沖縄旅行・1 [■旅行記]
(自宅→羽田空港→)Ⓐ那覇空港→Ⓑ石嶺飛行場跡地→Ⓒ西原飛行場跡地→Ⓓ沖縄南飛行場跡地→Ⓔ普天間飛行場→Ⓕハンビー飛行場跡地→Ⓖ瑞慶覧飛行場跡地→Ⓗ泡瀬飛行場跡地→Ⓘ嘉手納飛行場→Ⓐ沖縄北飛行場跡地→Ⓑ金武飛行場跡地→Ⓒホテルゆがふいんおきなわ
お客様への新年のご挨拶が一巡した1月下旬、沖縄に行ってきたのでした。
実はこの時期が最も安心して遠い所に行けるのです。
今回沖縄で行きたい場所は全部で28ヵ所もあり、4つの離島に船で渡ります。
この時期は海が荒れることが多いので、無事船に乗れるかどうかはまったく分かりません。
それから行きたい場所が多いので、全部回れるかどうかもやってみないと分からないです。
果たしてオイラは、最終日に那覇空港を離着陸するヒコーキを眺めながら、
ソファーでゆったりとブランデーを愉しむことができるのでしょうか。
今回はるるぶのツアーを利用しました。
往復のヒコーキ代、ホテル4泊、レンタカー6日間込み、レンタカーの保険、ヒコーキの便指定等、全部含めて61,550円。
…デフレですね~。
4:35 自宅近くの駅からバスで羽田へ。
5:45 羽田1タミ到着。今回は荷物を切り詰めたので、直接保安検査場へ。
ツアー利用だと、これまでは「航空チケット引換証」が郵送され、それを窓口に持って行ったのですが、
今はネット上で所定の手続きが完了すると、画面に二次元バーコードが示されます。
それをプリントアウトして保安検査所と、搭乗口でかざすだけ。
オイラの知らないうちに随分と便利になったものです。
プリントアウトした用紙から二次元バーコードの部分だけ切り取って使用したのですが、
帰りの便でも同じものを使うのでなくさないようにしないと。
5:50 9番搭乗口着。
6:20 定刻通り出発。
早速イヤホンで音楽でも聞こうとチャンネルを変えていたら、なんだか聞きなれた声が。
出勤時は車内で文化放送を聞くことが多いのですが、その番組のタイアップ?でした。
まだまだ薄暗い中、滑走路に向かう機内なのですが、なんだかいつもの出勤の気分に^^;
D滑走路 R/W05 からの離陸でした。
767-300でした。
9:15 那覇空港到着。ほぼ4年ぶりの沖縄です。懐かしい~。(;´Д⊂)
自宅を出た時には5℃位だったのですが、こちらは17℃。暑い!
レンタカー会社のバスに乗り、最寄りのレンタカー店で手続き。
ETC、カーナビ付の3代目ヴィッツでした。
係のおねーさんは「新型ですよ!」と、新型であることをアピールしていましたが、
ヴィッツは2代目だよな~。
ツアーの予定では、レンタカーが借りられるのは15:30 からだったのですが、
事前に連絡して、割増料金を少し払ってすぐ乗れるように頼んでおいたのでした。
まずは腹ごしらえして、近くのユニオンで水購入。久米島の水2リットル57円だったので3本と菓子パン購入。
レジに行くと、レジのおばさんが何事かごにょごにょとしゃべっています。
てっきりひとり言かと思っていたのですが、「レジ袋持って来てますか?」というオイラへの問いかけでした。
この後も何度かあったのですが、まるでひとり言か、家族に喋るように、
まったく気負わずのんびりと話し掛けてくるのでした。
10:30 本格的に飛行場回り開始。
いい天気です。昼ごろから気温も上がり、1月下旬だというのに本日の最高気温は24℃!(☆Д☆)
ずっとエアコンつけっぱでした。
明日は与論島行の船に乗るため、本日は名護市のホテルに泊まります。
それで名護に向かいつつ、その途中にある飛行場、跡地を回ることにしていたのですが、
たくさんあるので全部回れるとは思っていなかったのですが、結局全部回れました。
現在は滑走路どころか飛行場の形跡が何も残っていなかったり、
米軍の基地になっていて、近寄ることができない箇所が多かったからですけども。
相変わらず市街地の道路は狭く、住宅がひしめき合っていて、車で入っていくのは一苦労です。
そしてゴチャゴチャの先にぽっかりと不思議な空間があるのもまた沖縄の特徴。
ぎっしりと並ぶ民家の先が突然フェンスでぶった切られ、その先が広々した基地になっていたりします。
嘉数高台公園にある「弾痕の塀」。
普天間飛行場を撮るためにお邪魔して偶然知ったのですが、
ここ「嘉数高台」は日本軍と米軍の最激戦地の1つなのだそうです。
嘉手納飛行場見学は、そのスジでは有名な「道の駅かでな」にお邪魔しました。
ここの4階には展望場があって、お邪魔するのは今回で多分4回目だったと思うのですが、
いつ行ってもそのスジの濃いィ方々がおられ、滑走路に向けて大砲がずらりと並んでいて圧倒されます。
小さくなって飛行場を撮り、3階の学習展示室へ。
次の「読谷飛行場跡地」に着いたのは、そろそろ太陽の高さが気になり始めた頃でした。
ここは恐らく、県内で最も当時の様子が残っている跡地です。
滑走路と平行誘導路の跡がほぼそのまま残っており、誘導路では駐機場跡も見ることが出来ます。
誘導路脇に車を停め写真を撮っていたら、
ランニング中の中学生位のユニフォームに身を包んだ野球部員とすれ違いました。
わざわざ脱帽して「こんにちわ~!」とすんごい大声で挨拶されました Σ(゚Д゚;)
ビックリしながらも、「が、がんばってね~」と声を掛けると、
真っ黒な顔に白い歯をニカッと光らせ、爽やかに走り去って行きました。
しまった。「チバリヨー」とか言えば良かった。と後悔しても後の祭り。
周囲は見渡す限りのサトウキビ畑、そこに誘導路が真っ直ぐ伸びています。
こんなところが普段のランニングコースなんだな~。
ここの飛行場跡地は、沖縄占領後(まだ終戦ではない)に、
熊本の基地から飛び立ったヒコーキが強行着陸を行った場所でもあります。
その碑があるはずなのですが、(この辺にあるはず)と思っていた場所をうろうろしてもなかなか見つかりません。
真っ直ぐ続く誘導路と滑走路以外はサトウキビの葉が風に揺れ、
ときたま遠くで輸送機が眠たげな音を響かせながらゆっくり旋回していくとても長閑な所でした。
もしかして碑はサトウキビ畑の中にあるのかしらん。と思ったのですが、ずかずか入っていくわけにもいかず、
ふと見ると、畑でしゃがみ込んで世話をしているオジーの姿が。
誘導路から畑のオジーに大声で尋ねてみたのですが、ちょっと笑って小首をかしげるばかり。
少なくともこの辺にはないようです。お礼を言ってとりあえず近くにあるはずの掩体壕を探すことに。
掩体壕はほどなく見つかりました。そして掩体壕の側に碑も。
オイラが思っていたのとはまったく違う場所にあったのでした。
もしかして移設したのかしらん。
ということで無事撮影を済ませたのですが、掩体壕は全部で3つあるはずなので、あと2つ残っています。
その2つを探したのですが見つかりません。
畑で作業をしていたおぢさんに尋ねてみました。
真っ黒に日焼けし、深いしわの刻まれた顔をくしゃくしゃにして笑顔で教えてくれました。
確かにあと2つあったのですが、最近までに壊されてしまい、現在はあの1つだけなのだそうです。
また1つ、見たかった場所が消失してしまいました。
最後にもう1カ所、「キャンプハンセン」は日没ギリギリで間に合いました。
本日の見学はこれにて終了。
名護のホテルに向かうことに。
しかし予想外にたくさん見て回ることが出来ました。
今日回れなかった分は、本島北部と離島の見学後行くことにしていたのですが、その必要がなくなりました。
おかげで半日分の余裕が生まれました。
それで、当初は予定していなかった本島最北端の辺戸岬にも行ってみようと考えたのでした。
18:30 ホテル到着。
22:00 寝。
おやすみなさい。
本日の走行距離:133km
(続きます)
日本のジェットエンジン開発 [├雑談]
日本のジェットエンジン開発について少し書いてみます。
終戦直前のことですが、日本は、ドイツ、イギリス、アメリカに次いで4番目にジェットエンジンを開発し、
実機を飛ばした国で、ジェットエンジンとの関わりの歴史は非常に古く、
国もメーカーも「国産ジェットエンジンを作りたい」という思いはずっとあり、
ジェットエンジンについての研究、性能試験、実機搭載用エンジンの開発が継続的に続けられてきました。
それでもこれまで日本単独で開発したジェットエンジンが一線級の旅客機に採用された例はありません。
実用機に供されたのは、現在のところ空自の中等練習機T-1B用のJ3エンジンと、T-1の後継機T-4用のF3エンジンのみ。
(J3エンジンの改良型は後にP-2Jの補助エンジンとして採用された)
国産エンジン開発が如何に困難か示す有名な話ですが、
当初T-1練習機は機体もエンジンも国産という、純国産ジェット機になる予定でした。
ところがエンジン製造が間に合わず、
苦肉の策として外国製エンジン搭載のT-1A、国産エンジン搭載の後期型T-1Bに分かれてしまいました。
現在開発が進められている次期対潜哨戒機XP-1には石川島播磨(IHI)製の国産ジェットエンジン(XF7-10)が使用されますので、
これが「実用機に供された国産エンジン」の3例目に近々加わる予定です。
A380やB787をはじめ、多くの中/大型旅客機用のエンジン生産には日本企業も多数関わっており、
特に大型ジェットエンジン用シャフトの生産は日本製が世界シェア7割を超える等、
日本製の品質の高さが評価を勝ち得ている部品もあり、
分担比率が大きかったり、主要部分を担当することもあるのですが、いずれも部品メーカー、下請けというのが実情です。
実用機に供されたもので「これは日本が共同開発に加わったエンジンです」と胸を張って言えるのは、
A320シリーズとMD-90に使用されているV2500エンジンのみ。
蛇足になってしまいますが、V2500エンジン開発のきっかけは日本が開発したFJR710というエンジンを
英国国立ガスタービン研究所で設備を借りて試験したことでした。
温度、気圧を擬似的に高空の状態にして、そこにマッハ0.9の空気を吹き込んでエンジンを動かすというもので、
この設備は実際にヒコーキに搭載して試験する前に不可欠なものです。
実機開発に欠かせないエンジン高空試験設備は、JAXAと防衛省が小型の研究用を保有するのみで、
大きなエンジンに使用できる設備が国内にはないのです。
せっかく自主開発で国産エンジンを作っても、肝心の試験を外国で、しかも施設の職員にお任せするしかありません。
これも日本のエンジン開発の現状を物語っていると言えるでしょう。
それはともかく英国国立ガスタービン研究所で試験を行ったのですが、
22日間に及ぶ高空性能試験を行った際、些細なトラブルはあったものの、ほとんど一発で当初の設計値をクリアし、
イギリス側のエンジン関係者を一様に驚かせたことがあったのですが、このことをRR社が知り、
日本側にエンジンの共同開発を持ちかけてきました。
この話が最終的に世界三大エンジンメーカーの内の2社であるRRとP&WにドイツのMTUと日本が参加し、
数千基規模で生産されることとなるV2500エンジンの開発プロジェクトに発展したのでした。
上述の通り、実用機に使用している国産エンジンは二機種の練習機のみなのですが、
その他、国産ジェット機がドコのエンジンを使用しているかというと、
US-2、F-1、T-2はRR(ロールスロイス)製。
C-1、MRJはP&W(プラット・アンド・ホイットニー)製。
F-2、C-XはGE(ゼネラル・エレクトリック)製。
T-1Aはブリストル製。
となっており、 国産ターボプロップ機の分野では、
YS-11はRR製。
MU-2はギャレット・エアリサーチ製。
P-2J、PS-1/US-1はGE製。
となっております(国内でライセンス生産しているものも含む)。
こうやって国産のジェット機、ターボプロップ機を並べてみると、ほとんど自衛隊機ですね。
せっかく国産機を開発しても、そのほとんどが外国製のエンジンを使用せざるを得ない-
こうした状況を打破しようと、国が音頭を取り、支援を行い、国産エンジン開発に非常に力を入れていた時期があり、
戦時中に優秀なヒコーキ、発動機をたくさん製造していた名だたる国内重工業各社が束になって
国産ジェットエンジン開発に取り組んでいたのですが、
実用機に供されたのは現在のところ上述の通り二種の自衛隊練習機のみ。
台数は限られており、海外輸出の実績もありません。
YS-11と言えば「戦後初の国産旅客機」で、オイラの知る限り、
「エンジンも当然国産でしょ」と思い込んでいる方が多いのですが、
肝心の心臓部は国産で賄えなかったわけで、ちょっと寂しいことです。
「ジェットエンジンは国産に拘らずに輸入した方が結果的に時間も費用も節約できるし確実だ。
何もハイリスクを負う必要はない」
という割り切った意見もあるのですが、
「FSXのトラウマ」として今でも日本のエンジン開発の現場に根強く残っている話があります。
20年も前の話ですが、実用に堪える得る戦闘機のエンジンが作れない日本の足元を見透かされ、
次期支援戦闘機開発に関して、「我々の要求がのめなければ、日本にエンジンを供給しない」と米側に強く迫られ、
FSXはアメリカ製のエンジンを使用させて頂く代わりに日米共同開発することになりました。
当時の時代背景もあって、この共同開発では他にも様々理不尽な要求を呑まざるを得ず、
F-2はいろんな意味で米国にいいように食い物にされてしまった。という一面もあるのですが、
それもこれも全ては、「自国で一線級のエンジンが作れない」ことに起因しています。
戦闘機は1本ないし2本のエンジンの周りに羽やらコックピットやらをペタペタくっつけたようなもので、
戦闘機の性能にエンジン性能が占める部分が非常に大きいです。
戦闘機用の一線級エンジンともなると、米国とて予算を組めば簡単に作れる。という訳にはいかず、
アメリカはF-22のエンジン開発だけで1兆円を超える国費を投じています。
如何に「同盟国」であるとはいえ、米国と同等、もしくはそれ以上の性能を有する可能性のある戦闘機を日本が持つことに
米側が無条件で手を貸すことなどあり得ません。
米国製戦闘機を日本に輸出するに際し、米側が真っ先に議論したのは、「どうやって性能を落とすか」だったり、
最近でも日本が独自にステルス戦闘機を開発しようとして、性能試験のために施設の貸与を米国に断られてしまったりと、
「代金ならちゃんと払うから最新式の戦闘機のエンジンちょーだい♪」なんていう単純な話では済まないのです。
一部の人たちが国産エンジン開発に強く拘る理由はここです。
練習機のエンジンは作れても、一線級の旅客機、戦闘機用エンジンを国産で賄うことが出来ない-
寂しい話ですが、これが1950年代のT-1以来変わらぬ日本のジェットエンジン開発の姿です。
現在国内で最も国産ジェットエンジン開発に情熱を持ち続けているのは、
終戦間際に飛んだジェット機のエンジン開発にも関わっていたIHIただ一社のみという状況です。
実は今は、ジェット旅客機MRJ、空自の次期ジェット輸送機C-X、海自の次期ジェット対潜哨戒機XP-1 と、
国産ジェット機開発ラッシュなのですが、既に書いた通りこの中で国産エンジンを搭載するのは XP-1のみ。
三菱は最新の大型ジェットエンジン開発にもずっと関わり続けているのに、
MRJのエンジンはP&W製を採用することになっています。
官民一体となって作り上げたYS-11の初飛行は1962年。
182機が生産されましたが、経営的には大失敗してしまいました。
それが大きなトラウマとなり、その後国産旅客機開発の話は出ては消えることを繰り返し、
結果的に長い間途切れてしまいました。
現在のところMRJは今年の末に初飛行することになっています。
ようやくYS-11以来の国産旅客機の初飛行が目前に迫っているわけですが、
この間国産旅客機の初飛行は実に50年もの長きにわたり途絶えてしまいました。
同じ失敗は二度と許されない。そういう状況ですから、どこのエンジンを採用するかは合理的な判断が必要だった。
ということもMRJに国産エンジンを採用しなかった背景にあるのでしょうか。
MRJに搭載されるのは、P&W製のギアード・ターボファンという新開発のエンジンです。
このエンジンの特徴は、タービンとファンをつなぐ軸の間に減速ギアを組み込んだこと。
これによりファンをゆっくり回すことが出来る一方、タービン、コンプレッサーは高速で回すことができます。
そのため従来のターボ・ファンより効率と燃費が向上し、騒音は下がるという画期的なエンジンです。
これが世界で初めてMRJに搭載されることになっており、ウリの1つになっています。
世界三大エンジンメーカーに市場を席巻されているのが現状で、
国と国内各メーカーが束になっても世界で通用するジェットエンジンの開発/販売ができない。
なぜこうした厳しい現状があるのかについて書籍、ネット上では、
「膨大な経験とデータの蓄積が必要な分野であり、それを果断に実行し続けることが求められる特殊な工業製品である」
「一線級のエンジンを開発するには莫大な資金と10年単位の時間が必要だが、それをやり通す意思が足りない」
「所詮国におんぶに抱っこの寄り合い所帯では責任の所在が明確でなく、こうしたプロジェクトがうまくいくはずがない」
「世界でもエンジン開発は国際共同が主流になっている。実績のない日本が独自で開発というのは土台無理なのだ」
等々様々言われており、オイラにとってジェットエンジン開発というのは、途方もない高い壁と映ってきたのでした。
飛行場の場所を教えてくださいm(_ _)m [├雑談]
下記の飛行場の場所をご存じの方、情報をお待ちしておりますm(_ _)m
その他の情報(正式名称、別称、設置者、種別、滑走路の長さ、磁方位、開設/閉鎖日等の沿革など)
やソース等もありましたら教えて頂けると嬉しいです。
下記にある以外でも、「こんな飛行場があった」という情報をお持ちの方いらっしゃいましたら、
是非教えてくださいm(_ _)m
■北海道
道央
・岩内郡共和町に戦時中あった飛行場(名称不明)
→42N-139E 他にも複数の地点からの距離と方向データあり(再生おじさん情報2013-11-09 19:49)
→米軍史料の元情報は戦前の情報を基にしていますね。戦前に岩内に飛行機が着陸した何らかの記述を基にしている可能性が高いです。例えば、当時の新聞やら現地に関連する捕虜の証言等ですね。(PUTINさん情報2013-11-11 01:32)
道南
・二海郡八雲町に終戦間際に作られた旧陸軍秘匿飛行場(名称不明・現在の八雲飛行場とは別のもの)
■青森県・上北郡おいらせ町にあった木ノ下飛行場(民間、冬季臨時雪上飛行場・地元図書館で資料探せず)
→再生おじさんさんから情報いただきました(2013-11-13 22:48)
・古間木陸軍飛行場(三沢市)「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に出てくる
古間木は三沢海軍飛行場のすぐ南西にあるが、こちらは陸軍飛行場
・第二三沢海軍航空基地「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に出てくる
■秋田県
・秋田飛行學校→アギラさんから情報頂きました(2014-08-19 00:27)。秋田縣河邊郡新屋町 住所的には旧秋田空港の辺りなのですが…
■岩手県
・熊野原練兵場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、岩手縣立一關中學校が熊野原練兵場を滑空場として使用していたと記述あり
■宮城県
・気仙沼水上基地
→日本海軍航空史、米軍の攻撃目標に情報あり。日本海軍航空史地図の位置からすると、USA M638 131 の湾内にある桟橋付近が怪しい。地元図書館に問い合わせたが分からず
■山形県
・旧陸軍飛行場(名称不明、前森牧場・地元図書館で資料探せず)
・酒田航空研究會「山形縣西田川郡袖浦村大字宮浦」
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)
「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、酒田航空研究會・酒田市役所學務課・
「山形縣西田川郡袖浦村大 字宮浦」という記録あり。住所的には(USA-M541-29)の周辺の気がするのですが。。。
・宮ノ浦滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)
「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、酒田商業學校滑空部・酒田商業學校・
「酒田市外宮ノ浦滑空場」という記録あり。1つ上の滑空場と関係あるのかも。
・竹形飛行場
→升形と共に神町飛行場の補助飛行場として新庄市郊外に建設。800mx60m 7月既成
→再生おじさんから情報頂きました(2016-01-27 21:50)伊久留区誌P353では神町のNW40km
(元資料は航本機密5319号)
→「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer
方面 舞鶴 牧場 竹形 滑走路 六〇×八〇〇 縣郡村 山形、最上 八向村 記事 七月末
(八向村は升形駅周辺に位置していたので、竹形=升形かも)
・米沢海軍航空隊 西村山郡 退避、特攻基地 800x80 1945年「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に出てくる
■福島県
■栃木県
・河内郡本鄕村(現・上三川町)の鬼怒川河原
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)
「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、石橋中學校グライダー部が河内郡本鄕村(鬼怒川河原)
で滑空訓練を行っていたと記述あり
・黒羽陸軍飛行場 「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に出てくる。
「黒羽」という地名からすると、最寄りの飛行場は金丸原
■茨城県
・旧海軍葛城秘匿飛行場(つくば市苅間)
→800mx60m 既成 という情報あり
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」の中で、
当飛行場について一部次のように記載がありました。基地名:葛城 建設年:1945 位置:藤沼駅NW8 飛行場長x幅
米:800x60 主要機隊数:小型 主任務:退避場
PUTIN様からコメント (2019-03-20 00:21) 滑走路 六〇米×六〇〇米 六〇%ニシテ七月十五日概成見込
(ロ)分散秘匿 中練二五機分 概成ス
→「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer
方面 横須賀 牧場 葛城 縣郡村 茨城、筑波郡 葛城村 滑走路 六〇×八〇〇 記事 既成(PUTIN様から)
・結城秘匿飛行場(多分茨城県結城市)
→「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧 東部軍管区に記載 (のぶさん情報2013-12-14 21:15)
・湊町海岸滑空場
龍ヶ崎市史近現代編の中で、「湊町海岸滑空場(現 ひたちなか市湊本町?)で昭和18年9月19日滑空大会が開かれた」という記述あり
→再生おじさんさんから情報頂きました(2014-05-25 23:24)m(_ _)m
那珂湊漁港の、魚市場と駐車場(細長い約500mの直線)か、地方卸売市場の辺りかも。
・岡部秘匿飛行場
→800mx60m 8月末既成。稲敷郡岡田村 という情報あり
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」の中で、
当飛行場について一部次のように記載がありました。基地名:岡部 位置:荒川沖駅SE7 建設年:1945 飛行場長x幅
米:800x60 主要機隊数:小型 主任務:退避場 掩体: 其ノ他記事:工事中
→「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に以下の情報あり。岡部海軍飛行場 ①稲敷郡朝日村 ②稲敷郡阿見町
800x60 1400x100
→「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer
方面 横須賀 牧場 岡部 滑走路 六〇×八〇〇 縣郡村 茨城、稲敷郡 岡田村 記事 八月末既成(PUTIN様から)
・旧海軍神立飛行場
→海軍秘匿飛行場。800×400芝張 神立駅西南西の直線道路。600mx30m 茨城県新治郡石田村。
既存土浦空滑走路という情報あり
→佐藤正孝さんから情報頂きました。陸軍の西筑波飛行場とは別の飛行場であること。
朝鮮人強制労働現場一覧のNo.759に神立平飛行場についての記述があること。
M177-A-7-119 R388-121からすると、神立駅西南西の直線道路の北側部分ではないかとのことですm(_ _)m
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。位置:新治郡上大津村
最寄駅ヨリノ方位 距離粁:神立駅E4 地名と駅からの方向が自己矛盾になっているような。。。
→「航空特攻戦備」第2期(22コマ)■
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer
方面 横須賀 牧場 神立 滑走路 五〇×六〇〇 縣郡村 茨城、新治 石田村 記事 既成 □空滑走路
・水海道海軍飛行場 「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に名前だけ出ている
■千葉県
・千葉飛行場 「千葉県の歴史通史編近現代2」P994「県下の飛行場としては…」として「千葉」が挙げられている
・第二香取飛行場 「千葉県の歴史通史編近現代2」P994「県下の飛行場としては…」として「第二香取」が挙げられている。距離的に既存飛行場で怪しいのは横芝ですが…
・粉名口滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、佐原中學校滑空部・縣立佐原中學校・「香取郡佐原町粉名口滑空場」という記録あり
・津田沼滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、巢鴨學園校友會航空部・巢鴨學園内・「千葉縣津田沼滑空場」という記録あり。伊藤飛行機の津田沼飛行場のことかも。
・横田海軍航空基地
「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」より。1945年2月15日「千葉県横田」に海軍第3017設営隊が編成され、同年航空基地設営、8月22日解散という記録が残っている。千葉県に横田は2つあり、袖ケ浦町横田の水田は滑走路っぽい地割だが、地元古老によると、ここは明治時代から続いた水田とのこと。もう一つの横田は八街陸軍飛行場すぐ東にあり、飛行場っぽい地割はあることはある(USA R535 93)。
■神奈川県
・旧海軍厚木第三飛行場(秘匿飛行場、未完成)
・日本國際航空工業の飛行場(平塚・NO NAMEさんからの情報)
・酒匂滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、神奈川縣立小田原中學校、神奈川縣学務部学務課が当滑空場を使用したという記録あり。
ネットでは「小田原酒匂川滑空場」という名称も出てきますが、場所特定出来ず
・箱根仙石原滑空場
1931年、1942年に使用していたという記録あり
・横濱滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、神奈川縣聯合學校報國團滑空部・神奈川縣学務部学務課・「横濱市中區北方横濱滑空場」という記録あり
・逗子海岸滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、逗子開成中學校報國團が同滑空場を使用したと記録されています
・大船海軍飛行場
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に、「鎌倉市大船 九三中練7機」との情報あり
・昭和海軍飛行場
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に、「川崎市川崎区昭和 紫電1 九九艦爆3
零式輸7 計11」との情報あり
■新潟県
・國府川尻滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、佐渡中學校グライダー部・新潟県佐渡郡二宮村縣立佐渡中學校・「國府川尻滑空場」という記録あり
・大日原演習場の滑空訓練場
「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で、「新発田連隊の演習場が笹原村と堀越村にまたがる大平(通称大日原)
にあり、その西端のグライダーの滑空訓練場」と記されている。
大日原について、日本大百科全書には、「新潟県中北部、阿賀野市(あがのし)にある草原。
第二次世界大戦以前は旧新発田(しばた)一六連隊の演習場であったが、現在は自衛隊の演習場になっている。」
と記されている。
■長野県
・長野北飛行場
→「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧
東部軍管区に記載 (のぶさん情報2013-12-14 21:15)
■静岡県
・五味島飛行場(静岡市・富士市史に記述無し)
・大須賀場外離着陸場(掛川市)
・富士裾野飛行場→アギラさんから情報頂きました(2014-08-19 00:27)。馬詰飛行研究所(研究所:靜岡縣駿東郡原里村富士裾野飛行場 事務所:東京市外代々木一一八六) 当時すぐ近くに板妻飛行場があったのですが、これのこと??
・與市右衛門新田滑空場?
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、静岡工業學校々友會々友會滑空部・静岡市太田町縣立静岡工業學校・「同市與市右衛門新田滑空場」という記録が残っています。
現在の住所は静岡市葵区与一と思うのですが。。。
・浜名湖水上基地
→日本海軍航空史に記載あり。昭和10年代には非公共の「舘山寺水上飛行場」があった
■岐阜県
・大垣秘匿飛行場
→「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧 東海軍管区に記載(のぶさん情報2013-12-14 21:15)
レファレンス協同データベースより:
『本土航空作戦記録』第一復員局発行(国立国会図書館デジタルコレクションで公開、65コマ目)により、岐阜県内の飛行場の場所は関と大垣だったことがわかる。
『大垣市史 通史編近現代』(大垣市,2013年刊)p.450
東海航空株式会社大垣工場に関する記述の中に、「荒尾林に飛行場を作り、飛行機を組み立てて一貫生産する計画があったが、同年(※図書館注:昭和20年)7月の空襲により工場が焼失した」とある。
『水の都に火の雨が降る 大垣空襲五十年』(柳瀬博著・刊 1995年刊)p.35
「(12)東海航空機工業(株)大垣工場 荒尾町」の項目に、「本土決戦が叫ばれるようになって荒尾林に飛行場を作り、飛行機を組み立て特攻機を発進させる計画をしていた。」とある。
『ふる里宇瑠生熱く燃えた 昭和二十年の記録 大垣空襲六十周年』(柳瀬博著・刊 2006年刊)p.80
「八、愛知航空機の疎開」の項目に、「終戦直前には荒尾林の中に飛行場を作り、飛行機を組み立てて飛ばす計画をしていた。」とある。
・養老飛行場(マー坊さん情報2013-11-27 09:22)
・糸貫川滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、本巢中學校々友會滑空部が使用したと記録あり
■愛知県
・西築港飛行場(名古屋市港区・大正時代の飛行場)
→サイト「滑走路探検」様情報。サイト様情報:「現住所は名古屋市港区稲永。大正7年中央飛行機研究所開設。大正8年同研究所の破産とともに消えた。」現住所の名古屋市港区稲永は荒子川の西側一帯で、飛行場名から【港区西築港】で検索すると、荒子川の東側の3号地(港区築三町2丁目の西築港変電所)を指す。飛行場名と現住所が矛盾しているように見え、荒子川の西なのか東なのか判断つかず
・蒲郡水上飛行場(安藤飛行機研究所が昭和4年6月から新舞子線運航)
・高浜水上飛行場 昭和11年~17年、猿田氏が飛行場長に
■石川県
・高松飛行場(かほく市・完成した日に終戦、広報、町史に記述無し)
■三重県
・二見水上飛行場(安藤飛行機研究所が昭和4年6月から新舞子線運航)
・第一訓練所
→「伊賀の軍事史施設と戦災」16pに「大日本飛行協会設置の地方滑空訓練所」「場所 津市東亜紡織津工場広場」と記載あり
・第二滑空訓練所
→「伊賀の軍事史施設と戦災」16pに「大日本飛行協会設置の地方滑空訓練所」「場所 四日市市郊外鈴鹿川敷 面積 95,750坪 規模 延長千米・幅員150米 格納庫5機収納1棟」と記載あり
・第三滑空訓練所
→「伊賀の軍事史施設と戦災」16pに「大日本飛行協会設置の地方滑空訓練所」「場所 宇治山田市外宮川堤広場 規模 格納庫4機収納1棟」と記載あり
・第四滑空訓練所
→「伊賀の軍事史施設と戦災」16pに「大日本飛行協会設置の地方滑空訓練所」「場所 上野市東野畑台地 面積 3万坪 規模 延長7百米 幅員2百10米 第二次工事 面積 現敷地の西方1万3千坪の拡張 規模 訓練生合宿道場 60数坪」と記載あり
■滋賀県
■京都府
・上京区上加茂
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、立命館中學校商業學校滑空科・京都市上京區室町頭小山上總町立命館中學校商業學校・「上京区上加茂」という記録あり。「飛行場」、「滑空場」で検索するもヒットせず
・木津川滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、京一工グライダー研究部・京都市下京區唐橋大宮尻町京立第一工業學校・「木津川滑空場」という記録あり
■和歌山県
・串本飛行場(民間) 旧海軍の水上機基地ではなく、戦後日東航空が水上機運用で使用した飛行場
→あさんから情報頂きました(2014-04-07 20:50)
・新宮の水上機飛行場 安藤飛行研究所による郵便飛行便申請、紀州航空路(水上飛行機)の構想、熱田・新宮間定期空路計画等、様々な動きがあったようです
■大阪府
・淀川滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、府立今宮職工學校、西野田職工學校、大阪貿易學校滑空部、大阪市立工藝學校校友會滑空部、大阪商業學校校友會滑空部、大阪城東商業學校グライダー部、關西工業學校滑空部、此花商業學校々友會滑空部、大阪市立都島工業學校機械科、住吉中學校滑空部が淀川滑空場を使用したと記述あり
・長柄滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、北陽商業學校グライダー部が東淀川區長柄滑空場を使用したと記述あり。一応淀川に長柄橋はあるのですが。。。
■兵庫県
・加古川北飛行場
→PUTINさんからコメント頂きました(2013-10-31 15:03)
・慶野水上偵察機基地
→
兵庫県南あわじ市松帆慶野に「慶野松原海水浴場」あり
・繁昌飛行場(青野ヶ原演習場内にあった陸軍の秘匿飛行場らしい)
→34-54N 134-54E 5100x230NE/SW (PUTIN情報2013-11-03 15:50)
・武庫川滑空場
・米田滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、兵庫縣米田町青年學校滑走部が加古川下流米田滑空場使用という記録あり
・明石グライダー滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)
「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、兵庫縣立工業學校々友會滑空部、第三神戸中學校々友會滑空部、明石中學校滑空部が明石滑空場を使用したと記録あり。
別サイトにて、当滑空場について、 昭和12年? 4/10 午前9時、明石郡藤江の七萬坪の現地に厳かな起工式が行われた。
4/10~6月末まで毎日 午前九時から午後四時まで、中学生約200名ずつが交代で建設 と記されていました
→当記事No,76 第一神港商業學校グライダー部・神戸市兵庫區會下山町三丁目・「明石郡林崎村藤江滑空場」とあり、ここに出てくる藤江滑空場と同一かも。
・千種川尻滑空場 (川尻滑空場?)滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、赤穂中學健兒團滑空部
・宝塚滑空場
「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)の中で、「宝塚線宝塚駅付近 1944 滑空場 滑空機用(格納庫) 劇場4,000名 予科練修正教育 宝塚劇場施設」と記載あり
■岡山県
・行幸飛行場
→当時の和気郡、現在の瀬戸内市長船町に陸軍が造った秘匿飛行場(のぶさん情報2013-12-10 14:26)
→ 「行幸は岡山県和気町西南方約十二粁」なので、やっぱり長舩の辺り
(和気町は2006年佐伯町と対等合併して役場があちこちにあるので注意) ・岡山滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、岡山工業學校學友會グライダー部・岡山市南方岡山縣立岡山工業學校學友會・「岡山市福濱岡山滑空場」という記録あり
岡山の滑空場で検索すると、旧邑久滑空場がヒットするが、ここは1970年代以降のものなので時代も場所も違う。 岡山市福濱の1947年の写真を見ると、それっぽい更地はあるのですが。。。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=451778&isDetail=true
・津山八出磧滑空場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、津山中學校滑空部が使用したと記録あり。吉井川にあり、昭和13年設立の津山グライダー倶楽部が使用していたらしい。 津山駅の近く?
■島根県
・別府湾基地:第801海軍航空隊所属の飛行艇の避退用基地として隠岐諸島に設営された基地。名称から現隠岐郡西ノ島町の別府港周辺に設営されたと思われます→
・「鹿島航空隊芦沢派遣隊」という部隊の引渡目録が出てきました。どうも現在の松江市東出雲町(旧八束郡意東村)に鹿島海軍航空隊の派遣隊がいたようですが、それ以上のことは分かりませんでした。おそらくここも水上機基地と思われますので、ご連絡させて頂きます→
■山口県
・埴生秘匿飛行場
→「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧中国軍管区に記載
(のぶさん情報2013-12-14 21:15)
→しげさんから情報頂きました。飛行場の名残についての言伝あり (2014-06-03 15:04)
・滑空訓練場
→山陽町史の中に、終戦時そのまま放棄された滑空訓練場のことが出てきます。
→大日本飛行協会山口第一、第二、第三滑空訓練場があることが判りました。第三は現在の西善寺住宅団地。
・第二岩国秘匿飛行場
→玖珂郡麻里布村 520mx50m
→「航空特攻戦備」第2期(22コマ)■
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/Viewer
方面 呉 牧場 第二岩國 滑走路 五〇×五二〇 縣郡村 山口、玖珂 麻里布村 記事 北方□場に接□す
・屋代島:第2河和空の水上戦闘機隊が米軍の九州上陸時に河和から九州へ進出する際の中継基地として設営
■香川県・高松水上機飛行場(1922年から日本航空輸送研究所が大阪堺との間で運行した民間の飛行場)
■徳島県 ・冲ノ洲飛行場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、德島縣師範學校滑空隊・德島市常三島町德島縣師範學校・「德島市冲ノ洲飛行場」と記録あり。
■高知県
・中島飛行場(戦前土佐市中島にあった私設飛行場)
・本山町の飛行場(長岡郡本山町にあった大日本飛行協会の飛行場)
・黒潮町の飛行場跡地(幡多郡黒潮町 大日本飛行協会の飛行場? )
■愛媛県
■福岡県
・多々良陸軍飛行場(福岡市東区)
→あさんから情報頂きました(2013-10-29 20:07)
・多々良海軍飛行場(旧海軍秘匿飛行場・福岡市東区)
→1,000mx28m 春日村 博多の南南西8km 既成との情報あり
→PUTIN様より情報 (2019-03-20 00:21)
概位:現九州飛行機会社南側道路ヲ利用
工事概要:在来道路(巾員二八米)ヲ更ニ一〇米拡張シ之ニ伴ナフ電源ノ移設、飛行機隠匿場、組立場新設
九州飛行機の工場は、板付、香椎、雑餉隈、筑紫郡原田にあった (渡辺 洋二『異端の空 太平洋戦争日本軍用機秘録』) これら工場の中で、多々良に最も、そして非常に近いのが香椎なので、ここの工場が怪しい
・甘木秘匿飛行場
→「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧西部軍管区に記載 (のぶさん情報2013-12-14 21:15)
→アギラさん情報
・福岡市外香椎滑空練兵場
→アギラさんから情報頂きました(2014-08-15 07:37)「航空年鑑昭和15年」大日本飛行協会編(昭和16年発行)「學校グライダー部一覽」(昭和15年10月現在)の中で、九州帝國大學航空會が福岡市外香椎滑空練兵場を使用したという記録あり。
→滑翔の灯 昭和15年の記録の中で、「福岡市外の香椎滑空場でプライマリー公式テストを行った」という記述あり。同一か。 http://www.vsha.jp/page17.php
→ 101.福岡中學校學友會グライダー部・福岡市潟洲町福岡中學校・「校庭」「福岡市外香椎潟滑空場」 これは上記二つ(福岡市外香椎滑空練兵場、香椎滑空場)と同一かも
・深江基地:第2河和空の零式観測機で編成された特攻隊が1945年7月に進出。当該書籍に場所は唐津湾と記載されており、おそらくは現在の福岡県糸島市の筑前深江駅周辺の海岸に設営された水上機基地と思われます。→
・小富士水上機基地
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。基地名:小富士水上機基地 位置:前原駅W2 建設ノ年:1944 飛行場 長x幅 米:計画ノミ 主要機隊数:予科練習生 主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:工事中 掩体:工事中
→位置情報からすると、小富士海軍航空基地(陸上基地)のすぐ西側にあったらしい。橋の辺りに水上基地があったとするサイト情報あり。
■佐賀県
■長崎県
・川棚飛行場(旧海軍飛行場・東彼杵郡川棚町、川棚工廠敷地内)
→米軍の爆撃レポート?ターゲット写真?に川棚ファクトリーの写真があり、これの白く写っている道路が怪しい (再生おじさん情報2013-11-05 21:36)
・厳原飛行場
→
対馬にあったオートジャイロ基地。50m程の高台にあり、周りは山に囲まれている飛行場
・島原海軍航空基地
「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」223pに記述あり。島原市 水偵 74x30 木 1945年
収容施設 下士官200 兵員900 工事中終戦
■大分県
・簑原秘匿飛行場(「熊本の戦争遺跡 戦後65年」九州各県旧軍飛行場一覧より)
→ 宮崎県都城市蓑原町(=都城西飛行場)のことかも。
→地元広報誌に載りました。千町無田不時着陸場のことでした。 2017/7/29
・鹿道原秘匿飛行場(「熊本の戦争遺跡 戦後65年」九州各県旧軍飛行場一覧より)
→住所的に豊後北飛行場っぽい
・豊後第一秘匿飛行場
→「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧
西部軍管区に記載 (のぶさん情報2013-12-14 21:15)
豊後北or南飛行場のどちらかと思われる。
・豊後第二秘匿飛行場
→「帥作命丙第119号別紙」(1945年7月22日付)記載の陸軍飛行場一覧
西部軍管区に記載 (のぶさん情報2013-12-14 21:15)
豊後北or南飛行場のどちらかと思われる。
■熊本県
・大津(古閑原)秘匿飛行場
→「熊本の戦争遺跡 戦後65年」の中で、「本県菊池郡大津町室 国道325号の東、県道30号に平行」東西800m」と説明。 USA-R153-135周辺だが地割発見できず・熊本北秘匿飛行場
→「熊本の戦争遺跡 戦後65年」の中で、「現熊本空港滑走路東端から東西方向に700m」とあり、
USA-M259-132周辺だが地割発見できず
→健軍飛行場の右45°上に長方形の転圧痕らしき物が写っているので、これのことでは?(再生おじさん情報2013-11-12 22:36) 再生おじさんさんから情報いただきました(2013-11-12 22:36)
・愛国熊本飛行場
県営の公共用飛行場として昭和15年5月 菊池郡合志村に設置。NNW-SSE680x160m、EEN-WWS600x160m
として官報に出てくる。住所的に黒石原飛行場の辺りで、当初は黒石原飛行場のことかとも思ったが、微妙に違う
■鹿児島県・小原(TAKAYAMA)秘匿飛行場
米軍史料より:
位置、Koyama(Takayama)の北北西1.75マイル、鹿屋の東南東5マイル、鹿児島湾の東8.5マイル
座標:N31-22、E130-56
発見時期:1945年1月
→(PUTINさんから情報2013-10-14 03:32)
・永尾航空基地
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 佐世保鎮守府航空基地現状表」の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:永尾 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:1,200x60m NE 位置:肝属郡串良町 古江線串良駅E7(廃線。現志布志国家石油備蓄基地の辺り) 主要機隊数:小型機 主任務:発進 隧道竝ニ地下施設:工事中 掩体:工事中 其ノ他記事:記載なし USA M11 74(1947年)で見ると、それっぽい地割が複数ある
「航空特攻戦備」第2期 22ページ目
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/DetailMok?id=0050050941
永尾(岩川街道) 六〇x一,二〇〇 NE 鹿児島県肝属 笠野原村 既成(PUTIN様より)
・徳之島第二(瀬龍)飛行場
防衛研究所収蔵「南西諸島航空基地一覧図 昭和19・11 第三航空艦隊司令部」の中で、徳之島南東箇所に記入あり。
サイト「陸軍航空隊 徳之島基地」徳之島基地の概要内に出てくる。「徳之島基地建設中、南方にもう一箇所飛行場を造ろうとしていたが、戦局悪化のため、徳之島基地拡充の作業を優先させることにし、着工はされたものの途中で中断された。」
徳之島町誌1970/3、伊仙町誌1978/12 「1944年2月天城村瀬龍にて建設開始。1945年8月、作戦上の都合で中止。掩体壕等設置の為部隊を浅間に移動」
国土地理院の写真で探したが見つからず。
・恒吉海軍飛行場跡地
「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」に出てくる
■どの県か不明な飛行場
合計数:
T64→50(2012/9/29)→39(2013/8/6)→33(2013/10/11)→43(2013/11/9)→65(2014/5/24)→99(2015/6/20)→93(2016/9/17)→90(2018/9/17)→91(2022/12/31)→95(2023/5/1)
更新履歴
2024/3
徳島県・徳島航空学校2【場所確定】
徳島県・津田川口着水場跡【場所確定】
2023/10
徳島県・沖洲飛行場【場所確定】
2023/5/1
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三重県・第二滑空訓練所【追加】
三重県・第三滑空訓練所【追加】
三重県・第四滑空訓練所【追加】
2022/6/29
兵庫県・川西鳴尾飛行場跡地【場所確定】
2021/10/30
道央・南恵庭駐屯地場外離着陸場跡地【場所確定】
2021/5/15
千葉県・習志野4丁目滑走路跡【場所確定】
2021/4/23
兵庫県・繫昌飛行場跡地【場所確定】
2021/2/5
滋賀県・京阪レークセンター水上機基地跡地【場所確定】
2021/1/30
青森県・木ノ下飛行場跡地【場所確定】
2021/1/14
北海道・苫小牧陸軍飛行場跡地【場所確定】
2021/1/6
大阪府・八雲滑空道場跡地【場所確定】
2020/12/27
岩手県・花巻の不時着陸用滑走路跡地【場所確定】
2020/10/21
広島県・江田島の飛行場跡地【場所確定】
2020/10/19
沖縄県・大原簡易飛行場跡地【場所確定】
2020/10/18
埼玉県・川口地方滑空訓練所(舟戸ヶ原滑空場)跡地【場所確定】
2020/10/17
福岡県・玄界航空基地(松末基地)跡地【場所確定】
2020/10/16
福岡県・玄界航空基地(岐志基地)跡地【場所確定】
2020/10/10
香川県・高松飛行場跡地【場所確定】
2020/8/22
東京都・江戸川飛行場跡地【場所確定】
2020/8/21
鹿児島県・本田飛行場跡地【場所確定】
2020/8/17
鹿児島県・小川飛行練習所跡地【場所確定】
2020/7/31
愛知県・西築港水上飛行場跡地【場所確定】
2020/7/30
愛知県・稲永新田の水上機基地跡地【場所確定】
愛媛県・愛媛飛行場跡地【場所確定】
2020/7/29
福岡県・直方飛行場跡地(頓野村・岡正美)【場所確定】
京都府・安井飛行場跡地【場所確定】
2020/7/11
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2020/7/1
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2020/6/20
恒吉海軍飛行場跡地 【追加】
2020/6/20
長崎県・島原海軍航空基地跡地【追加】
2020/6/13
新潟県・大日原演習場の滑空訓練場【追加】
神奈川県・大船海軍飛行場【追加】
神奈川県・昭和海軍飛行場【追加】
2020/6/8
千葉県・大日本飛行協会航空機訓練所松戸飛行場跡地【場所確定】
2020/6/6
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2020/5/11
群馬県・敷島滑空訓練所跡地【場所確定】
2020/5/10
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2020/5/6
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岩手県・盛岡市見前滑走路跡地【追加】
2019/7/26
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滋賀県・びわ湖空港(構想)【場所確定】
2019/5/31
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2019/5/30
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2019/5/25
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2019/5/19
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2019/5/9
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2019/4/29
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2019/3/2
高知県・高知練兵場着陸場跡地【場所確定】
愛媛県・愛媛義勇飛行場跡地【場所確定】
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2019/2/25
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岡山県・岡山練兵場着陸場跡地【場所確定】
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2019/2/24
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2019/2/23
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鳥取県・鳥取練兵場跡地【場所確定】
2018/12/7
熊本県・熊本北秘匿(高遊原)飛行場跡地【場所確定】
2018/11/21
秋田県・北楢岡飛行場跡地【場所確定】
長崎県・大村海軍航空隊跡地【場所確定】
2018/10/7
沖縄県・波照間島 緊急着陸用飛行場跡地【場所確定】
2018/10/6
茨城県・つくば滑空場【場所確定】
2018/9/17
鹿児島県・徳之島第二飛行場跡地【追加】
2018/4/30
静岡県・飛行第七連隊飛行場跡地【場所確定】
滋賀県・柏木航空基地(未着工)【場所確定】
2018/4/29
福島県・御代田飛行場跡地【場所確定】
2018/3/23
北海道・弟子屈不時着陸場跡地【場所確定】
2018/3/22
北海道・中標津不時着陸場跡地【場所確定】
2018/3/21
北海道・稚内不時着陸場跡地【場所確定】
2018/3/14
北海道・富浦不時着陸場跡地【場所確定】
2017/7/29
大分県・簑原秘匿飛行場【場所確定】
2017/6/30
熊本県・愛国熊本飛行場【追加】
2017/5/9
福岡県・百道飛行場跡地【場所確定】
2017/4/3
秋田県・後三年滑空機練習場【場所確定】
2017/3/5
岡山県・岡山市の滑走路跡地【場所確定】
岡山県・京橋不時着場跡地【場所確定】
2017/2/11
鹿児島県・永尾航空基地跡地【追加】
福岡県・小富士水上機基地【追加】
2017/2/9
広島県・下ヶ原航空基地跡地【場所確定】
2017/2/5
秋田県・六郷飛行場跡地【場所確定】
2017/1/23
広島県・オノミチフローティングポート【場所確定】
2017/1/15
福岡県・直方飛行場跡地【場所確定】
福岡県・春日原海軍飛行場跡地【場所確定】
2016/9/28
福島県・第三郡山航空基地【場所確定】
2016/9/24
滋賀県・柏木飛行場(未着工?)【追加】
兵庫県・宝塚滑空場【追加】
2016/9/19
新潟県・笹岡飛行場(工事中・推定位置)【場所確定】
新潟県・深才飛行場(工事中・推定位置)【場所確定】
2016/9/17
京都府・高津飛行場跡地【場所確定】
2016/9/12
福島県・浅川飛行場南北、東西滑走路【場所確定】
浪江飛行場候補地(推定箇所)【場所確定】
2016/9/5
山口県・和佐基地跡地【場所確定】
2016/9/4
千葉県・県営千葉県魚群探検飛行場跡地【場所確定】
群馬県・伊勢崎のULP【場所確定】
和歌山県・和歌山陸軍練兵場着陸場跡地【場所確定】
2016/9/3
千葉県 五井水上機基地【場所確定】
2016/8/22
滋賀県・大津陸軍少年飛行兵学校【場所確定】
福岡県・深江基地【追加】
山口県・屋代島(水上機基地)【追加】
島根県・別府湾基地【追加】
島根県・鹿島航空隊芦沢派遣隊【追加】
2016/5/30
大阪府・大阪防空飛行場跡地【場所確定】
滋賀県・八日市飛行場跡地【場所確定】
静岡県・三方原飛行場跡地【場所確定】
2016/5/28
長野県・赤砂飛行場跡地【場所確定】
長野県・笹部飛行場跡地【場所確定】
岐阜県・高山市北北東方上野平不時着場跡地【場所確定】
和歌山県・和歌山練兵場跡地【場所確定】
2016/5/26
山梨県・山梨飛行場跡地【場所確定】
2016/5/24
愛知県・衣ケ原飛行場跡地【場所確定】
2016/5/23
福井県・敦賀練兵場【場所確定】
2016/5/22
愛知県・伊良湖付近不時着場【場所確定】
長野県・上田飛行場跡地【場所確定】
新潟県・中越飛行場跡地【場所確定】
新潟県・高田練兵場跡地【場所確定】
福井県・鯖江練兵場跡地【場所確定】
2016/5/9
愛知県・伊良湖附近緊急着陸場【場所確定】
岐阜県・各務ヶ原飛行場 飛行第2聯隊飛行場【場所確定】
山梨県・甲府練兵場【場所確定】
鹿児島県・安納飛行場跡地【場所確定】
鹿児島県・高峰飛行場跡地【場所確定】
2016/5/8
熊本県・宮地飛行場【場所確定】
熊本県・帯山練兵場【場所確定】
熊本県・渡鹿練兵場【場所確定】
鹿兒島県・伊敷練兵場【場所確定】
2016/5/7
福岡県・筑後川左岸上寺付近着陸場跡地【場所確定】
福岡県・久留米練兵場 着陸場跡地【場所確定】
2016/5/5
愛知県・上伊保原付近不時着場【場所確定】
愛知県・小幡原射爆場不時着場【場所確定】
愛知県・名古屋城北練兵場【場所確定】
愛知県・三菱重工名古屋航空機製作所飛行場【場所確定】
2016/5/4
岐阜県・関飛行場【場所確定】
愛知県・高師ヶ原練兵場【場所確定】
大分県・大分練兵場【場所確定】
2016/5/3
高知県・仁淀川飛行場跡地【場所確定】
石川県・愛国金沢【場所確定】
愛知県・本地ヶ原【場所確定】
2016/5/2
岡山県・勢力河原の飛行場【場所確定】
2016/5/1
鳥取県・すいか空港【場所確定】
2016/4/23
奈良県・奈良航空教育隊跡地【場所確定】
2016/4/20
福島県・野沢秘匿飛行場候補地【場所確定】
2016/4/3
静岡県・浜名湖水上基地【追加】
2016/3/21
大阪府・藤井寺南/北滑走路【場所確定】
2016/3/13
気仙沼水上基地【追加】
2016/3/5
群馬県・尾島飛行場【場所確定】
2016/2/26
千町無田陸軍着陸場【場所確定】
2016/2/20
北海道・小樽水上飛行場【場所確定】
2016/2/3
大阪府・堺水上機飛行場跡地【場所確定】
2016/1/16
山口県・第二岩国秘匿飛行場【追加】
2016/1/15
山形県・竹形飛行場【追加】
2016/1/14
京都府・綾部秘匿飛行場【追加】
2016/1/11
京都府・JUDIA・ATRけいはんな試験飛行場【場所確定】
2016/1/10
長野県・野辺山滑空場跡地【場所確定】
2016/1/9
鳥取県・鳥取飛行場跡地(湖山池の水上機飛行場)【場所確定】
水戸フライングクラブ [├空港]
2011年12月訪問 2020/12更新
茨城県水戸市森戸町にある「水戸フライングクラブ」。
大洗サーキットが隣接しています。
マイクロライト専門の本格的なクラブで、あのロック岩崎氏が会長を務めておられたのだそうです。
オイラがお邪魔した際は無人でしたが、他サイトを拝見すると活発に飛び回っているようです。
茨城県・水戸フライングクラブ
水戸フライングクラブ データ種 別:場外離着陸場
所在地:茨城県水戸市森戸町668-1
座 標:N36°19′18″E140°30′46″
標 高:7m
飛行場:240mx140m?
滑走路:230m?
方 位:06/24
(座標、標高、飛行場長、滑走路長、方位はグーグルアースから)
沿革
1983年 創設
水戸南陸軍(吉田)飛行場跡地 [├空港]
2011年12月訪問 2021/12更新
Damage assessment photo intelligence reports of Far Eastern targets filed by area and contain all available information on the area: Mito Report No. 3-a(17), USSBS Index Section 7■
撮影日:1945年2月21日 (国立国会図書館ウェブサイトから転載)
【全体図】
撮影年月日1947/12/12(USA R636 122)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成・記事中全5枚とも)
【北東の角】
撮影年月日1947/12/12(USA R636 122)■
茨城県水戸市、前記事の「水戸東飛行場」の西南西約12kmにあった「水戸南飛行場」。
当時吉田村にあったため、「吉田飛行場」、「吉田の飛行場」とも呼ばれていたようです。
茨城県水戸市酒門町にあり、上図の通りで水戸南IC降りてすぐの所にあります。
現在も飛行場の地割がハッキリ残っており、跡地は畑に民家が点在している箇所が多く、
陸軍飛行場としては珍しく周辺と馴染んでいます(個人の感想です)。
■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中で当飛行場の情報がありました。
以下引用させて頂きます。
「水戸南陸軍飛行場 茨城県東茨城郡吉田村」
面積 北西-南東1,380米 北東-南西1,380米 総面積197萬平方米
地面の状況 概ね平坦にして植芝密生す、排水概ね良好
目標 水戸市、涸沼、陸前街道
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 (記載なし)
格納設備 格納庫11棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 陸軍對航空機無線通信所あり
観測設備 (記載なし)
給油設備 燃料補給し得
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり
地方風 10月-翌年4月間は北北西風、5-7月間は北東風、8,9月は東風なり
地方特殊の気象 (記載なし)
交通関係 (記載なし)
其の他 本場は陸軍航空通信学校なり
(昭和18年4月調)
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 水戸南
位 置 茨城県東茨城郡西内村?
規 模 要図(1400x1400)
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 一二〇〇〇名分
格納施設 掩体 有蓋×四〇棟 無蓋×一八ヶ所
摘 要 施設軍有
コメント欄にて、アクツさんから「畑の中に掩体壕が残っていた」と情報を頂いたので改めて航空写真を見てみました。
正方形の飛行場地区の西側は諸施設の並ぶエリアになっており、
それ以外の三辺は飛行場地区を取り囲むかのようにたくさんの構造物があります。
二番目の航空写真は飛行場地区北東の角地のアップなんですが、
ご覧の通りで飛行場地区外周に沿って方形の構造物が並び、
飛行場地区から少し離れた場所には誘導路と結ばれた、スペードマークのような形の構造物があります。
確証はないんですが、どちらも航空機が入りそうな大きさに見えるので、 航空機用の無蓋掩体壕ではないかと。
ざっと探してみた範囲の数字なんですが、
スペードマーク型の無蓋掩体壕と思われるもの(先頭のグーグルマップの赤マーカー)29、
方形の無蓋掩体壕と思われるもの(同青マーカー)28、合計57もありました(@Д@)
飛行場地区と掩体壕が誘導路で結ばれている様子が航空写真でも見てとれますが、
その誘導路がそのまま道路として今日まで残っていると思しきものが3カ所あり、紫のラインを引いてあります。
地元の方からは「当たり前だろ!」と怒られそうですが、国道6号って、この当時から変わらぬ位置にあったんですね。
ということで、終戦から二年後の1947年の当飛行場の航空写真には掩体壕がたくさん写っております。
その後、年代を追って閲覧してみたんですが、1961年位までは掩体壕がまだまだ確認可能な写真が多いです。
ところが1969年になると、掩体壕はもうほぼ確認できなくなっており、
ほとんど痕跡としか言えないようなものが数か所残るのみです。
無蓋ですからね~。
1969年までに掩体壕が"絶滅"してしまった理由としまして、 オイラの見た感じでは、
①宅地化 ②潰して畑になった ③植生が濃くなった が挙げられます。
アクツさんから頂いたコメントでは、1980年代後半まで掩体壕が残っていたとのことですので、
③の掩体壕が木々に隠れて残っていた。ということなのかもしれません。
この記事の先頭から2番目の【北東の角】の航空写真についてですが、当飛行場に数ある中でも、
特にこの部分の掩体壕がギッシリ、ハッキリ映っているので選んでみました。
で、特にこの箇所について以下1961年、1969年の航空写真を貼ってみます。
撮影年月日1947/12/12(USA R636 122)■
撮影年月日1961/06/11(MKT611 C20 13)■
撮影年月日1969/05/20(MKT692X C7 14)■
誘導路がそのまま道路として残る一方、掩体の方はすっかりなくなってしまいました。
赤マーカー地点。
茨城県・水戸南飛行場
水戸南飛行場 データ設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県東茨城郡吉田村(現・水戸市酒門町)
座 標:N36°19′56″E140°28′36″
標 高:31m
面 積:197ha(北西-南東1,380m 北東-南西1,380m)
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1937年 陸軍省、水戸東部沿岸地域に総合基地建設計画。先行して南部地域に飛行学校開校
1940年 10月1日 陸軍航空通信学校設立
1943年 飛行学校、仙台に移駐。明野陸軍飛行学校水戸分校開校
1944年 明野水戸分校、教導飛行師団に改編。特攻隊編成
1945年 5月 水戸教導航空通信師団に改編
この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
水戸陸軍(水戸東)飛行場跡地 [├空港]
2011年12月、2019年9月訪問 2020/12更新
撮影年月日1946/06/07(USA M158-A-5 30)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県ひたちなか市。
前記事の「水戸東飛行場」の南東約15kmにあった「水戸陸軍(水戸東)飛行場」。
現在跡地は「自動車安全運転センター」、公園、工場等になっています。
■「防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部」の中に当飛行場の地図があり、
先頭のグーグルマップはこの地図から作図しました。
「昭和18年1月調」資料添付のこの地図通りに作図すると、グーグルマップをご覧の通りで、
正方形の南西部分が諸施設で飛び出したような形ですが、
上に貼った1946年の航空写真では、北側に拡張したように見えます。
同資料の情報を以下引用させて頂きます。
「水戸陸軍飛行場 茨城県那珂郡前渡村」
面積 南北1,300米 東西1,400米
地面の状況 平坦なるも東より西方に向け1/200の下り片勾配を有す、硬度は普通にして排水良好なり
目標 那珂川河口、水戸市
障碍物 (記載なし)
離着陸特殊操縦法 離着陸方向は北西又は東西を可とす
格納設備 鉄骨造格納庫(84x50米)3棟、木造格納庫(42x45米)1棟
照明設備 (記載なし)
通信設備 (記載なし)
観測設備 陸軍気象観測所あり、航空気象を観測す
給油設備 あり
修理設備 応急修理可能
宿泊設備 兵舎あり、湊町及平磯町に旅館あり
地方風 年最多風向(北西)、年次多風向(北東又は南西)
地方特殊の気象 海陸風の影響あり
交通関係 阿字ヶ浦駅(湊鉄道)2粁 佐和駅(常磐線)7粁
其の他 (記載なし)
(昭和18年1月調)
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
にも当飛行場の情報がありました。
飛行場名 水戸
位 置 茨城県那賀郡前渡村
規 模 要図(1250x1100)
舗 装 一〇〇×六〇〇米 基礎砂利圧入 表層コンクリート 一〇糎
付属施設
収容施設 一七〇〇名分?
格納施設 掩体 大十九ヶ所 中十三ヶ所 小三ヶ所
摘 要 施設軍有
青マーカー地点。
飛行場方向
赤マーカー地点。
那珂湊運動公園から飛行場方向。
前述の資料付図によれば、画面左側に格納庫が2棟並んでいました(上に貼った航空写真にも映ってます)。
余談ですが飛行場北側に「国営ひたち海浜公園」があり、スタッフの方にここに何かないかお尋ねしてみたのですが、
わざわざどこかに問い合わせをして調べてくれ、特に飛行場関連のモノはないけど、ここは元射爆場だったと教えて頂きました。
茨城県・水戸陸軍(水戸東)飛行場跡地
水戸陸軍(水戸東)飛行場 データ設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県那賀郡前渡村(現・ひたちなか市新光町)
座 標:N36°23′26″E140°34′57″
標 高:32m
滑走帯:1,300m×1,400m(グラス)
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革(つばさの塔碑文より)
1938年 水戸飛行場設定
1939年 水戸陸軍飛行学校が開校
1940年 水戸南飛行場に陸軍航空通信学校開校。通信教育と研究を移管
1943年 8月、 明野陸軍飛行学校分校開校。水戸校は仙台に移駐
1944年 6月、 分校を常陸教導飛行師団に改編。本土防空の作戦任務
11月 この月以降特別攻撃隊
1945年 4月、 師団主力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至る
この記事の資料:
水戸つばさの塔碑文
防衛研究所収蔵資料:陸軍航空基地資料 第1 本州、九州 昭19.10 水路部
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
水戸北飛行場跡地 [├空港]
2011年12月訪問 2020/12更新
撮影年月日1946/03/16(昭21)(USA M75-A-5 6)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
茨城県那珂市にあった「水戸北飛行場」。
水戸飛行場の北西約15.5kmに位置していました。
歴史民俗資料館(紫マーカー地点)に「パイオニア」という当飛行場についての非常に詳しい冊子があり、
先頭のグーグルマップはこの冊子から作図しました。
■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
に当飛行場の情報がありました。
飛行場名 水戸北
位 置 茨城県那賀郡戸多村
規 模 要図
舗 装 ナシ
付属施設
収容施設 三〇〇名分
格納施設 掩体 有蓋三棟
摘 要 施設軍有
特攻機の拠点として20万人以上を動員して建設、
滑走路はなく一面に芝が張られましたが、完成目前で終戦。
終戦間際の時期、囮の木製戦闘機が数機置かれていました。
戦後、飛行場は開拓地として那珂市域では最も早く旧軍人に解放されたのですが、
飛行場建設の際立退きを迫られた地元農民が跡地の返還を要求し、入植者との土地を巡るいさかいがあったのだそうです。
赤マーカー地点。
飛行場入り口付近。飛行場外郭沿いに幅約3mの排水溝が現存しています。
茨城県・水戸北飛行場跡地
終戦前に練習機が数機が飛び立つのが目撃されたという記録があります
水戸北飛行場 データ
設置管理者:旧陸軍
種 別:特攻用飛行場
所在地:茨城県那賀郡戸多村(現・那珂市飯田)
座 標:N36°27′16″E140°26′38″
標 高:39m
面 積:300ha
(座標、標高はグーグルアースから)
沿革
1944年02月頃 着工(1943年?)
1945年08月終戦。その後開拓地として解放
この記事の資料:
パイオニア
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
十王飛行場 [├空港]
2011年12月訪問 2020/12更新
茨城県日立市にある「十王飛行場」。
MLP主体のクラブです。
オイラがお邪魔した時には立ち入り禁止になっていて、飛行場の東側に滑走路が見えそうな道があったのですが、
工事中で通れませんでした。
近くに「パノラマ公園展望台」があったので登ってみたのですが、滑走路発見できず。。。とほほ
茨城県・十王飛行場
資格取得に向けた指導訓練を行っているのだそうです
十王飛行場 データ
設置管理者:日立フライングクラブ
種 別:場外離着陸場
運用期間:土、日、祝日
所在地:茨城県日立市十王町友部
座 標:N36°40′01″E140°40′10″
標 高:92m
滑走路:340m×50m
方 位:03/21
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1985年 クラブ創設
関連サイト:
公式サイト■
御前原飛行場跡地 [├空港]
2011年12月訪問 2020/12更新
撮影年月日1947/11/21(昭22)(USA R585-No1 1)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
栃木県矢板市の「御前原(ごぜんはら)飛行場」。
同じ栃木県の大田原市にあった「金丸原陸軍飛行場」を分散する際、
「埼玉飛行場」の他に候補となったのがこの「御前原飛行場」なのだそうです。
先頭のグーグルマップは例によって滑走路の位置なのですが、
これは既出の資料に出てくる一般的な滑走路位置とは異なるオイラの仮説です。
どういうことなのか以下その理由を。
確認できる資料によれば当滑走路の長さは1,200mであり、この飛行場の位置について、
「矢板東高校と御前原城跡の間にあった」、「御前原城跡北側にあった」と記されています。
ですから資料の通りに作図しようとすると、高校~シャープ工場の辺りに滑走路があったはず。
高校~お城の間は丁度1,200m位で、オイラも最初はここに滑走路があったのだと思ったのですが、
調べていくうちに幾つか疑問点が出てきました。
・終戦から2年後の写真でこの位置を見ると、滑走路跡の形跡は全くなく、人工的なかなり濃い地割が幾つも見られる
→たった2年で滑走路の痕跡をすっかり消し、こんなに地割が造れたとは考えにくい
・城跡の周囲には、掘と土塁が現存しており、堀底と土塁頂部との比高は約4.22~4.68mもある
→滑走路端がこんなに凸凹していたとは考えにくい
紫マーカー地点。
同じく紫マーカー地点。
こんな感じで土塁と掘で凸凹しています。
「矢板東高校と御前原城跡の間にあった」という情報を文字通り捉えると、両者の間はピッタリ1,200mなので、
ここに1,200mの滑走路とすると、もうこの堀のところからすぐに滑走路を造らねばなりません。
こちら側に向かっての離陸だと壁に向かっての離陸になる訳で、
エンスト等何かトラブルで離陸中断をした場合、ここに突っ込んでしまうとタダでは済みませんし、
こちら側に向かっての着陸も、止まり切れないと同様に大事故につながりかねません。
如何に戦時中とはいえ、わざわざこんな凸凹した場所を滑走路端に設定するというのは、オイラには考えにくいです。
お城を背にして離陸/着陸すれば、凸凹問題は解決できるのですが、
「離着陸は風上に向かって」が鉄則で、運用に制約がつくことになります。
一方、当時の航空写真を見ると、城跡のすぐ西側に幅約65mで南に伸びる白い地割があります。
そしてこの地割は真っ直ぐ1,200m以上続いています。
それで、定説とは異なり、実はこっちが滑走路なんじゃないだろうかと考えたのでした。
現地の図書館には2度お邪魔していろいろ調べてみたのですが、
滑走路位置を特定できるような資料を(少なくともオイラは)見つけることが出来ませんでした。
ということで、冒頭の滑走路位置はあくまでオイラの推測でしかないのでご承知ください。
どなたか正確な位置情報をお持ちの方、情報の根拠と共に教えて頂けるととても嬉しいです。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
…と、ここまでが2012年4月に書いたことなんですが、 2018年1月にたまパパ様からコメントを頂きました。
当地の知り合いの方々に半年もかけて聞き取り調査をしてくださり、
「シャープ矢板の研究開発センタビルの西側」、「滑走路?は1kmもなかったと思う」
との証言を大田原在住の80歳近くの方から得てくださいました。
コメントを頂いた時点で80歳近いということは、終戦時は5歳前後でしょうか。
航空写真で見ると終戦から2年後でも滑走路の地割は依然ハッキリ残っており、
当地では今も飛行場のあった場所を「滑走路」と呼ぶ方がおられるそうです。
「お城の西」というのは、これまではオイラの仮説でしかなかったんですが、
初めて地元の方から非常に貴重な情報を頂くことができました。
たまパパ様、地元の皆様、本当にありがとうございましたm(_ _)m
ということで、「シャープの西側に滑走路があった」ということを前提に、改めて航空写真をじっくり見返してみました。
滑走路らしき地割は、同じ幅を保ったまま正確な直線で約1,500m続いています。
それでこの範囲内に滑走路があったはずです。
南端部分は比較的特定し易かったんですが、問題は北端部分。
お城のすぐ西側からスタートして、700m弱位までは明らかに滑走路っぽいんですが、
その先が一体どこまでが実際に滑走路だったのか判別が難しいです。
2012年4月にこの記事をアップした際に滑走路の作図をしたのですが、その時の滑走路の長さは1,240mでした。
で、今回改めて作り直しをしまして、最も可能性の高そうな位置で線を引いた結果、
上のグーグルマップの滑走路は、1,190mとなりました。
地元の方の仰る通り1kmもなかったとすると、滑走路北端部分はここよりもっと手前ということになります。
一方で1,200mという具体的な数字も残っている訳で、どうしたものかと悩むのですが、
御前原飛行場の建設は、昭和19年の秋から原野の伐採、整地が始まったのだそうで、
翌年の夏に完成を見ることなく終戦を迎えました。
もしかすると、軍の計画では1,200m(あるいはもっと長かったかも)だったものの、
終戦により工事が途中で終わったため、地元の方の目にはそれよりもずっと短いものに映った。
ということもあるのかも。
ということで、現段階では「両論併記」の形とさせて頂きたいと思います。
ご了承くださいませ。
防衛研究所には毎年資料閲覧しに行っているのですが、何か当飛行場に関係する資料を見つけた時には、
この記事内でご報告させて頂きます。
そして更に情報をお待ちしておりますm(_ _)m
黒マーカー地点。
滑走路北側
この少し先から滑走路が始まっていたはずです。
赤マーカー地点。
滑走路南側
この辺りから滑走路だったはずです。
栃木県・御前原飛行場跡地
御前原飛行場 データ設置管理者:陸軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:栃木県矢板市東町
座 標:N36°47′33″E139°56′26″
標 高:188m
滑走路:1,200m?(「1kmもない」とする地元の方からの証言あり)
方 位:16/34
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年 秋 原野の伐採、整地などを開始
1945年08月 15日 未完のまま終戦
この記事の資料:
城跡にあったパンフレット、説明版
「ふるさと矢板のあゆみ」
HondaJet・2 MH02 [├雑談]
HondaJet・1 年表■
HondaJet・3 エンジン開発■
HondaJet・4 OTWEM■
HondaJet・5 翼型■
HondaJet・6 機体の特徴など■
ツインリンクもてぎのファンファンラボに中二階があり、ここにホンダがこれまで開発してきたヒコーキ関係が展示されています。
展示物の主役はコレ。実験機「MH02」(N3079N)。
実験用飛行機MH02 主要緒元
6人乗り エンジン:JT15D-1型ターボファンx2基(プラットアンドホイットニー・カナダ社製)
1基あたりの定格出力600kgfに減挌して使用
オールコンポジット機体。前進翼(前進角12度-1/4翼弦)
全長:11.25m 全幅:11.24m 全高:4.18m 最大離陸重量:3,629kg
最大速度(推定値):353ノット(654km/h)/9,144m
操縦系:補助翼、昇降陀およひ方向陀にタブを搭載した人力操縦方式、
主翼には前縁スラットおよび後縁トリプルスロッテッドフラップを搭載。
降着装置:引込み式三輪装置。主脚は内向きに、前脚は前方に、それぞれ胴体内に引込まれる。
オイラが初めてこのヒコーキのことを知ったのは、1995年発行の「世界航空機カタログ」という本の中でした。
この本の中ではこの機体の名称がなぜか"UA-5"と紹介されていて、
「機体寸法や性能、搭載エンジンなどの緒元や仕様、コンセプト図、初飛行やフライト・スケジュールは一切公開されていない。また、実用化の予定もないとしている」
と説明されており、初のタキシーテスト時にスクープされたという小さな写真が掲載されていました。
当時はネットでいろいろ検索することもできず、かといってホンダ本社に電話する度胸もなく
(いきなり電話されても困るでしょうけど)、
非常にミステリアスなヒコーキで気になって気になって仕方ありませんでした。
そして今から10年位前、ツインリンクもてぎでこのヒコーキと対面することになったのです。
当時は確か1Fに展示されていたハズ。
カメラを持っておらずただ眺めるだけだったので、今回改めてお邪魔したのでした。
展示されているMH02は自由に操縦席に座って操縦桿を操作し、舵を動かすことができます。
これが大人気。小さなお子様から大きなお友達まで大勢列を作っており、
随分待って人が途切れたところですかさず撮影しました。
後席の窓の形が三角、丸、四角と様々ですが、乗る人が楽しく外を見ることを考えていろいろな形を試したのだそうです。
この機体はホンダがジェネラルアビエーションの将来技術研究プログラムの一環として、
独自に設計、開発した実験用小型ビジネスジェット機です。
世界初のオールコンポジット機で、主翼と尾翼の桁、小骨、外板および胴体の肋材や外板等、
すべての構造部材に軽量化に効果のあるカーボン繊維強化エポキシ樹脂を採用しています。
ミシシッピ州立大学(MSU)と共同で組み立てを行い、1993年に初飛行。
性能、操縦安定性、フラッターや失速など170時間に及ぶ様々なフライト・テストを実施した後、
1996年8月に一連のプログラムを終了しました。
ところでこの実験機、MH"02"となっていますが、ちゃんと「MH"01"」もあり、
これは既存の単発ターボプロップ機を用いて主翼と尾翼を改造した機体なのだそうです。
今も残っているのかしらん。
コックピット内部。
後席は機器類がギッシリでした。
エンジン:JT15D-1型ターボファンx2基(プラットアンドホイットニー・カナダ社製)。
最初からビジネスジェット機に使用することを前提として開発されたエンジンなのだそうです。
■翼上面エンジン配置
少し前の記事■ で書きましたが、飛行中は翼が胴体を引っ張り上げるため、翼の付け根には大きな力が掛かります。
翼に重いエンジンを載せると、翼がめくり上がるのを押さえる重石の役目になり、翼付け根の負担を減らす効果があります。
そして、単にエンジンを翼の上に載せるだけでなく、その位置を翼の端の方にすればするほど、
付け根の負担を減らすことができます。
一方、飛行中片方のエンジンが停止してしまうと、機首が停止した側に振れてしまうため、
片肺飛行時の直進安定性のことを考えると、左右のエンジンはできるだけくっついている方が良いことになります。
つまり、主翼付け根負担軽減のためにはエンジンの間隔が広い程良く、直進安定性のためには狭い程良い訳です。
ところでMH02のエンジン配置で左右のエンジンをあまり近づけ過ぎると、
後方の垂直尾翼に排気が当たってしまって、じゅー。という事態に。
オイラが思いつくのはこの程度でしかないのですが、相反する要素をいろいろ考慮してこの位置に落ち着いているのでしょうね。
小さくしか映っていないのですが、上の写真右側、主翼前縁に点々が並んでます。
これで飛び立つ時の翼の上を流れる空気をコントロールする効果をテストしたのだそうです。
■低い胴体
ここから先の話も少し前の記事■ で書きましたが、ビジネスジェット機は「低翼、リアエンジン方式」というのがお約束の組合せです。
ところがこの実験機、ご覧の通りで高翼、しかも翼の上にエンジンが載っているという、非常に特異な形状です。
揚力を効率よく発生させるためには、翼の上をクリーンにするのがセオリーで、
主翼の上にエンジンを載せたヒコーキというのはほとんど例がありません。
高翼式ですから、数多のヒコーキ設計者はここで、
「エンジンを主翼に取り付けるのなら翼の効率、整備性を考えて当然吊り下げ式だ」と考えるはずです。
この非常に独特な形状に関してこんな説明がありました。
(説明版より) 「乗り降りしやすいドア 自動車感覚で簡単に乗り降りができるように、操縦席の左右にドアがついている。
また胴体の床が低くすることができたのは、高い位置に翼をつけたからなんだ。」
「MH02」が高翼、翼上面エンジン配置にデザインされたいきさつについて、確たることは知らないのですが、この説明にある通り、
まず「乗り降りの利便性ありき」で、「キャビンはできるだけ低く」からデザインが始まったのだとすれば、
MM思想のホンダらしいなぁ、と思いました。
横から見ると、もう限界と言える程胴体位置が低いですね。
着陸時は滑走路にお尻を擦っちゃうような感覚なんじゃないでしょうか。
説明にある通り、翼を上に取りつけ、「足が短い」からこそ可能になった低さで、まるで乗用車に乗り込むような感覚です。
降着装置は飛んでいる時には無用の長物で、できるだけ短い方が軽くて済み、
特にこういう小型機の場合は収容スペースも小さくて済むので非常に都合が良い訳ですが、
着陸時に横風等で機体をロールさせてしまうと、翼やエンジンを滑走路に擦ってしまう危険性があるため、
足の短い機体を操縦するパイロット達は神経を遣うのだそうです。
特にこんなに胴体が低い機体で低翼だと、ほんの少しロールしただけでたちまち翼端を擦ってしまうことになります。
でもこの機体は主翼もエンジンも上にありますから、
足が非常に短いにもかかわらず横風着陸でもそれほど気を遣わなくて済みそうです。
「脚がすごく短いのに横風着陸もオッケーな小型機」ということで、
この意味では、通常のビジネスジェットなら相反するところを美味しいトコ取りしていることになります。
エンジンを翼の上に載せた理由として一説には、
「手頃なエンジンが入手できず、大きなエンジンになってしまった。もう主翼の上しか搭載場所が残っていなかった。」
ので、こういう形状になったのだとか。
確かにこんな太いエンジンをこのコンパクトな機体に取り付けようとすると、
通常は胴体尾部に付けるか主翼吊り下げのどちらかになるわけですが、
この重くて大きなエンジンを胴体尾部に付けようとすると、このままでは飛行中の機体前後バランスが大きく崩れてしまいます。
このエンジンは乾燥重量223.5kgなのだそうで、それが2基、そしてエンジン関係の機器類、配線配管、支持部材等諸々含めると、
自重に対する割合はかなりのものになるはず。
次の項目で書きますがこの機体は前進翼なので、ただでさえ主翼取り付け位置が後方に寄っており、
これでエンジンが尾部にあると、やってできないことはないんでしょうが、
前後のバランスを取るために機体形状が大きく変わってしまい、
エンジンを尾部に付けるために払う代償が大き過ぎる気がします。
それではと主翼吊り下げ式にすると、機体前後のバランスは申し分ないのですが、
今度はエンジンが地上ギリギリで、地上に擦ってしまったり、異物吸い込みの心配がありますから、
もっと足を長くて重いものにする必要があり、当然乗り込み位置が高くなってしまいます。
「胴体床を可能な限り低く」、「前進翼採用」というのが絶対条件で、使用エンジンがこれしかないとすると、
主翼とエンジンは多分こういう形状に落ち着くのではないかと思います。
■前進翼
ほとんどのジェット旅客機の主翼は斜め後方に傾いています。
いわゆる「後退翼」で、いかにも速そうなのですがこの機体は逆で、主翼が前方に12°傾く「前進翼」になってます。
前進翼の特徴は後退翼と同じで衝撃波の発生を遅らせることができ、高速性に優れていること。
特に前進翼としての長所は、機動性が高く、失速特性に優れていること。
短所は構造を非常に丈夫にしないといけないため、重くなってしまうこと。
なぜ丈夫にしないといけないかというと、主翼が揚力を発生させ、翼の先端が少し上にしなったとします。
すると機首が持ち上がり、余計に主翼の先端がめくれ上がる方向に風を受けやすくなり、更にしなります。
するともっと機首が持ち上がり、更に余計に主翼の先端がめくれ上がる方向に風を受けやすくなり、更にしなり…
と、どんどん主翼をねじり壊していく方向に進んでしまいます。
そんなことになってしまうと大変ですから、主翼をしなりに対して非常に強く作らねばなりません。
結果、同じ面積の他の翼と比較して前進翼はうんと重くなってしまうのですが、
カーボン複合材を使うことで実現が可能になったのだそうです。
前進翼には空力的に大きなメリットがあるのですが、自分で自分を壊してしまうリスクがあるため、うんと頑丈に作らねばならず、
大型機には不向きなことと重量過多がアダとなり、
日本が第二次大戦中に後縁のみ僅かに前進角を付けた主翼を採用した例がある他、
グライダー、ビジネスジェット機で僅かに実用例があるだけに留まっています。
「高い機動性」という長所から、戦闘機に真っ先に採用されそうな気がするんですが、
戦闘機ではアメリカとロシアで僅かばかりの実験機があるものの、今のところ実用化の話は聞きません。
こうした事例は如何に前進翼が特異なものかを示していると言えるでしょう。
余談ですが、これからの戦闘機には高度のステルス性が求められ、この前進翼はステルス性が非常に悪いため、
今後前進翼の戦闘機が登場することはもうないだろうと言われています。非常に目を引くデザインなんですけどね。
(「前進翼とステルス性能は無関係だ」という意見もあるのですが、高度の機密なので一般人レベルではハッキリしたことは分からないようです。 この件で真相をご存じの方、絶対漏らしませんからオイラだけにコメント欄でこっそり教えてください。【薄謝進呈】)
それはともかく、元々ホンダが作ろうとしたのは、「仕事などで町から町へ飛び回る人のための小型ジェット」。
実験機とはいえ、そこに高翼、前進翼、翼上面エンジン配置という、
通常の小型ジェット機の概念を覆すデザインを採用してしまうというのがいかにもホンダらしい気がします。
■その他
フラップにはトリプルスロッテッドフラップが奢られています。
主翼は前進翼で前縁スラットも装備しており、可能な限り短距離離着陸性能を向上させたいという意図がうかがえます。
また、この機体は普通に胴体尾部に水平尾翼を取り付けると、エンジン排気が近くて じゅー。となってしまいそうです。
それと、水平尾翼上面を排気が流れることになりますから、本当は下向きの力を発生させないといけないのに、
逆になんか揚力発生しそうです。よくわからないですけど。
そのためこの機は水平尾翼がうんと上方に取り付けられています。
尾翼がこういうT字型の場合、垂直尾翼の面積を小さくすることができるのですが、
この垂直尾翼はやけに大きく、というか高く見えます。
垂直尾翼をうんと高くして、水平尾翼をうんと高い位置にしているのはディープストール対策でしょうか。
それと、垂直尾翼に強い後退角がついているため、水平尾翼が胴体の尾部より後方にあります。
これはモーメントアーム(主翼と水平尾翼の距離)を稼いでピッチ制御を容易にするためなのではないかと思います。
多分ですが。
この機体、炭素繊維を樹脂で固めた複合材を使用しています。
1993年に初飛行したのですが、当時の技術としては「オールカーボン複合材の機体」というのは
世界の航空界でも先端技術で、技術的にかなり困難だったのだそうです。
1986年から始まった航空機研究プロジェクトは、
このMH02の1993年~1996年まで実施された各種テスト飛行で一旦終了しました。
この間10年。
自分たちで設計、製作し、実際に飛ばすという経験を通して、航空機開発の手法やプロセスの確立という得難い経験を体得しました。
HondaJetの開発はその翌年からスタートするのですが、
この10年プロジェクトに当初から参加していたメンバーの1人に藤野道格という人物がおり、
この藤野氏が HondaJetの開発責任者になり、10年間の経験を生かして新しい機体のデザインを進めました。
現在は氏がHondaJet機体製造会社の社長になっています。