呑んだ日 [■ブログ]
しばらくの間 月、水、金アップに戻します。
話は変わって、焼鳥屋・とりの写真を。というのは冗談で、
先日みんなで呑みに行った時の写真をずらずらと。
アボカドサラダ。 なんだか恐ろしげになってしまった。
ヒミツのメニュー。
メニューには「シェフの本日お勧めの一品。」とだけ書かれていて、「何が出てくるんだろうね~」とみんなで楽しみに注文したら、
「…あの~、ヒミツのメニューなんですが、ツマミ系か揚げ物系しか出来ないんですが、ドチラがいいでしょう?」
と尋ねられたのでした。 _| ̄|○ il||li
激辛担担麺。オイラはムリっす。
おわり~。
嘉手納(旧中、屋良)飛行場 [├空港]
2012年1月訪問 2024/4更新
撮影年月日1945/01/03(USAokinawa 5M3B 12)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6■
(国立国会図書館ウェブサイトから転載。2枚とも)
国立国会図書館デジタルコレクション/
SkyVector.com
沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にある「嘉手納飛行場」。
極東における米軍の最重要基地です。
沖縄には4レターコードのつく米軍の飛行場が当嘉手納以外にも3つ(伊江島補助・読谷補助・普天間)あるのですが、
嘉手納飛行場には3レターコードもついています。
この嘉手納飛行場、 元々は旧日本陸軍の中(屋良)飛行場として建設され、占領した米軍により拡張され今日に至ります。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」の中に、
「沖縄中飛行場構成(進捗状況)計画要図」があり、誘導路と掩体壕まで描かれていました。
先頭のグーグルマップは、この「要図」から作図しました。
同資料に記されている情報を以下引用させていただきます。
判決
沖縄中飛行場は単一飛行場にしては完成し航空作戦任務達成に
支障なし然れ共本飛行場は沖縄北飛行場と相提携し靭強なる
航空基地として有機的機能を発揮さしむる為主恒風に対し
滑走路を新設し之等を有機的に連結せしむるを要す
日本軍の中飛行場であった当時、現在と同じく北東~南西方向の滑走路が設けられていた訳ですが、
「要図」にはこの滑走路の東側に、破線で南北方向の滑走路と誘導路が描かれています。
これについて直接の言及は無いんですが、この情報に出てくる、
「主恒風に対し滑走路を新設し之等を有機的に連結せしむるを要す」
がこれに当るのではないかと思います。
「要図」でも、建設済みの誘導路、掩体壕に被さるようにして新しい滑走路が計画されています。
こんな計画があったんですね。
赤マーカー地点。
基地北側にある「道の駅かでな」の4F展望場から撮りました。
以下、同展望場から。
第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (15コマ目)にこんな一節がありました。
(4)嘉手納飛行場(陸軍沖縄中飛行場・屋良飛行場)
沖縄中飛行場は沖縄北飛行場(読谷飛行場)の代替飛行場として昭和19年(1944年)5月初旬に着工、同年9月末に一応の完成をみた。用地は北谷村、屋良、嘉手納、東、野里、野国、国直にまたがる約47万3,170平方㍍に及ぶ広大な耕作地を接収した。 工事は徴用労務者を動員して急速に進められた。
飛行場用地の接収は、嘉手納の場合、他より遅れて昭和19年(1944年)4月ごろから着手された。緊迫した戦局下
での急速設定であったため、用地接収に当たって村当局や関係地主への事情説明や意思確認もないままに強制的に接収されたようである。ただし、飛行場用地一帯は耕作地で作物が植えつけられていたため、軍は係官を村当局に派遣して、予定地内の作物の撤去を口頭で命令してきた。
5月7日、嘉手納飛行場派遣隊は同村屋良国民学校で起工式を挙行した。軍司令部の飛行場設定計画では、沖縄北飛行場は大型用として、他の中・南・東は小型用の飛行場で、滑走路は1,500㍍×200㍍の短冊型一本で、工期は第1期は5月中、第2期が6~7月中となっていた。第1期で50㍍幅の滑走路を設営し、第2期で200㍍にして拡幅して完成させる計画であった。
突貫工事は昼夜兼行で進められ、9月末には読谷、嘉手納の両飛行場ともほぼ完成を見るにいたった。
嘉手納飛行場(沖縄中飛行場)は、はじめ隣接する読谷飛行場(沖縄北飛行場)の補助小型飛行場として着工されたが、中途から読谷飛行場の大型機を秘匿する駐機場という役割を果たすことになった。
昭和20年(1945年)4月1日、北谷海岸と読谷山海岸に上陸した米軍は午前中までに嘉手納飛行場と読谷飛行場を占領し、ただちに滑走路の修復と拡張工事を開始して使用できる状態にした。日本軍は10日ほど後に読谷・嘉手納飛行場の奪回を企図し総攻撃を決行したが、作戦は失敗した。
また同7コマ目には、1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、 こうありました。
「中(嘉手納)飛行場は読谷飛行場空襲のすぐ後に空襲された。空襲は瞬時しかも猛烈を極め、兵舎は炎上、滑走路には無数の弾痕や飛散物が残され、また民間の家屋の全焼全壊も129戸に及んだ。」
沖縄県・嘉手納(中、屋良)飛行場
嘉手納基地はアラスカからフィリピンまでの空域をカバーするとされており、米国本土や他の在日米軍基地から年間延べ18,000機が飛来し、そのうち40~50機の外来機は常駐化しているとされています(道の駅かでな学習展示室より)。スペースシャトルの緊急着陸地としても指定されていました
・中、屋良飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
主滑走路:1,400mx90m?(05/23)
副滑走路:1,260mx50m?(18/36)・計画
(滑走路長、方位はグーグルアースから)
・嘉手納飛行場 データ
設置管理者:米空軍
3レター:DNA
4レター:RODN
種 別:陸上飛行場
所在地:沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町
座 標:N26°21′06″E127°46′10″
標 高:44m
面 積:1,997ha
滑走路:05L/23R 3,688m×91m
05R/23L 3,688m×61m
沿革
1944年 旧日本陸軍航空本部が北飛行場(現在の読谷補助飛行場)に引き続き建設を開始
十・十空襲による甚大な被害
1945年 3月 旧日本陸軍中(屋良)飛行場完成。読谷飛行場の補助飛行場とされる。 1,500mx1本
同月30日 32軍破壊命令
4月1日 本島に上陸した米軍に直ちに占領され、本土攻略のための前進基地として整備拡張が行われる
6月 2,250mの嘉手納飛行場完成。B-26やB-29等大型爆撃機の主力基地、米軍航空基地の中枢となる
9月07日 日本軍、嘉手納で無条件降伏文書に調印
1947年 3月 この頃基地が整備拡張される
1954年 2月 嘉手納飛行場を使用して日本航空が東京-沖縄線(週2往復)開業。後に那覇空港に移管
1955年 9月 嘉手納村で米兵が幼女を暴行、殺害
1962年 12月 米空軍輸送機、嘉手納村屋良に墜落。日本人2人死亡、8人重軽傷、住宅3棟全焼
1965年 7月 嘉手納に飛来していたB52、南ベトナムを爆撃
1966年 5月 KC-135空中給油機がコザ市と嘉手納村との境界に墜落、村民1人死亡
1967年 5月 3,689mの滑走路2本完成
5~11月 屋良区の井戸が基地から漏れた排油で汚染
1968年 2月 嘉手納村議会、基地撤去要求決議を採択
台風避難を理由に飛来したB52部隊が常駐
11月 B-52爆撃機墜落爆発。村民の重軽傷者16人、校舎・住宅等に被害。同機の撤去運動が一層高まる
1970年 B-52をグアムのアンダーセン空軍基地へ移管
1972年 5月 KC-135空中給油機、コザ市と嘉手納村との境界に墜落。村民1人死亡
7月 基地配備の超音速高度戦略偵察機SR71、1機が着陸に失敗し炎上
1976年 1月 嘉手納村、町制に移行
5月 基地から住民地域にジェット燃料が流出
1981年 3月 F-15イーグル戦闘機の配備完了
1982年 2月 基地周辺6市町村住民が国を提訴
11月 基地から屋良小学校付近の排水溝にディーゼル燃料流出
1987年 5月 基地所属F-15戦闘機1機が沖縄本島東海上に墜落
1987年 12月 ソ連のTu-16バジャー偵察機が嘉手納基地上空を飛行。スクランブルした航空自衛隊機が警告射撃。
1994年 4月 弾薬庫に基地所属のF-15戦闘機が墜落し爆発
1995年 10月 基地所属のF-15戦闘機、喜屋武岬沖で墜落
1996年 10月 弾薬庫でミサイルがトレーラーから落下
1999年 6月 ハリアー1機が離陸に失敗し墜落、炎上
1999年 12月 遮音壁(長さ2.3km 高さ5m)完成
2002年 8月 基地所属F-15戦闘機が基地南方海上に墜落
2004年 12月 弾薬庫地区から赤い煙が嘉手納高校に流れ込み充満
2006年 3月 F-15戦闘機から訓練用照明弾1個が住民居住地に落下
2007年 2月 F-22ラプター12機がラングレー空軍基地から派遣(5月10日に撤収)。(初の国外配備)
2007年 5月 大量のジェット燃料流出
関連サイト:
第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」
HondaJet・3 エンジン開発 [├雑談]
HondaJet・1 年表■
HondaJet・2 MH02■
HondaJet・4 OTWEM■
HondaJet・5 翼型■
HondaJet・6 機体の特徴など■
ホンダのジェットエンジン開発は、航空機研究プロジェクトと同じく1986年から始まりました。
航空機研究プロジェクトの方が現在のHondaJet開発に繋がっているのですが、
このプロジェクトはここに至るまでに何度か存亡の危機に瀕しており、
HondaJetが事業化されないどころか、
この機体が作られずにプロジェクトが終了してしまった可能性も大いにありました。
一方ジェットエンジン開発に関してホンダは、「エンジンは我々の手の中にある」という強い自負があり、
揺らぐことなく開発が続けられたようです。
ホンダで実際にジェットエンジン開発に携わっておられる方のインタビュー記事をネット上で拝見したのですが、
大学で航空宇宙工学を専攻したものの、
「大学で勉強する航空用のガスタービンなんて実用機に比べれば何もやっていないのとほとんど同レベル。何もかも一から勉強しました」
なのだそうです。
「HondaJet・1 年表」の中でも書きましたが、
ホンダのジェットエンジン開発は、二輪、四輪のターボ開発研究者を中心に始まりました。
元々航空機を勉強していたり、他メーカーで実務経験のあった人材はほとんどおらず、
現在でも、航空機エンジンメーカー出身の中途人材は数人しかいないのだそうです。
要するに航空機用ジェットエンジンに関しては素人同然の開発チームだったわけですが、
そんな彼らがプロジェクト発足当初に何を行ったかというと、
いきなりセラミックタービン、アドバンスドターボプロップ、アフトファンに挑戦しています。
これらをご存じの方からすると、
「なっ、なんだって~!?(@Д@)」
と大層驚かれるのではないでしょうか。
■セラミックタービン
タービンブレードはエンジンの中で最も高温に曝される過酷な部品で、
これが燃費、出力面でネックになってしまっていることは以前の記事■ に書きました。
より耐熱性の高い合金を開発し、それに複雑な細工を施すことで耐熱温度を上げることが出来た分だけ
エンジンの性能を上げることが出来る。というのが現状で、
少しでも耐熱性の高いタービンブレードを開発しようと、各メーカー、研究所がしのぎを削っているのですが、
タービンブレードが溶けるのを防ぐために圧縮空気の実に7~8割を燃焼ガスの温度を下げるために使っています。
本来の燃焼エネルギーを取り出すにはまだまだ至っていないわけで、
かなりマシになってはいるものの、これは1930年代から変わっていません。
ならばいっそのこと耐熱性の極めて高い別の素材でタービンを作れないだろうか。
というのがセラミックタービンの発想です。
自動車用ターボには既にセラミックタービンが使用されており、
「航空用セラミックタービンエンジンの研究」という2002年に発表された論文■ によれば、
「セ ラミックガスタービンエンジンの研究開発は,欧米で実施されており,日本においても昭和63年度に通商産業省工業技術院のプロジェクトにおいて実施されて いる.しかし,これらはいずれも,対象が自動車用および産業用のガスタービンエンジンについてであり,航空用エンジンのタービンにセラミックを使用した研究は現在報告されていない.」
と記されていました。
金属と比較して耐熱性が極めて高いセラミックなのですが、
この材質でタービンを作ろうとした場合、最大の弱点は脆さです。
航空機用のタービンには運転中に極めて大きな負荷と振動が加わるため、注意しないと一瞬のうちに破損してしまいます。
タービンブレードをセラミックでコーティングすることはあっても、タービンそのものをセラミック化するという研究は、
少なくとも2002年の時点で、公表されていませんでした。
ホンダはいきなりそんなところから研究を始めた訳です。
結果的に、製作したセラミックタービンは割れ易く、推力も不足してしまい、うまくいきませんでした。
■ATPエンジン
次に彼らはタービンブレードを従来のメタルに戻し、アドバンスドターボプロップ(ATP)に挑戦しました。
アドバンスドターボプロップはターボファンの一種で、
「アンダクテッドファン」、「超高バイパスエンジン」とも呼ばれています。
元々ターボファンは、大きなファンで大量の空気をゆっくり噴射することで燃費を大幅に向上させたものですが、
それを更に進め、 ターボファンエンジンのファンダクトを取り除き、ファンを大径化したものです。
単にファンを大きくしただけだとファン先端の周回速度がすぐに音速を超えてしまうため、
後退角をつけたり、二重反転にして直径を小さく抑える等、工夫が必要です。
このエンジンは燃費の大幅向上を狙ってNASA、GE、アリソンで1980年代に開発が進められたのですが、
騒音と振動が激しく、現在開発は下火になっています。
同様にホンダでも、その後の原油価格高騰の落ち着き、大きな騒音、高い危険性により開発を中止しました。
激しい騒音と振動が解消できなくては旅客機に使用することはできず、
現在アドバンスドターボプロップで実用化したのは旧ソ連の輸送機等ごく一部のみとなっています。
■アフトファンエンジン
通常ターボファンエンジンのファンは一番前で回っている訳ですが、
その駆動力はエンジンの一番後ろから持って来ています。
高温高圧の燃焼ガスの膨張をタービンで回転に変換し、この回転をシャフト(軸)を介してエンジンの先頭に持って行き、
それでファンを回すわけです。
ところで回転させなければならないのはファンだけではありません。コンプレッサーもそうです。
ファンとコンプレッサーには、それぞれ最適な回転数というものがあるため、
タービンを二段にして、高圧タービンでコンプレッサーを、低圧タービンでファンを、
と分けて回す方式がとられることが多いです。
この場合、効率は高まるのですが、二重のシャフトが必要になるわけで、
それだけ複雑になり、重量面でもマイナスです(中には三軸式のものもある)。
前フリが長くなりましたが、次にホンダが挑戦したアフトファンの場合、
ファンがエンジンの先頭ではなく、なんとタービンのすぐ後ろにあります。
長いシャフトを多軸構造にすることもなく、簡単で軽くできそうなのですが、
この方式ではファンの内周は高温の排気に、そして外周は低温の外気に曝されることになってしまいます。
ホンダで行った実験では、テスト中にエンジンローターが破裂してしまったのだそうです。
一般にアフトファンエンジンの開発と実機への搭載は1950年代に試みられたものの、
すぐに現在の"フロントファン"方式が主流となりました。
セラミックタービン、アドバンスドターボプロップ、アフトファン。
いずれも非常に理想的なアイディアではあるのですが、ホンダがこれらに挑戦した当時は、
名だたる機関が挑戦したものの、技術的に困難で跳ね返されてしまったか、研究途上にある最先端の分野でした。
セラミックタービンに至っては、当時論文も出ていません。
ホンダのエンジン開発陣がこうした事情を知らないはずはなく、
実務経験者もほとんどいないチームで航空機用ジェットエンジンの開発を進めるに当たり、
わざわざ最難関のところから手を付けようとする発想がオイラには驚異的としか言えません。
普通の会社なら、理想に走る若手がこんな企画書を提出→上司に怒られ没END。というのがオチな気がするのですが。
しかも、その分野の権威的なグループがモノにできなかったものに挑戦して、やっぱり上手くいかない。
ということを3回も繰り返しています。
(どうもよく分からない…)と思っていたのですが、
ツインリンクのヒコーキ関係を展示してある一角に HondaJet の説明版があって、最後がこう結ばれています。
「他社と同じような製品ではHondaが参入する意味がない。どのような分野でもHondaは常にそう考えます。」
この辺が本田技研工業の企業哲学ということなのでしょうか。
ジェットエンジンを作るだけでも十分凄いことだと思うのですが、
ただ無難に形にするだけでは自分たちのポリシーが許さない。
それが彼らの絶対に譲れない信念だとすると、
誰もモノにできていないところから手を付けようとするのもなんとなく理解できるような気がします。
こうした先進的な取り組みを経てから5年後、
彼らはやっと、初めて普通のターボファンエンジン開発に手を付けたのでした。
■HFX-01エンジン
研究用ターボファンエンジンHFX-01 主要緒元
形式:2軸式ターボファン 離陸能力:820kgf,25℃まで 燃費率(離陸時):0.45kg/hr/kgf
バイパス比:4.3 乾燥重量:192kg 最大直径(補機を除く):710mm 全長:1,180mm
やっと普通のターボファンに手を出し、そうして出来上がったのがこのHFX-01です。
開発開始から4年後の1995年、B737の胴体横に搭載し、延べ70時間を超える高空テストを実施しました。
HFX-01補器部分のアップ。
風車が付いてますが、どんな役割があるんでしょうか。
このHFX-01で初めて当初目標の出力、重量を達成できたのですが、燃費、推力は既存のエンジン並み。
「これではダメ」という評価だったのだそうです。
いきなり既存のターボファンと同程度のものを作れただけでも十分凄いことだと思うのですが、
これも「他社と同じような製品では~」という信念からするとやっぱり許せないのでしょう。
■HF118エンジン
その後、より強力なHFX20エンジンの開発を経て1999年、後にHondaJetプロトタイプに搭載されることになる
HF118ターボファンエンジンの開発に着手しました。
このエンジンから機体とエンジンの一体開発が始まりました。
目標は20%軽く、燃費向上10%、エミッションはこのクラスでは規定値は無いものの、
自主的に大型エンジンに適用される規定値の20%減と設定しました。
仕組みは他社と同じなんですが、今度は性能面で他社を凌駕するものを目指したわけですね。
ここから先、完全に受け売りなのですが、
軽量化対策として、ECUのセラミック化 、アルミ部品のカーボン材の採用、鋳造部品の板金化等を実施。
エミッションについては自動車のような触媒が使えないため、CVCCを応用したリッチリーン燃焼技術を開発し、
新解析システムにより、GE社も一目置くような高効率コンプレッサーの開発に成功したのだそうです。
すごいですね~ …って、書いてて全然分からん^^;
鳥の吸い込みテスト用のニワトリはすぐに1lb以上に育ってしまうため、1lbに調整するのが苦労したのだそうです。
開発から3年後の2002年にはこのHF118をサイテーションに搭載して飛行テストを行っています。
ターボファンエンジンHF118 主要諸元
エンジン形式 2軸式ターボファン ファン1段、圧縮機2段、タービン2段
離陸推力 757kgf(1,670 lbf) 離陸燃費 0.49kg/hr/kgf(0.49 lb/hr/lbf)
巡航推力 191kgf(420 lbf) 巡航燃費 0.75kg/hr/kgf(0.75 lb/hr/lbf)
乾燥重量 178kg(392 lb) バイパス比 2.9
ファン直径 441mm(17.4inch) 全長 1,384mm(54.5inch)
この「HF118」は、小型軽量、低燃費、低エミッションが特徴のエンジンです。
独自開発の数値流体計算ソフトを用い、エンジン内部の空気の流れを最適設計することにより、
小型で高性能なエンジンを実現。
またシンプルで高性能な燃焼器の開発により、排気エミッションについては、
将来小型機にも適用予想される規制値をクリア出来る低レベルに抑えることに成功しました。
自動車技術として確立してきた電子制御技術を発展させ、このクラス初の超小型エンジン一体型電子制御ユニットを開発。
これにより可変機構を用いないシンプルな構造をとりながらも、優れたエンジン操作性と高い信頼性を実現しました。
このHF118ターボファンエンジンは、150時間地上耐久試験、延べ110時間以上の飛行試験など、
航空用エンジンとして要求される各種試験をクリアしています。
そして2003年12月3日。
ついにこのHF118搭載のHondaJetが初飛行に成功しました。
1986年に埼玉県和光市の基礎研究センターで航空機と航空機用エンジンの研究開発を開始してから18年目、
ライト兄弟の人類初飛行からちょうど100年目のことでした。
また、自社製機体+自社製ジェットエンジンの組合せは民間では世界初のことでした。
オールホンダ。この辺もホンダらしいです。
■HF120エンジン
2004年には世界最大のジェットエンジンメーカーGEと50:50の業務提携を行い、
ホンダが独自開発したHF118をベースに共同で改良を加えたHF120エンジンを開発。
HF120エンジンをHondaJet専用にするのではなく、エンジン単体での世界販売にも乗り出すことになりました。
年表にもまとめましたが、その後ジェットエンジンとHondaJetの事業化に向けて幾つかの会社と施設作っています。
それぞれの会社の役割は公式サイト上で図にまとめられています■
HF120エンジンは燃費や信頼性、低騒音、低エミッション性能を向上させながら、
定格出力を2,095ポンドに高出力化した後継機であり、
GEがボーイング787向けGENxエンジンの開発で得られた最新技術も注入されています。
これにより新しいHF120は、プロトタイプに搭載されていたHF118と比較して重量が軽くなり、
出力が20%増となり、燃料効率も良くなっています。更にクラストップの長いメンテナンスインターバルを誇り、
タービンブレードに使用されている先進的な材質やコーティング技術などにより、
エンジンホットセクションの内部開封検査が必要となる最初のメジャーオーバーホールfは5,000時間不要としています。
HF120ターボファンエンジン 主要緒元
定格推力: 2,095ポンド(950kg)
バイパス比:2.9
最大直径 : 53.8cm
重量 : 182kg以下
■航空機用レシプロエンジン
ジェットエンジンとは別にホンダが2000年から開発をスタートしたプロペラ機用レシプロエンジン。
同じく「ホンダが開発した航空機用エンジン」ということでこちらで紹介させて頂きます。
水冷式の水平対向4気筒エンジンで、これまでに培ってきたパワーと低燃費、
クリーン性能を追求してきた技術を生かして開発したのだそうです。
(説 明版より)アメリカでは、スポーツやレジャーで飛行機をたのしむ人がたくさんいます。また大きな農場などでも、タネをまいたりするのに、小さなプロペラ飛 行機が使われます。そのエンジンの基本は、Hondaがこれまでつくってきたバイクやクルマ、船を走らせるのとおんなじ。そこで、陸や海で一生懸命パワー と低燃費、クリーン性能を追求してきた技術を空の上でも生かしてやろう。皆が喜ぶ、安くて性能のいいエンジンを作ろうと考え、2000年から開発をスター ト。いろんなテストをくりかえし、遂に完成にこぎつけました。
少し前にアップした記事■ の通り、日本のジェットエンジン開発には非常に厳しい歴史があるわけですが、
まったくの異業種から参入したホンダが単独でHF118ターボファンエンジンを作り、
これをベースにGEと50%ずつ出資した会社まで設立してしまいました。
このエンジンが HondaJetとスペクトラム社のS-40フリーダムに搭載され、世界中を飛び回ることになっています。
HF120の推力は950kgで、これは練習機T-1Bに搭載されたJ3エンジン(1,200~1,500kg)、
後継機T-4に搭載されたF3エンジン(1,670kg)よりも小さなエンジンなのですが、
出力、重量、騒音、燃費、排気基準といった基本性能に加え、このエンジンのユーザーは個人、一企業ですから、
信頼性、価格、整備性といった要素が厳しく求められ、これら全てが満たされていないと見向きもされません。
こうした厳しい分野で、世界のエンジンメーカーと十分闘えるものを作りました。
なんというかもう、ただただ凄いことだと思います。
小型で価格を抑えたビジネスジェットの台頭により、
信頼性と耐久性の高いジェットエンジンは今後需要は大きく伸びることが予想されています。
今後GEとホンダ双方の強みを活かしながら、小型ジェットエンジンのビジネスを切り拓いていくのだそうです。
泡瀬飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2021/5更新
撮影年月日1947/05/12(昭22)(USAokinawa M1000A 98)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県沖縄市にあった「泡瀬飛行場」。
米軍が上陸後、新規に建設した飛行場です。
現在は総合運動公園、病院、学校、住宅地になっています。
沖縄市の戦跡と基地■ (13コマ目)にこんな一節がありました。
「泡瀬飛行場...1945年5~7月にかけて米軍が建設。50年頃、海・空軍がそれぞれの通信施設を建設した。77年3月までに泡瀬半島先端の通信施設を除き、返還された。 」
赤マーカー地点。
沖縄県・泡瀬飛行場跡地
1945年8月12日、当基地を離陸したF4Uが台北の松山飛行場に攻撃を行いました■
泡瀬飛行場 データ設置管理者:米軍
空港種別:海軍機専用飛行場
所在地:沖縄県沖縄市比屋根3丁目
座 標:N26°18′52″E127°49′26″
標 高:5m
滑走路:1,520m
方 位:02/20
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年05月 1日。着工
07月 完成
戦後放棄。通信基地のみ残る
関連サイト:
ブログ内関連記事■
瑞慶覧飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
撮影年月日1970/05/12(昭45)(MOK701 C5 9)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県中頭郡北谷町の「瑞慶覧(ずけらん)飛行場」。
前記事の「ハンビー飛行場」のすぐ東隣にありました。
こちらも米軍が占領後すぐ新規に建設した飛行場です。
先頭のグーグルマップは、現在は閲覧不可の資料から作図しました。
航空写真と比較すると、北側の地割がはっきりしません。
現在滑走路は無くなり、米軍の「キャンプ・フォスター(キャンプ・瑞慶覧)」として使用されています。
赤マーカー地点。
ハンビータウン駐車場から。
この先に滑走路があったはず。
沖縄県・瑞慶覧飛行場跡地
瑞慶覧飛行場 データ設置管理者:米軍
種 別:小型機用飛行場
所在地:沖縄県中頭郡北谷町北前
座 標:N26°17′59″E127°45′53″
標 高:7m
滑走路:480m?
方 位:17/35
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1972年 キャンプ瑞慶覧とキャンプフォスターが統合
1975年 再編に伴い米陸軍から米海兵隊に移管
関連サイト:
ブログ内関連記事■
ハンビー飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
撮影年月日1973/02/13(昭48)(OK723Y C11 6)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県中頭郡北谷町にあった「ハンビー飛行場」。
米軍が上陸と共に全域を占領して、新規に建設した飛行場です。
普天間飛行場と連動しており、海兵隊のヘリコプターが離着陸訓練を実施していました。
1976年に全面返還され、現在では商業地、住宅地が密集しており、
ここに飛行場があったとはとても思えない程になっているのですが、
上に貼った1973年の航空写真をご覧の通りで、国道58号線の西側、当時は飛行場でした。
ネットで「ハンビー飛行場」を検索すると、「米軍海兵隊のヘリコプター部隊が主に使用していた」と出ているのですが、
"Hamby airfield"で検索すると、"Hamby U.S.Army Air Field" が多数ヒットします。
前者はこの飛行場を海兵隊のものだとしており、後者は陸軍のものだとしています。
どういうことなのでしょうか??
赤マーカー地点。
この辺りから画面奥に向かって滑走路だったはず。
青マーカー地点。
滑走路の中央部に建設された大規模店舗。
店名に飛行場の名残が。
ハンビータウンの駐車場から。
とても飛行場があったとは思えません。
沖縄県・ハンビー飛行場跡地
沖縄の基地問題について、「基地があるから沖縄は経済的にやっていけるのだ」という話があるわけですが、ネットで検索したら、抜粋ですがこんな話が。
「ハンビー飛行場があった当時、飛行場で雇用されていた地元の人間は十数名。返還後、ハンビータウン1つで1,150名超が勤務しており、周辺には200近い店舗がある。また、1972年のハンビー飛行場当時、北谷町に入っていた固定資産税、軍用地料等は約300万円。現在北谷町に入ってくる固定資産は、1億2,000万円。つまり、 基地あるがゆえに貧しさが続いており、基地がなくなれば新しい街を形成し、豊かな街を形成できる。」なのだそうです。
具体的で非常に分かりやすい話なのですが、この話には基地があった当時、米兵が地元に落とした金のことと、地主に払われた借地料との比較が含まれていません。基地があることによって莫大な収入があった人が大勢いたはずなのですが、現在は自力で稼がないといけなくなったわけです。何にしても基地に頼らずに地域経済が自立できるのは非常に良いことだと思います。
一方で、返還後の土地活用がうまくいっていない事例もあり、このハンビーは返還地利用の最も顕著な成功例とされているのだそうです。また、「米軍がいなくなったらますます増大する中国や周辺諸国に対する抑止はどうするのか」という問題もあります。
設置管理者:米軍
種 別:陸上飛行場
所在地:沖縄県中頭郡北谷町北前
座 標:N26°18′04″E127°45′34″
標 高:6m
滑走路:1,035m×30m
磁方位:02/20
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1945年04月 沖縄戦で米軍の上陸地点となり即時村全域が占領された
1976年12月 飛行場返還
関連サイト:
ブログ内関連記事■
普天間飛行場 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
撮影年月日1945/12/10(昭20)(USA M22 27)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
SkyVector.com
沖縄県宜野湾市宜野湾にある「普天間飛行場」。
ニュースでも時々登場する渦中の飛行場ですが、元々は村役場や宜野湾国民学校もあり、
南北には宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走る生活の中心地でした。
1945年の沖縄戦の際、宜野湾に侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、
重爆撃機専用の新規飛行場として建設を始めました。
同年10月以降に順次、収容所や避難先から住民の帰村が許されましたが、
米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされました。
宜野湾市史によれば、沖縄戦前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、人口は13,635人。
そのうち、普天間飛行場は14字にまたがる宜野湾の中心に建設されました。
その14字では8,880人が生活していたのだそうです。
赤マーカー地点。
「嘉数高台公園」から。
誘導路がすんごい波打ってます。
滑走路端はこんな感じ。さらにカメラを左に振ると…
こんな感じ。
沖縄県・普天間飛行場
普天間飛行場 データ
設置管理者:米軍
4レター:ROTM
種 別:米海兵隊飛行場
所在地:沖縄県宜野湾市宜野湾
座 標:N26°16′27″E127°45′23″
標 高:75m
面 積:480.5ha
滑走路:2,400mx114m→2,743m×46m
磁方位:06/24
(座標はグーグルアースから)
沿革
1945年04月 沖縄占領と同時に米軍接収。米陸軍工兵隊が本土決戦に備えて滑走路を建設
06月 15日。完成
1953年 2,400mの滑走路を2,700mに延長。ナイキ基地を建設
1960年05月 陸軍から海兵隊施設に移管、海兵隊航空基地として使用開始
1969年11月 第1海兵航空団の第36海兵航空群のホームベースとなる
1978年01月 ハンビー飛行場の返還に伴う格納庫・駐機場・駐車場などの代替施設を建設
1996年12月 SACOの最終報告により、同施設の全面返還が日米間で合意される
1997年12月 名護市長、海上ヘリポート受け入れを正式発表
1998年02月 大田沖縄県知事、海上ヘリポート受け入れ拒否を表明
1999年11月 稲嶺沖縄県知事、普天間飛行場の移設候補地を表明
2002年07月 「キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」がその移設先に
関連サイト:
宜野湾市/普天間飛行場の概要■
ブログ内関連記事■
沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト、浦添)飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
①撮影年月日1945/01/03(USAokinawa 5M3B 9)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成。2枚とも)
②撮影年月日1945/12/10(USA M22 41)■
沖縄県浦添市にあった「沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト、浦添)飛行場」。
現在は米海兵隊の「キャンプキンザー」になっています。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」の中に、
「沖縄南飛行場構成(進捗状況)計画要図」があり、
先頭のグーグルマップは、この「要図」から作図しました。
「要図」がおおまかなもののため、①の航空写真の地割を優先して作図しました。
おおよそこんな感じと思います。
「要図」には 滑走路部分について、「舗装既成」とあり、1350M 50m と書かれていました。
「要図」に書き加えられている情報を以下引用させていただきます。
判決
沖縄南飛行場は飛行場の骨幹を既成せるのみなるを以て
更に補備増強を行と目的に鑑み飛行場構成に関し検討し決
定するを要す
元々この飛行場は旧日本陸軍の小型特攻機用飛行場として建設されたのですが、
結局日本軍が使用することはありませんでした。
①の航空写真は1945年1月撮影、日本軍当時の飛行場の様子です。
沿革にも書きましたが、上陸した米軍は、1945年6月から僅か7週間で駐機場を含めて拡張整備しました。
②は1945年12月撮影なので、整備拡張開始から半年後の様子です。
滑走路両サイドの充実ぶりが凄いです。
また滑走路自体は、南側もそうですが、北側に大きく延長しましたね。
米軍はこの飛行場を、「マチナト飛行場」、「マチナト・ポイント飛行場」と呼んだのですが、
これは飛行場北側にある「牧港」からきているようです。
「牧港」は、「まきみなと」とも「まちなと」とも呼ばれています。
前記事の地図でも少し描きましたが、沖縄には日本軍が建設計画した飛行場がたくさんあり、
島民も多数動員されたのですが、それらは結局有効に活用されることなく放棄されてしまいました。
どうしてこんなことになってしまったのか、「沖縄戦研究Ⅱ」という資料にその経緯が書かれていました。
少し長くなってしまいますが内容をかいつまんで書いてみます。
資料によりますと、当「牧港飛行場」の工事が始まった時、既に伊江島、読谷、嘉手納の大規模飛行場建設が始まっており、
それに加えて陸軍は前記事の「石嶺飛行場」、「西原飛行場」を小型特攻機用の発進基地として新設建設計画に追加しており、
海軍も「与根飛行場」を計画していましたた。
沖縄本島の中南部地域で陸海軍合わせて7カ所の飛行場建設が同時並行して進められることになり、
未曽有の工事ラッシュとなりました。
当飛行場と前記事の西原飛行場はセットで建設されたようです。
工事に従事する労働力は、地元浦添村を中心とする中頭郡から労務者を徴用して充当しました。
当初の予定では両飛行場に各3,000人の基準で割り当てられたのですが、
既に各飛行場の作業に大勢の人が徴用された後であり、実際には1,000人から2,000人程度しか確保できませんでした。
給食は他の飛行場と同様に、主食は県から特別配給を受け、野菜や肉などの副食物は地元農家に供出が割り当てられました。
このため管区の牛、馬、豚はすべて部隊に登録され、農家各戸に割り当てて公定価格で供出させました。
飛行場は特攻用の小型機を発進させるのに必要な1,500mx200m規模の南北に伸びる単線滑走路が計画されたのですが、
緊急建設であるため工期を二期に分けて行い、第一期は5月中に1,500mx50m規模の中央滑走路を既成し、
第二期の6月~7月に幅員を200mまで拡幅して完成させる計画で、滑走路の中核部分は地元の国場組が請け負いました。
しかし、計画通りに機材や労働力が確保できず、工事は計画通りに進めることが困難でした。
そのため中頭郡内から動員された石工や徴用労務者の他に
婦人会、青年学校、国民学校、役場などの勤労奉仕隊も作業に参加しました。
近在者は道具と弁当を持参して通勤し、遠距離の者は寝具を持参して学校や民家に宿泊して1日11時間の重労働に従事しました。
食事は芋ご飯とみそ汁という粗末なもので戦時下の物資不足はいよいよ底をついた感があり、
軍直営の工事であるため作業は監督将校の監視の下で進められ、規則違反者には厳しい体罰が加えられました。
土木機器は、軍のトラック2台と嘉手納の製糖工場から供出されたトロッコの他には、
荷馬車と鍬、ツルハシ、スコップ、モッコなどの原始的な道具しかなく、
老幼男女の民間人と軍人が混在しての人海戦術で作業は進められました。
このため部隊は軍の規律保持と防諜対策に神経を尖らせ、将兵と地元住民の間にしばしば摩擦が生じ
対立的感情がただようこともあったようですが、一般に住民は「郷土防衛」という意気に燃えて積極的に軍に協力しました。
各家庭では兵役や徴用などで男手が引き抜かれた後に、さらに飛行場建設と陣地構築に労務徴用が課せられ、
さらに用地の接収、食糧供出、資材供出などが相次ぎ、各自の農業は夜間の星明りを利用して行う状態が続き、
このため戦時食糧の生産や貯蔵が滞り、疎開準備などに支障をきたすなど、文字通りの滅私奉公を強いられ、
結果として米艦隊が包囲する孤島に数十万人の一般住民が閉じ込められることになりました。
6月下旬、絶対国防圏の防壁をなすサイパン島が米軍の攻撃を受けました。
このサイパン戦の教訓から、来たるべき航空作戦を遂行するためには、
米軍の猛烈な砲爆撃に耐え得る飛行場の建設が不可欠であるとの判断が下されました。
第19航空地区司令部は先行している伊江島、読谷、嘉手納に緊急に補強工事を施すべく、
従来の分散並行方式を中止し、3飛行場に労力を集中させて一挙に航空要塞を完成させるべく方針を変更しました。
6月29日、地区司令官は「牧港飛行場」と「西原飛行場」の工事に従事している第3飛行中隊の設営隊に
伊江島、読谷、嘉手納への移動を命じました。このため浦添と西原の工事は一時中断となりました。
中核の3飛行場に労力と機材を集中して緊急工事が実施され、
既設の滑走路に誘導路、掩体壕、燃料集積所、弾薬集積所などが設営されました。
集中工事中の7月7日、焦点のサイパン島が陥落。
大本営は台湾、南西諸島の防備を緊急強化する必要に迫られ、さらに作戦方針を大転換し、
7月24日付けで航空決戦を中軸とする「捷号作戦計画」が決定されました。
これに基づき大本営は専門将校を沖縄に派遣して飛行場建設の状況を視察させたのですが、
全般的に工事は遅れがちで目下の戦局状況に対応できる状況ではありませんでした。
大本営は第32軍に工事の促進を督促しました。
このため軍司令部は6月下旬以降続々配備された第9,24,28,62の各師団等の地上戦闘部隊を
飛行場建設に投入するという非常手段を決行しました。
これら戦闘部隊はそれぞれの区処で地域住民を動員して突貫工事で陣地構築に取り組んでいる最中だったのですが、
軍司令部の命令により飛行場の整備に振り向けられたのでした。
軍は中止していた牧港飛行場に第62師団の主力を投入し、第3飛行中隊と共同して工事を再開させました。
9月22日から工事は再開され、不眠不休の突貫工事によって9月30日、牧港飛行場は一応の完成をみました。
しかし、飛行場建設の途中から戦局はいよいよ悪化し、
沖縄本島への航空部隊の配置も見込めないままに米軍上陸が必死の状況となりました。
牧港飛行場の緊急工事に配置されていた第62師団はそのまま浦添一帯に駐屯し、
地上作戦に向けた陣地を構築しなければならず、飛行場の強化工事は二義的となりました。
1945年4月1日、米軍は北谷海岸に上陸、その主力は首里城の沖縄守備本部を目指して南進して来ました。
日本軍の航空作戦は不発に終わり、牧港飛行場は使用されることなく放置され、
代わりに第62師団が地下陣地を構える浦添丘陵地帯で一進一退の激戦が40日以上も続くことになったのでした。
1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、
「沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」(下記リンク参照)にこんな一節がありました。
「南(仲西)飛行場は、8時30分に機銃掃射を受け、3人の兵隊が死傷、午後になると爆弾が投下された。」
また同12コマ目にはこうありました。
「第32軍は、3月10日には伊江島飛行場の破壊を命令、さらに3月30日には読谷・嘉手納飛行場が米軍攻撃で使用不能になり特攻配備が絶望となるや浦添飛行場滑走路の破壊を命令した。このように心血を注いで建設された飛行場は当初の目的に使用されることはなかった。」
赤マーカー地点。
滑走路方向。
青マーカー地点。
沖縄県・沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト)飛行場跡地
沖縄南(牧港、仲西、城間、マチナト)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍→米軍
種 別:小型特攻機用飛行場→日本本土爆撃用飛行場
所在地:沖縄県浦添市宮城
座 標:N26°15′18″E127°42′00″
標 高:25m
滑走路:1,350m→2,130m
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年05月 旧日本陸軍飛行場設定隊起工式
09月 完成
10月 十・十空襲。8時30分の機銃掃射により3人の兵隊が死傷。午後に爆弾投下
1945年06月 1日 米軍による拡張整備着工、7週間で完成。本土爆撃に使用される。
関連サイト:
沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (7コマ目)
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
「沖縄戦研究Ⅱ」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」
西原(東、小那覇、与那原)飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2024/4更新
撮影年月日1945/12/10(昭20)(USA M22 4)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県中頭郡西原町にあった「西原(東、小那覇、与那原)飛行場」。
日本陸軍の小型機専用飛行場、「西原(東、小那覇)飛行場」として着工したのですが、
当飛行場の設定は沖縄本島では最も遅く、第32軍の飛行場部隊が沖縄に来駐した昭和19年4月中旬ごろから
用地接収に動き出したのですが、その後工事中止。
その後米軍が「与那覇飛行場」と名付け、誘導路、駐機場を備えた爆撃機専用飛行場として建設しました。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
日本軍が建設した飛行場に、後に米軍が建設した誘導路、駐機場がクッキリ写っています。
ものの資料によれば、日本軍が800m滑走路で建設したのですが、米軍が2,130mに拡張したのだそうです。
赤マーカー地点。
現在も周辺では開発が進められており、ここに飛行場があったという面影は残っていませんでした。
「沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」(下記リンク参照)にこんな一節がありました。
「(5)仲西飛行場・西原飛行場及びその他の沖縄本島の飛行場
昭和19年(1944年)3月、第32軍は「十号作戦準備」により新たな飛行場設定の任務を負って緊急工事を引き継ぎ、既設飛行場の拡張整備のほかに、さらに小型特攻機用の発進基地として新設飛行場の建設に着手した。それが仲西飛行場(沖縄南飛行場・城間飛行場)、西原飛行場(沖縄東飛行場、小那覇飛行場)及び首里秘密飛行場(石嶺飛行場)である。」
また1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、 同7コマ目にこうありました。
「小那覇(西原)飛行場が空襲されたのは、那覇が空襲された後で、しかも焼夷弾が投下されたことから、時間は判明しないが午後であったことは間違いない。飛行場建設の飯場が炎上し、民家50戸も焼夷弾で焼失した。機銃掃射で1人が犠牲となった。」
沖縄県・西原(東、小那覇、与那原)飛行場跡地
約39haの農地を接収して建設したのだそうです
西原(東、小那覇、与那原)飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍→米軍
種 別:小型機専用飛行場→爆撃機専用飛行場
所在地:沖縄県中頭郡西原町小那覇
座 標:N26°13′40″E127°46′26″
標 高:8m
滑走路:800m(日本軍時代)→2,130m(米軍時代)
方 位:04/22
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年04月 中旬頃用地接収開始
05月 10日着工。32軍の作戦変更に伴い工事中止
10月 十・十空襲。午後飛行場建設の飯場炎上、民家50戸が焼夷弾で焼失。機銃掃射で1人犠牲
後に米軍が拡張整備するが、航空基地統廃合により放棄
関連サイト:
沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (16コマ目)
ブログ内関連記事■
石嶺飛行場(首里秘密飛行場)跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
撮影年月日1945/12/10(昭20)(USA M22 6)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県那覇市首里石嶺町にあった「石嶺飛行場(首里秘密飛行場)跡地」。
日本陸軍により建設されましたが、未完成のまま放置された飛行場です。
先頭のグーグルマップは、上に貼った航空写真から作図しました。
滑走路東側部分、かなりあやふやですが、おおよそこんな感じではないかと。
「沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過」(下記リンク参照)にこんな一節がありました。
「(5)仲西飛行場・西原飛行場及びその他の沖縄本島の飛行場
昭和19年(1944年)3月、第32軍は「十号作戦準備」により新たな飛行場設定の任務を負って緊急工事を引き継ぎ、既設飛行場の拡張整備のほかに、さらに小型特攻機用の発進基地として新設飛行場の建設に着手した。それが仲西飛行場(沖縄南飛行場・城間飛行場)、西原飛行場(沖縄東飛行場、小那覇飛行場)及び首里秘密飛行場(石嶺飛行場)である。」
赤マーカー地点。
東側(滑走路方向)に向かって撮っているつもり。
ここだけ畑が広がっていますが、周辺は住宅密集地で、当時の面影はありません。
沖縄県・石嶺飛行場(首里秘密飛行場)跡地
石嶺飛行場(首里秘密飛行場) データ設置管理者:陸軍
種 別:秘密飛行場
所在地:沖縄県那覇市首里石嶺町4丁目
座 標:N26°13′56″E127°43′47″
標 高:99m
滑走路:750mx80m?
方 位:07/25
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年夏頃 着工
1945年03月 未完成のまま工事中止
関連サイト:
沖縄県/第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (16コマ目)
ブログ内関連記事■