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東金(豊成)飛行場跡地 [├空港]

   2012年7月、2022年2月訪問 2022/2更新  


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撮影年月日1946/03/26(昭21)(USA M85-A-5VV 91) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

 

千葉県‎東金市‎に陸軍の「東金(豊成)飛行場」がありました。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の要図があり、先頭のグーグルマップはこの要図から作図しました。

飛行地区の地割はびっくりするほど現在もキレイに残っています。

半面、要図には飛行地区の南東側(グーグルマップ紫マーカーから南側周辺)に、

飛行場の諸施設が集まっている地区が描かれているのですが、

この諸施設の地割については、上に貼った航空写真でも線を拾うことができず、

要図の通り強引に作図してしまおうか。とも思ったのですが、

要図は要図でかなり大まかなので、作図しませんでした。

同資料にあった情報を以下引用させていただきます。

飛行場名  東金
位 置   千葉県山武郡豊成村
規 模   要図(南北2000 東西1500)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 一〇〇名分
 格納施設 掩体 有蓋六棟 無蓋五〇ヶ所
摘 要   施設軍有

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赤マーカー地点。

小さな公園が整備されておりその一角には

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碑があります。

裏側に碑文がありました。

本土防衛の跡を偲び 平和を祈る ふるさとの碑(全文)
 豊成飛行場は史上 東金飛行場といわれて昭和十九年三月大東亜戦争末期本土決戦の戦略によって急造された。青麦を刈り捨て、住家を移転し、墓地を掘り返して昼夜兼行、近隣住民を総動員して工を急いだが、未完成のまま十九年末には飛行第二十八戦隊が駐留してきた。総面積百七十ヘクタール、その八十四パーセントは肥沃な農地であった。以来戦況は日に増し悪化し、空襲は連日連夜に亘り、村役場の移転、小学校は取り毀して寺院神社に分散授業、戦火は鳴浜小学校や民家を焼き、遂に住民や兵員の犠牲者を出すに至った。かくて一回の戦果朗報を聞くことなく齢一歳にも満たずして二十年八月十五日終戦解体することとなった。今わが豊成飛行場の歴史も半世紀の歳月の底に沈んで語る人もなくなったが、この跡地に残された本土防衛の志想と平和を希望する愛郷の真情は魂魄となって強く生き続けていると思うわれら思いをここに致して、地域一体となって後世のために「平和を呼ぶふるさとの碑」を建設して遺すことに相成った。永遠に平和と繁盛の花咲き栄え給えと祈ってやまない 平成六年三月吉日 鈴木勝題字選文 豊成飛行場記念碑建設委員会

偵察用の飛行機や爆撃機迎撃用の飛行機が配備され、敗戦間際にはアメリカ軍艦への体当たり攻撃も試みられました。

■「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」の中で当飛行場について扱われていました。

一部抜粋させて頂きました。

1945年2月にひらかれたヤルタ会談で、1946年3月1日連合軍は関東方面に上陸する計画(コロネット作戦)があった。このコロネット作戦は九十九里浜、相模湾の2方向から日本の首都東京および関東地方を攻略し、日本の残存野戦軍を撃滅して、一挙に決着をつけようというものであった。佐藤氏が書かれた次のご見解は真に貴重である。
①東金飛行場は本土決戦に備え、当時の陸軍が準備した既設、新設の飛行場の中でも最も緊急、急造を強いられ短命の幕を閉じた、飛行場であった。
②戦争末期に造成が開始され、国内の諸物資、労働力共に不足枯渇の絶頂期に、地域住民の積極的な労働奉仕により、ついに完成された言わば、地域住民の手造りの軍用飛行場ともいえる飛行場であった。
③ここは前面に九十九里浜の米軍上陸予想地点を控え、背後に東金丘陵地帯を背負っていたが、終戦までの間市内只一の実戦場であった。
④東金飛行場を含む東金地方一帯は、米軍の本土上陸東京進攻の中心地点として位置付けられていた。
このことは戦後明らかにされた資料によって明確に裏付けられた。

「大東亜戦争末期本土決戦の戦略によって急造された。」

現地の碑文に刻まれた極めて短いこの言葉の背後には、こんな意味が含まれていたんですね。

 

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青マーカー地点。

飛行場北端から飛行場方向。

前述の防衛研究所資料によれば、ここから奥に向って2,000mの飛行地区が広がっていました。

この場所をわざわざ滑走路状に突き出す地割にして、南北方向に2,000mの長さを確保していましたから、

この方向に離着陸するヒコーキが多かったはず。

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同じく青マーカー地点。

この水路の左側が飛行場。

排水路が飛行場境界として現在もくっきり残っています。

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紫マーカー地点。

格納庫基礎跡。

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556吹いて磨きたい~。

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先頭のグーグルマップをご覧いただきますとハッキリしますが、飛行地区の南東側に諸施設のエリアがあり、

格納庫もこの諸施設エリアにありました。

格納庫跡前の道をほんの少し北上すると、こんな場所に出ます。

飛行場北端と同じく、こちらも排水路が飛行地区の境界になっていて、

こちら側が諸施設エリア、向こう側が飛行地区。

180度回頭すると、

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こんな感じ。

排水路の左側が諸施設エリア、右側が飛行地区。


      千葉県・東金(豊成)飛行場跡地     
何度も空襲を受け、その都度飛行場から銃弾の薬莢がリヤカー二台分位ずつ出るほど激しい銃撃に見舞われたという手記が残っています

東金(豊成)飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:陸上飛行場
所在地:千葉県山武郡豊成村(現・東金市‎下武射田‎)
標 点:N35°34′20″E140°24′57″
標 高:5m
面 積:170ha
飛行地区:2,100mx1,500m(不定形)
(座標、標高、長さはグーグルアースから)

沿革
1944年03月 8日 数名の将校が前触れもなく役場を訪問。飛行場建設を通達
        19日 測量、その後本格工事
     05月 10日 地鎮祭
     08月 ほぼ完成
     11月 中旬  飛行場大隊の大隊長以下による視察、点検
     12月 飛行第二八戦隊双発百式三型機約20機配備
1945年04月 この頃隼約10機が飛来。特攻訓練開始
     05月 上旬特攻訓練終了し移動。

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


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