埼玉県・吉見百穴地下軍需工場跡 [├場所]
埼玉県比企郡吉見町にある「吉見百穴」。
約1300年前の古墳時代終末期の横穴墓群で、岩山に横穴が沢山開いています。
戦争末期、ここに地下軍需工場の建設が行われ、 「吉見百穴地下軍需工場」とされました。
工場建設に伴い数十基の横穴が破壊され、中島飛行機のエンジンが作られました。
「地下軍需工場」というと、地中深く潜った先にあるようなイメージだったのですが、
入り口から水平にトンネルが続いており、トンネルが格子状に続いている感じです。
入り口から奥には進めないようになっていました。
現在公開されているのは10分の1の広さにも及ばないのだそうです。
現地に掲示されている説明版と、受付で頂いたパンフをまとめるとこんな感じでした。
「昭和19年末~20年の初め、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られました。
今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡です。
地下軍需工場は空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたもので、
縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴です。
第2次世界大戦の末期、東京都武蔵野市にあった中島飛行機工場は、地下に移転する計画がありましたが間に合わず、
空襲によって生産能力が10分の1に落ち込んだと言われています。
そのため移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に
現在のさいたま市にあった中島飛行機大宮工場エンジン製造部門の全施設を移転することになりました。
軍需工場の区域となったのは松山城跡から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル部分でした。
軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山付近」の4工区あり、それぞれの工区は独立していました。
ダイナマイトを使用して工事は進められましたが、工事に適した凝灰質砂岩は百穴と岩粉山付近にしか分布していません。
松山城下には固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航し、
またその方法は工事を進めながら同時に設計も行うという作業のため、
掘削しては測量し、高低や方向を修正したと言われています。
トンネルは幅4メートル、高さ2.2メートルの馬蹄形で現在公開されているのは、
左右500メートルに亘り山腹に掘られた一部で10分の1の広さにも及びません。
7月頃には完成した場所に工作機械が搬入され、大宮工場から移転した従業員や勤労労働員学徒により
エンジンの部品が製造され始めましたが本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。
この工事に携わったのは全国から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事でした。
掘削工事に従事した最後の1人の帰国に際し、関係者により催された懇談会の席上、
日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの苗は現在でもこの地で生長を続けています。」
埼玉県・吉見百穴地下軍需工場跡地
吉見百穴地下軍需工場 データ所在地:埼玉県比企郡吉見町北吉見324
座 標:N36°02′23″E139°25′16″
(座標はグーグルアースから)
沿革
1944年 この年の末着工
1945年07月 この頃エンジン部品製造開始
08月 終戦