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読谷補助(沖縄北、読谷山、読谷、楚辺)飛行場跡地 [├空港]

   2012年1月訪問 2022/4更新  


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Ryukyu Islands airfields. Report No. 1-b(10), USSBS Index Section 6 
(国立国会図書館ウェブサイトから転載)
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①撮影年月日1945/01/03(USAokinawa 5M3B 13) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

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②撮影年月日1947/05/12(USAokinawa M1000B 134) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

沖縄県‎中頭郡‎読谷村にあった「読谷補助(沖縄北、読谷山、読谷、楚辺)飛行場」。

先頭のグーグルマップは、①の航空写真から作図しました。

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」に、

「沖縄北飛行場構成(進捗状況)計画要図」があり、この「要図」に掩体壕の位置情報があったため、

描き加えました。

「要図」では、誘導路に沿って建設された掩体壕のことが「暴露掩体」と記されていました。

同「要図」に記された情報を以下引用させていただきます。

判決
沖縄北飛行場は現状を以て航空作戦に支障なし
然れ共本飛行場は沖縄本島に於ける複■的地位に鑑み益々面
飛行場の特性を発揮する如く之が整備に勉むると共に誘導路の一部を
連結して付属設備の有機的機能を発揮せしめ且つ秘匿
掩体を構築するを要す

■防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」

に 1/25,000 沖縄飛行場 がありました。

要図には飛行場敷地について、東西1750 南北1600 と記されていました。

位置
 沖縄縣中頭郡読谷山村

グーグルマップ西側の誘導路、一部黄色っぽくなってます。

これは「要図」では破線で描かれたもので、特に説明はないんですが、

上述の情報の中には今後の課題として、「誘導路の一部を連結」とあります。

恐らくこの破線で示された部分がそれに当るのではないかと。

■「沖縄戦研究Ⅱ」の中で、ここに飛行場が建設されたいきさつについて、こんなことが書かれていました。

「1942年末ごろから日本陸軍の航空部隊は続々と南方戦線に展開していくが、

これら航空部隊の補給中継地として南西諸島に航空基地を新設する必要が発生した。

真っ先に沖縄本島中部の読谷山村にひろがる読谷野に白羽の矢が立てられた。

陸軍航空本部は南太平洋における相次ぐ航空作戦の敗退という戦局に追い立てられるように、

1943年6月頃から徳之島、伊江島、読谷、嘉手納、石垣島に陸軍飛行場を設定すべく用地接収を始めた。

読谷飛行場の建設は陸軍航空本部経理部の直轄工事として現地土建会社の国場組と請負契約を結んで施工された。

請負金額は1,300万円という沖縄の土建史上前例のない大工事であった。

国場組には大規模な土木機器がなく、契約にあたって次の3条件を軍に約束させた。

1.トラック10台程度の供与(実際は国産トラック6台が支給された) 2.トロッコ用軌道の供与(製糖会社のトロッコを転用した)

3.食糧と燃料の確保 である。

読谷飛行場の用地接収は村役場や地主にとって寝耳に水のできごとであった。

1943年夏のある日、飛行場建設予定地の集落や畑地や原野に突如として赤い旗が立てられた。

一週間ほどして関係地主は国民学校に集められ、県警保安課長も立ち会う緊張した空気の中で担当将校から軍隊口調で説明がなされた。

『この地域は飛行場として最適であるから諸君の土地を提供してもらいたい。戦争が終われば、この土地は地主に返す』

と明言した。」

1944年10月10日のいわゆる「十・十空襲」について、

■第2章  旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 (6コマ目)にこんな一節がありました。 

「北(読谷)飛行場が空襲されたのは6時50分であった。米軍機は飛行場と関連施設に対して爆撃を開始した。米軍機は急降下して銃爆撃を反復して加えるという攻撃をしていた。駐機していた飛行機は炎上、兵舎は焼け落ち、燃料タンクが爆発して、飛行場は火炎と黒煙に覆われた。滑走路には飛行機の残骸が5機残っていた。」

 

沖縄本島に上陸した米軍は、真っ先に当飛行場を拡張するのですが、

上の航空写真①と②を見比べれば明らかな通り、その拡張は「作り変えた」と言っても過言ではないレベルのものでした。

①は1945年1月撮影、米軍が上陸、占拠したのが同年4月でしたから、

日本軍が建設した飛行場の最終形態ということに。

縦横斜めの滑走路が1本ずつ。

作図していて気が付いたんですが、米軍は拡張の際、南北方向の滑走路は使用せず、

微妙に角度を変えて新たに滑走路を建設しています。

現在「補助飛行場跡」等として道路に滑走路の地割が残っているのは米軍が建設した滑走路で、

日本軍が建設した南北方向の滑走路の地割はもう残っていないみたいです。

■2016年8月20日放送の NHKスペシャル「沖縄 空白の1年 ~“基地の島”はこうして生まれた~」

の中で、 1946年1月1日時点で沖縄では、125,000人が収容所に入れられていたことに触れた後、

カリフォルニア州在住 元陸軍工兵隊 ロバート・ロック氏(93)のインタビューがありました。

放送の中では、飛行場名は出なかったのですが、

「これとこれが新しく建設した滑走路です」とロバート・ロック氏が取材班に見せながら説明していた空中写真は、

②の読谷飛行場そのものでした。

ナレーション:ロックさんが撮影した写真には、基地が更に拡大され、集落が飲み込まれていく様が記録されていました。

ロバート・ロック氏:私たちは人けのない小さな村を次々と潰していきました。道路や飛行場を造るために。いま考えると悲しくなります。何百年も続いた村を破壊してしまったんですから。当時はそれが当たり前だと思っていましたが、後になって取り返しのつかないことをしたと気付きました。

その後、「普天間飛行場」に機能集約したため、当飛行場は「読谷補助飛行場」になりました。


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赤マーカー地点。

1つだけ現存する掩体壕。説明版がありました。

(全文)読谷村指定文化財 史跡(沖縄戦に関する遺跡) 掩体壕 掩 体壕は、旧日本軍による沖縄北飛行場(読谷山飛行場)建設に伴い、1944年(昭和19)に軍用機を敵の攻撃から保護する施設として建設されました。証言 によると、ドラム缶や土などでかまぼこ形の原型を作った上にコンクリートを流し、十分乾燥したところで中の原型を取り出すという方法で作られました。読谷 山飛行場は、1945年(昭和20)4月1日の米軍上陸の際に接収され、逆に本土への攻撃基地として使用されました。その後、嘉手納基地の完成によって補 助飛行場となり、パラシュート降下訓練などが行われ、訓練兵が住宅地に降下するなどの事故が周辺で多発しました。2006年(平成18)12月31日に全 面返還され、今後数十年かけて飛行場の敷地は整備され、その姿を変えていきます。掩体壕はこの地が旧日本軍の飛行場であったという史実を伝えるとともに、 沖縄戦以後の読谷の歴史を見つめ続けた貴重な遺跡・建造物であることから、村では2009年(平成21)1月、史跡(沖縄戦に関する遺跡)に指定しまし た。

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説明版にあった写真。 

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掩体壕隣に設置されている「義烈空挺隊玉砕之地」碑

「飛行第百十戦隊話」という本の中にこの義烈空挺隊の戦記があったので、一部抜粋します。

■当時基地に居て作戦を見守っていた元隊員の手記。

「義烈空挺隊が4月下旬か5月初めに健軍(熊本県の旧陸軍飛行場で後の旧熊本空港)に到着。

夜間は訓練、昼間は就寝で屈強な下士官ばかり選り抜かれた。

5月24日夜、北、中両飛行場に強行着陸するため、1機に14名宛て乗り込んだ九七重二型12機が離陸。

2,3機がエンジン不調で引き返す。

NHK熊本放送局から出力10KWの米軍戦闘機と同一周波数の妨害電波を発射したので、

空対地の連絡は混乱し、健軍で傍受していた慶応出身の米二世の通訳を待たずともその困惑ぶりが窺われた。

戦果は抜群で、当時上空にあった六〇、百十戦果確認機や

翌日高度十一粁から撮った百式司偵による損害空中写真がこれを証明していた。

写真を詳細に見ると、戦闘機が滑走路や掩体壕以外にあったり、不規則に散在していることから、

NHKによる妨害電波によって空地共に大混乱し事故を起こしたと考えられる。

その後約一週間米軍の爆撃が無かったのも、義烈空挺隊の戦果が如何に大きかったかを裏付けている。

義烈空挺隊全員が当日戦死したことになっているが、その日かその翌日司令部に辿り着いた一伍長がいたことを

六航軍電報が報じている。」

 

■空挺隊突入前に基地への掩護爆撃を行う爆撃機に搭乗し、航法を担当していた元隊員の手記。

「四式重(キ-六七)12機も健軍にいた。

突入は22時、四式は義烈空挺隊突入10分前(21時50分)に北及び中飛行場の対空砲火を爆撃すべし

爆撃後、空挺隊の戦果確認せよ。着陸成功は赤色信号灯1機1灯点火する(という取り決めになっていた)。

19時12分離陸。敵哨戒機のいる奄美大島を避け、大きく西に旋回、上海と沖縄の中間点に航路を取り、90°転進して

沖縄に直行進入する。予定より10分早いので、途中旋回して時間調整

残波岬から進入、右に旋回し、すぐ中飛行場。

陸地に近づくにつれて艦船から間断なく撃ってくる。飛行場周辺からも対空砲火が絶え間なく光るため、旋回蛇行を繰り返す。

滑走路を攻撃しては空挺隊の着陸に支障をきたすので、滑走路の西側を爆撃、

21時53分離脱。

来た時と同様、飛行場周辺から対空砲火が絶え間なく光り、

海上に出れば艦船からも間断なく撃ってくるため、旋回蛇行を繰り返す。

22時を過ぎ、両飛行場を見つめる。

北飛行場の主滑走路の南あたりに赤い信号灯が5つ点いた。

中飛行場で赤い信号灯が2つ点いた。

残る5機はと心は痛い。

22時25分離脱。」

米軍に占領された沖縄に強行着陸して空挺部隊を送り込んだという話は聞いていたのですが、

出来る限りの援護もしていたのですね。

この作戦で送り込まれた空挺部隊は宮崎県唐瀬原の第一挺進団の中から編成されたのだそうです。

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紫マーカー地点。

忠魂碑。テニスコートの角にあります。

説明版がありました。(全文) 読谷村指定文化財 史跡(沖縄戦に関する遺跡) 忠魂碑 忠魂碑は読谷山国民学校(読谷山尋常高等小学校)敷地内に1935年(昭和10)10月頃に建立されました。その後、1978年(昭和53)に同敷地に読谷村運動広場が建設されるのに伴い、現在の場所に移されました。忠魂碑は当時、天皇と国家のために死んだ軍人や軍属の忠義の魂を顕彰するためのもので、国民全員に同じ忠誠をたたき込むことに利用され、その結果、多くの若者が死地に追いやられたあげく、敗戦の憂き目にも遭いました。現在、碑文は何者かによって削られ、説明版も持ち去られており、わずかに揮毫者の陸軍大将鈴木壮六の名前が見えるだけです。忠魂碑は日本の侵略戦争を美化する象徴として使われ、日本の歴史の負の遺産ですが、戦時中の風潮を今に伝える証人であり、今後の戒めとして村では2009年(平成21)1月に史跡に指定しました。Ⓒ読谷村教育委員会文化振興課 2009

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黒マーカー地点。

「不戦の誓い」碑。

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グレーマーカー地点。

滑走路と並行する誘導路跡。

所々交差点のように見えるのが駐機場跡です。

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駐機場跡の1つ。

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ゴロゴロしているのは滑走路建設で埋められていたサンゴでしょうか??

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周辺はサトウキビ畑。向こうに読谷村役場が見えます。 

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黄色マーカー地点。

滑走路跡。中央部分を道路として使用しています。


      沖縄県・読谷補助(沖縄北、読谷山、読谷)飛行場跡地     
4レターコードがあるのですが、全面返還された現在はどうなっているのでしょうか??

・沖縄北飛行場 データ
設置管理者:日本陸軍
種 別:陸上飛行場
滑走路:1,500mx80m?(18/36)、1,600mx70m?(09/27)、1,550mx90m?(04/22)
(滑走路長、方位はグーグルアースから)

・読谷補助飛行場 データ
設置管理者:米軍
4レター:ROKW
種 別:陸上飛行場
所在地:沖縄県‎中頭郡‎読谷村‎喜名‎
座 標:N26°23′36″E127°44′47″
標 高:74m
滑走路:2,160mx75m?(18R/36L)、2,050mx75m?(18L/36R)、
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから) 

沿革
1944年    旧日本軍により建設。十・十空襲により大被害
1945年04月 01日 本島に上陸した米軍から直ちに占領される。修復、整備が施される
     03日 使用開始
        その後嘉手納飛行場完成、運用集中により補助的な役割になる
2006年12月 全面返還
2009年01月 掩体壕 史跡指定

関連サイト:
読谷バーチャル平和資料館   
第2章  旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 (6コマ目)
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
現地の説明版、碑文
「沖縄戦研究Ⅱ」
「飛行第百十戦隊話」
 NHKスペシャル「沖縄 空白の1年 ~“基地の島”はこうして生まれた~」2016年8月20日放送
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土周辺-18沖縄飛行場資料 昭19.9.1」
防衛研究所収蔵資料「陸空-本土防空-48飛行場記録 内地(千島.樺太.北海道.朝鮮.台湾を含む) 昭19.4.20第1航空軍司令部」


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