787の近況 [├雑談]
2011年9月、難産の末やっとデリバリーが始まった787ですが、既にデリバリー数は14機となり、
現在のところ、ANAが10機、JALが4機受領しているようです。
運航コストを従来機の2割下げることができ、機内環境も快適。
世界中から注文が殺到している超人気機種がまず日本で続々と飛び始めているのはやはり嬉しいものです。
間もなく外国の航空会社も続々受領するようになるんでしょうけども。
「日本は初期ロットの不良品をつかまされているのだ」という噂も気になりますが。
ところで少し前の話になってしまいますが。
787はワシントン州エバレットにある主力工場で最終組み立てを行うことになっていたのですが、
2009年10月28日に重大発表がありました。
計画通りエバレットで787最終組み立てを行いつつ、もう1ヵ所最終組み立て場所を増やすことにしたのです。
白羽の矢が立ったのは、787の胴体後部の組み立て、システムの取り付けが行われていた
東海岸のサウスカロライナ州ノースチャールストンのボーイング施設でした。
ここを「787最終組み立て第2ライン」として整備することにしたのです。
そして今年の5月23日、このノースチャールストンで最終組立を行った最初の787が初飛行を行いました。
ボーイングでは、アメリカの西海岸と東海岸の二ヵ所でそれぞれ最終組立を行うことにより、月産10機体制を整える。としています。
冒頭で「デリバリー数が14機」と書きましたが、初号機デリバリーから10ヵ月で14機とすれば、
ここまでの月産レートは1.4機ということになります。
まだまだですね(近日中にデリバリー予定のものが5機あります)。
当然のことですが、ボーイングは主にヒコーキを作って航空会社や軍からお金を貰うことで成り立っています。
ボーイングのニュースリリースで現在得られる787の最新受注数は3月20日発表の「60社から870機以上」というもので、
仮に今月から月産10機が達成できたとして、バックオーダーを消化するのは7年以上先の2019年末ということに。
工場を大がかりにして注文分をあっという間に作ってしまうと、そのクラスのヒコーキの需要が満たされ、
しばらくの間仕事がなくなってしまいます。
大がかりの工場も無駄になってしまいます。
だから本当はわざわざ二ヵ所で作るなどという面倒なことをせず、マイペースで作っていれば、
その間少なくとも787製造工場と、そこで働く従業員は安泰です。
ところがそう悠長に作ってもいられないというお話を。
ここで「787最終組み立て第2ライン」発表までの経緯を少し振り返ってみます。
「民間航空機史上最速で受注機数を増やしている航空機」とボーイングが自画自賛していた787
(このところボーイングはこのフレーズを使わなくなり、代わりにエアバスがA350XWBに使っている)。
オイラの知る限り、787の受注数のピークは2008年12月の910機で、仮発注を含めると1,200機を超えていました。
ところが相次ぐ製造遅延、世界不況、そしてライバル機エアバスA350(と、後のA350XWB)の登場により、
緩やかに増減を繰り返しつつも、確実に右肩下がりが続き、現在は「870機以上」ですが、一時は840機まで落ち込みました。
ピーク時と比較すると、70機減です。
当初の予定では2008年5月に787の1番機がANAにデリバリーされ、
エバレット工場からは続々とピカピカの787が世界中に送り出される予定でしたが、
デリバリーは3年以上遅れ。生産数もなかなか伸びません。
コストが二割削減できるという触れ込みで各航空会社は大きな期待を抱き、こぞって発注していただけに、
その反動も大きく、深刻な遅延問題は航空会社の失望と怒りを買ました。
発注した航空会社では、「○年○月には787が入る。そうするとコストが2割抑えられるから~」
という具合に織り込み済みで、営業、整備、乗務の各部もそれに合せて動いていましたから、
コスト削減の計画は狂うわ、機材は入らないわでもーカンカンです。
しかもボーイングの遅延の際のアナウンスの仕方は、
「非常に残念なことになってしまい申し訳なく思っていますが、
今回のデリバリーに向けての新たなスケジュールは十分な余裕を見越したものであり、
この期日を達成できることに我々は自信を持っています。」
という感じで、それでも遅延を繰り返しました。
そしてこれがその後の発注キャンセルと、訴訟、 巨額の賠償問題へと発展してしまいました。
この頃のボーイングの787関連のニュースリリースではしばしば、
「ボーイングでは、787型機プログラムは損失航空機プログラムではないことを算出しています。」
という文言が入っていました。
わざわざこんなアナウンスを繰り返さざるを得ない程追い込まれた状況だった。ということでしょう。
相次ぐ遅延に失望したのは航空会社だけでなく、世界中の部品メーカーも同じでした。
787用に新たな設備を設け、新工場まで作ったのに、なかなか本格稼働ができません。
時計と睨めっこで爆発寸前の顧客のために、一日千秋の思いで本格稼働を待つサプライヤーのために、
787はともかく少しでも早く作らなくてはならなくなりました。
そして787製造を急ぐもう一つの要因となったのが、ライバル機の存在でした。
787は2008年初旬の時点で既に2014年製造分までが売り切れていました。
そして2009年6月 787の強度試験の不具合とそれに伴うファーストフライトの延期が公表されました。
886機だった受注数は840機まで一気に減少。
一方のA350XWBはこの時点で2013年にデリバリーの予定であり、
「今からどちらに注文しても納期は同じ」という状況になりました。
スケジュールが遅々として進まず、延期に次ぐ延期を繰り返す787に嫌気がさしたのか、
後発のA350XWBに発注が流れ、A350XWBは現在までにシリーズ合計で548機を受注するまでになりました。
「787最終組み立て第2ライン」の発表はこんなタイミングでなされました。
787は文字通り世界中から部品を寄せ集めて生産するため、当初から各国に広がる生産会社の足並みが揃うかどうか
危惧されていました。
そこにもってきて更に、アメリカ大陸の東西別々の場所で作ることにしたわけですから、
部品、人員、機材の振り分けの調整は大変なことだと思います。
なんだか「1機でも多く」と涙ぐましい努力を続けた戦争末期の日本に似ている様な。。。
ドリームリフターで運ぶ方式だからまだマシなのでしょうか。
一方、ライバルとなるA350XWBの方も当初のスケジュールから遅れが伝えられています。
A330の改良型である"元祖A350"を全面的に見直し、
新しい主翼とエンジンを採用したA350XWB計画が発表されたのは、2006年7月のことでした。
当時は2012年半ばのデリバリーを予定していましたから、計画通りなら今頃どこかの航空会社が飛ばしていたはずです。
ボーイング側からすれば、787製造でもたついている間にA350XWBが受注を伸ばしてしまったわけですが、
今後増産計画を順調に進め、A350XWBがもたついている間に1機でも多く作り、
あわよくば流れてしまった受注を奪い返したいところでしょう。
A350XWBは地上での構造試験用のテスト機が最終組み立てを開始したことが4月に発表されたばかりです。
A350XWBのテストフライト用の機体の最終組み立ては今年の夏を予定しているそうです。
787が最終組み立てを開始したのは2007年5月でした。
初お披露目(ロールアウト)が2007年7月。
2009年12月にファーストフライト。
2011年9月デリバリーでしたから、最終組み立て開始からデリバリーまで4年4ヵ月かかっています。
A350XWBはどうなりますか。
沖縄の飛行場の変遷 [├雑談]
沖縄本島(と伊江島)の飛行場の変遷をまとめてみました。
■米軍上陸前(~1945年3月)
来たるべき米軍との対決に向け、日本陸海軍が猛烈な勢いで飛行場建設を開始しました。
茶色は旧日本陸軍の飛行場
青色は旧日本海軍の飛行場
第2章 旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過■ (2コマ目)にこんな一節がありました。
「昭和18年(1943年)9月、大本営は戦局の劣勢を挽回するために確保すべき圏域を千島~小笠原~マリアナ諸島~西部ニューギニア~スンダ~ビルマの範囲に絞った「絶対国防圏」を設定した。この絶対国防圏を確保するためには前線に展開した航空部隊を支援する後方基地が不可欠であった。南西諸島は、マリアナ諸島の航空基地に展開した航空部隊を支援するための中継基地として設定され、多数の飛行場建設が実施されていった。」
それまで本島にあった飛行場は海軍の小録飛行場(現在の那覇空港)だけだったのですが、
新たに陸軍6、海軍1を加え、合計8つの飛行場とする計画が立てられました。
陸軍のメインは伊江島、北(読谷)、中(嘉手納)の3飛行場で、いずれも1943年から建設が始まりました。
そして翌年の1944年、小型特攻機用発進基地として、南(牧港)、東(西原)、石嶺の建設が追加されました。
与根は小禄の補助飛行場として1944年着工しました。
猛烈な勢いで整備が進められた各飛行場だったのですが、
米軍上陸直前になって日本軍は方針を転換、米軍が飛行場を使用できないように破壊しました。
■米軍上陸後(1945年3月~)
米軍は沖縄戦、本土攻撃のため、占領した飛行場の修復、拡張に加え、新設工事を行いました。
赤字は米軍が新規建設した飛行場
茶字は日本軍の飛行場を修復・拡張したもの
灰字は放棄された飛行場
上陸した米軍はすぐさま日本軍が破壊した飛行場の修復、拡張を行うのですが、
日本軍の8飛行場のうち、石嶺、与根の2飛行場は米軍から利用されませんでした。
この2飛行場は元々未完成で日本軍に放棄されていたものでした。
それ以外の日本軍が建設した6つの飛行場は全て米軍により利用されています。
米軍はあっという間に飛行場を使用可能な状態にしてしまったのですが、
修復、拡張した6つに加え、米軍は更に10の新規飛行場建設計画を追加しました。
合計16の飛行場になったわけですが、その使用内訳はおおよそ次の通りです。
本土爆撃用等大規模飛行場:伊江島、ボーロー、嘉手納、普天間、牧港、小録
中型爆撃機用飛行場:金武、読谷
本土爆撃時の偵察機用飛行場:本部
海兵隊ヘリ用飛行場:ハンビー
連絡機用等小規模飛行場:奥間、宮里、瑞慶覧、西原、福地
(備考)
泡瀬飛行場は米海軍専用の飛行場として新規建設されたのですが、日本敗戦により放棄されました。
沖縄は元々自動車道が未整備なため、迅速な移動のため小型機用飛行場が新設されました。
元日本軍の飛行場を米軍が使用するに際し、牧港はマチナトに、西原は与那原に、小録は那覇に、それぞれ名称が変更されています。
■現在(~2012年)
日本の敗戦により嘉手納への集約が進み、ほとんどの飛行場は使用されなくなりました。
赤字は米軍の飛行場
青字は日本の飛行場
灰字は使用しなくなった飛行場
(備考)
辺野古は建設予定地として議論が続いていますが、一応ここです、ということで記入しました。
読谷は後に読谷補助に名称変更になり、2006年12月に全面返還されました。
伊江島は3本の滑走路のうち1本だけ日本に返還され、今日に至ります。
沖縄旅行・6 [■旅行記]
Ⓐ城岳公園→Ⓑ与儀公園→Ⓒ沖縄県立図書館→Ⓓ海軍壕公園→Ⓔ那覇空港→羽田空港
6日目
6:00 起床。相変わらず頭痛はするし、腰痛は日増しにだんだん悪化してきました。 着替えもヒヤヒヤな感じです。
6:30 ホテルのバイキングで朝食。
7:45 チェックアウト。
本日14:15 のヒコーキで帰るので、自由な時間は昼まで。
オイラは小学生時代那覇市在住だったのですが、まずは思い出の場所に行ってみることに。
城岳公園。
その辺に落ちてた雨戸に乗ってよく滑り降りて遊んでた階段。
なんちゅうアブナイことを。。。(XДX)
与儀公園。
ここにD51が展示されることになったいきさつについて説明版等によりますと、
沖縄の本土復帰(1972年)を記念して、国鉄門司鉄道管理局の有志により沖縄の子供を招くことになり、
那覇市内の小学5,6年生72名が招待され、国鉄職員の里親の元で8日間の楽しい生活を送りました。
子供たちは身近に見た蒸気機関車の巨大さ、たくましさにすっかり心奪われ、口々に「蒸気機関車が欲しい」と言い出しました。
里親である国鉄職員は鉄道のない沖縄の子供たちのために、九州で走っている実物の蒸気機関車を送ろうということになりました。
鹿児島から海上600キロメートル隔てた那覇へ900トンのD51を運ぶ必要があり、
実際の移動に際しては、費用面はもとより技術面でも非常に困難だったそうです。
それでも沖縄の子供たちのために全国の国鉄職員はじめ大勢の方々の募金により鹿児島からD51が運ばれてきました。
このD51 222は、1938年小倉工場で製造され、現在の門司機関区、直方機関区、熊本機関区、南延岡機関区で運転
総走行距離は 2,876,479km。
1973年3月1日 那覇港到着。同月8日に与儀公園で譲渡式が行われました。
レールの下には、沖縄を含めた日本全国47都道府県の土と石が埋められているのだそうです。
なんだか国鉄の印象が変わりました。ええ話や~(;´Д⊂)
この与儀公園のすぐ近くに「沖縄県立図書館」があり、開館時間に合わせて入りました。
ここで県内の飛行場/跡地についての資料を探したのですが、特に印象に残ったのが、「義烈空挺隊」についての戦記■ でした。
「占領された沖縄に強行着陸して破壊活動を行う」という、
オイラとしてはやけっぱちのバンザイ突撃のようなものだと思っていた作戦のイメージが大きく変わったのでした。
次に海軍壕公園へ。
ここは大戦末期に日本海軍の司令部壕が置かれ、激しい戦場となりました。
司令官であった大田實少将はじめ幹部6名が自決した場所でもあります。
「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」
大田司令官の愛唱歌だそうです。
ということで海軍壕の見学を終えるとお昼前。
13時までに空港最寄りの店にレンタカー返却しなければなりませんでした。少し早いのですが返却することに。
スタッフさんの誘導で車を停めたら、ガソリン満タンにするのを忘れてた。。。(@Д@)
最寄りのスタンドを教えてもらい、やり直し。うぅ、カッコ悪い。
カサはプレゼントしました。
本日の走行距離:17km
総走行距離:466km
燃費:16.1km/L
でした。
以前コメント欄で教えて頂いていたのですが、那覇空港のデッキにもフェンスがついてしまいました。
セントレアのようなワイヤー方式なのですが、
手前の手すりと距離があるため、ワイヤーの隙間からレンズを出して、という芸当ができません。
それでもご覧の通りで手すりが途切れている部分があり、「撮影スポット」というステッカーが貼ってありました。
少し早いのですが搭乗口へ。
大東すし食べてー、ブルーシールなめてー、最後の沖縄を食い収め。
定刻14:15 出発の便でした。
13:50 搭乗開始。と、ここまでは非常に順調だったのですが、時間を過ぎてもなかなか動きません。
14:25 「出発機、到着機が錯綜し、誘導路が込み合っております。もうしばらくお待ちください」
14:28 プッシュバック開始
14:32 タキシング開始。その後ノロノロ動いては停止。を繰り返しました。
14:38 「当機は離陸4番目です。着陸機もあるため、離陸は10分後の見込みです」
14:56 R/W36から離陸。滑走路に入る時、2日前に撮影した瀬長島が見えた。さらば沖縄
結局座席に着いてから離陸までに1時間かかってました。
普段搭乗の機会が少ないこともあり、ヒコーキに余分に乗っていられるのはオイラにとってご褒美なのですが、
到着1時間後に出発の自宅最寄駅行きのバスに乗れるのかどうか心配です。
自宅に戻って仕事の電話もたくさんあるし。
777-300
16:37 それ程揺れることもなく、R/W34L に着陸。
16:43 7番スポットに到着。
到着が遅れてしまったのですが、無事自宅最寄駅行きのバスチケットが取れて一安心。
腰痛があるので電車の乗り継ぎをしなくて助かりました。
ブックスフジでヒコーキ関係の本を1冊購入。
17:25 羽田発
19:20 自宅近くの駅到着。
自宅に戻って早速仕事の電話をたくさんして、一気に現実に戻ったのでした。
旅行中もほぼ毎日仕事の電話を何本かしていたのですが、旅行を取りやめて緊急帰還という事態に陥ることなく済みました。
旅行後半苦しめられた腰痛と頭痛なのですが、埼玉に戻って普通に忙しくしていたら、数日ですっかり治ってしまいました。
…すっかり埼玉県人としてカスタマイズされてしまったということなのでしょうか。
これで沖縄旅行記はおしまいです。
長々とお付き合い、ありがとうございました m(_ _)m
(おしまい)