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金丸原陸軍飛行場跡地 [├空港]

   2011年10月訪問 2020/12更新  


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撮影年月日1946/06/08(USA M159-A-5 32) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)


栃木県‎大田原市‎南金丸‎にあった「金丸原陸軍飛行場」。

ここは元々人家がなく、数条の草刈りや作場の道が通るだけの未墾の土地でした。

この飛行場には上図の通り2本の滑走路がありました。

西側が主滑走路、東側が副滑走路。

■防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部 の中に当飛行場の図がありました。

先頭のグーグルマップは、滑走路は上に貼った1946年の航空写真から、飛行場敷地は資料の図から作図しました。

なかなか線が拾えなかったんですが、おおよそこんな感じと思います。

また、同資料に飛行場情報がありました。

以下引用させて頂きます。

金丸原陸軍飛行場 
栃木県那須郡金田村 
36°52′0N 140°4′5E

面積 北西-南東(東側2,200米、西側1,150米) 北東-南西870米
地面の状況 平坦且堅硬なる芝地なるも所々に禿地あり禿地は降雨後軟弱と為り冬季畫間は霜解の為泥濘と為る
目標 太田原町、黒羽街道、東野鉄道
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 場の南西側寄りに深き窪地あり、夜間は特に注意を要す
格納設備 格納庫(40x30米)2、小格納庫3棟
照明設備 なし
通信設備 金丸原郵便局(電信及電話取扱)北東側の金丸原駅前に在り
観測設備 なし
給油設備 油庫2あり
修理設備 なし
宿泊設備 太田原町(西方5粁)に旅館5、黒羽町(東方4粁)に旅館4あり
地方風 6-9月間は南風、10,11月は北東風なり 12月-翌年4月間は北西風強吹す
地方特殊の気象 降雨は6-7月頃多し、雷雨は晩春、夏及初秋に多く8,9月の午後の雷雨は飛行に支障を来すことあり
交通関係 金丸原駅(東野鉄道)北東側に在り太田原駅前(西方5粁)より「バス」の便あるも信頼し得ず
其の他 本場は宇都宮陸軍飛行学校分教場なり
(昭和17年12月調)
 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  金丸原
位 置   栃木県那須郡金田村
規 模   要図(2000x550)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一五〇名分
 格納施設 飛行機庫
摘 要   施設軍有

戦争末期になり、ここも空襲に晒されるようになると、飛行機はガソリンを抜いて近くの林に隠し、

敵の目をそらすために両滑走路の間に約20の掩体壕を作り、

空中からチラチラ見える程度にべニア板の飛行機を並べました。

艦載機がよくこれを攻撃したのだそうです。

D20_0042.jpg

青マーカー地点。

ここから福祉大の白い建物に向かって主滑走路が伸びていたはずです。

D20_0036.jpg

赤マーカー地点。

この道に沿って右側に副滑走路が伸びていたはずです。

D20_0033.jpg

黄マーカー地点。

金丸小学校校門脇にある碑。震災のせいでしょうか。巨大な石版が後方に倒れていました。

某サイトに碑文が出ていましたのでコピペさせて頂きました m(_ _)m

金丸原 陸軍飛行場之跡 かつて、この地は広漠たる那須野ヶ原の中にあり、金丸原台地と呼ばれ、旧陸軍第十四師団の特設演習場の一部であった。この地と大空とのかかわりは、本邦最初の飛行技術者として知られる徳川大尉が、旧所沢陸軍飛行場より無着陸飛行以来浅からぬものがある。即ち昭和九年航空機の国産化が図られるとともに、旧所沢陸軍飛行学校不時着陸場となり、翌十年には満州事変後の飛行機操縦者の育成強化を目指し、旧所沢陸軍飛行学校金丸原分教場に指定された。更に、熊谷及び宇都宮の旧陸軍飛行学校分教場となり、総面積三〇〇ヘクタール滑走路二面を駆使して下士官学生第六十六期から第九十期及び特別操縦見習士官第一期より第三期学生等、数千名に上る精鋭なる飛行士を輩出させた。また、昭和十九年に到っては実戦上の重要な基地の一環として多くの特攻機を離陸させている。おもうに、飛行学校として十有余年、その間にこの地から巣立った若者の大半が青春の総てを大空に捧げて還らず、また、機体整備に夜を日に継いで尽力した軍人軍属、近隣から動員された学徒及び婦女子の辛酸は筆舌に尽くし難いものがあった。終戦、昭和二十年を機に時は流れ世は移り、あれほどに激烈過酷を窮めた出来事も人々の脳裏から薄らぎつつある。けれども幸いに今日まで生を得、なお社会の成員として世界に秀でた祖国の繁栄を目の当りに見るとき、この地で学び飛び立ったまま再び還ることのなかった戦友たち、青春の総てを限りない犠牲の中に費した者たちを忘れることは出来ない。ゆえに、この金丸原飛行場に払われた尊い犠牲を記憶にとどめて長く継承し、世界の平和と人類の福祉の永遠なることを念願して、ここに記念碑を建立するものである。昭和五十五年九月二十日 金丸飛行会 建立 特操金丸会 撰文 下鳥喜工

 

D20_0034.jpg

同じく黄マーカー地点。

当時はこの周辺に格納庫、ピット、諸建物が並び、飛行場の中枢でした。

実は滑走路の南側の延長線上に「那須野ケ原CC」があり、

複数のサイトでここに有蓋掩体壕が現存していることが出ています。

オイラもゴルフ場にお邪魔して、フロントで見学を申し込んでみたのですが、非常ににこやかな男性スタッフの方から、

「そういうものは当ゴルフ場にはございません」と言われてしまい、見ることができませんでした。とほほ。


      栃木県・金丸原陸軍飛行場跡地      

金丸原陸軍飛行場 データ

設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:栃木県那須郡金田村(現・大田原市‎南金丸‎)
座 標:N36°51′54″E140°04′30″
標 高:203m
面 積:300ha
滑走路:(主)1,100mx100m(15/33) , (副)1,000mx100m(14/32)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1909年 那須野が原の地で陸軍特別大演習実施
1912年 宇都宮駐屯の陸軍第14師団の演習場となる
1934年 演習場用地の一部に所沢陸軍飛行場の不時着場、分教場が整備される
1935年 所沢陸軍飛行学校 金丸原分教場になる
1937年 05月 熊谷陸軍飛行学校 金丸原分教場になる
1939年 滑走路1,900mと1,300m(幅100m)を建設。滑走路建設のため黒羽道を飛行場北端に移動
1945年 7,8月 空襲による大被害

関連サイト: 
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この記事の資料:
現地の碑文
「那須の太平洋戦争」
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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