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茂原海軍航空基地跡地 [├空港]

   2012年7月、2021年6月、2022年2月訪問 2022/2更新  


無題a.png
撮影年月日1947/02/22(昭22)(USA M50 82) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

千葉県‎茂原市‎にあった「茂原海軍航空基地」。

上図の通りでたくさんの戦跡が現存しているのが特徴です。

当飛行場跡地についてはan-kazuさん から資料を頂きました。ありがとうございました m(_ _)m

■「日本海軍航空史」(終戦時)の中で、当航空基地の滑走路長さについて、(1,200m×80m)x3 と記されていました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
地名:茂原 建設年:1943 飛行場長x幅 米:1000x80 1200x80 1200x60 主要機隊数:小型6.5 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:居住2750平米 指揮所、電信所、燃料庫、爆弾庫、倉庫、工業場 掩体:小型隠蔽17

■また、同じく防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」でも、当航空基地の滑走路長さについて、
100x8500  80x1,200 と記されていました。  

■また、防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
には、「(昭18建)」とありました。 

■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」には、

「飛行場予定地の住民は三次にわたって、104戸が強制的に移転を強いられたほか、小学校、役場、駐在所、1社1寺も立ちのきを余儀なくされた。土地は10アール(100㎡=約30坪)当たり300円程度で買収された。」

とありました。

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滑走路跡(黒マーカー)

通称1,000m道路。

滑走路跡が道路として残っています。

 

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誘導路跡(黒マーカー)

ここから画面奥に向かって、誘導路が二股に分岐していました。

一つは画面右側のアスファルト舗装された道。

もう一つは 画面中央手前から真っ直ぐ進み、真ん中の小高い木にぶつかる方向でした。

 

某資料によりますと、周辺には有蓋掩体壕が10基現存するとのことだったのですが、

オイラは8基しか撮れませんでした。

以下発見できた掩体壕を順番に。

 

①の掩体壕:

3.png
撮影年月日1952/11/29(昭27) (USA M209 188) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

私有地の奥にあり、オイラがお邪魔した時は撮影許可を得ることができなかったたので、せめて航空写真を貼っておきます。

 

②地点の掩体壕:

D20_0134.jpg

 

・③の掩体壕:

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周辺に案内板も設置してあり、最も見つけやすい掩体壕。

説明版がありました。

掩体壕(全文)
昭和十六年(一九四一)太平洋戦争が始まる直前の九月に、木崎、谷本、町保、新小轡、本小轡内の約一五〇戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地(戦略上は、海軍二五二航空隊)の建設が始まった。基地本部跡はいま荻原小学校、兵舎跡は茂原中学校であり三井東圧化学(株)東側の約一,000m道路は当時の滑走路跡で、基地の東端はいま東郷保育所の前の通称海軍道路と呼ばれている当たりである。この掩体壕は航空機を滑走路から誘導路を走らせてきて壕に納め、敵機からの攻撃に備えた壕である。二〇数基築造された中では最大の規模で、総面積三六五㎡、壕の中の面積二八六㎡、高さは最大が六m七0cmある。戦時中で基地造成の人手が不足していたため当時の長生中学校や茂原農学校の生徒、周辺の人達等を動員して急いで造った。築造方法は、土砂を壕の形に盛って転圧して筵や板を並べ、その上に金網や鉄筋を張ってセメントを流した。その厚さは三〇~五〇cmと均等ではないようである。また計算通りのセメントが間に合わず後から付け足したのも観察できる。五〇余年経た今日、茂原海軍航空基地を語る数少ない遺跡である。 平成七年八月十五日 茂原市教育委員会

※この説明版、形状は全く一緒なんですが、令和になって新しくなってました。

掩体壕(全文)
 太平洋戦争開戦直前の昭和十六年(一九四一)九月に、木崎・谷本・町保・新小轡・本小轡等の約一五〇戸の民家や東郷国民学校(現東郷小学校)及び寺社などが強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地の建設が始まりました。
 司令部跡は現萩原小学校、兵舎跡は現茂原中学校、滑走路跡は三井化学(株)東側の約一〇〇〇mの道路で、基地の東端は
東郷保育所前を通る通称海軍道路と呼ばれている辺りです。基地の北側には誘導路が巡らされ、戦闘機を敵襲から守るための格納施設である掩体壕が造られました。
 この壕は土砂を壕の形に盛って転圧して筵や板を並べ、その上に鉄筋等を張ってセメントを流して造られており、総面積三六五㎡、壕の中の面積二八六㎡、高さは最大六m七〇cmあります。
 築城は、主に横須賀鎮守府から派遣されてきた海軍設営隊が行っておりましたが、長生中学校や茂原農学校(現長生高校・茂原樟陽高校)の生徒、近隣住民等も動員されたことが確認されております。
 戦争の記憶が薄れていく中、当時の様子を物語る貴重な戦争遺跡です。
 令和二年十二月二十五日 茂原市教育委員会

内容が若干変更された他、表現が柔らかくなりましたね。

 

・④の掩体壕

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・⑤の掩体壕:

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r293から少し中に入り、すぐ目の前で見ることができたのですが、

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現在は取り壊され、宅地化がすすんでいます。

(グーグルアース画像取得日2017/2/7で無くなってます)

 

・⑥の掩体壕:

D20_0145.jpg

⑤の掩体壕の所から見えます。r293からもよく目立ちます。

 

・⑦の掩体壕:

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・⑧の掩体壕:

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・⑨の掩体壕:

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      千葉県・茂原海軍航空基地跡地     
当飛行場について詳細に調べたサイトが多数あります

茂原海軍航空基地 データ
設置管理者:海軍
種 別:陸上飛行場
所在地: 千葉県‎茂原市‎東郷‎
座 標:N35°26′20″E140°18′40″
面 積:240ha
滑走路:1,000mx80m、1,200mx80m、1,200mx60m、
方 位:18/36
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1941年07月 建設決定
    09月 着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられる
1943年   建設
1945年08月 終戦。飛行場は戦後復員軍人を中心に開拓される
1950年   朝鮮戦争時に米軍基地となる
1954年   海上自衛隊の航空基地とする案が出るが賛否両論あり。
       滑走路の存在が飛行場復活に繋がるとして市が取り壊し。その後、東洋高圧工業(現三井化学)等が進出。

関連サイト:
ブログ内関連記事    

この記事の資料:
「日本海軍航空史」(終戦時)
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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