伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼、伊藤飛行場)跡地 [├空港]
2012年7月訪問 2020/10更新
1/25000「習志野」大正10年測図・大正14.4.30発行「今昔マップ on the web」より作成(2枚とも)
1/25000「習志野」昭和4年部修・昭和7.10.30発行
千葉縣習志野市にあった「津田沼飛行場」と「伊藤飛行機製作所」。
後述しますが、ここに製作所が開設したのは、大正7年(1918年)でした。
飛行場は、潮が引いたあとの干潟を使用しており、
ここが「滑走路跡」とする現地説明版(先頭のグーグルマップ赤マーカー)は、
当然ながら満潮時は海の底でした。
上に2枚の地図を貼りましたが、1枚目は大正10年測図なので、飛行場開設から3年後に当り、
干潮時はここで実際にヒコーキが飛んでいた。ということになります。
小さくて見えにくいんですが、地図の赤線のところ、「伊藤飛行場」とあります。
2枚目の地図は昭和4年のものですが、同じ位置に「伊藤飛行機製作所」とありますので、
格納庫等、諸施設はここにあったのではないかと。
この「伊藤飛行機」という書き込みのすぐ海側に、前述のここが「滑走路跡」とする現地説明版が設けられています。
1番目のマップから、当時の海岸線、干潟をレイヤにして、先頭のグーグルマップを作図しました。
干潮時に現れる川?が左右にありますが、
それでも海岸線に沿って長さ2,200m、沖合に向かって最大1,500mありますから、
飛行場としては充分過ぎる広さと思います。
ここからは、ここに飛行場と製作所と飛行場ができるに至ったいきさつについての話で、
前記事「稲毛飛行場跡地」■ からの続きとなります。
奈良原氏が白戸操縦士以外に更にもう一人操縦士を育てようと考え、
練習場所として開設したのが1912年開場の稲毛飛行場でした。
この飛行場で練習を始めたのが、白戸操縦士、そして「もう一人」の人物、伊藤音次郎でした。
1913年、前記事の通り、奈良原は金策に行き詰まり(男爵を継がせるべく親戚からの強い反対もあったらしい)、
一時航空界から手を引きます。
そのため伊藤音次郎は1915年、独立して稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設します。
稲毛飛行場をそのまま使用しつつ機体設計、操縦士養成を行っていました。
余談ですが奈良原の一番弟子白戸はどうしたかといいますと、、
1916年12月に稲毛を離れ、現在の千葉市寒川新宿に白戸飛行機練習所を開設し、専ら飛行士の養成に努めました。
ところが1923年、2人の愛弟子が飛行機事故で相次いで命を落してしまいます。
白戸はその年のうちに航空界から引退してしまったのでした。
伊藤研究所創設から2年後の1917年9月、伊藤飛行機研究所と稲毛飛行場は台風と高潮で壊滅してしまいます。
そのため伊藤は、稲毛海岸から数キロ北側に位置するここ鷺沼海岸に、
新たな飛行場(津田沼飛行場)と研究所を設けることにしたのでした。
結局、伊藤の恩師奈良原が作った稲毛飛行場は僅か5年で壊滅してしまったということになります。
■国立国会図書館デジタルコレクション「報知年鑑 大正14年」に、
民間飛行機操縦術練習所のページがあります(下記リンク参照)。
「操縦術」というのが時代を感じさせますね。
名称 株式会社伊藤飛行機研究所
所在地 千葉縣津田沼
代表者 伊藤音次郎
とありました。
「飛行学校」とする所が多いのですが、「研究所」だったのですね。
■同じく「報知年鑑 大正15年」に「本邦民間飛行場調〔大正14・8調〕」のページがあります(下記リンク参照)。
管理人 川邊佐見
種類 陸上
位置 千葉県津田沼町サギ沼海岸
面積 記載無し
隣のページには、「本邦民間飛行機操縦術練習所〔大正14・8・1現在〕」がありました。
名称 東亜飛行専門学校
所在地 千葉県津田沼町
代表者 川邊佐見
■「報知年鑑.大正16年」には、本邦民間飛行場調〔大正15.8〕がありました(下記リンク参照)。
使用者 伊藤音二郎 川邊佐見
種類 陸上
位置 千葉縣千葉郡津田沼町
面積 記載無し
鷺沼海岸に居を移して活動を再開した伊藤でしたが、
優れた機体を次々製作し、懸賞飛行に優勝したり、多数の操縦士を養成しました。
製作した飛行機は50種以上、軍払い下げ機の改造27機種、滑空機の製作は15機種200機以上。
操縦訓練では200人近い人材を育てました。
奈良原の稲毛飛行場とその弟子伊藤の鷺沼飛行場、それぞれの飛行場を比較した場合、
伊藤が鷺沼海岸に居を移してからの方が活動の期間が長く、規模も大きいと思うのですが、
現在それぞれの跡地の様子はまったく正反対です。
伊藤の飛行場跡には2006年に習志野市の小さな説明版が設けられただけなのと対照的に、
伊藤は恩師が開設した飛行場跡地に非常に大きな碑を建て、貴重な松の木を移しています。
ここはマリオ・デ・ニ−ロさん■ に教えて頂いた場所です。 ありがとうございました。m(_ _)m
千葉県習志野市袖ケ浦5丁目16にある「袖ヶ浦第二児童遊園」。
ここに「旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡」の説明版が設置されています。
旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡(全文)
伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。平成十八年三月 習志野市教育委員会
ここで「東亜飛行学校」が出てきますが、これについて「南国イカロス記 かごしま民間航空史」127p
にはこうありました。
東亜飛行専門学校というのは、業界不況のため大正十三年十一月(株)伊藤飛行機研究所を解散した伊藤音次郎が、
個人会社に切りかえると同時に飛行部門を分離し、設立されたものである。
2014/8/3追記:アギラさんから情報頂きました。説明版にも出てくる東亜飛行場についてです。「習志野市史第4巻資料編(ⅲ)には東亞航空興業株式會社の1940年7月の広告がありました。そこには本社は東京市小石川區大塚上町20番地となっていました。(大塚上町は現在の文京区大塚5丁目or6丁目)関連はありませんが国産初の飛行機を明治時代に作った林田商会の場所まで(新宿区西五軒町12-10)歩いても20分位です。営業所と東亞航空技術員養成所は津田沼町鷺沼127番地となっていて操縦や整備だけでなく中国語も教えていたようです。 」
また、こんな情報も頂きました。「尚、奇しくも千葉毎日新聞1931年5月23日の記事にはオートジャイロの記事もありました。「滑走路を要さない直昇飛行機製作 奈良原男爵発明のオートヂャイロン器を津田沼伊藤民間飛行場で 津田沼町伊藤飛行機製作所にて目下奈良原男爵の発明に依る直昇飛行機 組立を急いで居るが、右はオートヂャイロンと言って従来の如く大面積の滑走場に 滑走する必要なく機上翼上に十字形の相互に内面へ回転する装置のプロペラが備え付けられエンヂンを掛けタランクをふみローに入れるとエーヤ圧搾にて回転し直ちに機は直昇離陸するのであって、目下イスパノ三百馬力機に取付中であるが又た同機には是れも同男爵の妙案なる重心安定器を機体中心へ取付けてゐるので機体の動揺等を防ぎ昇降等にも非常に便よく是に依り墜落も防止されるとのことでおそくとも七月初めには試運転の初飛行を行う由である。」
更に「民間飛行學校練習所其他」{航空年鑑昭和六年)の中で、当飛行場に関して、「日本軽飛行機倶樂部(千葉縣千葉郡津田沼町 伊藤飛行場)」として登場しているそうです。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m
千葉県・伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場)跡地
伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場) データ
設置管理者:伊藤飛行機研究所
所在地:千葉縣千葉郡津田沼町(現・習志野市袖ケ浦5丁目16)
飛行場:2,200mx1,500m不定形
標 高:3.0m
座 標:N35°40′07″E140°01′50″(の辺りと思われる)
沿革
1912年 奈良原氏、稲毛海岸に民間飛行機練習所を開く
1915年01月 伊藤氏、奈良原氏から独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設
1917年09月 伊藤飛行機研究所、台風と高潮で壊滅
1918年04月 12日 伊藤飛行機研究所、鷺沼海岸にて再開(津田沼飛行場)
1931年 伊藤飛行機製作所、東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれる
1945年08月 終戦と共に解散
関連サイト:
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑 大正14年(174コマ)■
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正15年(183コマ)■
国立国会図書館デジタルコレクション/報知年鑑.大正16年(225コマ)■
Wiki/伊藤音次郎■
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この記事の資料:
「南国イカロス記 かごしま民間航空史」