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木更津飛行場(木更津航空基地跡地) [├空港]

   2012年7月訪問 2021/1更新  


無題3.png
撮影年月日 1947/02/22(昭22)(USA M50 66) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

無題4.png SkyVector.com

陸上自衛隊木更津駐屯地にある「木更津飛行場」。

元々は海軍の木更津航空基地として埋め立てて建設されたもので、

末期には初の国産ジェット機橘花が飛んだ飛行場でもあります。

また、終戦の月19日早朝、当飛行場から河辺参謀次長を全権とした日本の降伏使節団一行が、

白塗りの一式陸攻2機で伊江島に行き、米軍機に乗り継いでマッカーサーの待つマニラに飛んだのだそうです。

現在は敷地を対角線に走る滑走路1本の飛行場なのですが、

海軍当時は1,650m、1,500m、1,200mの3本の滑走路を有しており、

現在でもうっすらと滑走路、ターニングパッドの跡が残っています。

南南西~北北東の滑走路跡は、1970年代になってから一部舗装して使用しているようです。

■「日本海軍航空史」(終戦時)では、当航空基地の滑走路について、
1,500mx70m(アスファルト)、1,650mx80m(アスファルト)、1,200mx80m(アスファルト)とありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
地名:木更津 
建設年: 
飛行場長x幅 米:1650x80 1500x80 1200x80 
主要機隊数:中型2.0 小型6.0 
主任務:作戦 
隧道竝ニ地下施設:居住、倉庫、工場燃料、爆弾等 居w 兵舎14.183平米分散兵舎2 100平米 指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫、倉庫、工業場 雷調8本同格納庫72本 掩体:小型有蓋10 小型無蓋19 中型無蓋36 
其ノ他記事:燃料置場 土地2534坪 格2548圓 揮発油庫土地33坪 價33圓

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」でも、当航空基地について、
1,000x100  1,200x100  1,200x100  90x100  800x100  と5本の滑走路について、記されていました。

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「木更津空開隊(S11.4.1)」とありました。

D20_0119.jpg

滑走路北側から撮ったつもりの写真。

残念ながら滑走路視認できず。。。


      千葉県・木更津飛行場     
(そのスジでは有名ですが)グーグルの2004年データで見ると、飛行場敷地内にANAジャンボが飛んでます(o ̄∇ ̄o)

・木更津航空基地(海軍当時) データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
滑走路: 1,650mx80m(02/20)、1,500mx80m(16/34)、1,200mx80m(11/29) 
(方位はグーグルアースから、他は資料から)

・木更津飛行場(現在) データ
設置管理者:防衛省
4レター:RJTK
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県木更津市吾妻地先
座 標:N35°23′54″E139°54′36″
標 高:3m
滑走路:1,830m×45m
磁方位:02/20
(座標はグーグルアースから)

沿革
1936年04月 1日、開隊
1945年08月 07日、 国産初ジェット機「橘花」テスト飛行
        15日 終戦
        19日 降伏使節団一行がマニラへ
     09月 米軍、木更津進駐

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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787デリバリー1周年 [├雑談]

去年の9月25日、ボーイングとANAは787引き渡しの書類に調印。

787初号機のデリバリーを行いました。

26日にはエバレット工場で式典が行われ、27日に現地を離陸、28日に羽田に到着したのでした。

 

2012年8月24日ボーイング発表によりますと、

「既に運航サービスを開始している機体は、777型機など、既存のボーイング機と同様の定時運航率を記録しています。」

とのことです。

実は、2011年11月に量産型1号機(ANA)が着陸の際メインギアが出ず、手動で出して27分遅れで着陸。

というトラブルがありましたが、事故に至るようなトラブルは現在のところ起きていません。

これまでの旅客機とはまるで違うと言っていい位、いろいろな部分がガラリ変りましたが、とりあえず出だしは順調のようですね。

現在のところ運用のほとんどをANAとJALが占めているわけですが、

今後世界中のエアラインが使用するようになってどうなるでしょうか。

 

787デリバリー開始から1年経ったわけですが、オイラの知る限り、9月25日時点での787のデリバリー数は、24機です。

デリバリー開始から1年間の月平均デリバリー数は丁度2機ですね。

内訳は、ANA:14機、JAL:5機、エチオピア航空:1機、ラン航空:1機、エア・インディア:2機、ユナイテッド航空:1機

となっております。

追記:本家ボーイングからデリバリー満一年のニュースリリースが出ました。1年間のデリバリー数は25機だそうです。

 

で、ここからが本題です。

前フリが長いのはオイラの悪いクセ。 m(_ _)m

次の1年でボーイングは何機の787をデリバリーさせるでしょうか?

宜しければコメント欄に予想数をお書きください。

 

一応参考になるかどうか分かりませんが、本家ボーイング発表の月別デリバリー数はこんな感じです。

2011年は9月から12月まで順に、それぞれ 1,1,0,1機。

同様に2012年は1月から8月まで順に、 2,0,3,3,0,3,1,4機  となっております。

徐々にではありますが、デリバリー数は増えてますね。

8月末の時点で合計19機。非公式ですが、今月はANAとJALが更に1機ずつ受け取る予定になっているようで、

もしかすると今月のデリバリー数は7機とか8機とかになるかもしれません。

ボーイングは787をできるだけ早く月産10機体勢に持って行きたい。としています。

 

さて、787は次の1年間で何機デリバリーされますか。

皆様の予想をお待ちしております m(_ _)m

 

追記:オイラの予想を書いておきます。

オイラは月産平均7になると予想します。で、合計84機になるかと思いきや、

製造部門のチャーリーのミスにより1機減ってしまい、83機。 83機でFA。


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根形(第二木更津)飛行場候補地 [├場所]

   2012年7月訪問 2022/1更新  


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撮影年月日1947/02/22(昭22)(USA M50 68) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
無題c.png
1/50000「木更津」、1/50000「姉崎」昭和19年部修「今昔マップ on the web」より作成

千葉県袖ケ浦市。

戦時中、海軍が当地を「根形基地」という航空基地建設の候補地としていました。

■防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)

の中で、当飛行場について以下の通り記されていました。

位置 君津郡根形村 
基地名 根形
最寄駅ヨリノ方位 房総西線木更津駅 E9
飛行場 長×幅 米 1500x1200
主要機 小型
主任務 退避場
隧道並に地下施設 丁字型ニ計画耕作地大部分ニシテ一部林野ナリ付近二工事資材ナク輸送モ亦不便ナリ
         本地ハ富津候補地ノ代替地ナリ
其ノ他記事 候補地

「富津候補地の代替地」、「候補地」だったんですね(当資料には富津についての記載はありませんでした)。

根形村は1955年に廃止となったのですが、その村名は「根形保育園」、「根形公民館」等、

現在でも施設名に残っています。

上に貼った地図で根形村のおおよその範囲が分かりますね。

先頭のグーグルマップは、当時の根形村の範囲で、且つ広々としている場所に、

資料にある通り1,500mx1,200で囲ったものです。

候補地扱いであり、具体的にドコという明確な位置情報が資料にないため、

飽くまで「資料にある通りの大きさだと、こんな感じ」という程度のものですのでご了承くださいませ。

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  横須賀
牧場  根形(第二木更津)
滑走路 五〇×六〇〇
縣郡村 千葉、君津郡 根形村
記事  八月末既成(日立社)

最初の資料「海軍航空基地現状表」では候補地扱いなのですが、

この資料では「五〇×六〇〇」「8月既成」「日立社」とあります。

1,500mx1,200の地区に改めて五〇×六〇〇滑走路が計画されたのか、別々の地区に計画があったのか…

D20_0118.jpg

赤マーカー地点。

真っ直ぐの道路脇には広大な田んぼが広がってました。


      千葉県・根形(第二木更津)飛行場候補地      

根形(第二木更津)飛行場候補地 データ

設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県‎君津郡根形村(現・袖ケ浦市‎三ツ作‎?)
座 標:35°24'30.7"N 139°59'48.0"E
標 高:8m
滑走帯:1,500m×1,200m
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料:「海軍航空基地現状表(内地の部)」(昭和二十年八月調)


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とり日記 [■ブログ]

オイラの会社でポット型の浄水器を扱うようになりました。

1966年、世界で最初にポット型浄水器を発売したのはドイツのブリタ。

世界ナンバーワンのシェアを誇り、お客様に話してピンとこなくても、

「ブリタ」と言えば「あー、あの!」と、悔しい程すぐ通じます。

オイラはこういうタイプの浄水器があることすらだったのですが、

最近は蛇口の形状がオシャレなお宅が多くて、蛇口直結式浄水器の取り付けが出来ないご家庭を中心に、

家庭用浄水器の半分はポット式なのだそうです。

 

弊社の製品特徴は、浄水と同時に硬度調節ができること。

この硬度調整という特徴をセールスポイントにすべく、先日偉い方にお越し頂いて勉強会が行われました。

まずは硬水と軟水の飲み比べ。

…。

全然分からない。

コントレックスなど硬度1,500近い水は飲んだらすぐ分かるらしいけど、弊社の製品はそこまで硬度が高くない。

同僚のAさんはコーヒーにうるさい人で、

この人は少しすすっただけで、「これは硬水」とか「あ、これは軟水」とかすぐ分かる。

「ある程度まとまった量を呑むと喉越しで違いがわかりますよ」

と言われ、両方の水をごくごく。

…。

全然分からない。

Aさん以外の人は、かろうじて当たる程度だったり全然分からない人ばかりでちょっと安心したけれど。

こういう感覚はある方だと思ってたのでちょっとガッカリ。

そんなオイラの隣りでこれ見よがしに「あ、これは軟水」とかまだ言ってるAさん。

Aさんもう分かったから。

 

ところがそれぞれの水でコーヒーを淹れたら、その違いは歴然。

軟水コーヒーがまろやかなのに対し、硬水コーヒーは香りも味もカキッとしている。

水のままだと全然分からなかったオイラでも、これなら少しすすっただけで分かる。

Aさんは「タンニン成分が~」とかもー語る語る。

Aさんもう分かったから。

 

うーむ、しかしこんなに違うものなのか。

コーヒーは好みで硬水軟水使い分ければいいけれど、お茶は軟水がいいらしい。

「リラックス時は軟水だけど、今はリフレッシュしたいから硬水で淹れたコーヒーが飲みたいね」

今度機会があったらオイラもAさんみたいに通ぶってみよう。

 

おわし。


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伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼、伊藤飛行場)跡地 [├空港]

   2012年7月訪問 2020/10更新  


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1/25000「習志野」大正10年測図・大正14.4.30発行「今昔マップ on the web」より作成(2枚とも)
無題b.png
1/25000「習志野」昭和4年部修・昭和7.10.30発行

 

千葉縣習志野市にあった「津田沼飛行場」と「伊藤飛行機製作所」。

後述しますが、ここに製作所が開設したのは、大正7年(1918年)でした。

飛行場は、潮が引いたあとの干潟を使用しており、

ここが「滑走路跡」とする現地説明版(先頭のグーグルマップ赤マーカー)は、

当然ながら満潮時は海の底でした。

上に2枚の地図を貼りましたが、1枚目は大正10年測図なので、飛行場開設から3年後に当り、

干潮時はここで実際にヒコーキが飛んでいた。ということになります。

小さくて見えにくいんですが、地図の赤線のところ、「伊藤飛行場」とあります。

2枚目の地図は昭和4年のものですが、同じ位置に「伊藤飛行機製作所」とありますので、

格納庫等、諸施設はここにあったのではないかと。

この「伊藤飛行機」という書き込みのすぐ海側に、前述のここが「滑走路跡」とする現地説明版が設けられています。

1番目のマップから、当時の海岸線、干潟をレイヤにして、先頭のグーグルマップを作図しました。

干潮時に現れる川?が左右にありますが、

それでも海岸線に沿って長さ2,200m、沖合に向かって最大1,500mありますから、

飛行場としては充分過ぎる広さと思います。

 

ここからは、ここに飛行場と製作所と飛行場ができるに至ったいきさつについての話で、

前記事「稲毛飛行場跡地」 からの続きとなります。

奈良原氏が白戸操縦士以外に更にもう一人操縦士を育てようと考え、

練習場所として開設したのが1912年開場の稲毛飛行場でした。

この飛行場で練習を始めたのが、白戸操縦士、そして「もう一人」の人物、伊藤音次郎でした。

1913年、前記事の通り、奈良原は金策に行き詰まり(男爵を継がせるべく親戚からの強い反対もあったらしい)、

一時航空界から手を引きます。

そのため伊藤音次郎は1915年、独立して稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設します。

稲毛飛行場をそのまま使用しつつ機体設計、操縦士養成を行っていました。

余談ですが奈良原の一番弟子白戸はどうしたかといいますと、、

1916年12月に稲毛を離れ、現在の千葉市寒川新宿に白戸飛行機練習所を開設し、専ら飛行士の養成に努めました。

ところが1923年、2人の愛弟子が飛行機事故で相次いで命を落してしまいます。

白戸はその年のうちに航空界から引退してしまったのでした。

 

伊藤研究所創設から2年後の1917年9月、伊藤飛行機研究所と稲毛飛行場は台風と高潮で壊滅してしまいます。

そのため伊藤は、稲毛海岸から数キロ北側に位置するここ鷺沼海岸に、

新たな飛行場(津田沼飛行場)と研究所を設けることにしたのでした。

結局、伊藤の恩師奈良原が作った稲毛飛行場は僅か5年で壊滅してしまったということになります。

 

■国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正14年」に、

民間飛行機操縦術練習所のページがあります(下記リンク参照)。

「操縦術」というのが時代を感じさせますね。

名称 株式会社伊藤飛行機研究所
所在地 千葉縣津田沼
代表者 伊藤音次郎

とありました。

「飛行学校」とする所が多いのですが、「研究所」だったのですね。

■同じく「報知年鑑 大正15年」に「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」のページがあります(下記リンク参照)。

管理人 川邊佐見
種類 陸上
位置 千葉県津田沼町サギ沼海岸
面積 記載無し

隣のページには、「本邦民間飛行機操縦術練習所〔大正14・8・1現在〕」がありました。

名称 東亜飛行専門学校
所在地 千葉県津田沼町
代表者 川邊佐見

■「報知年鑑.大正16年」には、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕がありました(下記リンク参照)。

使用者 伊藤音二郎 川邊佐見
種類 陸上
位置 千葉縣千葉郡津田沼町
面積 記載無し


鷺沼海岸に居を移して活動を再開した伊藤でしたが、

優れた機体を次々製作し、懸賞飛行に優勝したり、多数の操縦士を養成しました。

製作した飛行機は50種以上、軍払い下げ機の改造27機種、滑空機の製作は15機種200機以上。

操縦訓練では200人近い人材を育てました。

奈良原の稲毛飛行場とその弟子伊藤の鷺沼飛行場、それぞれの飛行場を比較した場合、

伊藤が鷺沼海岸に居を移してからの方が活動の期間が長く、規模も大きいと思うのですが、

現在それぞれの跡地の様子はまったく正反対です。

伊藤の飛行場跡には2006年に習志野市の小さな説明版が設けられただけなのと対照的に、

伊藤は恩師が開設した飛行場跡地に非常に大きな碑を建て、貴重な松の木を移しています。

D20_0079.jpg

ここはマリオ・デ・ニ−ロさん に教えて頂いた場所です。 ありがとうございました。m(_ _)m

千葉県‎習志野市‎袖ケ浦‎5丁目‎16にある「袖ヶ浦第二児童遊園」。

ここに「旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡」の説明版が設置されています。

旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡(全文)
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。平成十八年三月 習志野市教育委員会

ここで「東亜飛行学校」が出てきますが、これについて「南国イカロス記 かごしま民間航空史」127p

にはこうありました。

東亜飛行専門学校というのは、業界不況のため大正十三年十一月(株)伊藤飛行機研究所を解散した伊藤音次郎が、
個人会社に切りかえると同時に飛行部門を分離し、設立されたものである。

2014/8/3追記:アギラさんから情報頂きました。説明版にも出てくる東亜飛行場についてです。「習志野市史第4巻資料編(ⅲ)には東亞航空興業株式會社の1940年7月の広告がありました。そこには本社は東京市小石川區大塚上町20番地となっていました。(大塚上町は現在の文京区大塚5丁目or6丁目)関連はありませんが国産初の飛行機を明治時代に作った林田商会の場所まで(新宿区西五軒町12-10)歩いても20分位です。営業所と東亞航空技術員養成所は津田沼町鷺沼127番地となっていて操縦や整備だけでなく中国語も教えていたようです。 」

また、こんな情報も頂きました。「尚、奇しくも千葉毎日新聞1931年5月23日の記事にはオートジャイロの記事もありました。「滑走路を要さない直昇飛行機製作 奈良原男爵発明のオートヂャイロン器を津田沼伊藤民間飛行場で 津田沼町伊藤飛行機製作所にて目下奈良原男爵の発明に依る直昇飛行機 組立を急いで居るが、右はオートヂャイロンと言って従来の如く大面積の滑走場に 滑走する必要なく機上翼上に十字形の相互に内面へ回転する装置のプロペラが備え付けられエンヂンを掛けタランクをふみローに入れるとエーヤ圧搾にて回転し直ちに機は直昇離陸するのであって、目下イスパノ三百馬力機に取付中であるが又た同機には是れも同男爵の妙案なる重心安定器を機体中心へ取付けてゐるので機体の動揺等を防ぎ昇降等にも非常に便よく是に依り墜落も防止されるとのことでおそくとも七月初めには試運転の初飛行を行う由である。」

更に「民間飛行學校練習所其他」{航空年鑑昭和六年)の中で、当飛行場に関して、「日本軽飛行機倶樂部(千葉縣千葉郡津田沼町 伊藤飛行場)」として登場しているそうです。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m


      千葉県・伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場)跡地      

伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場) データ
設置管理者:伊藤飛行機研究所
所在地:千葉縣千葉郡津田沼町(現・習志野市‎袖ケ浦‎5丁目‎16)
飛行場:2,200mx1,500m不定形
標 高:3.0m
座 標:N35°40′07″E140°01′50″(の辺りと思われる)

沿革
1912年    奈良原氏、稲毛海岸に民間飛行機練習所を開く
1915年01月 伊藤氏、奈良原氏から独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設
1917年09月 伊藤飛行機研究所、台風と高潮で壊滅
1918年04月 12日 伊藤飛行機研究所、鷺沼海岸にて再開(津田沼飛行場)
1931年    伊藤飛行機製作所、東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれる
1945年08月 終戦と共に解散

関連サイト:
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑 大正14年(174コマ) 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ) 
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ) 
Wiki/伊藤音次郎   
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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千葉県・稲毛民間航空記念館(閉館) [├場所]

   2012年7月訪問 2021/1更新  



前記事の「稲岸公園」の前の道を海岸に向かって真っ直ぐ進むと、稲毛海浜公園の交差点に出ます。

そのまま公園内を真っ直ぐ進むと、右手に「稲毛民間航空記念館」の建物があります。

残念ながら2018年3月31日で閉館してしまいました。

複葉機(鳳号)が復元されたのを機に建設されたもので、稲毛飛行場の歴史を後世に残すべく、

飛行機の歴史や大空への夢を育むため、展示施設の管理や紙飛行機工作教室などのイベントを行っていました。

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奈良原式4号機「鳳」号

復元機で実際に飛行できる機体なのだそうです。


      千葉県・稲毛民間航空記念館(閉館)      

稲毛民間航空記念館(開館当時) データ

所在地:千葉県千葉市美浜区高浜7丁目2番2号
開館時間:9:00~17:00
入館料:無料

関連サイト:
千葉市観光ガイド/稲毛民間航空記念館【閉館】    
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稲毛飛行場跡地 [├空港]

   2012年7月訪問 2021/1更新  


無題a.png
1/25000「千葉西部」大正10年測図「今昔マップ on the web」より作成

千葉県‎千葉市‎美浜区にある稲岸公園。

大正時代、ここに民間航空発祥の地と謳われる「稲毛飛行場」がありました。

日本の航空界草創期の記述には必ず登場する、奈良原三次氏の飛行場です。

先頭のグーグルマップは、すぐ上に貼った地図の海岸線と干潟を作図したものです。

ご覧の通りで現在の国道14号線(千葉街道)がかつての海岸線で、干潮時には幅約1kmの干潟が現れました。

後述しますが、ここに飛行場があったのは、大正1年~大正6年。

上に貼った地図は大正10年測図ですから、飛行場閉鎖から約4年後のものなのですが、

地図で年代順に確認したところ、海岸線と干潟に現れる水の流れの形は、

明治36年~昭和27年までほとんど変化していませんでした。

それで飛行場として使用していた時もこんな感じだったと思います。

グーグルマップの赤マーカーは、ここに飛行場があったことを示す碑ですので、

稲毛飛行場は、干潟を利用した飛行場でした。

後にここから約5km北西に作られた伊藤飛行場、鹿児島の本田飛行場等、

干潟を飛行場として使用した例は他にもいくつかあります。

実は、当稲毛飛行場について、具体的に干潟のドコからドコまでの範囲を使用していたのか不明なのですが、

干潟を使用していた他の飛行場では、面積、海岸線の長さ等の資料が残っているケースがあり、

これらを見ていくと、干潟になると出現する水の流れで範囲が定まっている例が多いです。

これはオイラの勝手な憶測なんですが、ここでも同じではないかと考え、

碑のある地点について、海岸線から水の流れの範囲で囲ってみました(グーグルマップ グレーのシェイプ)。

これでおおよそ800mx640mの三角形の範囲となります。

当時のヒコーキならば十分の広さではないかと。

 

奈良原三次(1877~1944)は1908年東京帝国大学工学部造兵科卒業。

海軍少技士となり横須賀海軍工廠造兵部に勤務するかたわら、木村俊吉理学博士の指導で飛行機の研究をしました。

そして新編成の臨時軍用気球研究会に任命。

1910年10月、自ら設計した奈良原式1号機を自費で完成させ、

発動機はフランス製のノーム50馬力を付ける予定で注文したのですが、

どこで間違ったのか、到着したのはフランス製のアンザニ―25馬力だったのでした。

予定の半分の馬力では当然飛行に足りず、戸山ヶ原(東京)での試験飛行は地上滑走で終わりました。

今なら密林さんにクレームのメールを入れればすぐに正しい注文品を送ってくれるのでしょうが、

このエンジン手配の不備は歴史な意味を持つこととなりました。

史実では、

・1910年12月 東京の代々木練兵場にて、外国機による国内初飛行に成功
・1911年05月 奈良原氏製作の国産機による初飛行に成功

となっています。

もう少し細かく見てみますと、軍主導で(この場合国の主導と言い換えてもよいのかもしれませんが)、

日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学び、飛行機を購入して持ち帰り、飛行に成功したのが、1910年12月。

それから遅れる事5ヵ月で奈良原が初飛行に成功した。ということになっています。

ところが実は、奈良原が自費で設計、製作した奈良原式一号機の完成は、外国機による国内初飛行の半年前だったのです。

もし発注通りのエンジンが届いていたとしたら、

「外国機による国内初飛行」と、「国産機による国内初飛行」の順番が入れ替わっていたのかもしれません。

 

それはともかく、一号機が失敗に終わった翌年1911年の春には奈良原式二号機が完成しました。

この第二号機を同年5月に開設したばかりの陸軍所沢飛行場に持ち込み、練習を行いました。

そして自らの操縦により高度4m距離60mの飛行に成功。

この時奈良原は軍籍を離脱しており、機体も自費製作であったため、これが

「1911年05月 国産民間機による初飛行」として史実に記されることになりました。

 

次に稲毛海岸が飛行場になったいきさつについてです。

自作機の飛行に成功した奈良原は更に飛行機の製作を重ねる一方、

自身は親戚からの反対で操縦桿を握ることができくなってしまったため、

白戸栄之助を操縦士として養成します。

そして1912年4月、川崎競馬場にて奈良原式4号機「鳳」号による民間初の有料公開飛行等に成功、

同年5月には青山練兵場(現神宮外苑)での公開飛行にも成功し、白戸以外にも操縦士を養成する必要性を感じます。

この時まで練習場所は当時唯一の飛行場であった陸軍の所沢飛行場の一隅を借りていたのですが、借り物では遠慮があります。

そのため金のかからない、いつでも自由に使える民間の飛行場を作ろう。ということになりました。

目を付けたのは、奈良原がよく鴨猟に行っていた、東京湾の最奥に当たる浦安から船橋、千葉方面の内湾沿岸でした。

この場所は遠浅で汐が引くと一面の干潟となり、砂がしまって堅く、

荷馬車が海の中を通っている状態で、汐の満干の不便さえ忍べば、金もかからず、ほとんど無制限に広いし、

練習には申し分ないことから、同海岸の調査が進められることになりました。

当時の稲毛海岸は東京人の行楽地として知られており海の状態もよく、

東京にも近く、鉄道の便も良い上に、大きな旅館があって、

この旅館の庭先の海岸寄りにちょうど格納庫が建てられるくらいの空き地があり、

旅館の主人が格納庫を建ててくれるということで話はトントン拍子に進み、ここに稲毛飛行場開設の運びとなったのでした。

こうして5月には稲毛飛行場にて、奈良原の一番弟子白戸、二番弟子伊藤音次郎の練習が開始されたのでした。

 

本拠地も決まり、全国に巡回飛行をすることになり、

大正元年、中国、九州、四国を巡回飛行、大正二年には、水戸と金沢で飛行、

その後朝鮮に渡り、京城と平壌で飛び、続いて北陸から北海道に渡り、帰りは青森、仙台、宇都宮と来ました。

こうして稲毛海岸の干潟飛行場を本拠地として全国で巡回飛行会を催したため、

「稲毛が民間航空発祥の地である」といわれる所以となっています。

 

「南国イカロス記 かごしま民間航空史」69pには、次のように記されていました。

 奈良原三次の無給助手だった伊藤音次郎は、スミスの飛行大会より三か月前の(大正五年)一月八日に、み
ずから設計製作した伊藤式恵美第1型(通称「恵美」号)で、稲毛から海上往復五十五分の帝都訪
問飛行に成功し、新進飛行家として認められるようになっていた。

当時民間でこれだけのことをしたのですが、財政的にはやはり相当厳しいものがあり、

借金のため発動機が差し押さえられて飛べなくなり、一時東京に引き上げたとか、

五号機を代金未払いから取り上げられてしまったので、既にボロボロになった四号機を引き出して使用したとか、

記録からは相当苦労したことが読み取れます。

四号機は「鳳号」と名付けられたのですが、これは出資者の贔屓にしていた横綱「鳳」から命名したのだそうで、

このへんもスポンサーへの気配りなのかもしれません。

 

こうして金銭面で苦労しながらやっていたのですが、とうとう身動きがとれなくなってしまい、

奈良原は1913年末に他の事業を起こすべく一旦航空界から引退します。

そして時は流れ1930年に津田沼日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、銀紙飛行機献納運動、グライダーの普及発達に尽力し、

よく後進の指導・育成に努力するなど、生涯を航空の発展に捧げたのでした。

 

奈良原によって作られた「民間航空発祥の地・稲毛飛行場」は、奈良原が1913年に一時引退した後も使用されたのですが、

1917年6月の台風で壊滅してしまいます。

このことについてはまた後日別記事で。

D20_0107.jpg

赤マーカー地点。

「民間航空発祥之地」碑

「一九一二年五月奈良原三次氏この海浜に初めて練習飛行場を創設教官白戸栄之助氏により飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である 一九七一年七月 伊藤音次郎記」
と記されています。

D20_0110.jpg

D20_0111.jpg

碑とキティ―ホークの松


      千葉県・稲毛飛行場跡地      

稲毛飛行場 データ

所在地:千葉県‎千葉市‎美浜区‎稲毛海岸‎4丁目‎15‎
座 標:N35°38′03″E140°04′37″
飛行場:800mx640m(推定・不定形)
面 積:29.5ha?
(座標、飛行場長さ、面積はグーグルマップから)

沿革
1912年05月 飛行場開設
1913年    奈良原一時引退
1916年01月 8日 伊藤音次郎、伊藤式恵美第1型(通称「恵美」号)にて帝都訪問飛行に成功
1917年09月 30日夜半から10月1日にかけての台風による高潮で壊滅

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この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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船橋飛行場跡地(二代目) [├空港]

   2012年7月訪問 2021/1更新  


無題b.png
撮影年月日1966/08/29(昭41)(MKT664 C9 14) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
無題c.png
1/25000「習志野」昭和42年改測「今昔マップ on the web」より作成

千葉県船橋市にあった「船橋飛行場」。

前記事の通り、船橋ヘルスセンターに遊覧飛行用の「船橋飛行場(初代)」が造られたのですが、

その後ヘルスセンターの拡張(人工ビーチの新設)と船橋サーキットの新設に伴い、移転しました。

初代飛行場の離陸/着陸コースは隣接する競馬場の直上であり、

競馬場側からの苦情もあったのだそうです ^^;

初代は転圧式の簡易なものでしたが、移転した滑走路は舗装された700mの立派なものとなりました。

尚、「初代」とか「二代目」というのは当記事内だけの便宜的な名称ですのでご了承くださいませ。

 

船橋ヘルスセンターは最盛期には年間来場者数400万人を誇りました。

遊園地・テーマパーク年間来場者数で見ると、やはりというか、千葉県の某テーマパークが別格なのですが、

2009年度の数字では、横浜・八景島シーパラが429万人で6位にランクインしていますから、

ヘルスセンターは現在でも余裕でベスト10内に入るんじゃないでしょうか。

ところがその後、 1969年に起きたセスナ墜落事故(操縦者は死亡、乗客だったカップルは重傷だったらしい)

が引き金となり船橋飛行場は閉鎖されてしまいます。

せっかく新設した舗装滑走路でしたが、僅か4年しか使用しなかったことになります。

上に貼った航空写真は1966年撮影なので、開設翌年のものです。

遊覧飛行の運航を担当していたのは中央航空だったのですが、

事故発生と同じ年に開設された茨城県の「竜ヶ崎飛行場」に移転しました。

船橋ヘルスセンターもその後衰退の一途をたどり、地盤沈下防止のため温泉の汲み上げが禁止されたことが致命的となり、

1977年に22年の歴史を閉じました。

D20_0075.jpg

赤マーカー地点。

ららぽーと屋上駐車場から。

滑走路はららぽーとのすぐ手前まで来ていました。

今となっては考えられない場所に滑走路があったのですね。


      千葉県・船橋飛行場跡地(二代目)      

船橋飛行場(二代目) データ

所在地:千葉県‎船橋市‎浜町‎2丁目‎
座 標:N35°40′51″E139°59′28″
標 高:4m
滑走路:630mx25m?
磁方位:18/36
(座標、標高、滑走路長はグーグルアースから)

沿革
1965年07月 船橋飛行場(二代目)完成
1969年    墜落事故により飛行場閉鎖。中央航空は竜ヶ崎飛行場に移転。飛行場跡地はゴルフ場として利用される
1981年04月 ららぽーと開業
1993年07月 ザウス開業
2002年09月 ザウス閉鎖
2006年04月 イケヤ開業

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船橋飛行場跡地(初代) [├空港]

   2012年7月訪問 2021/1更新  


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撮影年月日1963/06/26(昭38)(MKT636 C8 43) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県‎船橋市‎のららぽーと。

かつてここに「船橋飛行場(初代)」がありました。

ここには「船橋ヘルスセンター」という一大レジャー施設があり、

この施設内に遊覧飛行用の転圧滑走路が設けられました。

10分間1人1,000円で遊覧飛行が行われていたのだそうです。

ここに滑走路があったのは、1958年~1965年。

上に貼った航空写真は1963年撮影ですから、絶賛運用中のもので、よーく見るとヒコーキ写ってます^^

D20_0072.jpg

赤マーカー地点。

この道路に沿って左側に滑走路が伸びていたはずです。


      千葉県・船橋飛行場跡地(初代)      

船橋飛行場(初代) データ

所在地:千葉県‎船橋市‎浜町‎2丁目‎
座 標:N35°41′08″E139°59′23″
標 高:7m
滑走路:540mx20m?
方 位:11/29
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

沿革
1955年11月 船橋ヘルスセンター開業
1958年    滑走路完成
1965年07月 滑走路移転

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習志野陸軍演習場不時着陸場跡地 [├空港]

    2012年7月、2022年2月訪問 2022/2更新  


無題4.png
撮影年月日 1947/11/08(昭22)(USA M636-A-No2 222) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

千葉県‎船橋市‎習志野台にある「習志野演習場」。

第一空挺団の降下訓練が行われる場所です。

元々この場所は旧陸軍時代から「習志野演習場」として使用されていました。

先頭のグーグルマップ、1947年撮影の航空写真はそれぞれ、

A(青マーカー):「習志野離着陸場」
B(紫のシェイプ):「滑走路跡?」
C(黄色のシェイプ):「習志野陸軍演習場不時着陸場跡地」

で、写真中央にあり一番目立っている長方形のものは射撃場です。

Aの「習志野離着陸場」が現在最も滑走路っぽいのですが、現在固定翼機は使用できないのだそうです。 

Bについては、以前アギラさんから頂いたコメントで、習志野演習場関係者の方からのお話として、

昭和40年位まで縦と横の短い滑走路があり、米軍の小型機もいた時期があったのだそうで、

うっすら映っているBの部分がその「縦の滑走路」なのではないかと思いました。

この滑走路らしきもの、ターニングパッドも含めて450mしかなくて、本当に短いです。

詳しくはコメント欄 (2014-08-03 11:06)以降をご覧くださいませ。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

Cについてですが、これは陸軍当時の不時着陸場で、

■防衛研究所収蔵資料「関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18年8月刊行 水路部」に付図があり、

そこから作図しました。

また当不時着場の情報がありましたので下引用させて頂きます。

第7 習志野陸軍演習場 (昭和18年1月調)

管理者 習志野陸軍演習場主管(高津庁舎内)。
位置 千葉県千葉郡大和田町(習志野原)。
   (大和田町の南西方2.5粁、北緯35°42′0、東経140°5′0)。
種別 不時着陸場。

本演習場は長さ東西3粁、南北2粁に及ぶ広濶なる自然の原野にして陸軍各兵
科の戦闘教練場として常時主要せられつつあり。従来不時着陸場として使用せ
られつつある地域は本場の略北東隅即ち射爆場の東側地区にして俗称高津台と
称する平坦なる台地なり・以下当地域に就き記述す。

着陸場の状況
高さ
 平均水面上約28米。
広さ及形状
 着陸可能地域は概ね図示の長さ北北東-南南西約600米、幅西北西-東南
 東約300米の矩形地域なり(付図参照)。
地表の土質
 粘土混りの赤土。
地面の状況
 着陸地域内は概ね平坦なるも極めて緩かなる波状起伏を為す・地盤は極め
 て堅硬にして殆ど一面に良好なる芝密生す・南側寄りに地肌を露出せる禿
 地2箇所あり之等の禿地は降雨後水溜を生じ稍軟弱となるも其の他の地域
 は降雨直後と雖も地盤堅硬なり・夏季野芝の伸長は約1尺に及ぶも常時自
動車及戦車等の重壓に依り一面に匍匐し極めて平滑なり・南東方外側付近
に掘鑿せる低き自動車道路あり、着陸の際飛越えざる様注意を要す。
場内の障碍物
 降雨後水溜を生ずる禿地2箇所あり。
適当なる離着陸方向
 北東又は南西。
離着陸上注意すべき点
 東西方向は着陸地区狭隘なるを以て西風強吹する際は着陸困難なり・射撃
 場の南側地区は上空よりは平坦地に見ゆるも極めて凸凹激しきを以て使用
 せざるを可とす。
施設
 使用前演習場主管宛に予告せば着陸地域の両端に赤旗を掲げ之を標示すと
 謂う・西方射撃場土堤の麓に射撃場番人宿舎あり又南西方約2粁の高津庁
 舎内に本演習場主管事務所あり。

周囲の状況
樹林
 南西方は極めて広濶なる平坦地なるも着陸地域の西側は緩除なる下り傾斜
 をなす凹地あり、此の凹地を隔てて高さ8-10米の松樹林及高さ15米の
 射撃場の土堤(堤上に松数本あり)存在す・北方一帯には高さ8-20米程
度の松樹林囲繞す・東より南方は概ね開闊なるも約200米を距てて深さ
10米、幅約100米の谷あり。
建築物
 付近に障碍となる建築物なし。
着目標
 騎兵連隊営舎(南西方3粁)、高津庁舎(南西方1.8粁)、京成電気軌道、
 射撃場。

地方の状況
軍隊及憲兵
 高津庁舎(南西方約1.8粁)内に常時各科兵宿泊駐屯す、昼間は本場付近
 に演習中の自動車隊あり、騎兵学校(二宮町)西方約2.7粁・習志野憲兵
 分隊(二宮町)西方約3粁。
医療
 習志野衛戌病院(南西方約3.5粁)、大和田町及薬円台に開業医あり。
宿泊
 付近の村落は寒村にして旅館なきも薬円台及大久保町には相当の旅館あり
 ・南西方約1.8粁の高津庁舎には約5,000名収容し得る宿泊(兵舎)設備
 あり。
清水
 西方約300米に在る射撃場番人宿舎に水質良好なる井戸あり。

交通、運輸及通信
鐡道及電車
 津田沼駅(総武本線)西南西方約8粁・実籾駅(京成電気軌道)南西方約
 2.5粁・千葉市より高津庁舎の北側及騎兵営舎の東側を経て大久保駅及津
田沼駅に至る軍用軌道あり。
乗合自動車
 北東方約1.9粁の佐倉街道(津田沼-佐倉町間)に乗合自動車運行す、最
寄停留所は大和田町(北東方約2.5粁)なり。
道路
 東方約500米に北は大和田町を経て佐倉町に、西は津田沼町を経て船橋及
 千葉市に通ずる県道あり。
馬車
 場内付近にて常時(昼間のみ)自動車隊の戦技演習を実施し居れるを以て
 之を利用し得と言う。
電信及電話
 大和田郵便局(電信及電話取扱)北東方約3粁・南西方約1.8粁の高津庁舎
 内に電話あり。

気象
測候所
 下志津陸軍飛行学校気象観測所(千葉市大字都町)南東方約9粁・航空気
 象を観測す。
地方風
 冬季は北西風、夏季は南東風にして低空は気流一般に悪し・4,5,9,10月
間は南東風強吹す。
天候
 付近に気象観測所なく気象状況詳ならざるも本場と気象状況近似せる下志
 津陸軍飛行学校気象観測所(本場の南東方約9粁)に於ける月別統計を参
 考に記せば次の如し(以下月ごとのデータ省略)。

事前に連絡すれば、「ここが着陸地域ですよ」と赤旗で目印してくれたんですね。

D20_0069.jpg

「習志野離着陸場」北東側から。

この先に滑走路が伸びているはずなのですが…とほほ。

DSC_0106_00001.jpg

赤マーカー地点。

C-1

マリオ師匠にに教えてもらいましたm(_ _)m 


      千葉県・習志野離着陸場      

滑走路西側にヘリポートが隣接しています。

・習志野陸軍演習場不時着陸場(陸軍当時)
管理者:習志野陸軍演習場主管(高津庁舎内)
位 置:千葉県千葉郡大和田町(習志野原)
座 標:N35°42′00″E140°05′00″
標 高:28m
種 別:不時着陸場
着陸可能地域:北北東-南南西約600mx西北西-東南東300m

・習志野離着陸場(現在) データ
管理者:防衛省
所在地:千葉県‎船橋市‎習志野台
座 標:N35°42′51″E140°03′53″
滑走路:400m×20m(転圧)
方 位:06/24
(座標、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
ブログ内関連記事
       

この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「航空路資料第3 関東地方飛行場及不時着陸場 昭和18.8 水路部」


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