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沖縄の飛行場の変遷 [├雑談]

沖縄本島(と伊江島)の飛行場の変遷をまとめてみました。

日本軍.jpg

米軍上陸前(~1945年3月)
来たるべき米軍との対決に向け、日本陸海軍が猛烈な勢いで飛行場建設を開始しました。

茶色は旧日本陸軍の飛行場
青色は旧日本海軍の飛行場

第2章  旧軍飛行場用地問題の歴史的な背景とその後の経過 (2コマ目)にこんな一節がありました。 

「昭和18年(1943年)9月、大本営は戦局の劣勢を挽回するために確保すべき圏域を千島~小笠原~マリアナ諸島~西部ニューギニア~スンダ~ビルマの範囲に絞った「絶対国防圏」を設定した。この絶対国防圏を確保するためには前線に展開した航空部隊を支援する後方基地が不可欠であった。南西諸島は、マリアナ諸島の航空基地に展開した航空部隊を支援するための中継基地として設定され、多数の飛行場建設が実施されていった。」 

それまで本島にあった飛行場は海軍の小録飛行場(現在の那覇空港)だけだったのですが、

新たに陸軍6、海軍1を加え、合計8つの飛行場とする計画が立てられました。

陸軍のメインは伊江島、北(読谷)、中(嘉手納)の3飛行場で、いずれも1943年から建設が始まりました。

そして翌年の1944年、小型特攻機用発進基地として、南(牧港)、東(西原)、石嶺の建設が追加されました。

与根は小禄の補助飛行場として1944年着工しました。

猛烈な勢いで整備が進められた各飛行場だったのですが、

米軍上陸直前になって日本軍は方針を転換、米軍が飛行場を使用できないように破壊しました。

 

占領後.jpg

米軍上陸後(1945年3月~)
米軍は沖縄戦、本土攻撃のため、占領した飛行場の修復、拡張に加え、新設工事を行いました。

赤字は米軍が新規建設した飛行場
茶字は日本軍の飛行場を修復・拡張したもの
灰字は放棄された飛行場

上陸した米軍はすぐさま日本軍が破壊した飛行場の修復、拡張を行うのですが、

日本軍の8飛行場のうち、石嶺、与根の2飛行場は米軍から利用されませんでした。

この2飛行場は元々未完成で日本軍に放棄されていたものでした。

それ以外の日本軍が建設した6つの飛行場は全て米軍により利用されています。

米軍はあっという間に飛行場を使用可能な状態にしてしまったのですが、

修復、拡張した6つに加え、米軍は更に10の新規飛行場建設計画を追加しました。

合計16の飛行場になったわけですが、その使用内訳はおおよそ次の通りです。

本土爆撃用等大規模飛行場:伊江島、ボーロー、嘉手納、普天間、牧港、小録
中型爆撃機用飛行場:金武、読谷
本土爆撃時の偵察機用飛行場:本部
海兵隊ヘリ用飛行場:ハンビー
連絡機用等小規模飛行場:奥間、宮里、瑞慶覧、西原、福地

(備考)
泡瀬飛行場は米海軍専用の飛行場として新規建設されたのですが、日本敗戦により放棄されました。
沖縄は元々自動車道が未整備なため、迅速な移動のため小型機用飛行場が新設されました。
元日本軍の飛行場を米軍が使用するに際し、牧港はマチナトに、西原は与那原に、小録は那覇に、それぞれ名称が変更されています。

 

現在.jpg

現在(~2012年)
日本の敗戦により嘉手納への集約が進み、ほとんどの飛行場は使用されなくなりました。

赤字は米軍の飛行場
青字は日本の飛行場
灰字は使用しなくなった飛行場

(備考)
辺野古は建設予定地として議論が続いていますが、一応ここです、ということで記入しました。
読谷は後に読谷補助に名称変更になり、2006年12月に全面返還されました。
伊江島は3本の滑走路のうち1本だけ日本に返還され、今日に至ります。


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