沖縄旅行・2 [■旅行記]
Ⓐホテルゆがふいんおきなわ→Ⓑビースリー飛行場跡地→Ⓒ本部港→与論港→与論空港→与論港→Ⓒ本部港→Ⓐホテルゆがふいんおきなわ
2日目。
5:00 起床
6:00 出発
昨晩チェックインの際、「朝食バイキングもありますよ」と言われたのですが、
1,300円というオイラにとってはあり得ない金額だったのでパスしました。
今回の旅行は一応、「沖縄県の飛行場/跡地見学」ということになっているのですが、
本日は今回の旅行中唯一沖縄県以外の島に行きます。
9:10の船で与論島に行くのですが、その前に「ビースリー飛行場跡地」へ。
この時期の日の出は7:18。
大分早く着いてしまったのですが、明るくなるのを待って撮影終了。
時間的には港近くの「本部監視哨」にも寄れたのですが、
ここは老人ホームの敷地からでないと見れないので職員さんに許可を得る必要があります。
時間的に早すぎるため、そのまま大人しく本部港へ。
自宅で予約してあったのですんなりチケットゲット。
「船まではターミナルからバスに乗ってもいいし、すぐそこに接岸だから歩いてもいいですよー」と言われました。
フリーダムなんですね~(o ̄∇ ̄o)
来ました。
7:00に那覇港を出港して来た船です。
8:50 に当本部港に着き、9:10 出港。
その後、沖永良部、徳之島、奄美大島と島伝いに北上し、翌朝8:30 鹿児島に入港します。
ちなみに那覇港からここ本部港までは二等2,140円。
ここの港から美ら海水族館までは約10kmなんですが、こうやって船で移動するテもあるんですね。
8:53 ほぼ予定通りの入港でした。
牛さんの入っているコンテナ。ものすごくゆっくり運んでました。持ち上げるのも最小限。
リフトのおぢさん心優しい海の漢だぜ!
9:30 出港。予定より20分遅れでした。
本島と瀬底島を結ぶ瀬底大橋。確か以前雅さんの記事に出ていたような。
船室は行先で分かれてました。
しばし爆睡。
与論港。
11:55 入港。
予定より10分遅れです。
ちょっと戻しました。
下船したのは地元の方が多かったようで、
待ち構えていた家族らしい車に乗ってあっという間に居なくなってしまいました。
走り去る車はどれも鹿児島ナンバー。本部港からたった2時間半なのですが、やっぱりここは鹿児島県なんですね~。
1人残されたオイラは、港のすぐ北にある与論空港目指しててくてく歩きました。
いいお天気。太陽は頭上にあり、1月なのですが汗ばむ陽気です。
ちょいしゃがんで撮ればヨカッタ
14:10 の船で再び本部港に戻る予定です。あと2時間ほど。
「ここで乗船手続きか~」と小さな待合所を横目で見ながら空港に向かったのでした。
静かです。鳥のさえずりしか聞こえません。
エプロンにヒコーキがいるところを撮りたかったのですが、まだ少し間があるので先に昼食を済ませることに。
自由に席が選べるようになっていて、迷わずエプロンが見える窓席へ。
後で会計の時にウエイトレスさんから「あの席だと暑かったですね~^^; 」と言われたのですが、
オイラにとっては特等席です。この席以外あり得ません。
鶏飯ランチ。初めて食べましたが美味しかったです。
昼食後、ターミナル屋上の展望デッキから到着機を撮り、その後風上側のランウェイエンドに移動。
白い砂浜、エメラルドグリーンの海。広がるサトウキビ畑。
ドコか知らされずに連れて来られたら、沖縄としか思えません。
歩いていたら、「ちゅら島与論」というコピーを見かけました。
鹿児島県なのに、普通にうちなーぐちなんですね~(o ̄∇ ̄o)フフ
ランウェイエンドを見下ろせる場所から着陸機を撮影。
ちょっとマニアックな話になってしまいますが、全国の空港には4レターコードがつけられており、
最初の2文字は"RJ"で始まっているのですが、沖縄県の空港は"RO"で始まっています。
ここ与論空港は鹿児島県なので、当然 "RJ"のはず。
ところが不思議なことにここだけは唯一の例外で沖縄県と同じ"RO"で始まっています。なぜでしょう??
以前の記事■ で長々とオイラの仮説を書きましたが、長年のナゾです。
13:20 の離陸も撮りたかったのですが、30分前までに乗船手続きを済ませるために港への移動時間を考えると、
もう余裕はありません。後ろ髪を引かれるような思いでエンドを後にしました。
ところが港に着いて窓口に行くと、「本日の入港14:40」という貼り紙が(@Д@)ガーン
1時間遅れです。
もしかしたら、港について、空港に行く前にここに立ち寄っていれば、入港が遅れることが分かってたのかも。
それが分かってたら、ゆっくりと離着陸の撮影もできたのに。。。_| ̄|○ il||li
行きはマリックスラインを利用したのですが、同社の戻り便は明日まで待たねばなりません。
都合よく別会社のマルエーフェリーと1日おきで交互に運航しているので、帰りはこちらを利用します。
いろんな会社のいろんな船に乗れますが、往復割引(復路1割引き)が利用できません(;´Д⊂)
実は「マルエーフェリー」、オイラにとっては非常に思い出深い会社でして、
小学生~高校生の頃までは東京-沖縄の船をよく利用していたのですが、
この船会社(当時は大島運輸だった)か、有村産業の船に乗っていたのでした。
頭の部分が箱の中に入り、隣とのプライバシーが保たれます。
再び本部港に戻って来ました。
16:40 に本部港に戻って来て、それから本部監視哨跡、宮里飛行場跡を見学する予定だったのですが、
入港したのは定刻より1時間遅れの17:40 でした。
この時期の沖縄の日没は18:03 。撮影は諦め、コンビニで夕食とオリオンビールを買ってホテルに帰りました。
自室に戻ってお洗濯もしたのでした。
おやすみなさい。
本日の走行距離:57km
金武(チム)飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2020/12更新
撮影年月日1946/02/22(昭21)(USAokinawa M45 18)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県国頭郡金武町にあった「金武(チム)飛行場」。
米軍が本土攻撃のため、占領後すぐ新規に建設した飛行場です。
金武(きん)町にあるので「きんひこうじょう」なのですが、「チム飛行場」とも呼ばれており、これは、
「米軍が『金武』を聞き間違えた」とも、「外人の発音」とも言われています。
現在は米海兵隊の「キャンプ・ハンセン」になっています。
沖縄市の戦跡と基地■ (13コマ目)によれば、
「金武飛行場...1945年4月下旬、金武村に建設。中距離爆撃機などが発着し、本島中南部や日本本土の爆撃に出撃した。戦後一時放棄されたが、50年代にキャンプハンセンとして基地が再構築された。 」
とありました。
赤マーカー地点。
基地内を覗ける場所が限られていて、しかも画面右側からは夕日が差し込むせいでこんな写真になってしまいました。
高く盛り土をして、その上に滑走路を造っていたように見えます。
沖縄県・金武(チム)飛行場跡地
米軍は上陸に先立ち、飛行場建設予定地を絨毯爆撃して地ならししたのですが、住民は、「何故山や畑しか無い所を爆撃するのか」と非常に不思議がっていたのだそうです。上陸した米軍は4月中に飛行場をほぼ完成させたのですが、5月中旬から下旬にかけて、恩納岳や久志岳にたてこもってゲリラ戦を展開していた護郷隊(遊撃隊)が金武飛行場を襲撃、5月21日には米軍の燃料集積所を爆破しました。すでに住民は米軍の管理下にあったのですが、飛行場に近接する金武・並里の住民は襲撃との関連を疑われ徹底した「掃討作戦」(家宅捜索)が行われました。6月20日には全住民の中川(銀原、城原)、漢那、宜野座への移動が命じられ、以後億首川を境に金武飛行場区域への立ち入りは禁じられました。金武・並
里の焼け残った家屋は取り壊され、移動先の仮小屋建築の資材にされるという一件があったのだそうです
金武(チム)飛行場 データ
設置管理者:米軍
種 別:小型、中型爆撃機用飛行場
所在地:沖縄県国頭郡金武町金武
座 標:N26°27′40″E127°55′07″
標 高:50m
滑走路:1,520mx110m?
方 位:07/25
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1945年02月 28日 米軍偵察機、金武の空中撮影を行い、飛行場予定地を選定
03月 23日 米軍の沖縄攻略作戦開始。金武の飛行場予定地に絨毯爆撃を行い地ならし
04月 06日 米軍、占領の上飛行場建設開始。約10日間で小型、中型爆撃機用の飛行場をほぼ完成させる
05月 小型機が発着するようになる。以降日本本土攻撃の前線基地として使用
05月 16,21日。2度に渡り、山に立てこもる日本軍の遊撃隊により飛行場が襲撃される
08月 終戦により使用されなくなる。
1946年 嘉手納飛行場への機能集中により放棄
1947年07月 22日 実弾射撃の訓練場として使用される
関連サイト:
ブログ内関連記事■
読谷補助(沖縄北、読谷山、読谷、楚辺)飛行場跡地 [├空港]
2012年1月訪問 2022/4更新
Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6■
(国立国会図書館ウェブサイトから転載)
①撮影年月日1945/01/03(USAokinawa 5M3B 13)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
②撮影年月日1947/05/12(USAokinawa M1000B 134)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
沖縄県中頭郡読谷村にあった「読谷補助(沖縄北、読谷山、読谷、楚辺)飛行場」。
先頭のグーグルマップは、①の航空写真から作図しました。
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」に、
「沖縄北飛行場構成(進捗状況)計画要図」があり、この「要図」に掩体壕の位置情報があったため、
描き加えました。
「要図」では、誘導路に沿って建設された掩体壕のことが「暴露掩体」と記されていました。
同「要図」に記された情報を以下引用させていただきます。
判決
沖縄北飛行場は現状を以て航空作戦に支障なし
然れ共本飛行場は沖縄本島に於ける複■的地位に鑑み益々面
飛行場の特性を発揮する如く之が整備に勉むると共に誘導路の一部を
連結して付属設備の有機的機能を発揮せしめ且つ秘匿
掩体を構築するを要す
■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」
に 1/25,000 沖縄飛行場 がありました。
要図には飛行場敷地について、東西1750 南北1600 と記されていました。
位置
沖縄縣中頭郡読谷山村
グーグルマップ西側の誘導路、一部黄色っぽくなってます。
これは「要図」では破線で描かれたもので、特に説明はないんですが、
上述の情報の中には今後の課題として、「誘導路の一部を連結」とあります。
恐らくこの破線で示された部分がそれに当るのではないかと。
■「沖縄戦研究Ⅱ」の中で、ここに飛行場が建設されたいきさつについて、こんなことが書かれていました。
「1942年末ごろから日本陸軍の航空部隊は続々と南方戦線に展開していくが、
これら航空部隊の補給中継地として南西諸島に航空基地を新設する必要が発生した。
真っ先に沖縄本島中部の読谷山村にひろがる読谷野に白羽の矢が立てられた。
陸軍航空本部は南太平洋における相次ぐ航空作戦の敗退という戦局に追い立てられるように、
1943年6月頃から徳之島、伊江島、読谷、嘉手納、石垣島に陸軍飛行場を設定すべく用地接収を始めた。
読谷飛行場の建設は陸軍航空本部経理部の直轄工事として現地土建会社の国場組と請負契約を結んで施工された。
請負金額は1,300万円という沖縄の土建史上前例のない大工事であった。
国場組には大規模な土木機器がなく、契約にあたって次の3条件を軍に約束させた。
1.トラック10台程度の供与(実際は国産トラック6台が支給された) 2.トロッコ用軌道の供与(製糖会社のトロッコを転用した)
3.食糧と燃料の確保 である。
読谷飛行場の用地接収は村役場や地主にとって寝耳に水のできごとであった。
1943年夏のある日、飛行場建設予定地の集落や畑地や原野に突如として赤い旗が立てられた。
一週間ほどして関係地主は国民学校に集められ、県警保安課長も立ち会う緊張した空気の中で担当将校から軍隊口調で説明がなされた。
『この地域は飛行場として最適であるから諸君の土地を提供してもらいたい。戦争が終われば、この土地は地主に返す』
と明言した。」
1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、
■第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (6コマ目)にこんな一節がありました。
「北(読谷)飛行場が空襲されたのは6時50分であった。米軍機は飛行場と関連施設に対して爆撃を開始した。米軍機は急降下して銃爆撃を反復して加えるという攻撃をしていた。駐機していた飛行機は炎上、兵舎は焼け落ち、燃料タンクが爆発して、飛行場は火炎と黒煙に覆われた。滑走路には飛行機の残骸が5機残っていた。」
沖縄本島に上陸した米軍は、真っ先に当飛行場を拡張するのですが、
上の航空写真①と②を見比べれば明らかな通り、その拡張は「作り変えた」と言っても過言ではないレベルのものでした。
①は1945年1月撮影、米軍が上陸、占拠したのが同年4月でしたから、
日本軍が建設した飛行場の最終形態ということに。
縦横斜めの滑走路が1本ずつ。
作図していて気が付いたんですが、米軍は拡張の際、南北方向の滑走路は使用せず、
微妙に角度を変えて新たに滑走路を建設しています。
現在「補助飛行場跡」等として道路に滑走路の地割が残っているのは米軍が建設した滑走路で、
日本軍が建設した南北方向の滑走路の地割はもう残っていないみたいです。
■2016年8月20日放送の NHKスペシャル「沖縄 空白の1年 ~“基地の島”はこうして生まれた~」
の中で、 1946年1月1日時点で沖縄では、125,000人が収容所に入れられていたことに触れた後、
カリフォルニア州在住 元陸軍工兵隊 ロバート・ロック氏(93)のインタビューがありました。
放送の中では、飛行場名は出なかったのですが、
「これとこれが新しく建設した滑走路です」とロバート・ロック氏が取材班に見せながら説明していた空中写真は、
②の読谷飛行場そのものでした。
ナレーション:ロックさんが撮影した写真には、基地が更に拡大され、集落が飲み込まれていく様が記録されていました。
ロバート・ロック氏:私たちは人けのない小さな村を次々と潰していきました。道路や飛行場を造るために。いま考えると悲しくなります。何百年も続いた村を破壊してしまったんですから。当時はそれが当たり前だと思っていましたが、後になって取り返しのつかないことをしたと気付きました。
その後、「普天間飛行場」に機能集約したため、当飛行場は「読谷補助飛行場」になりました。
赤マーカー地点。
1つだけ現存する掩体壕。説明版がありました。
(全文)読谷村指定文化財 史跡(沖縄戦に関する遺跡) 掩体壕 掩 体壕は、旧日本軍による沖縄北飛行場(読谷山飛行場)建設に伴い、1944年(昭和19)に軍用機を敵の攻撃から保護する施設として建設されました。証言 によると、ドラム缶や土などでかまぼこ形の原型を作った上にコンクリートを流し、十分乾燥したところで中の原型を取り出すという方法で作られました。読谷 山飛行場は、1945年(昭和20)4月1日の米軍上陸の際に接収され、逆に本土への攻撃基地として使用されました。その後、嘉手納基地の完成によって補 助飛行場となり、パラシュート降下訓練などが行われ、訓練兵が住宅地に降下するなどの事故が周辺で多発しました。2006年(平成18)12月31日に全 面返還され、今後数十年かけて飛行場の敷地は整備され、その姿を変えていきます。掩体壕はこの地が旧日本軍の飛行場であったという史実を伝えるとともに、 沖縄戦以後の読谷の歴史を見つめ続けた貴重な遺跡・建造物であることから、村では2009年(平成21)1月、史跡(沖縄戦に関する遺跡)に指定しまし た。
説明版にあった写真。
掩体壕隣に設置されている「義烈空挺隊玉砕之地」碑
「飛行第百十戦隊話」という本の中にこの義烈空挺隊の戦記があったので、一部抜粋します。
■当時基地に居て作戦を見守っていた元隊員の手記。
「義烈空挺隊が4月下旬か5月初めに健軍(熊本県の旧陸軍飛行場で後の旧熊本空港)に到着。
夜間は訓練、昼間は就寝で屈強な下士官ばかり選り抜かれた。
5月24日夜、北、中両飛行場に強行着陸するため、1機に14名宛て乗り込んだ九七重二型12機が離陸。
2,3機がエンジン不調で引き返す。
NHK熊本放送局から出力10KWの米軍戦闘機と同一周波数の妨害電波を発射したので、
空対地の連絡は混乱し、健軍で傍受していた慶応出身の米二世の通訳を待たずともその困惑ぶりが窺われた。
戦果は抜群で、当時上空にあった六〇、百十戦果確認機や
翌日高度十一粁から撮った百式司偵による損害空中写真がこれを証明していた。
写真を詳細に見ると、戦闘機が滑走路や掩体壕以外にあったり、不規則に散在していることから、
NHKによる妨害電波によって空地共に大混乱し事故を起こしたと考えられる。
その後約一週間米軍の爆撃が無かったのも、義烈空挺隊の戦果が如何に大きかったかを裏付けている。
義烈空挺隊全員が当日戦死したことになっているが、その日かその翌日司令部に辿り着いた一伍長がいたことを
六航軍電報が報じている。」
■空挺隊突入前に基地への掩護爆撃を行う爆撃機に搭乗し、航法を担当していた元隊員の手記。
「四式重(キ-六七)12機も健軍にいた。
突入は22時、四式は義烈空挺隊突入10分前(21時50分)に北及び中飛行場の対空砲火を爆撃すべし
爆撃後、空挺隊の戦果確認せよ。着陸成功は赤色信号灯1機1灯点火する(という取り決めになっていた)。
19時12分離陸。敵哨戒機のいる奄美大島を避け、大きく西に旋回、上海と沖縄の中間点に航路を取り、90°転進して
沖縄に直行進入する。予定より10分早いので、途中旋回して時間調整
残波岬から進入、右に旋回し、すぐ中飛行場。
陸地に近づくにつれて艦船から間断なく撃ってくる。飛行場周辺からも対空砲火が絶え間なく光るため、旋回蛇行を繰り返す。
滑走路を攻撃しては空挺隊の着陸に支障をきたすので、滑走路の西側を爆撃、
21時53分離脱。
来た時と同様、飛行場周辺から対空砲火が絶え間なく光り、
海上に出れば艦船からも間断なく撃ってくるため、旋回蛇行を繰り返す。
22時を過ぎ、両飛行場を見つめる。
北飛行場の主滑走路の南あたりに赤い信号灯が5つ点いた。
中飛行場で赤い信号灯が2つ点いた。
残る5機はと心は痛い。
22時25分離脱。」
米軍に占領された沖縄に強行着陸して空挺部隊を送り込んだという話は聞いていたのですが、
出来る限りの援護もしていたのですね。
この作戦で送り込まれた空挺部隊は宮崎県唐瀬原の第一挺進団の中から編成されたのだそうです。
紫マーカー地点。
忠魂碑。テニスコートの角にあります。
説明版がありました。(全文) 読谷村指定文化財 史跡(沖縄戦に関する遺跡) 忠魂碑 忠魂碑は読谷山国民学校(読谷山尋常高等小学校)敷地内に1935年(昭和10)10月頃に建立されました。その後、1978年(昭和53)に同敷地に読谷村運動広場が建設されるのに伴い、現在の場所に移されました。忠魂碑は当時、天皇と国家のために死んだ軍人や軍属の忠義の魂を顕彰するためのもので、国民全員に同じ忠誠をたたき込むことに利用され、その結果、多くの若者が死地に追いやられたあげく、敗戦の憂き目にも遭いました。現在、碑文は何者かによって削られ、説明版も持ち去られており、わずかに揮毫者の陸軍大将鈴木壮六の名前が見えるだけです。忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年(平成21)1月に史跡に指定しました。Ⓒ読谷村教育委員会文化振興課 2009
黒マーカー地点。
「不戦の誓い」碑。
グレーマーカー地点。
滑走路と並行する誘導路跡。
所々交差点のように見えるのが駐機場跡です。
駐機場跡の1つ。
ゴロゴロしているのは滑走路建設で埋められていたサンゴでしょうか??
周辺はサトウキビ畑。向こうに読谷村役場が見えます。
黄色マーカー地点。
滑走路跡。中央部分を道路として使用しています。
沖縄県・読谷補助(沖縄北、読谷山、読谷)飛行場跡地
4レターコードがあるのですが、全面返還された現在はどうなっているのでしょうか??
・沖縄北飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
滑走路:1,500mx80m?(18/36)、1,600mx70m?(09/27)、1,550mx90m?(04/22)
(滑走路長、方位はグーグルアースから)
・読谷補助飛行場 データ
設置管理者:米軍
4レター:ROKW
種 別:陸上飛行場
所在地:沖縄県中頭郡読谷村喜名
座 標:N26°23′36″E127°44′47″
標 高:74m
滑走路:2,160mx75m?(18R/36L)、2,050mx75m?(18L/36R)、
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)
沿革
1944年 旧日本軍により建設。十・十空襲により大被害
1945年04月 01日 本島に上陸した米軍から直ちに占領される。修復、整備が施される
03日 使用開始
その後嘉手納飛行場完成、運用集中により補助的な役割になる
2006年12月 全面返還
2009年01月 掩体壕 史跡指定
関連サイト:
読谷バーチャル平和資料館■
第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (6コマ目)
ブログ内関連記事■
この記事の資料:
現地の説明版、碑文
「沖縄戦研究Ⅱ」
「飛行第百十戦隊話」
NHKスペシャル「沖縄 空白の1年 ~“基地の島”はこうして生まれた~」2016年8月20日放送
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」