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稲毛飛行場跡地 [├空港]

   2012年7月訪問 2021/1更新  


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1/25000「千葉西部」大正10年測図「今昔マップ on the web」より作成

千葉県‎千葉市‎美浜区にある稲岸公園。

大正時代、ここに民間航空発祥の地と謳われる「稲毛飛行場」がありました。

日本の航空界草創期の記述には必ず登場する、奈良原三次氏の飛行場です。

先頭のグーグルマップは、すぐ上に貼った地図の海岸線と干潟を作図したものです。

ご覧の通りで現在の国道14号線(千葉街道)がかつての海岸線で、干潮時には幅約1kmの干潟が現れました。

後述しますが、ここに飛行場があったのは、大正1年~大正6年。

上に貼った地図は大正10年測図ですから、飛行場閉鎖から約4年後のものなのですが、

地図で年代順に確認したところ、海岸線と干潟に現れる水の流れの形は、

明治36年~昭和27年までほとんど変化していませんでした。

それで飛行場として使用していた時もこんな感じだったと思います。

グーグルマップの赤マーカーは、ここに飛行場があったことを示す碑ですので、

稲毛飛行場は、干潟を利用した飛行場でした。

後にここから約5km北西に作られた伊藤飛行場、鹿児島の本田飛行場等、

干潟を飛行場として使用した例は他にもいくつかあります。

実は、当稲毛飛行場について、具体的に干潟のドコからドコまでの範囲を使用していたのか不明なのですが、

干潟を使用していた他の飛行場では、面積、海岸線の長さ等の資料が残っているケースがあり、

これらを見ていくと、干潟になると出現する水の流れで範囲が定まっている例が多いです。

これはオイラの勝手な憶測なんですが、ここでも同じではないかと考え、

碑のある地点について、海岸線から水の流れの範囲で囲ってみました(グーグルマップ グレーのシェイプ)。

これでおおよそ800mx640mの三角形の範囲となります。

当時のヒコーキならば十分の広さではないかと。

 

奈良原三次(1877~1944)は1908年東京帝国大学工学部造兵科卒業。

海軍少技士となり横須賀海軍工廠造兵部に勤務するかたわら、木村俊吉理学博士の指導で飛行機の研究をしました。

そして新編成の臨時軍用気球研究会に任命。

1910年10月、自ら設計した奈良原式1号機を自費で完成させ、

発動機はフランス製のノーム50馬力を付ける予定で注文したのですが、

どこで間違ったのか、到着したのはフランス製のアンザニ―25馬力だったのでした。

予定の半分の馬力では当然飛行に足りず、戸山ヶ原(東京)での試験飛行は地上滑走で終わりました。

今なら密林さんにクレームのメールを入れればすぐに正しい注文品を送ってくれるのでしょうが、

このエンジン手配の不備は歴史な意味を持つこととなりました。

史実では、

・1910年12月 東京の代々木練兵場にて、外国機による国内初飛行に成功
・1911年05月 奈良原氏製作の国産機による初飛行に成功

となっています。

もう少し細かく見てみますと、軍主導で(この場合国の主導と言い換えてもよいのかもしれませんが)、

日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学び、飛行機を購入して持ち帰り、飛行に成功したのが、1910年12月。

それから遅れる事5ヵ月で奈良原が初飛行に成功した。ということになっています。

ところが実は、奈良原が自費で設計、製作した奈良原式一号機の完成は、外国機による国内初飛行の半年前だったのです。

もし発注通りのエンジンが届いていたとしたら、

「外国機による国内初飛行」と、「国産機による国内初飛行」の順番が入れ替わっていたのかもしれません。

 

それはともかく、一号機が失敗に終わった翌年1911年の春には奈良原式二号機が完成しました。

この第二号機を同年5月に開設したばかりの陸軍所沢飛行場に持ち込み、練習を行いました。

そして自らの操縦により高度4m距離60mの飛行に成功。

この時奈良原は軍籍を離脱しており、機体も自費製作であったため、これが

「1911年05月 国産民間機による初飛行」として史実に記されることになりました。

 

次に稲毛海岸が飛行場になったいきさつについてです。

自作機の飛行に成功した奈良原は更に飛行機の製作を重ねる一方、

自身は親戚からの反対で操縦桿を握ることができくなってしまったため、

白戸栄之助を操縦士として養成します。

そして1912年4月、川崎競馬場にて奈良原式4号機「鳳」号による民間初の有料公開飛行等に成功、

同年5月には青山練兵場(現神宮外苑)での公開飛行にも成功し、白戸以外にも操縦士を養成する必要性を感じます。

この時まで練習場所は当時唯一の飛行場であった陸軍の所沢飛行場の一隅を借りていたのですが、借り物では遠慮があります。

そのため金のかからない、いつでも自由に使える民間の飛行場を作ろう。ということになりました。

目を付けたのは、奈良原がよく鴨猟に行っていた、東京湾の最奥に当たる浦安から船橋、千葉方面の内湾沿岸でした。

この場所は遠浅で汐が引くと一面の干潟となり、砂がしまって堅く、

荷馬車が海の中を通っている状態で、汐の満干の不便さえ忍べば、金もかからず、ほとんど無制限に広いし、

練習には申し分ないことから、同海岸の調査が進められることになりました。

当時の稲毛海岸は東京人の行楽地として知られており海の状態もよく、

東京にも近く、鉄道の便も良い上に、大きな旅館があって、

この旅館の庭先の海岸寄りにちょうど格納庫が建てられるくらいの空き地があり、

旅館の主人が格納庫を建ててくれるということで話はトントン拍子に進み、ここに稲毛飛行場開設の運びとなったのでした。

こうして5月には稲毛飛行場にて、奈良原の一番弟子白戸、二番弟子伊藤音次郎の練習が開始されたのでした。

 

本拠地も決まり、全国に巡回飛行をすることになり、

大正元年、中国、九州、四国を巡回飛行、大正二年には、水戸と金沢で飛行、

その後朝鮮に渡り、京城と平壌で飛び、続いて北陸から北海道に渡り、帰りは青森、仙台、宇都宮と来ました。

こうして稲毛海岸の干潟飛行場を本拠地として全国で巡回飛行会を催したため、

「稲毛が民間航空発祥の地である」といわれる所以となっています。

 

「南国イカロス記 かごしま民間航空史」69pには、次のように記されていました。

 奈良原三次の無給助手だった伊藤音次郎は、スミスの飛行大会より三か月前の(大正五年)一月八日に、み
ずから設計製作した伊藤式恵美第1型(通称「恵美」号)で、稲毛から海上往復五十五分の帝都訪
問飛行に成功し、新進飛行家として認められるようになっていた。

当時民間でこれだけのことをしたのですが、財政的にはやはり相当厳しいものがあり、

借金のため発動機が差し押さえられて飛べなくなり、一時東京に引き上げたとか、

五号機を代金未払いから取り上げられてしまったので、既にボロボロになった四号機を引き出して使用したとか、

記録からは相当苦労したことが読み取れます。

四号機は「鳳号」と名付けられたのですが、これは出資者の贔屓にしていた横綱「鳳」から命名したのだそうで、

このへんもスポンサーへの気配りなのかもしれません。

 

こうして金銭面で苦労しながらやっていたのですが、とうとう身動きがとれなくなってしまい、

奈良原は1913年末に他の事業を起こすべく一旦航空界から引退します。

そして時は流れ1930年に津田沼日本軽飛行機倶楽部の会長に就任し、銀紙飛行機献納運動、グライダーの普及発達に尽力し、

よく後進の指導・育成に努力するなど、生涯を航空の発展に捧げたのでした。

 

奈良原によって作られた「民間航空発祥の地・稲毛飛行場」は、奈良原が1913年に一時引退した後も使用されたのですが、

1917年6月の台風で壊滅してしまいます。

このことについてはまた後日別記事で。

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赤マーカー地点。

「民間航空発祥之地」碑

「一九一二年五月奈良原三次氏この海浜に初めて練習飛行場を創設教官白戸栄之助氏により飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である 一九七一年七月 伊藤音次郎記」
と記されています。

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碑とキティ―ホークの松


      千葉県・稲毛飛行場跡地      

稲毛飛行場 データ

所在地:千葉県‎千葉市‎美浜区‎稲毛海岸‎4丁目‎15‎
座 標:N35°38′03″E140°04′37″
飛行場:800mx640m(推定・不定形)
面 積:29.5ha?
(座標、飛行場長さ、面積はグーグルマップから)

沿革
1912年05月 飛行場開設
1913年    奈良原一時引退
1916年01月 8日 伊藤音次郎、伊藤式恵美第1型(通称「恵美」号)にて帝都訪問飛行に成功
1917年09月 30日夜半から10月1日にかけての台風による高潮で壊滅

関連サイト:
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この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」


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