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嘉手納(旧中、屋良)飛行場 [├空港]

   2012年1月訪問 2024/4更新   


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撮影年月日1945/01/03(USAokinawa 5M3B 12) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
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Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6 
(国立国会図書館ウェブサイトから転載。2枚とも)
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国立国会図書館デジタルコレクション/
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SkyVector.com

沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町にある「嘉手納飛行場」。

極東における米軍の最重要基地です。

沖縄には4レターコードのつく米軍の飛行場が当嘉手納以外にも3つ(伊江島補助・読谷補助・普天間)あるのですが、

嘉手納飛行場には3レターコードもついています。

この嘉手納飛行場、 元々は旧日本陸軍の中(屋良)飛行場として建設され、占領した米軍により拡張され今日に至ります。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」の中に、

「沖縄中飛行場構成(進捗状況)計画要図」があり、誘導路と掩体壕まで描かれていました。

先頭のグーグルマップは、この「要図」から作図しました。

同資料に記されている情報を以下引用させていただきます。

判決
沖縄中飛行場は単一飛行場にしては完成し航空作戦任務達成に
支障なし然れ共本飛行場は沖縄北飛行場と相提携し靭強なる
航空基地として有機的機能を発揮さしむる為主恒風に対し
滑走路を新設し之等を有機的に連結せしむるを要す

日本軍の中飛行場であった当時、現在と同じく北東~南西方向の滑走路が設けられていた訳ですが、

「要図」にはこの滑走路の東側に、破線で南北方向の滑走路と誘導路が描かれています。

これについて直接の言及は無いんですが、この情報に出てくる、

「主恒風に対し滑走路を新設し之等を有機的に連結せしむるを要す」

がこれに当るのではないかと思います。

「要図」でも、建設済みの誘導路、掩体壕に被さるようにして新しい滑走路が計画されています。

こんな計画があったんですね。

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赤マーカー地点。

基地北側にある「道の駅かでな」の4F展望場から撮りました。

以下、同展望場から。

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第2章  旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 (15コマ目)にこんな一節がありました。 

(4)嘉手納飛行場(陸軍沖縄中飛行場・屋良飛行場)
  沖縄中飛行場は沖縄北飛行場(読谷飛行場)の代替飛行場として昭和19年(1944年)5月初旬に着工、同年9月末に一応の完成をみた。用地は北谷村、屋良、嘉手納、東、野里、野国、国直にまたがる約47万3,170平方㍍に及ぶ広大な耕作地を接収した。 工事は徴用労務者を動員して急速に進められた。
  飛行場用地の接収は、嘉手納の場合、他より遅れて昭和19年(1944年)4月ごろから着手された。緊迫した戦局下
での急速設定であったため、用地接収に当たって村当局や関係地主への事情説明や意思確認もないままに強制的に接収されたようである。ただし、飛行場用地一帯は耕作地で作物が植えつけられていたため、軍は係官を村当局に派遣して、予定地内の作物の撤去を口頭で命令してきた。
   5月7日、嘉手納飛行場派遣隊は同村屋良国民学校で起工式を挙行した。軍司令部の飛行場設定計画では、沖縄北飛行場は大型用として、他の中・南・東は小型用の飛行場で、滑走路は1,500㍍×200㍍の短冊型一本で、工期は第1期は5月中、第2期が6~7月中となっていた。第1期で50㍍幅の滑走路を設営し、第2期で200㍍にして拡幅して完成させる計画であった。
  突貫工事は昼夜兼行で進められ、9月末には読谷、嘉手納の両飛行場ともほぼ完成を見るにいたった。
  嘉手納飛行場(沖縄中飛行場)は、はじめ隣接する読谷飛行場(沖縄北飛行場)の補助小型飛行場として着工されたが、中途から読谷飛行場の大型機を秘匿する駐機場という役割を果たすことになった。
  昭和20年(1945年)4月1日、北谷海岸と読谷山海岸に上陸した米軍は午前中までに嘉手納飛行場と読谷飛行場を占領し、ただちに滑走路の修復と拡張工事を開始して使用できる状態にした。日本軍は10日ほど後に読谷・嘉手納飛行場の奪回を企図し総攻撃を決行したが、作戦は失敗した。 

また同7コマ目には、1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、 こうありました。

「中(嘉手納)飛行場は読谷飛行場空襲のすぐ後に空襲された。空襲は瞬時しかも猛烈を極め、兵舎は炎上、滑走路には無数の弾痕や飛散物が残され、また民間の家屋の全焼全壊も129戸に及んだ。」 


      沖縄県・嘉手納(中、屋良)飛行場     
嘉手納基地はアラスカからフィリピンまでの空域をカバーするとされており、米国本土や他の在日米軍基地から年間延べ18,000機が飛来し、そのうち40~50機の外来機は常駐化しているとされています(道の駅かでな学習展示室より)。スペースシャトルの緊急着陸地としても指定されていました

・中、屋良飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
主滑走路:1,400mx90m?(05/23)
副滑走路:1,260mx50m?(18/36)・計画
(滑走路長、方位はグーグルアースから)

・嘉手納飛行場 データ
設置管理者:米空軍
3レター:DNA
4レター:RODN
種 別:陸上飛行場
所在地:沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町
座 標:N26°21′06″E127°46′10″
標 高:44m
面 積:1,997ha
滑走路:05L/23R 3,688m×91m
      05R/23L 3,688m×61m     

沿革
1944年 旧日本陸軍航空本部が北飛行場(現在の読谷補助飛行場)に引き続き建設を開始
     十・十空襲による甚大な被害    
1945年 3月 旧日本陸軍中(屋良)飛行場完成。読谷飛行場の補助飛行場とされる。 1,500mx1本
     同月30日 32軍破壊命令
     4月1日 本島に上陸した米軍に直ちに占領され、本土攻略のための前進基地として整備拡張が行われる
     6月 2,250mの嘉手納飛行場完成。B-26やB-29等大型爆撃機の主力基地、米軍航空基地の中枢となる
     9月07日 日本軍、嘉手納で無条件降伏文書に調印
1947年 3月 この頃基地が整備拡張される
1954年 2月 嘉手納飛行場を使用して日本航空が東京-沖縄線(週2往復)開業。後に那覇空港に移管
1955年 9月 嘉手納村で米兵が幼女を暴行、殺害
1962年 12月 米空軍輸送機、嘉手納村屋良に墜落。日本人2人死亡、8人重軽傷、住宅3棟全焼
1965年 7月 嘉手納に飛来していたB52、南ベトナムを爆撃
1966年 5月 KC-135空中給油機がコザ市と嘉手納村との境界に墜落、村民1人死亡
1967年 5月 3,689mの滑走路2本完成
     5~11月 屋良区の井戸が基地から漏れた排油で汚染
1968年 2月 嘉手納村議会、基地撤去要求決議を採択
       台風避難を理由に飛来したB52部隊が常駐
     11月 B-52爆撃機墜落爆発。村民の重軽傷者16人、校舎・住宅等に被害。同機の撤去運動が一層高まる
1970年 B-52をグアムのアンダーセン空軍基地へ移管
1972年 5月 KC-135空中給油機、コザ市と嘉手納村との境界に墜落。村民1人死亡
     7月 基地配備の超音速高度戦略偵察機SR71、1機が着陸に失敗し炎上
1976年 1月 嘉手納村、町制に移行
     5月 基地から住民地域にジェット燃料が流出
1981年 3月 F-15イーグル戦闘機の配備完了
1982年 2月 基地周辺6市町村住民が国を提訴
     11月 基地から屋良小学校付近の排水溝にディーゼル燃料流出
1987年 5月 基地所属F-15戦闘機1機が沖縄本島東海上に墜落
1987年 12月 ソ連のTu-16バジャー偵察機が嘉手納基地上空を飛行。スクランブルした航空自衛隊機が警告射撃。
1994年 4月 弾薬庫に基地所属のF-15戦闘機が墜落し爆発
1995年 10月 基地所属のF-15戦闘機、喜屋武岬沖で墜落
1996年 10月 弾薬庫でミサイルがトレーラーから落下
1999年 6月 ハリアー1機が離陸に失敗し墜落、炎上
1999年 12月 遮音壁(長さ2.3km 高さ5m)完成
2002年 8月 基地所属F-15戦闘機が基地南方海上に墜落
2004年 12月 弾薬庫地区から赤い煙が嘉手納高校に流れ込み充満
2006年 3月 F-15戦闘機から訓練用照明弾1個が住民居住地に落下
2007年 2月 F-22ラプター12機がラングレー空軍基地から派遣(5月10日に撤収)。(初の国外配備)
2007年 5月 大量のジェット燃料流出

関連サイト:
第2章  旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」


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