徒26名 一か月間飛行訓練(金ヶ崎の飛行場景気)
1937年06月 27日、飛行場掘り返し事件。双方の話し合いで東部に拡張することに
    07月 熊谷飛行学校練習機15機飛来(全国一斉航空愛国週間・航空ペイジェント参加機)
1945年03月 再着工
    08月 未完成のまま終戦

関連サイト:
ブログ内関連記事       
この記事の資料:
「幻の小山飛行場-最期の秘匿特攻基地建設の謎を解く少年学徒と村人たちの証言」
北上平和記念展示館


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鶯宿滑空訓練所(大日本飛行協会岩手支部第一滑空訓練所)跡地 [├空港]

   2011年9月訪問 2020/12更新  


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撮影年月日1947/11/17(昭22)(USA M655 102) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岩手県雫石といえば、真っ先に連想してしまうのはあの痛ましい墜落事故のことなのですが、

「雫石に着陸場があった」。という情報がサイトにあり、この情報だけを頼りに現地の図書館に行って来ました。

雫石町史の年表に、「昭和17年7月 大日本飛行協会第一地方滑空訓練所が鶯宿に設置される。教官桐野聞二」

という記述が。また同町史762pには、

「現町営グラウンドの地に設置されたグライダーの訓練が始められた」 と記されていました。

史料に戦時中の飛行場についての出来事が記されていること自体はよくあるのですが、

跡地の場所が明示されているのは非常に珍しいです。ということで、早速町営グラウンドを探して行ってみました。


この「鶯宿」という地名を知れたおかげで、

自宅に戻ってから「鶯宿」をキーワードに、当滑空場について非常に詳細なサイトを見つけることができました。

そのサイトによりますと、年表に出てくるのは、「大日本飛行協会岩手支部第一滑空訓練所」のことでした。

先頭のグーグルマップは、このサイト様内に出ている地図を頼りに作図しました(下記リンク参照)。

宿舎は飛行機の型をした建物と説明がありました。

確かに言われてみれば、そんな形をしています^^

同じくサイト様情報なのですが、 新岩手日報 昭和16年10月7日の記事があり、

「東北一の空の道場 鶯宿滑空訓練所十萬坪に拡張」

の見出しが載っていました。

記事によりますと、滑空訓練所を10万坪(≒33ha)まで拡張する計画であり、

先ずは二万坪(≒6.6ha)の抜根、整地を行った。とありました。

因みに先頭のグーグルマップの作図だと、約3万坪(≒10.2ha)です。

D20_0179.jpg

町営グラウンド。

ここでグライダー訓練をしていたのですね~。


      岩手県・鶯宿滑空訓練所跡地     
余談ですが、当滑空場跡地の北東約12kmに小岩井農場があり、昭和33年10月に盛岡市長らが飛行場用地として小岩井農場を視察したことが現地図書館の写真集に出ていました。あの小岩井農場が戦後飛行場になるかもしれなかったのですね

鶯宿滑空訓練所 データ
設置管理者:大日本飛行協会?
種 別:滑空訓練場
所在地:岩手県岩手郡御所村鶯宿(‎現・岩手郡‎雫石町‎南畑‎第32地割‎)
座 標:39°38'34.8"N 140°56'28.0"E
標 高:208m
滑空場:430mx225~245m
面 積:10.2ha
(座標、標高、滑空場長、面積はグーグルアースから)

沿革
1941年     夏、周辺住民の協力により着工
1942年07月  鶯宿滑空訓練所開所式

関連サイト:
岩中滑空部の歴史(当訓練所について詳しくまとめられています)  

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観武ヶ原練兵場滑走路跡地 [├空港]

   2011年9月、2023年5月訪問 2023/6更新  


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撮影年月日1948/05/15(USA R1431 107) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岩手県盛岡市の青山、月が丘、みたけ地区。

ここは明治から終戦に至るまで、広大な練兵場、兵営等があり、

練兵場内には滑走路が設けられ、盛んにヒコーキの運用が行われていました。

元々2011年9月に現地にお邪魔して、2012年1月にこの記事をアップしてあったのですが、

その後、盛岡でステイホーム中さんから貴重な情報を頂いたのがきっかけで、

地元盛岡市立図書館リファレンスサービスで詳細な調査と資料をお送り頂き、

全面的に改定致しました。

盛岡でステイホーム中様、盛岡市立図書館の兵庫様にこの場で御礼申し上げます。

どうもありがとうございましたm(_ _)m
 

情報を頂くまでオイラが当練兵場とヒコーキとの関わりについて知っていたのは、

「県営運動公園東側に1,500m滑走路があった」というネット情報と、

「航空部隊があった」という現地の碑文、そして「この航空隊は昭和18年に開設した」とするネット情報のみでした。

ただしこの航空隊についても、座学のみだったのか、実際に飛行訓練も行っていたのか、

実は現在も定かでないのですが、末期には全国でたくさんの飛行場が造られましたから、

この2つの情報は繋がっていて、末期にはここでヒコーキが飛んでいたのではないか。と考えていました。

しかし盛岡市立図書館様の調査と送って頂いた沢山の資料により、

「末期の時期にヒコーキが飛んだ(かも)」どころのレベルではなく、

練兵場でありながら、飛行場としても国内屈指の実績があることが分かったのでした。

郷土訪問飛行、軍事演習、飛行学校等、末期まで含めるなら飛行場としての歴史は、

大正4年の郷土訪問飛行を皮切りに30年にも及び、

様々な人物が多岐にわたる目的で当地で飛んでいました。

滑走路については、今のところ情報から3ヵ所あったのではないかと思うのですが、

まだまだ不明な点が多いため、先ずは送って頂いた資料をとにかく時系列に並べてみます。

尚、当記事は練兵場内のヒコーキ関連が中心なのですが、

頂いた資料のうち、練兵場そのものに関しては、別記事「岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑」

の方にまとめてあります(下記リンク参照)。

では早速(書籍からの引用については図書館様より許可頂いております)。

 

1906年11月 軍隊誘致議決。熱心な誘致活動始まる

1908年6月 工兵第八大隊、弘前から移駐

1908年9月 特別工兵演習

皇太子(のちの大正天皇)を招いて特別工兵演習が行われ、
このとき演習場となった広大な草原を、皇太子が「観武ヶ原」と命名したのだそうです。

1908年12月 観武ヶ原の碑建立
「もりおか思い出散歩」p101
「戦前は、草原一帯にある建造物は兵営と厩舎のほかには、この碑だけだった。
明治四十一年十二月に建立されたこの碑は、高さ一丈ほどの立派なもので、(中略)
十数年前までは、青山四丁目の拓美荘のあたりに"観武が原の碑"が立っていた。」


練兵場開設から3ヵ月後に特別演習を行い、更にその3ヵ月後に碑を建立したんですね。

碑を建立した位置について、「青山四丁目の拓美荘のあたりに」とあります。

「ゼンリン住宅地図2000」51番右頁にこの「拓美荘」が記載されており(現・青山月極駐車場)、

元々の場所がピンポイントで特定できました。

この碑は別の場所に移設されてしまったんですが、元々はドコに建立されていたか、

後程その場所が非常に重要になります。

1915年7月 民間パイロット白戸栄之助氏による展示と飛行会
・「図説盛岡四百年下巻Ⅱ 明治・大正・昭和編 世相・かわら版・略年表」389p
「民間パイロット白戸栄之助郷土に飛来
4年7月25日、観武ヶ原で民間飛行家、白戸栄之助が操縦する旭号の飛行会が行われた。
初めて上空間近に飛ぶ旭号に黒山の市民がつめかけた。
前日24日には盛岡劇場に旭号が展示公開され人気をあおった。
展示中の旭号の写真に「盛岡劇場で有料公開す」というキャプション
飛行中の旭号の写真に「観武ヶ原上空の旭号の勇姿」とするキャプション
このことについて伝える新聞記事には、
「民間飛行大家白戸栄之助氏操縦空前の飛行大会」という見出しとともに、
「展覧 二十四五両日間 於盛岡劇場
飛行 二十六日 午前六時於観武ヶ原練兵場」

・同507p 年表より
(1915年 大正4年)
7月24日 民間飛行家、白戸栄之助が飛行機「旭号」を公開展示
7月25日 観武ヶ原上空を初飛行。盛岡市民の初見物となる

・「風雪 青山三十年の足跡」38p
明治の末ごろには工兵さんと騎兵さんで一躍人の住む所となった現在の青山町一帯を
更に一般に衆知させたのが、大正四年七月二十六日の観武ヶ原においての飛行大会でありました。
アメリカでライト兄弟が初めて空を飛んでから十二年目のことで物珍らしさも手伝って、
当日の飛行の決行を知らせる午前四時三十分の打上げ花火を合図に盛岡市内はもとより
近郷近在からもキャハン、ワラジ履きで足を固めて腰には弁当をぶらさげて、
みたけヶ原えと一路集まった観衆がザッと六万人というから
当時の盛岡市の人口をオーバーしていたことと思われます。
盛岡始まって以来の人出であったと伝えられているほどであります。
そして午前六時二十分にエンジンの始動にかかって準備万端整えて愈々飛行に始まったのが
午前七時三十分で高度四百米まで上昇し付近を一周して降りたということで
飛行時間はわずか七分二十秒間だけであったと記録は残っているが
当時はそれでも市民は大満足をしていたようで
現在でもお年寄りに話を聞くと遂昨日のことのようによくおぼえていてその実見談を語ってくれた。

・「もりおか物語(拾)―安倍館・前九年かいわい―」100-103p
飛行機が来た
池野(藤) わたしは明治三十七年十二月八日生まれですが、小学校のころでしたか
大正四年(一九十五)に飛行機というのが、盛岡にはじめて来たンですヨ。
白戸栄之助という飛行操縦士でした。
このときは、岩手日報社をはじめ、岩手民報社とか、岩手公論社、
それから岩手毎日新聞社の四ツの新聞社が共同して招聘したンであンすナ。
ところが、実際に飛んだのは七月二十六日でしが、この前か後かはっきりわからなござンすが、
盛岡劇場の屋内で、飛行機の機体を一般の人たちに見せたもンです。
 まあ飛行機というのは、飛んでいるのは見ることはできても、そばではなかなか見れないもンですが、
盛岡劇場では、そばに行って、しかも、さわって見れるというので、連日見物客が大勢おしかけたもンです。
 当時の盛岡劇場といえば、まず盛岡では一番広いところでしたし、
何か大仕掛けな催物となれば、いつもここが会場になりあンした。
 もちろん、飛行機を屋内に入れるとなると大変なことですが、翼さえはずせば入れたンですナ。
わたしも行って見ましたし、それから小学校(付属小学校)では、わたしたちは引率されて、
歩いて観武ヶ原まで行って飛ぶところも見ました。
ただし見物料もいくらかとられたように思ってます。
 そのときの主催者側の収支決算書が記録されてますが、それを見ますと、三百七十三円の収入になってますが、
おそらく一人一銭かいくらをとったンじゃないかと思います。
 それで、支出は百二十八円十二銭、残高が二百四十四円八十八銭となってます。
これを飛行士の白戸栄之助さんの事業に寄附したようです。
 いずれ盛岡としては、これが驚異だったンですナ。
なにせ、はじめての飛行機を、そばで見られるンです。
市内が大さわぎになるのも当然です。
しかし市民のなかには、
「なあに飛行機は、空へあがるもンだから、観武ヶ原まで行かなくたって屋根に上れば見えるンじゃないか」
といっていた人たちもあったンです。
ところが見えないンですヨ。全くの低空なンです。
低空も低空、ほんとに地上から何メートルも上らないわけであンす。
それに滞空時間も何分間というわずかなもンでした。
とても遠くからでは見えるもンじゃないンです。
だから盛岡に来たのも空を飛んで来たのでなく、多分汽車で運んで来たンじゃないですか、まあ、見世物ですナ。
 谷藤(金) 観武ヶ原に飛行機が来るとなれば、珍しくいまから思えば、まるで滑稽ですが、
それでも、ライト兄弟だって、最初は滞空時間五十九秒だったといいあンすから、
それに比べたら、大進歩だったンですナ。飛行機は「旭号」というのであンした。


(資料内に若干の矛盾点もありますが)これが盛岡での初飛行となりました。

東京代々木練兵場での国内初飛行から5年、埼玉県所沢市の国内初公式飛行場開設から4年後という、

非常に早い時期の出来事で、当練兵場のヒコーキとの関わりはここから始まりました。


1915年10月20日 長澤賢二郎中尉が飛来
・「図説盛岡四百年下巻Ⅱ 明治・大正・昭和編 世相・かわら版・略年表」388p
青森の陸軍大演習に参加の飛行士、長澤賢二郎中尉が郷土訪問、市民に勇姿を披露した(大正4年10月20日)
当時の新聞見出しより(大正四年十月十三日付)
「飛べり翔べり 雁行の偉観 四機翼を連ねて航路遥けき陸奥の空へ白雲を裂て細雨を衝いて」
「長翔盛岡に至る飛行機四台 長澤中尉来る」
4人が並んで座っている写真 キャプション:「観武ヶ原練兵場に於ける得意の四中尉」
操縦席付近を下から見上げる写真(搭乗者がカメラ目線) キャプション:「昨日観武原を出発せる長澤飛行中尉」

・同507p 年表より
(1915年 大正4年)
10月11日 東北地方の陸軍大演習参加のため盛岡出身の、長澤賢二郎陸軍中尉が「陸軍二七号」機で観武ヶ原に飛来

・ 「もりおか物語(拾)―安倍館・前九年かいわい―」103p
池野(藤)その後には、弘前で陸軍の大演習があったとき、それこそ飛んで来て、観武ヶ原に着陸して、
そしてまた飛んで行ったということがありましたが、これがいわゆる飛行機の初来盛ということになりますナ。


青森に向かう途中の郷土訪問飛行だったんですね。

白戸氏による盛岡初のヒコーキお目見えから三ヶ月足らずでの飛来でした。

立て続けの出来事だったんですね。

 
1921年8月 郵便飛行と碑激突事故
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
参考までに当時の飛行機は百馬力前後のものがほとんどであり八十馬力程度が一番多かったようで、
東京~盛岡間の初郵便飛行が四時間五分、仙台~盛岡間でも二時間もかかっていたということでした。
そして一万円(現在の三千万円相当)の懸賞金のかかっていた民間機による初の東京、盛岡間の郵便飛行は
帰還の途に観武ヶ原を滑走し始めたが、突風にあおられて機体がかたむき記念碑にぶっつけてしまい
両翼とプロペラを大破してしまったという航空機事故までオマケとして大衆の面前で発生してしまっている。
幸いなことに操縦士は顔や手足に軽いケガだけで済んだと記録されている
そして一万円の懸賞金はパァとなってしまい参加賞として四千八百円をもらっただけとも誌るされてい(る)

・「もりおか物語(拾)―安倍館・前九年かいわい―」103-104p 
谷藤(金) いつだったか、東京~盛岡間の飛行機の競争のときだったンですかナ、
観武ヶ原の記念碑に飛行機が触れて、記念碑の上部の方が欠け落ちたこともありあンした。
池野(藤) わたしが覚えているのでは、大正十年(一九二一)に東京~盛岡間の郵便飛行がはじまったンです。
わたしは写真が好きで、よくいろんな記録写真を撮っていますが、この郵便飛行も観武ヶ原に行って撮ってあンす。
写真をみると、白い洋服を着た人が写ってあンすから、たぶん夏だと思いあンす。
その頃、岩手県警察部長に山口織之進という方がいたンですが、その方と、
それから白い洋服の岩手日報社の禿氏岳山という人が写っているンです。
ところがですネ。この郵便飛行機が東京から飛んで来たので、
盛岡の名士たちも花輪なンかあげて大歓迎したンですが、すぐ引き返したンです。
そして、滑走はじめて、いざ離陸しようとしたその瞬間、どうしたことか、
滑走路の脇にあった記念碑(観武ヶ原の碑)に激突してしまったンです。
そのころは、滑走路といっても、別に舗装整備されたもンではなく、観武ヶ原のデコボコした草地だったンです。
そうして飛行機は大破し、操縦士の高橋という人も大ケガをしたンです。
わたしは、走って行ってその事故場面を写したったンですが、
これが盛岡に飛行機の来た三回目ということになりますね。
そのころの飛行機というのは、現在と比べたら機械といい、型体といい、ほんとに危なっかしいような感じでした。
まあ、よく乗ったと思いますし、よく飛んだと思います。

・「図説盛岡四百年下巻Ⅰ明治・大正・昭和編 世相・生活文化」331p
東京・盛岡観武ヶ原間郵便飛行大会決行す
-大正10年8月21日-
帝国飛行協会主催の第三回郵便飛行大会は大正10年8月21日、東京-盛岡間、一等賞金八千円で開催された。
東京は洲崎埋立地発、盛岡は観武ヶ原陸軍練兵場であった。
岩手日報 当時の新聞記事より:
東京盛岡間郵便飛行決行す
八月二十一日洲崎埋立地出発
参加飛行家は七名
一等八千円より五等迄
帝国飛行協会発行の飛行記念絵葉書:
東京→宇都宮→仙台→盛岡
盛岡→仙台→小名浜→水戸→東京


碑に激突という大事故が発生してしまいました。

碑が元々あった位置が特定できていましたから、元々の碑の位置=事故現場=滑走路付近 ということになります。

 

1926年 東京~札幌間フェリーフライト機の飛来
「新千歳市史通史編上巻」731p
小樽新聞の札幌-旭川線・自主運行定期航空の三日前、北海第一号が
千葉・津田沼の伊藤音次郎経営・伊藤飛行機研究所で改修後、大蔵清三の操縦により
東京・立川飛行場から盛岡経由で札幌へ飛来した。
北海第一号は、八月二日午前八時に立川を離陸、小名浜、仙台上空四八〇㌔を飛行し
盛岡・陸軍観武ヶ原演習場に到着した。
三日午前六時五分、盛岡を離陸、八戸、苫小牧上空を飛行し興農園耕地に午前九時十五分に着陸した。
盛岡-札幌間は四〇〇㌔だった。これまで飛行機は分解され、鉄道貨車に積載されて北海道に来るのが常だったが、
北海第一号は飛行で来道した初の機体だった。

 

1927年 岩手日報社主催 伊東佐内飛行士招待
「もりおか物語(拾)―安倍館・前九年かいわい―」105p
昭和二年(一九二七)ころだったと思いますが、岩手日報社が主催して、
伊東佐内という飛行士を招いたことがありました。
ちょうど、大正四年に白戸栄之助を招いたときのようにですネ。そしてしばらく一般に飛行機を公開しました。
伊東さんという人は岩手県の民間人ですが、このとき、観武ヶ原に伊藤飛行機研究所をつくって、
飛行機を毎日飛ばして訓練をしておりました。
当時のことですから、飛行士を養成するという要請もあったでしょうか。
ところが飛行機というのは、ただでは飛ばないわけでしょう。
ガソリンその他経費がかかるわけです。一回飛ぶのに十円かかるンです。
しかも、この飛行機というのは、伊東さんが、海軍機の部品を払い下げてもらってつくった
手製飛行機なもンですから、重量制限があって、体重の重い人は乗れないンですよ。
しょっちゅう不時着していましたネ。ところが不思議に大ケガはしないンですヨ。
多賀の細川睦夫さんという方が弘前の連隊に入営するときには、この伊東さんの飛行機で行ったンですが、
場所はどこか忘れましたが、途中で河原に不時着して、ケガをしたことがあったンですヨ。
しかし、このときも大したケガではなかったようです。


練兵場内に飛行機研究所があったんですね。

白戸氏による盛岡ヒコーキ初お目見えから既に12年経っていますが、

それまでは飛行会、立ち寄り等、その日限りの単発イベントでした。

ところが今回は研究所開設で、毎日訓練飛行をしていたとあります。

盛岡市民にとっては、"ヒコーキのある日常"ですね。


1928年10月 陸軍特別大演習
・「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」p101
昭和三年十月には、陸軍特別大演習が行われたが、県公会堂に大本営がおかれ、
ご統監のため五日間、天皇陛下が盛岡にご滞在になった。
騎兵旅団の満州移転後、その跡には、歩兵の独立兵団や陸軍予備士官学校が入り、
戦争中には戦車隊や飛行隊も置かれた。

・「図説盛岡四百年下巻Ⅱ 明治・大正・昭和編 世相・かわら版・略年表」404p
昭和3年10月5日、陸軍特別大演習ご統監のため天皇陛下がご来盛された。(中略)
観武ヶ原で6日から8日まで演習が繰り広げられた。
支柱付高翼単葉単発固定脚機(3機?)が並ぶ写真 キャプション:「観武ヶ原に整列した飛行隊」


軍事演習に飛行機が参加しました。


1931年 パイロット養成所開設
「風雪 青山三十年の足跡 喜多武志編著」38p
観武ヶ原は飛行場として用を足していたようで
昭和六年から十年まではパイロット養成所も開設されていたという、
さしづめ飛行学校のはしりとでもいうべきでしょう。


飛行機研究所に続き、パイロット養成所が開設されました。

日本の航空黎明期には、まだまだ飛行場なんてありませんから、練兵場を活用して、

飛行大会、郷土訪問飛行、軍事演習への参加をするケースが多かったです。

ここまでは観武ヶ原も一緒なんですが、他の練兵場はそうした単発イベントの時以外、

ちっとも飛ばないことが多いです。

その意味では、当練兵場ではヒコーキ研究所や飛行学校まで作られましたから凄いです。


~1945年8月(時期不明確) 陸軍航空教育隊。電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
二十年八月十五日敗戦までの間には陸軍航空教育隊。電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊等々
あまり一般には知らされていなかった部隊が設置されていたものでありました。

・「いわて歴史探訪」8p
今の青山町から約十二キロ北方の滝沢村一本木までの一帯は、
明治から第二次大戦まで兵の施設がたくさんありました。
(中略)現在の県営総合運動公園正門前の道路は飛行機の滑走路跡だった。


末期にかけて、たくさんの部隊が設置されたんですね。

県営運動公園正門前の道路が滑走路があったとも記されていますが、

この資料は、「明治から第二次大戦まで兵の施設がたくさんありました」に続けて、

幾つもの施設を挙げており、滑走路もその中の1つであるため、

滑走路がどの時期に建設されたのか不明です。

そして「公園正門前の道路が滑走路跡」という情報は、オイラが知る限りこの資料が唯一のものです。

   * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

ということで、練兵場ヒコーキ関連の資料を中心に時系列で並べてみました。

ここからは観武ヶ原のヒコーキ関係で思いつくままに妄想話をぐだぐだと。

これも盛岡でステイホーム中さん情報なんですが、

国立国会図書館デジタルコレクションに、「報知年鑑 大正16年」があり、

この225コマには、「本邦民間飛行場調〔大正15.8〕」が載っています(下記リンク参照)。

表題通り、当時開設していた国内民間飛行場の一覧なんですが、この中に、当練兵場が出ていました。

本邦民間飛行場
使用者 
禿氏岳山
種類 陸上
位置 岩手県岩手郡厨川村観武ヶ原練兵場
面積 896,038坪


とあります。

まず、使用者の禿氏岳山(とくしがくざん)氏は、「もりおか物語」103pに登場しましたが、岩手日報社の人物です。

次に飛行場の面積についてですが、896,038坪とあり、これは296.2haに相当します。

この数字だけだとピンとこないので、296.2haという数字と練兵場の面積を比較してみます。

練兵場の面積がスパッと出ている史料が見当たらないのですが、

みたけ三丁目の一角に、元の場所から移設された「観武ヶ原の碑」を含め、

幾つかの碑がまとめて設置されていて、ここに手掛かりが。

拙記事「岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑」でも紹介していますが、

その中の一つ、「開拓の碑」の碑文はこんな一節で始まります。

「かつて、この地は観武ヶ原(みたけがはら)と呼ばれており盛岡市の青山 月が丘、みたけ地区一帯、約三百五十ヘクタールは、旧陸軍の兵舎・練兵場として使用されていた。」

兵舎、練兵場トータルで350haとあります。

この時点で、報知年鑑に記載の当飛行場の面積(296.2ha)が観武ヶ原のかなりの広さを占めているのが分かりますね。

兵舎、倉庫等、諸施設のある区画は当然飛行場として使えませんから、

「兵舎、練兵場トータルで350ha」のうち、296.2ha(84.6%)を「飛行場」として記載しているということは、

もう練兵場全体が飛行場で、事実上ドコで飛んでも良いということなんじゃないでしょうか。

そして、地形、駐機場、運用等の都合や、機体の大型化、高速化に伴い、

全体が飛行場ということになってはいるけれど、飛行場適地は自ずと定まってゆき、

特定の場所が「滑走路」として記憶されるようになったのではないかと。

実際にこの3地区をグーグルマップ上で囲ってみました(囲むと自動的に面積出る)。

 


町境界線で線を引くと、こんな感じになりました。

みたけ→薄い青(203ha)
月が丘→薄い紫(87.6ha)
青山→薄いグレー(54.4ha)、濃いグレー(48.2ha)

繰り返しになりますが、碑文には「約350ha」とあります。

グーグルマップで三地区の面積を合計すると、393.2haとなり、

碑文に出てくる数字とはちょっと開きがあります。

これは、単純に現在の3地区の面積よりも、当時の観武ヶ原の実際の数字を出しているのかも。

ということで、以下碑文に出ている350haで話を進めます。


碑文では、兵舎と練兵場両方で35ohaとある訳ですが、

青山地区のうち、最も南側の四角い部分が、当時は兵営、司令部等、中枢区画になっていました。

ということで、グーグルマップの濃いグレーの部分が、碑文の「兵舎」なのだと思います。

この濃いグレーの部分の面積は48.2haなので、この部分を引くと、

練兵場の面積は、約300haになります。

これは、「報知年鑑 大正16年」に出てきた896,038坪≒296.2haとほぼ等しいです。

因みに「報知年鑑 大正16年」には、

陸軍の立川飛行場、下志津飛行場、そして仙台の宮城野原練兵場にも、

民間飛行場が設定されていたことが記されているのですが、

いずれも「陸軍演習その他に支障なき範囲」と但し書きがついいるのに対し、

当練兵場にはこうした制限が付いていません。

つまり、練兵場内を全面的に飛行場として使用許可を得ていたのではないかと(アラステキ)。

先頭のグーグルマップは、ネット、書籍から「この辺が滑走路/飛行地区だったんじゃないだろうか」

と思われる3ヶ所を作図したものですが、観武ヶ原の範囲内にイイ感じに滑走路/飛行地区がバラけてます。

実は飛行大会、飛行学校等、当練兵場で「ヒコーキが飛んだ」とする資料はたくさんあるのですが、

練兵場内のドコを使用したのか、具体的な位置については、碑に激突した郵便飛行機以外不明です。

練兵場全域を飛行場として自由に使って良かったとすると、

これら3ヵ所以外にも、第4、第5の滑走路(滑走帯)が存在した可能性だって大いにあります。

無題0a.png
「今昔マップ on the web」より作成しました(以下3枚とも)。

次に、1921年に激突事故を起こした件について。

この地図は明治44年(1911年)測図です。

練兵場としての運用が始まり、皇太子を招いての演習、命名、碑建立があったのが1908年でした。

それから3年後の地図ですね。

赤矢印のところ、ちゃんと碑が描かれてます。

事故が起きたのは1921年なので、この測図から10年後な訳ですが、地理院に1925年測図の地図があり、

両方の地図を比較したところ、この周辺の地割に変化は認められませんでした。

ということは、事故当時も上に貼ったのと同様の地割であったということです。

(地理院の地図より今昔マップのが画像が圧倒的にクリアなのでこっちを使います)

で、改めてこの地図で、滑走可能な範囲についてアレコレ考えてみます。

無題1a.png

滑走可能な範囲を囲ってみました(東北本線にも赤線引いてるのは、この後の位置決めのためで、意味はないです)。

飛行可能地区の境界は、西側と北側は道路で、東側は川(木賊川)と土提、

そして南側は中枢地区の土提で構成されています。

この赤線をレイヤにしてグーグルマップに移すと-



こんな感じ。

「みたけ」20pには、「観武原をほゞ東西に長く伸びている滑走路」という一節があります。

この赤で囲った範囲内でほぼ東西方向に最も長く滑走するとしたら、緑ラインの箇所だと思うのですが、

これで638mです。

以下、東西方向に離陸滑走したこと前提で話を進めますが、

資料では「離陸しようとした矢先、碑に激突して、碑の上が欠けた」的な表現になっています。

この事故機がどの位置から離陸滑走を開始したかについて、資料には何も記されていないのですが、

碑は飛行可能地区の東端に近い(土提から約85m)ため、
西端から離陸を開始したのだと思います。

この場合、川と土提に向かって滑走することになるのですが、

ここに突っ込んでしまうと、パイロットも機体もただでは済みませんから、


「川や土提に達するより、ずっと手前で余裕で離陸できる!」という見通しがないと、

とても恐ろしくて離陸開始なんてできません。

ヒコーキの離陸に関係する重要な要素の一つに標高があり、長くなるので説明は省きますが、

標高が上がるごとに滑走路の実質的な長さはどんどん短くなります。

当地の標高は約150mなので、滑走路の長さは実質的に約5%短くなります。

つまり上の緑ライン部分、638mあるのですが、実質600mちょいしかないと見なさねばならず、

土提は高さがあるため、638m滑走した時点で車輪が浮いた程度では当然ダメで、

もっと手前で車輪が浮かないと、土提を余裕をもって飛越えられません。

当然滑走路の有効な長さは更に短くなります。

戦時中に造られた飛行場の資料を見ていると、

滑走路のどちらかの端にオーバーランするとただ事では済まされない何か(山とか崖とか)がある場合、

「離陸方向を一方向に限定する」的な文言が含まれているケースがあります。

今回の場合だと、西端から離陸滑走を始めると川や土提に突っ込む方向になってしまいますが、

川や土提を背にして東端から離陸滑走すれば、最悪滑走路を越してしまっても道路ですから、

脚を損傷する程度で済むかもしれません。

川に突っ込んだり、土提に激突するよりは遥かにマシです。

当時のヒコーキは尾輪式(主翼に主脚、胴体尾部に尾輪)が圧倒的に主流で、

「尾輪式は不整地に強い」というメリットがあるのですが、

「不整地に強い」とは言っても、これは飽くまで「前輪式(主翼に主脚、機首に前輪)と比べれば」

ということであり、尾輪式は離着陸滑走時の安定性が極めて悪く、主脚と重心位置の関係から、

主脚の一方が路面のギャップを拾う等、ちょっとしたことでたちまちグラウンドループ

(車のオーバーステアでスピンみたいな挙動)になってしまう危険を常にはらんでおり、

こうなると主翼を路面に激しく叩いて損傷したり、逆立ちしてしまったり等につながります。

実際に当練兵場でも着陸時に主脚をとられて逆立ちとなり、

パイロットが死亡してしまうという痛ましい事故が発生しています。

大事故を起こさないためにも、極力オーバーランして道路に乗り上げるとかは避けた方が良いです。

 

滑走の方向なんて無関係に、とにかく距離さえ稼げれば。

という考え方でいくと、マップの南北方向に走る水色の線になると思います。

これだと1,150m確保できます(恒風は南風なので、滑走路の向きはこっちのが理に適ってる)。

恒風が吹いている場合、北端から離陸開始した方が良いのですが、

オーバーランしてしまうと、施設中枢の土提に即激突ですし、

離陸失敗して中枢区画に突っ込むと一大事ですから、

風の条件が厳しくなければ南端からの離陸開始がオススメです。

無題2a.png

上の明治44年測図の記念碑をズームすると、こうなります。

資料によれば碑の高さは「一丈(ほど)」とありますので、約3mということですね。

記念碑が光り輝いているように見えますが、この輝いている部分は、

凡例によりますと、恐らく「土囲」です。

つまり、碑は単純に草原に建っていたのではなく、草原に土を盛り、その上に建っていたことに。

もりおか物語(拾)103pには、「高橋機の衝突事故現場(池野藤兵衛氏提供)」

というキャプションの付いた写真が掲載されています。

この写真では、土を盛った上に碑が建っていて、

土盛のすぐ脇に大破したヒコーキがあり、土盛の上、それから機体に何人もの人が写っています。

大正時代の日本成人男性の平均身長160~162cmとすると、

高さ2~2.5mの土盛の上に3mの碑があるように見えます。

「碑の上部が欠け落ちた」ということは、ヒコーキは少なくともその高さまで(5m位?)上昇していたと思われます。

この件でオイラが「凄まじいなあ!」と思うのは、離陸上昇速度に達していたヒコーキが、

ぶつかった碑のすぐ傍に堕ちている点です。

碑の上部にぶつかりましたから、これは碑にとっても優しくないぶつかり方で、

根元からボキッといったり、土台もろとも引き倒されたとしても不思議はないと思うのですが、

ヒコーキの運動エネルギーを全て受け止めてその場に叩き落とし、

しかも自身はビクともしない(ちょっと欠けたけど)ということで、

これは逆の見方をすると、ヒコーキが如何に"紙細工"かということです。

大正期のヒコーキは、全備重量600~800kgのものが多いです。

全備重量とは、乗員、燃料も全て含んだ重さなのですが、

近年人気の軽ハイトワゴンは、車両重量のみで900kgとか1tに達するものまであります。

ヒコーキの全備重量と条件を揃えるため、ここに4人の定員を加えると、

車両重量に更に220kg上乗せとなりますから、当時のヒコーキの方がずっと軽いです。

重力に打ち勝って飛ぶヒコーキは、とにかく「1gでも軽く」が至上命題であり、

激しい機動が求められる戦闘機でさえ、地上から操縦席に乗り込むまでに、

ドコに足を掛けるか、順番と位置が明確に決められていて、

ちょっとでも踏み外すとたちまち機体を壊してしまうという代物でした。

現代の大型旅客機でも、動翼は当然として、主翼のアチコチに No STEP(踏むな) と表示されています。

事程左様にヒコーキは繊細な紙細工であり、ちょっと障碍物に触れただけでも大変なことになり得るため、

戦時中の各飛行場の資料を見ると、

山は言うに及ばず、数キロ先の樹木、柵、高圧電線、建造物等まで障碍物として注意喚起されていますし、

「飛行の邪魔だから」と、飛行場周辺の樹木、時には煙突まで、容赦なく切除されました。

とにかく戦時中は一事が万事こんな調子でしたから、

飛行場の周辺どころか、飛行地区内のこんな微妙な場所に大きな障碍物があるという例をオイラは他に知りません。

加えて、なぜ敢えて障碍物の方向に向かって離陸滑走を開始したのだろう、というのが素朴な疑問です。

前述の通り、郵便飛行について知らせる当時の岩手日報には、

東京盛岡間郵便飛行決行す
八月二十一日洲崎埋立地出発
参加飛行家は七名
一等八千円より五等迄


とありますから、これはある意味賞金レースでした。

全て単座機とすると、7機のうち上位5着までが表彰されるということでしょうか。

ともかく何機ものヒコーキが観武ヶ原に到着したはずなのですが、

オイラの集めた資料には、この事故機しか登場しません。


ここから先は完全に憶測なんですが。

これはライバル機と東京にどちらが速く戻れるかを競う勝負でしたから、

観武ヶ原到着後も、ともかく1秒でも惜しい状態で離陸を急いでいたんじゃないでしょうか。

資料でも「盛岡の名士たちも花輪なンかあげて大歓迎したンですが、すぐ引き返したンです。」

とあります。

そのため、現地で受けるべき注意事項とか、碑への注意がおろそかになってしまったことが、

事故の一因になった可能性があるのではないかと。

練兵場内の滑走路については、「県営運動公園の所にあった」という以外、

資料には明確な位置情報がないんですよね。

ということは、碑の場所で事故が発生したのだから、当然ここに滑走路があったのだと思っていたのですが、

そもそも本当にここに滑走路があったんでしょうか?

ここには元々滑走路などなく、飛行には適さない場所に降りてしまったせいで事故が発生したのではないでしょうか。

なんてことまで妄想した考えたのでした。

ところがその後、「二十五年記念誌盛岡市月が丘一丁目町内会」に、戦車山から写したパノラマ写真があり、

横長に続く風景の一地点に矢印が伸びていて、「飛行機滑走路」という説明が入っていました。

この矢印の位置を見ても、正直滑走路は(オイラの目には)見えないのですが、

この位置というのが、元々の碑のあった辺りで、(やっぱりここは滑走路として認識されているのだ)

と思ったのでした。

 
オイラの憶測はともかく、大変な事故が現実に起きてしまいました。

大事故が発生してしまったら、原因究明と再発防止策の徹底が鉄則。

「もりおか物語」には、この事故の際、使用者の禿氏岳山氏も現場に居合わせたとありますので、

この後も引き続きこの地区を使用するにしても、何らかの策を講じたのではないかと。

飛行地区内にこんなに大きな障碍物があることと、

恐らくは不注意等の人為ミスが重なって事故が起こってしまったとすると、

人為ミスをゼロにするのは不可能です。

二度と同じ事故を起こさないためには、今後の飛行場としての使い勝手を考えても、

「碑の移設」が最も手っ取り早く確実な再発防止策だと思うのですが、

この碑は戦後までここにそびえていました(この碑が皇室由来であることが大きいのでしょうか)。

碑の移設案は不採用とすると、残る再発防止策は、注意喚起の徹底とか、離陸方向の制限とかでしょうか。

 

ここまで碑のある場所ばかりクローズアップしてきましたが、

前述の通り、観武ヶ原練兵場の全体が民間飛行場として使用できたとすると、

碑のある場所に限らず、「ドコで離着陸しようか」とパイロット目線で練兵場全体を眺めた場合、

練兵場は、木賊川で南北に大きく分割されています。

碑のある南側の飛行地区は、範囲は狭いのですが、勾配がなだらかであり、

北側はその逆。

ヒコーキは時代と共に速度と重量が増すにつれ、必要となる滑走距離もどんどん長くなってゆきましたが、

大正期の機体なら、「北側と比べると狭い」ということは特にデメリットと見なされなかったはず。

前述の通り、こちらの地区は、東西方向は最大でも638m、南北方向は最大1,150mの長さがとれるのですが、

末期の時期は戦闘機ですら1,000~1,500m滑走路のある基地で運用される例が多かったですし、

他のサイト様、現地の碑文によりますと、末期の時期には当地で航空教育が実施されたとのことで、

これが実際にヒコーキを使用した教育だったとすると、滑走路長は1,500mがスタンダード。

この場合、長さ的に練兵場の北側を使用するしかなかったはずです。

特に末期には、この南側のエリアには四角い諸施設の区画の北側にも多くの施設が建設され、

道路が縦横に巡っており、オイラにはここでヒコーキの運用をしていたようにはとても見えません。

 
上でも少し触れましたが、当練兵場で着陸機が主脚をとられ、逆立ちになるという事故がありました。

「みたけ」の中でこの事故について記されているのですが、

この記事は、観武ヶ原練兵場内にあった滑走路についての唯一と言っても良い詳しい情報でもあります。

事故が発生したのは、終戦直後の昭和20年8月17日。

記事では滑走路について、細長くて幅が狭く、観武原をほぼ東西に長く伸びており、

滑走路外側には排水路が設けられていて、この排水路に主脚がはまってしまったとあります。

事故機は九七式戦闘機でした。

終戦時にはすっかり旧式になっていたのですが、最大速度は470km/hで、

これは、後継として終戦まで陸軍機の主力であった一式戦闘機の530km/hには劣るものの、相当速いです。

最大速度が速いと、比例して着陸速度も速くなり、その分滑走距離も長くなります。

加えて、九七式は陸軍機なのですが、狭い空母への着艦という運用条件から、

着艦速度を極力抑えなければならないという制約のある海軍機と比較して、

陸軍機は着陸速度が速くなる傾向がありました。

直接九七式の着陸速度が分かれば良かったんですが、資料が見当たらないため、

後継の一式戦闘機と零戦の比較になってしまうんですが、

陸軍機の一式戦闘機は最大速度530km/hに対し、着陸速度は222km/h

海軍機の零戦は、最大速度565km/hに対し、着陸速度は111km/h

でした(数字は一例で、型式や条件により異なります)。

 

「みたけ」では、「飛行場の整備がなつてなかつたろう」と師団司令部の司令官が大声を張り上げたとあります。

司令官からの激しい怒号を受けたのは、この手記の筆者で、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊所属と思われます。

 このことから分かるのは、九七式が着陸できる規模の東西方向の細長い滑走路が終戦時の観武ヶ原にあり、

恐らくは駐屯していた陸軍航空隊の管理の元、いつでも運用可能な状態で整備維持を行っていたであろう。

ということです。

「排水路を備えた東西方向の細長い滑走路」

1948年の航空写真で練兵場内を随分アチコチ探したのですが、

結局明確に「これだ!」というものを見つけることはできませんでした。

 

■岩手県営運動公園

岩手県営運動公園の所に滑走路があった。

という情報については、今のところ判明しているだけで以下の3つがあります。

1.「県営運動公園東側に1,500m滑走路があった」とするネット情報
2.「いわて歴史探訪」8pの記述「現在の県営総合運動公園正門前の道路は飛行機の滑走路跡だった。」
3.米軍の Aircraft Action Report No. CAG6#49 に座標が出ている

1と2については、既述のもので、この文言がすべてですので、ここでは3について少し取り上げたいと思います。

3の資料については、盛岡でステイホーム中さんからコピーを送って頂いていたのですが、

その後、いちろうさんからこの資料のURLを教えて頂いたので、これを機会に詳しく調べてみました。

いちろうさん情報ありがとうございましたm(_ _)m 

この米軍の報告書でカギになる部分がこちらです。

無題.png
Aircraft Action Report No. CAG6#49 VBF6#95 VT6#47 1945/08/10 : Report No. 2-d(33): USS Hancock, USSBS Index Section 7 (4コマ・国立国会図書館ウェブサイトから転載)

10機を破壊した飛行場の座標が出ており、この座標の範囲を先頭のグーグルマップで赤で囲ってあります。

座標が示しているのは、碑のある場所ではなく、現在の公園から北東方向のエリアであり、

この範囲内に当時稼働中の飛行場があったことになります。

そして1と2の滑走路は、このエリア内にキレイに収まっています。

因みにこの資料の同じページ内を見ると、米軍はここを"Morioka"飛行場として識別しており、

同飛行場と隣接地にある15機中10機を破壊したようです。

この空襲があったのは、昭和20年8月10日。

そして上述の日本陸軍機の事故が起きてしまったのは、同年8月17日。

碑のあったエリアは、終戦の頃には陸軍戦闘機が着陸できる規模の滑走路があったとは考え難いこと、

米軍が示す飛行場の座標が、公園側であること、

飛行場空襲から僅か一週間後の事故であったことからすると、

日本陸軍機が事故を起こしてしまった滑走路は、現在の公園側にあった可能性が高いのではないかと思います。


(以下2023年5月撮影)

DSC_0382_00001.jpg

赤マーカー地点。

元々碑があった場所。

DSC_0385_00001.jpg

黄マーカー地点。

滑走路(推定)方向。

DSC_0391_00001.jpg

黒マーカー地点。

正門前の通り。


      岩手県・観武ヶ原練兵場滑走路跡地      

観武ヶ原練兵場滑走路 データ

設置管理者:禿氏岳山(陸軍)
種 別:陸上飛行場

・碑の側の滑走路
所在地:岩手県盛岡市青山4丁目
座 標:N39°43′53″E141°06′55″
標 高:148m
着陸帯:1,150mx638m不定形?
・公園正門前道路の滑走路
所在地:岩手県盛岡市みたけ4丁目
座 標:N39°44′28″E141°07′14″?
標 高:152m
滑走路:750mx100m不定形?
方 位:03/21
・公園東側の滑走路
所在地:岩手県盛岡市みたけ
座 標:N39°44′20″E141°07′23″?
標 高:157m
滑走路:1,500mx45m?
方 位:03/21
(所在地、座標、滑走路長はグーグルマップから、方位は地理院から)

沿革
1908年06月 15日 工兵第八大隊弘前から移駐
     09月 皇太子を招き特別工兵演習実施。演習場を皇太子が「観武ヶ原」と命名
     12月 観武が原の碑建立
1915年07月 民間パイロット白戸栄之助郷土に飛来 24,25日 盛岡劇場展示公開、26日 飛行会
    10月 20日 青森の陸軍大演習に参加の飛行士、長澤賢二郎中尉が郷土訪問
1921年08月 21日 郵便飛行と碑激突事故
1926年08月 2日 立川から札幌に向かうフェリーフライト機飛来。翌日札幌に向け離陸
1927年   岩手日報、伊東飛行士招く。観武ヶ原に伊藤飛行機研究所を開設し、毎日飛行していた
1928年10月 陸軍特別大演習。飛行隊飛来
1931年   パイロット養成所開設(1935年まで)
1945年?  陸軍航空教育隊。電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
1971年11月 碑移設

関連サイト:
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑 大正16年 
ブログ内関連記事  
 観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑  

この記事の資料:
盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩 盛内政志著 岩手日報社出版 平成元年5月29日
ゼンリン住宅地図2000 株式会社ゼンリン出版 1999年11月
ゼンリン住宅地図岩手県盛岡市 2 株式会社ゼンリン出版 2019年10月
図説盛岡四百年下巻Ⅱ 明治・大正・昭和編 世相・かわら版・略年表 吉田義昭 及川和哉編著 郷土文化研究会出版 H4/3/10
風雪 青山三十年の足跡 喜多武志編著 昭和52年1月15日
もりおか物語(拾)-安倍館・前九年かいわい-盛岡の歴史を語る会企画 吉田六太郎編集 熊谷印刷出版部出版 昭和54年
図説盛岡四百年下巻Ⅰ明治・大正・昭和編 世相・生活文化 吉田義昭 及川和哉編著 郷土文化研究会出版 H3/7/10
いわて歴史探訪 岩手日報社出版部編集 岩手日報社出版 平成10年12月17日
二十五年記念誌盛岡市月が丘一丁目町内会 わが町のあゆみ 盛岡市月が丘一丁目町内会 平成8年2月
みたけ 開拓者の記録 観武原開拓農業協同組合
新千歳市史通史編上巻


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