香取航空基地(干潟の飛行場)跡地 [├空港]
2012年7月、2018年6月訪問 2021/2更新
1946年2月(USA M44-A-5VV 298)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
千葉県旭市鎌数にあった「香取航空基地」。
地元では「干潟の飛行場」とも呼ばれていました。
十字に交差した2本の滑走路を持つ飛行場で、前記事の「横芝飛行場」の北東約13kmに位置しています。
現在は滑走路の1本がテストコースになっています。
当飛行場については、地元の方から貴重なお話を頂きました。
詳しくは九さんのコメント(2014-08-14 19:59)(2014-08-15 10:58)をご覧ください。
九さんどうもありがとうございましたm(_ _)m
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:香取 建設年:1943 飛行場長x幅 米:1400x100 1500x100コンクリート 主要機隊数:小型2.0 中型4.0 主任務:作戦 隧道竝ニ地下施設:施設アルモ数量不明 掩体:小型有蓋25 小型無蓋76 中型無蓋35 其ノ他記事:魚雷同時調整18本 格納庫144本
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調には、
「香取空開隊(S19.2.1)(昭18建)」とありました。
青マーカー地点。
二つの掩体壕が並んでいます。
緑マーカー地点。
旭緑地公園
公園内東側には海上自衛隊で使用していた練習機が展示されています。
ノースアメリカン・ T-6テキサン練習機。
説明版には、 「米国からのMAP供与品 SNJ-6198」と記されていました。
海軍型SNJが海上自衛隊に48機引き渡されたのだそうで、その中の1機なのだと思います。
同じく公園内西側には慰霊碑があります。
画面右奥に碑文が彫られています。
(全文)この地は昭和十八年太平洋戦争さなかに完成せる香取海軍航空基地の跡なり慰霊碑はこの飛行場より飛び立ち訓練に或は戦場に向い遂に還らざりし若鷲達と空襲により没せし市民の御霊を祀るものなり彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志は御霊よ永遠に安かれ と祈り又 将来の平和の礎たれ と念じ互いに力を合わせこの碑を建立し 謹みて碑内に零璽簿を納む 昭和五十一年十一月二十三日 慰霊碑建設期成会 慰霊題字 源田實
テストコースとして残る滑走路跡。
ご覧の通りで高い緑の壁に阻まれ滑走路を視認することはできません。
紫マーカー地点。
大きな掩体壕が残っています。説明版が設置されていました。
旧香取海軍航空基地『掩体壕』(全文)
昭和十三年、このあたり共和村(現在旭市)鎌数を中心とした地に海軍航空基地の建設が始まり、昭和十六年、太平洋戦争勃発と共にアメリカ航空機の来襲によって被害も多くなった。海軍では航空機を空襲から護るために、基地周辺に強固なコンクリート製掩体壕が約二十五基築造し、空襲と同時に航空機を避難させていた。戦後、その多くは取り壊され、現在旭市に残るのはこの一基のみである。多くの人命、財産が失われた悲惨な戦争を風化させず、平和の尊さを永く語り伝えていくために、戦争の遺物の一つとして、所有者の協力を得て表示した。平成十一年三月 旭市教育委員会
赤マーカー地点
千葉県・香取航空基地跡地
香取航空基地 データ設置管理者:海軍
空港種別:陸上飛行場
所在地:千葉県旭市鎌数
座 標:N35°43′45″E140°36′39″
標 高:6m
面 積:440ha
滑走路:1,500m×100m(コンクリート 04/22)、1,400m×100m(コンクリート 13/31)
「日本海軍航空史」(終戦時)より。(テストコースになっているのは1,400mの方だと思われる)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1938年03月 共和村八軒町、谷町、飛行場建設用地に決定と通達
1939年春頃 第一次土地買収
1940年 この頃着工。周辺住民も動員される
1942年 第二次土地買収
04月 ドーリットル空襲を受ける
1943年09月 完成
1944年02月 1日、香取空開隊
1945年10月 接収。返還後払い下げられ、圃場となる
関連サイト:
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この記事の資料:
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調