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八日市陸軍(沖野ヶ原)飛行場跡地 [├空港]

    2011年10月、2018年5月、2023年10月訪問 2023/10更新  


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1/25000「八日市」大正9年測図「今昔マップ on the web」から作成 
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(昭和7年7月撮影)高度500米 方位ESE 距離1,500米
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1934年(昭和9年)10月調査資料添付地図 Translation No. 31, 12 March 1945, Airways data: Kinki Chiho (A). Report No. 3-d(29), USSBS Index Section 6 (国立国会図書館ウェブサイトから転載。上2枚とも)

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撮影年月日 1946/07/16(昭21)(USA M197-A-3No1 53)   
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

滋賀県‎東近江市にあった「八日市陸軍飛行場」。

■防衛研究所資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」に要図があり、

先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました

同資料内に飛行場情報がありましたので、以下引用させて頂きます。

■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中でも

「八日市陸軍飛行場 滋賀県神崎郡御園村 35°5′6N 136°13′0E」として、以下全く同じ記載がありました。

面積 南北1,450米、東西1,000米 総面積158萬平方米
地面の状況 芝地にして平坦且堅硬なり、1,2月は積雪120乃至200糎に達す 格納庫前面に長さ470米、幅40米の舗装せる整備場あり
目標 八日市町、愛知川
障碍物 なし
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫(間口25米、奥行60米)3棟、其の他5棟あり
照明設備 障碍物標示燈あり
通信設備 場内に陸軍航空無線通信所あり
観測設備 場内に陸軍気象観測所あり 毎日航空気象を観測す
給油設備 場内にて補給可能
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 夏季は南風、其の他は概ね北風
地方特殊の気象 晩秋より冬季に亘る間は天候屢急變し降雨又は降雪を見ることあり
交通関係 八日市町より電車及「バス」の便あり
其の他 本場は飛行第104教育戦隊、第8航空教育隊及陸軍航空廠八日市支廠にて共用す
(昭和18年4月調) 

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  八日市
位 置   滋賀県神崎郡御園村
規 模   要図(東西1100 南北1400)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一一〇〇名分
 格納施設 飛行機庫 七棟
      三〇〇〇平方米二棟
      二六〇〇平方米一棟
      一六〇〇平方米三棟
摘 要   施設軍有

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赤マーカー地点。

飛行場敷地内は現在こんな感じ。

住宅地がかなりの割合を占めています。

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黄マーカー地点。

玉園中学前に設置されている碑。

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碑の裏側。

沿革(説明部分のみ) 昭和十二年十二月十日第八飛行団隷下で 旧満州國牡丹江省海浪 飛行第十六連隊より 部隊編成に依り(第八飛行教育隊)が設立され 昭和十二年徴収兵を第一期とし 飛行兵としての特業 基礎教育が実施され 昭和十六年二月九日改正に依り 中部第九十八部隊(第八航空教育隊)として 滋賀県神崎郡御園村に移駐 昭和二十年八月十五日 終戰に至る迄 此の地に於いて幾萬の兵士が 航空機の技術を修得し護國の念に燃え 南溟又北満の戰場に飛び立って行った土地である。(以下芳名録省略)

滋賀県平和祈念館で頂いたパンフレットに従って掩体壕を見学させて頂きました。

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Pマーカー地点。

ここは頂いたパンフレットに駐車場として記載されていました。

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青マーカー地点。

まずは駐車場から遠い方の掩体壕。

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飛行機「掩体壕」(全文)
 この掩体壕は、大戦中の昭和19年(1944)米軍による日本本土空襲が激しくなることが必至と見られるにいたり、軍部では、飛行機を空襲から守るために、各航空基地の周辺に急いで作られたものです。この掩体壕は小型機用のもので、八日市市には現在この他もう一ヶ所残っており、八日市飛行場の語りべとして貴重な存在です。

注釈
 掩体壕は至近弾の破片は防ぎましたが、爆弾の直撃には耐えられませんでした。一方上空から隠蔽(隠す)する目的もあったので壕の上部は土で覆い、草木が植えられてありました。飛行場からこの掩体壕までは、応急の道路が作られましたが、
地盤が軟弱な箇所ではタイヤがめり込んで大変でした。それで軟弱なところへは栗石を大量に投入したり丸太を敷き詰めて
急場を凌ぎました。また、警戒警報が発令されると、総出で飛行機を掩体壕まで押していき、警報が解除されると再び飛行機を飛行場へ戻す作業が毎日繰り返されたのでした。現在、大阪の八尾飛行場の付近にもこれとほぼ同規格の掩体壕が残されています。八日市市 生活環境課

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紫マーカー地点。

こちらは駐車場から近い方の掩体壕。

説明板(全文) 飛行機 掩体壕 この掩体壕は、大戦中の昭和19年(1944年)米軍による日本本土空襲が激しくなることが必至と見られるにいたり、軍部では飛行機を空襲から守るために、各航空基地の周辺に急いで作られたものです。この掩体壕は小型機用のもので、八日市市には現在この他もう1個所残っており、八日市飛行場の語り部として貴重な存在です。
注釈 掩体壕は至近弾の破片は防ぎましたが、爆弾の直撃には耐えられませんでした。一方、上空から隠蔽(隠す)する目的もあったので壕の上部は土で覆い、草木が植えられてありました。応急の道路が作られましたが、地盤が軟弱な箇所ではタイヤがめり込んで大変でした。それで軟弱な所へは栗石を大量に投入したり丸太を敷き詰めて急場を凌ぎました。また警戒警報が発令されると、総出で飛行機を掩体壕まで押していき、警報が解除されると再び飛行機を飛行場へ戻す作業が毎日繰り返されたのでした。現在、大阪の八尾飛行場の付近にもこれとほぼ同規格の掩体壕が残されています。八日市市

両方の説明版はほぼ同一のものですね。

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赤マーカー地点。

八日市飛行場の沿革(全文)
 大正三年十月二十二日、当時、フランスで『万国飛行免状』を取得した愛知郡泰荘町出身の荻田常三郎氏が、フランスからモラーヌ・ソルニエーと呼ぶ飛行機を持ち帰り郷土訪問飛行を敢行、故郷に錦を飾ったその時、飛行場として使用したのが古くから大凧揚げの場として知られていた八日市の冲之原であった。
 飛行に大成功した後の祝賀会で、荻田氏は『冲之原は飛行場として、地質も気象条件も最適である』と言明し、将来は飛行士を養成する『飛行学校の設立を期している』旨の決意を述べた。
 これを契機に、当時の横畑耕夫八日市町長を委員長とし、篤志家・熊木九兵衛氏の協力の下に、町会議員全員で『八日市飛行場設立委員会』を組織、直ちに八日市飛行場実現に向けての行動を始めた。
 その後、名称を『滋賀県八日市飛行場期成同盟会』と改め、総事業費三万円の大半を篤志に求めて、大正四年四月十九日、冲之原において地鎮祭を挙行、八日市飛行場造成工事に着手した。今から七十八年前のことである。
 同年六月末には早くも四万三千坪(約十四ヘクタール)の飛行場が完成し、これがわが国民間飛行場の草分けとなった。同時にこの位置(修交館・後に公会堂となった)に『翦風飛行学校』が創設された。
 八日市飛行場が完成すると、チャールス・ナイルス、アート・スミス、フランク・チャンピオン等、著名な外国人飛行家が八日市を訪れ、飛行技術の妙技を披露した。また大正五年には、中華民国の革命家、孫文の依頼で中国の青年義勇飛行士の養成訓練が行われ、八日市飛行場は一躍国際的な名声を博するに至った。さらに大正十年には、飛行場を拡張、陸軍飛行場として寄付採納され、岐阜県各務原の陸軍航空第三大隊が移駐し同隊は間もなく飛行第三聯隊に昇格した。その後も飛行場は拡張を重ね、昭和二十年には、その規模も実に五十万坪(百七十ヘクタール)兵員三千名を超える大航空基地となったが、同年八月、終戦によって総てが潰え去った。
 然しながら、この飛行場建設に際しては、当時の小学生が一人二十銭、県立中学生が五十銭、大人が一円(当時の一円は、今の三千百二十九円程度・滋賀銀行調べ・米相場から)と文字通り当時の八日市町民を挙げての浄財の篤志と、募金活動の先頭にたった先覚者たちの進取性と実行力に、限りない敬意と感謝の念を禁じ得ない。そしてその偉業が今、ふるさと八日市を、わが国の『民間飛行場発祥の地』とした誇り高い歴史を永遠に伝えると共に、飛行場建設に際して献身的な努力と、多額の浄財を寄せた先人の遺徳を偲び、謹んでこの記念碑を建立する。
 平成四年八月吉日 八日市市長 望田宇三郎* 八日市市観光協会長 久保謹吾


八日市市長のお名前、「宇」は本当はうかんむりの下は于じゃなくて、一+丁(IMEパッドで出ない)。

民間飛行場から始まったのですね。


      滋賀県・八日市陸軍飛行場跡地      

八日市陸軍飛行場 データ

設置管理者:旧陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:滋賀県神崎郡御園村(現・東近江市‎尻無町‎)
座 標:35°5′6N 136°13′0E
標 高:139m
面 積:158ha
着陸帯:1,450m×1,000m
(標高はグーグルアースから)

沿革
1914年09月 荻田常三郎氏、八日市町の沖野ヶ原を整地した臨時の飛行場にて「飛行会」を開催
       (現地説明板には同年10月22日とあり)
1915年04月 19日 地鎮祭。八日市町、飛行場の造成に着手
     06月 「沖野ヶ原飛行場」完成。14ha。翦風飛行学校創設。利用がほとんどなく、軍を誘致することに
1916年     中国の青年義勇飛行士の養成訓練
1921年     拡張、陸軍飛行場として寄付採納
1922年01月  陸軍の「八日市飛行場」に改称、航空第3大隊の開隊式が行われる
       その後部隊の変遷、敷地の拡張が続く
1945年07月 米軍機との戦闘が行われる
     08月 終戦、接収後一部は地主に返還、 外地からの引揚者に農地として払い下げられる
1992年08月  民間飛行場発祥地碑建立


関連サイト:
八日市飛行場      
ブログ内関連記事     

この記事の資料:
現地の碑文、説明版
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「陸軍航空基地資料(本州、九州)昭19.10 水路部」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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