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筑波航空基地(友部飛行場)跡地 [├空港]

   2012年9月訪問 2021/7更新  


1.png
撮影年月日1947/12/12(昭22)(USA R678 53) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

茨城県‎笠間市‎にあった「筑波航空基地(友部飛行場)」。

現在滑走路跡が道路として残っています。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:筑波 建設年:1935 飛行場長x幅 米:418x40 570x40 610x40コンクリート舗装 主要機隊数:小型練9.0 
主任務:教育 隧道竝ニ地下施設:W兵舎工事中、指揮所、電信所、爆弾庫、燃料庫 掩体:小型有蓋14 小型無蓋70 小型隠蔽40 其ノ他記事:分散兵舎(仮)3,000名分

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」では、当航空基地の滑走路について、
80x1,000  80x900  80x700
と記されていました。

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調には、
「霞空友部分遣隊開隊(練習隊)(S9.6.22)(昭10建)」
と記されていました。

D20_0076.jpg

赤マーカー地点


      茨木県・筑波航空基地(友部飛行場)跡地     
史跡が周辺に多く残されており、非常に充実したサイトが多数あります

筑波航空基地(友部飛行場) データ
設置管理者:旧海軍
種 別:陸上飛行場
所在地:茨城県‎笠間市‎旭町‎
座 標:N36°19′27″E140°19′05″
標 高:33m
滑走路:418mx40m(04/22)、570mx40m(18/36)、610mx40m(13/31)
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1934年08月 霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊開隊。練習機による操縦基礎教育を開始(航空基地-77には「6.22」と記載)
1938年12月 15日、筑波海軍航空隊(以下「筑波空」)として独立
1944年03月 九三式陸上中間練習機部隊は筑城航空隊(福岡県)に転出
          代わって大分航空隊から零戦隊が転入。実用機(戦闘機)課程の練習航空隊となる
1945年02月 関東一円にアメリカ機動部隊の空襲。筑波空の零戦、紫電隊が迎撃
      04月 神風特別攻撃隊第1筑波隊17名,鹿屋基地より出撃
      06月 第1神雷爆撃隊7名散華(5名は筑波空)
      08月 終戦
      12月 航空隊跡地に開拓仮事務所ができる
1946年04月 航空隊跡地の開拓入植はじまる

関連サイト:
筑波海軍航空隊記念館 
茨城県立こころの医療センター/敷地のあゆみ     
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
「日本海軍航空史」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料「5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


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東北、茨城に行った話・3日目 [■旅行記]


Ⓐ日立中央PA→Ⓑ筑波航空基地(友部飛行場)跡地→Ⓒ石岡飛行場跡地→Ⓓ東の辻飛行場跡地→Ⓔ茨城空港→Ⓕ鉾田(豊鹿島)飛行場跡地→Ⓖ北浦海軍航空隊跡地→Ⓗ神之池航空基地跡地→Ⓘ内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地→Ⓐ軽野滑空場跡地→Ⓑ鹿島海軍航空隊跡地→Ⓒ自宅

5:00 起床

5:50 日立中央PA出発

自宅を出発する直前にチェックした天気予報では、この3日目が最も天気悪い予報だったのですが、

朝からいいお天気でした。

順調に見学を続け、いよいよ茨城空港へ。

D20_0090.jpg  D20_0092.jpg

D20_0091.jpg

 

D20_0161.jpg

茨城空港上空を飛ぶヒコーキ。

茨城空港はずっと行きたいと思っていたのですが、やっと来ることが出来ました。

「初めて行った空港」としては、今年1月にお邪魔した沖縄の慶良間空港以来8か月ぶりです。

外周を回ってみたのですが、ポイント地点には空のマニア三種の神器(大砲、エアバン、脚立)を装備した濃いィ方々が。

丁度F-4の離着陸が続いていて、盛んにシャッター音が響いておりました。

オイラもちょっとここから撮りたいな~と思ったのですが、怖くてちょっと入って行けませんでした。

近くに並んでいる車にはヒコーキ関係のステッカーが貼られていて、地元の車も多いのですが、大宮ナンバーも。

大宮からわざわざこんな遠くまで! なんてモノズキなんだろうと驚いたのですが、

大阪ナンバーの車までありました。

ここってすんごい有名な場所なのですね~。

更に先の方に進んでみると、おじいさんが1人で見学しているポイントがあり、オイラもここから撮らせて頂くことに。

「こんにちは」とあいさつすると、一見しただけでオイラがシロウトだと見破ったらしく、いろいろ教えて頂きました。

水戸在住のおじいさんで、もう何十年も通っておられるそうです。

この基地に所属している/所属していたナントカ飛行隊の歴史、こぼれ話などスラスラ出てきます。

「今飛んでったのは○○飛行隊でね、△△年に□□基地から来てね、隊長さんは××な人でね~」

茨城弁でニコニコしながら教えてくれました。

怒られそうですけど、オイラにはU字工事そっくりに聞こえます。

茨城弁と栃木弁ってやっぱり違うんでしょうか??

 

そんなこんなで茨城空港を後にし、見学を続けました。

 

D20_0184.jpg

住友金属鹿島製鉄所桜公園の一角に、同工場の展示物がありました。

その後「内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地」へ。

ここは跡地に歴史民俗資料館があり、その資料館の前に同実験場についての説明板がありました。

隣に図書館もあるため、郷土史を見てみました。

資料には、戦時中町内には「神之池航空基地」と「内閣中央航空研究所鹿島実験場跡地」という二つの航空施設があった。

と記されています。

実はこの町内にもう一つ、軽野滑空場もあったはずなのですが、どう探してもこの滑空場については出てきません。

仕方なく図書館を後にして、近くになんかヒコーキ関係の碑があるということだったので寄ってみました。

巨大な石碑で、「大日本滑空始翔之地」と彫られており、裏面には非常に難解な文章が綴られていたのですが、

その中に「軽野」という文字が!

ここがオイラの探していた軽野滑空場だったのでした。

 

鹿島航空基地跡を見学したところで時間切れ。

自宅に戻ったのでした。

長々とお付き合い、ありがとうございました。

 

本日の走行距離:375km

総計:1,975km  燃費:21.9km/L


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航空自衛隊松島基地(旧海軍松島航空隊、矢本飛行場) [├空港]

   2012年9月訪問、2021/10更新  


無題.png
撮影年月日1947/04/14(昭22)(USA M222 45) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 無題1.png SkyVector.com

宮城県東松島市にある「航空自衛隊松島基地」。ブルーインパルスの本拠地です。

戦時中は「海軍松島航空隊」の航空基地で、地名から「矢本飛行場」とも呼ばれていました。

■防衛研究所収蔵資料「横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

位置:宮城県桃生郡鷹来村 基地名:松島 最寄駅よりの方位 距離 粁:仙石線矢本駅 S2 建設年:1940 飛行場長x幅 米:1,5??x100 1,475x80 1,200x60x2本全てコンクリート舗装 主要機隊数:中型2.0 小型4.5 主任務:教育 作戦 隧道竝ニ地下施設:居住3,000平米、指揮所、電信所、爆弾庫、魚雷調整場、魚雷格納庫、倉庫、工業場 掩体:中型無蓋32 小型有蓋12 小型無蓋48 其ノ他記事:隧道 魚雷同時調整18本 魚雷格納庫72本

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」では、当航空基地の滑走路について、
75x1,300  75x1,500  70x1,100  70x1,100 と記されていました。  

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「松島空開隊(S19.8.1)(昭15建)」とありました。 

上のグーグルマップは旧海軍時代の滑走路を描いてみたものです。

現在は正副2本の滑走路がありますが、メインの2,700m(07/25)は当時まだ整備されておらず、

代わりに現在サブで使用している滑走路(15/33)を含め、4本の滑走路がありました。

■新千歳市史通史編下巻
372p
 この間、日本機は飛行制限を受けた。「日本の飛行機は8月24日18時以
降の飛行を禁止する。飛行するものは撃墜する」というものであった。飛
行禁止命令は空襲で陸上交通と通信がマヒしていた日本の終戦事務処理の
連絡手段がなくなるに等しかった。
 日本政府は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対して主要都市間
の連絡飛行を懇請、9月12日付SCAPIN23で東京を中心とした急行便
1、普通便3の4路線が認められた。
 9月14日から日本人の自主運行によって1日4便の終戦連絡定期(緑十
字飛行-グリーンクロスフライト)が運航された。北海道方面は普通便の
第3航空路として東京-仙台矢本(現・空自松島)-青森油川-札幌間が、
月・火・木の週3便運航された。東京羽田飛行場が米陸軍に接収されてい
たため千葉県の陸軍松戸飛行場を代替として使い、札幌は北24条の札幌第
二飛行場を使った。緑十字飛行は10月9日をもってGHQから運航が禁止
された。その理由は陸上交通が次第に回復、整備されつつあり航空機を使
用する必要がなくなったということであったが、実情は惨憺たるもので
あった。
 緑十字飛行の運航禁止によって終戦連絡事務の人員およひ郵便物と貨物
の移動が停滞した。これを受け10月10日からは代替として米軍による帝国
航空便(インペリアルクーリエ)が運航された(S21・2・6廃止)。週
4便が運航され東京立川飛行場から第一千歳(14日初便のみ北24条・札幌
第二)に飛来した。仙台矢本と青森油川に寄航して所要時間は6時間だった。

 
終戦直後の緑十字飛行、帝国航空便で使用した過去があったのですね。

先の震災では、当基地も大きな被害を被りましたが、それでも戦時中の滑走路跡が一部色を失わずに残っています。

例によって当時の滑走路跡を撮ってみました。

D20_0061.jpg

・A地点。

現在サブ滑走路として使用しています。RWY15側。

現在は1,500m滑走路ですが、海軍時代は1,950m(14/32)でした。

尚、海軍当時の滑走路の長さ、方位は全てグーグルアース出しです。

当時の滑走路の長さを出しているサイトもあるのですが、1947年の滑走路がバッチリ写っている写真(下記リンク参照)と、

グーグルアースを突き合わせてみると随分数字が違うので、こちらを優先させていただきました。

このサブ滑走路は15/33とペイントされているのですが、

地図上で実際に計ってみると14/32なため、文末の旧海軍当時のデータ内ではそのように記してあります。

D20_0053.jpg

・B地点。

2,100m(12/30)のRWY12側。

無くなってしまった滑走路跡。

現在でも滑走路の形が自衛隊の敷地になって残っており、

画面向かって左側は元滑走路に沿うように一部外周道路として名残を留めています。

D20_0055.jpg

・C地点。

1,700m(02/20)のRWY02側。この滑走路は最も痕跡が残っていません。

D20_0060.jpg

・D地点。

1,600m(09/27)のRWY09側。

ここから真っ直ぐ滑走路が伸びていたはず。正副滑走路交差部付近に痕跡が残っています。

D20_0066.jpg

・E地点。

高い壁が続いていました。

これも津波対策なのでしょうか?


      宮城県・航空自衛隊松島基地      

・松島航空基地(海軍当時)
設置管理者:旧海軍
種 別:軍用陸上飛行場
所在地:宮城県桃生郡鷹来村
滑走路:1,700m(02/20)、1,600m(09/27)、2,100m(12/30)、1,950m(14/32)
(滑走路長、方位はグーグルアースから。他は資料から)

・航空自衛隊松島基地(現在) データ
設置管理者:防衛省
4レター:RJST
種 別:軍用飛行場
運用時間:24時間
所在地:宮城県東松島市矢本字板取85
座 標:N38°24′17″E141°13′10″
標 高:2m
面 積:363.6ha
主滑走路:2,700m×46m(07/25)
副滑走路:1,500m×46m(15/33)

航空管制周波数
GND     275.8MHz
TWR     126.2MHz,236.8MHz,304.6MHz
APP&DEP     120.1MHz
APP     261.2MHz,315MHz
DEP     362.3MHz
RDR     134.1MHz,335.6MHz
TCA     123.85MHz
RESCUE     123.1xMHz,138.05MHz,247.0xMHz

沿革
1938年   着工
1942年   第1・第2滑走路が完成
       10月21日 館山海軍航空隊松島派遣隊が開隊
1943年   霞ヶ浦海軍航空隊松島分遣隊が開隊。戦闘機搭乗員教育が行われた
1944年08月 1日、松島海軍航空隊が開隊。横須賀鎮守府隷下
1945年7~8月にかけて空襲を受ける
    08月 15日 終戦
    09月 
    09月 14日 緑十字飛行(10月9日まで)
        15日 松島海軍航空隊解隊
        16日 進駐軍の部隊500名が到着し、接収される
    10月 10日 帝国航空便(翌年2月6日まで)
1954年   保安隊臨時松島派遣隊新設、航空自衛隊臨時松島派遣隊新設
1955年   日本政府へ返還、松島基地発足 ,第2操縦学校に改編
1982年01月 12日 戦技研究班(T-2ブルーインパルス)新編
    07月 25日 松島基地航空祭で「T-2ブルーインパルス」最初の公式飛行展示
1995年12月 22日 第11飛行隊新設(T-4ブルーインパルス)
2011年03月 10日 ブルーインパルス、12日の九州新幹線全線開業の祝賀飛行のため福岡県芦屋基地に移動
        11日 東日本大震災。基地内の航空機は全て水没し、基地機能完全に喪失
        15日 泥と瓦礫で覆われた滑走路の整備完了
        16日 輸送機到着。救援物資輸送の拠点となる
2012年04月 19日 F-2飛行訓練再開

関連サイト:
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
新千歳市史通史編下巻
「日本海軍航空史」
「海軍航空基地現状表(内地の部)」
防衛研究所収蔵資料「横須賀鎮守府所管航空基地現状表(昭和二十年八月調)」
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地位置図」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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利府森郷場外離着陸場 [├空港]

   2012年9月訪問 2021/7更新  

 

宮城県‎利府町‎森郷にある「利府森郷場外離着陸場」。

仙台市近郊に位置しており、「利府マイクロフライングクラブ」の専用飛行場です。

公式サイト(下記リンク参照)を拝見すると、「バイクでのツーリング中にお近くを通った際にでもお立ち寄り下さい。」

と書かれており、とても開放的な雰囲気でした。

D20_0051.jpg

残念ながら平日にお邪魔したため閉まっていました。


      宮城県・利府森郷場外離着陸場     
クラブ員・スクール生募集中だそうです

利府森郷場外離着陸場 データ
設置管理者:利府マイクロフライングクラブ
種 別:場外離着陸場
所在地:宮城県‎宮城郡‎利府町‎森郷‎内ノ目北
座 標:N38°21′33″E140°59′04″
標 高:130m
滑走路:250m?
方 位:17/35
(座標、滑走路長、方位はグーグルアースから)

関連サイト:
公式サイト    
ブログ内関連記事       


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玉野原航空基地跡地 [├空港]

   2012年9月、2023年5月訪問 2023/6更新  

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撮影年月日1948/05/21(USA M1072 119) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

山形県尾花沢市に戦時中、海軍の「玉野原航空基地」がありました。

■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。

基地名:玉ノ原 最寄駅よりの方位距離KM:奥羽本線大石田駅E11 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:800x80方向E-W 主要機隊数:小型 主任務:退避 

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

にも、「(昭20建)退避」とありました。 

あった。ということはネットにも出ているのですが、具体的な場所の情報がありません。

2011年10月に現地にお邪魔して、地元図書館で郷土資料を調べたのですが、

■尾花沢市史に「玉野村(現・尾花沢市の一部)に玉野原飛行場があった」と記されていました。

そして尾花沢市史下巻には当飛行場の位置を知る手掛かりとして次のように記されていました。

「玉野原飛行場は(中略)玉野原にある神社を東端とし、徳良湖に向かってほぼ西方に建設された。」

■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m

方面  舞鶴
牧場  玉ノ原
滑走路 六〇×八〇〇
縣郡村 山形、北村山 玉野原村
記事  七月末

で、航空写真で見た感じ、当初は先頭のグーグルマップの黄色マーカーの位置から徳良湖に向かう部分が、
 
最有力候補でした。
 

現地にお邪魔してこの周辺に神社はないかと探し回ったのですが、残念ながら発見できませんでした。

ここから徳良湖に向かっては滑走路建設地として申し分ないように見えますが、

この背後はすぐにきつめの上り斜面が広がっており、とても滑走路を造るという雰囲気ではありません。

オイラの説通りだとすると、やっぱり神社がこの周辺になくてはなりません。

神社が移されたり無くなったりする可能性もあるわけですが、確率としては非常に低いはず。

「この周辺の地割が昔から飛行場っぽいから」というのがオイラの仮説の根拠だったわけですが、

どうも間違いである可能性が強くなりました。

仕方なく周辺を走り回ったところ、小さな神社を発見したのでした(赤マーカー)。

周辺は一面の田んぼが広がっており、障害物、勾配はありません。

ここなら、「神社を東端とし、徳良湖に向かってほぼ西方に建設された。」という条件を全て満たすことができます。

ということで、市史にある情報からすると、ここなんじゃないだろうか。

と思ったのですが、それ以上のことは分からず、以降「多分ココ」という状態だったのでした。

 

その後、2019/4/27に 山形県民様から情報を頂きました。

神社の近隣で農作業をなされている方によりますと、赤マーカー地点の神社付近を起点に滑走路があったのだそうです。

また、戦後はすぐに開拓され滑走路は田畑になったとのことでした。

ということで、教えて頂いた昭和23年撮影の航空写真で、神社周辺に滑走路っぽい地割を探しました。

滑走路のサイズは、前出の防衛研究所収蔵資料の中で、「800x80方向E-W」とあります。

航空写真をよ~く見ると、東西方向にそれっぽい地割が幾つかあり、

その中から幅80mに最も近いものを選んで(実際は87mになったけど)、

長さ800mの線を引いたのが先頭のグーグルマップです。

おおよそこんな感じだったのではないかと。

詳しくは、山形県民様の (2019-04-27 22:01) のコメントをご覧くださいませ。

山形県民様どうもありがとうございましたm(_ _)m  

2019/6/17追記:

山形県民様からまたまた情報頂きました。

以下ほぼそのまま引用させて頂きます。

尾花沢市史 下巻に加え、「玉野村史」と「昭和の玉野」から得られた情報として、玉野原飛行場は昭和20年の春に、神町海軍航空隊の飛行機を隠す場所や水上飛行機の練習場として建設が始まった。
当時の玉野原はレンゲツツジや小楢の茂る原野だったので建設も容易ではなかった。
7月頃には完成し、神町飛行場から「赤トンボ」と呼ばれた複葉の練習機が10機ほど飛んできて配置され予科練兵の訓練が始まった。
8月10日には釜石沖から飛び立ち神町飛行場と真室川飛行場を襲撃したグラマンF4U戦闘機が玉野原飛行場や尾花沢市街地も銃撃した。
うち1機が尾花沢市毒沢の雑木林に不時着し、パイロットが捕虜となった(最終的に米軍に引き渡された)
玉野原全体が戦後に水田として開拓されたが、飛行場跡地を開拓地として割り当てられた人は開田するのに大変苦労した。

多数の新情報を頂きましたが、先ず、「神町海軍航空隊の飛行機を隠す」とあります。

前出の市史にも、「昭和20年の春に神町航空隊の飛行機を隠す場所として徳良湖の東に建設された」。

と記されています。

前出の防衛研究所資料にも玉野原の主任務として「退避」と記しています。

玉野原と同じく神町(現在の山形空港)も海軍の航空基地であり、玉野原飛行場の南南西約22kmにありました。

玉野原航空基地は、神町航空基地の退避用飛行場として建設されたということになります。

それから水上機の練習場としても建設されたんですね(@Д@)

9.png
撮影年月日1948/05/21(昭23)(USA M1072 120) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

ということは、徳良湖に桟橋とかスベリが建設されたりしたんでしょうか。

徳良湖は長さ約1,000mありますので、大きさ的には申し分ないかと。

ということで、徳良湖のそれらしい場所を探してみました。

湖の東端、滑走路側に、桟橋っぽいものが映っています。

まあ、必ずしも桟橋がなくても繋留だけで事足りるんですけどね。

前出の、防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」は、

海軍航空基地の一覧表で、たくさんの航空基地がズラリと並んでいて、

最初の頁には、水上基地(水)、水上陸上両基地(両)と凡例があり、実際に基地名に続けて(水)などと記載があります。

で、玉野原はどうかというと、特に何もついておらず、陸上基地という扱いです。

水上機基地としての施設が特になかったからなのかもしれません。

また、玉野原全体が戦後に水田として開拓されたとのことで、そりゃあ滑走路が見つからないはずです。

山形県民様どうもありがとうございましたm(_ _)m   

(以下2枚 2023年5月撮影)

DSC_0335_00001.jpgDSC_0330_00001.jpg

ということで、当時の航空写真で桟橋に見える部分(先頭のグーグルマップ黄色線)の辺りを撮ってきました。

現在は「尾花沢市 基幹集落センター・徳良湖自然研修センター」。

敷地内に大きな説明版があり、

徳良湖は灌漑用として大正10年に完成した人造湖です。工事の際、作業唄として唄われた「土搗き唄」が後の「花笠音頭」となり、唄に合わせてスゲ笠を回して踊ったのが「花笠踊り」のはじまりとなりました。

とありました。

この辺りに水上機を繋留してたんでしょうか。

D20_0046.jpg

緑マーカー地点。

徳良湖方向。多分この方向に滑走路があったのではないかと。

 

以下、市史等にあった関連情報を。

・「尾花沢防空監視所」について。

現在の長根山野球場(徳良湖の西約1.5km)に尾花沢防空監視所がありました。

陸軍の指導により昭和17年前後に建設されました。

具体的な運営は尾花沢町が当たり、担当職員は役場兵事係が行いました。

監視所の運営経費については、福原村の昭和20年度決算書に「尾花沢監視所負担金262円」とあり、

尾花沢町周辺の町村が負担金を出していたことが分かります。

 

・空襲について。

「8月10日 尾花沢市の玉野原滑空場(旧玉野村袖原地区)と三二連隊福原演習場が狙われ」

という記述があります。

付帯施設のない小規模の飛行場でしたが、それでも敵の目を免れませんでした。

当飛行場が「滑空場」として記されています。

 

・建設について。

飛行場建設に際して「丹生川より小砂利を背負い」 という記述があります。

丹生川は滑走路の北約2kmにあります。

建設に際し相当な苦労があったことが偲ばれます。

今でも滑走路跡地を掘ると、周辺と比較して不自然に小砂利が出てくるのかもしれません。

 


      山形県・玉野原航空基地跡地     
市史によりますと、当飛行場に格納庫のような建物はなく、飛行機は付近の杉林の中に隠していて、そのための道路が設けられたのだそうです。

玉野原航空基地 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:退避用飛行場
所在地:山形県‎尾花沢市‎二藤袋‎
座 標:N38°35′52″E140°27′17″
標 高:149m
滑走路:800m×60m
方 位:09/27?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1942年 この頃尾花沢防空監視所建設
1945年 春 玉野原飛行場建設
     7月頃完成
     8月10日 空襲

関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ) 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
尾花沢市史
尾花沢市史下巻
玉野村史
昭和の玉野
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


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岩手県第二滑空訓練所跡地 [├空港]

   2012年9月、2023年5月訪問 2023/6更新  


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撮影年月日1947/11/01(昭22)(USA M621 27) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

岩手県‎胆沢郡‎金ケ崎町‎六原‎にある「県立農業大学校」。

かつてここは「岩手県立六原青年道場」であり、この道場の農場に「岩手県第二滑空訓練所」が設けられました。

(因みに「鶯宿滑空訓練所」 が第一滑空訓練所で、当滑空場の北北西約46kmの雫石町にあります)

「岩手県立六原青年道場」とは、元々軍馬補充部だったものが廃止され、その跡地に昭和7年開設したものです。

その目的は、県下青年男女を訓育して日本精神を体現することなのだそうです。

肝心の滑空場の位置を明示した資料は見当たらないのですが、

当時の様子について非常に詳しく扱うサイト様(下記リンク参照)によれば、

「15haの農場ブロックを2枚続けて整地して滑空訓練場としました。2機の初級機があったのだそうです」

とありました。

上に貼った航空写真は、当時の県立六原道場に隣接する農場ブロックです。

『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)によれば、

この農場ブロックは道場の所有であり、北側が「模範農村部」、南側が「産業部」とありました。

長方形の農場がブロックのように整然と並んでいます。

グーグルマップでこのブロックの面積を確認したところ、説明にある通り長方形1枚が15haでした。

このブロックを2枚つなげて滑空場にしていたのですね。

但し、現在でもそうなんですが、それぞれのブロックは防風林で四方をしっかりと囲われています。

そして、上に貼った航空写真の矢印で囲った2枚だけが、防風林なしでつながっています。

ということで、オイラの壮大な勘違いという可能性もあるのですが、

ここが「2枚続けて整地して滑空訓練場」とした場所だったのではないかと。

先頭のグーグルマップ、黄色で囲った部分の面瀬はピッタリ30haです。

岩手日報昭和18年7月26日付には、

「東北六県最初の中級滑空士錬成が県立六原道場に隣接する十一萬坪の第二県地方滑空訓練所にて、八月上旬から二か月間開催」

とありました。

 

D20_0038.jpg

青マーカー地点

岩手県立農業大学校正門


(以下2023年5月撮影)

DSC_0336_00001.jpgDSC_0340_00001.jpg

赤マーカー地点。

緑の壁に阻まれて、ここまでしか近寄れませんでした。


      岩手県・岩手県第二滑空訓練所跡地    

岩手県第二滑空訓練所 データ
種 別:滑空訓練場
所在地:岩手県胆沢郡金ケ崎町西根遠谷巾
座 標:39°13'40.1"N 141°01'46.6"E?
標 高:150m
面 積:30ha
滑空場:545mx550m?
(座標、標高、滑空場長さはグーグルアースから。面積はサイト様から)

沿革
1943年   六原青年道場に滑空訓練場が開設される
    08月 中級滑空士錬成が2か月間開催される

関連サイト:
岩手中学校を卒業後のグライダーとの関り 
岩手県第二滑空訓練所 
ブログ内関連記事       

この記事の資料:
『六原道場』(伊藤金治郎著、共同公社出版部)


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東北、茨城に行った話・2日目 [■旅行記]


Ⓐ石鳥谷道の駅→Ⓑ岩手県第二滑空場跡地→Ⓒ升形滑空場跡地→Ⓓ玉野原飛行場跡地→Ⓔ利府森郷場外離着陸場→Ⓕ松島基地→Ⓖ日立中央PA(車中泊)

 

4:00 起床。

4:30 出発。

国道4号を南下。

途中花巻空港横を通過したのですが、国道沿いの旧ターミナルビルは、「花巻市交流会館」になっていました。

ターミナルビルが有効活用されているようで嬉しいことです。

 

5:15 岩手県第二滑空場到着。

晴れていれば明るさに問題ない時間帯のはずなのですが、あいにく朝から曇天です。

それでもなんとか撮影できる明るさになってました。

 

9:00 山形県升形滑空場跡地到着。本降りの雨が降ってまいりました。。。_| ̄|○ il||li

出掛ける前の予報では曇りベースだったのに、結局日中の時間帯はほとんど降ってました。

ここはなかなか場所が分からなくて、地元図書館で場所がわからないだろうかと3年前に一度お邪魔していたのでした。

結局有力な情報は得られず仕舞いだったのですが、その後hatoyaさんからピンポイントで情報を頂き、

今回の再訪となりました。

この跡地については新たな記事は作らず、過去記事を修正してありますので、宜しければご覧くださいませ     

hatoyaさん、情報ありがとうございましたm(_ _)m

 

そして10時前、同じ山形県の玉野原飛行場跡地到着。

ここも以前お邪魔していた場所なのですが、きちんと場所を特定することができなかったので、

今回、「ここではなかろうか」という仮説を立てて再訪しました。

 

14:00 宮城県利府森郷場外離着陸場到着。

ここは数年前に偶然ネットで発見した飛行場だったのですが、やっと今回お邪魔することができました。

 

15:00 松島基地到着。

この松島基地、オイラにとってはいわくつきの場所です。

実は2年前、自宅を出て宮城県の青野木場外離着陸場に到着して見学し、

さあ、次は松島基地だ。というところで仕事の緊急の用事で埼玉に戻ってしまっていたのでした。

今回やっとお邪魔することができました。

松島基地には現在は使われなくなった滑走路跡があります。

その滑走路跡を求めて畑の道をうろうろ。カシャカシャ。

もしもオイラのことを見ている人がいたら、「ナニをやっているんだ??」と不審に思ったことでしょう。

 

D20_0063.jpg

基地内に押し寄せる津波でなすすべもなく戦闘機などが次々流されてしまう衝撃的な映像は未だ記憶に新しいですが、

松島基地近くはまだこんな状態でした。

ともかくこれで東北の飛行場跡地(のうち、場所が確定している箇所)は全て撮り終えました。

前回1年前に東北を回った際はは5日目の朝までかかったのですが、

今回は昨日の午後秋田に到着して、今日の夕方終了ですから、実質1.5日で東北を回り終えたことになります。

4号線で南下。

 

D20_0068.jpg

途中仙台市内のスーパーの屋上駐車場から。

夕食の弁当を仕入れようとしたら偶然夕焼けでした。

D20_0075a.jpg

最後はなんだか恐ろしげな感じに。

なんでこんな黒い線が入るんでしょうか??

気がつけば屋上には数人の人たちが上がって来て写メ撮ってました。

その後東北道から磐越自動車道経由で茨城県日立中央PAへ。

ここで車中泊することに。

車中泊の場合、PAの駐車場は騒々しいことが多いのですが、偶然なのかここは割と静かで寝やすかったです。

 

それからですね、これは去年に引き続きなのですが、今年も被災三県の中の某県で夜間赤色灯を消したパトカーに煽られました。

ナンバーを見れば、オイラが他府県から来た人間で、観光かボランティアのいづれかの可能性が高いことは分かるはず。

各自治体、様々な団体が「是非来てください」と観光PRにやっきになっていたり、全国からの支援に謝意を示す人たちがいて、

オイラだってホントに僅かばかりですが、極力被災三県でお金を落しているのです。

復興支援の輪がこれからもずっと続いて行かねばならない一方で、こういうのってどうなんでしょうか。

(だからって地元車は煽ってOKということではないですけど)

全国から駆け付けた各職員さんたちは言うに及ばず、被災した地元の警察、消防、自衛隊の献身的な働きについて聞いたり、

実際に目にすると本当に頭が下がります。

このパトカーの方は、そういう方々の事について、よそ者のオイラなんかよりはるかに目にしているはずです。

他にやることはないのでしょうか。自分のしていることに疑問は感じないのでしょうか。

役割分担と言ってしまえばそれまでですが、同じ被災地の公務員でも随分いろいろな方がいるものです。

こうもピッタリ貼り付かれると、それだけで注意が削がれてコワイんですけど。(つД⊂;)

万一前方に寝ている人を見つけて、オイラが全力でブレーキをかけた場合、

オイラの車は後ろに貼り付いているパトカーに押されることになります。

それでオイラが轢いてしまった場合、どういう扱いになるのでしょうか。

まさかこのパトカーの方、普段安全運転講習会とかで「正しい車間距離について」とか語ったりしないですよね? ね?

アクセルペダルから足を離し、左ウインカーを出して路肩に寄ると、

パトカーはエンジン音を轟かせながら、次なる獲物を求めてあっという間に闇の中に消えていくのでした。

 

22:30 寝る。

おやすみなさい。

 

本日の走行距離:692km

(続きます)


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岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑 [├場所]

   2012年9月訪問 2021/7更新  

 

岩手県盛岡市の青山、月が丘、みたけ地区。

ここは明治から終戦に至るまで、広大な練兵場、兵営等があり、

練兵場全体が飛行場に設定されていました(詳しくは拙記事「観武ヶ原練兵場滑走路跡地」をご覧ください)。

先頭のグーグルマップ、町ごとに色分けしてありますが、練兵場等施設のあったおおよその範囲です。

南側の濃いグレーの四角の部分に司令部、兵営等、諸施設がありました。

この記事は、元々2012年9月に現地にお邪魔して、2012年11月にアップしてあったのですが、

その後、盛岡でステイホーム中さんから貴重な情報を頂いたのがきっかけで、

地元盛岡市立図書館リファレンスサービスで詳細な調査をして頂き、資料をお送り頂き(当記事関連は5点)、

全面的に改定致しました。

盛岡でステイホーム中様、盛岡市立図書館の兵庫様に御礼申し上げます。

どうもありがとうございましたm(_ _)m
 
この記事では、送って頂いた資料を時系列で並べてみました。
 
では早速(書籍からの引用については図書館様より許可頂いております)。

 

■1906年11月 軍隊誘致議決
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治三十九年十一月当時の岩手県会(現在の県議会)で県と盛岡市の発展のためにと軍隊の誘致を議決」

熱心な軍隊誘致活動が始まりました。

 

■1908年6月 工兵第八大隊、弘前から移駐
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治四十一年六月十五日、工兵第八大隊(昭和十一年五月三十日第八連隊に昇格)が弘前から、
周辺の農家五十戸足らずの観武ヶ原の一角(現在の国立盛岡療養所)に兵営を構え」

・「岩手の戦争遺跡をあるく」13p
「悲願が実り弘前の工兵第八大隊(のちの工兵第八連隊)が下厨川(現在青山一丁目)に移駐したのは、
日露戦争終結二年後の一九〇八(明治四十一)年だった。」

弘前から工兵大隊を迎えたのが当練兵場の始まりだったんですね。

 

■1908年9月 特別工兵演習
・「岩手の戦争遺跡をあるく」13p
「(移駐から)三ヵ月後には、皇太子(のちの大正天皇)を招いて特別工兵演習がこの地で行われ、
このとき演習場となった広大な草原を、皇太子が「観武ヶ原」と命名したと伝えられる。」

工兵演習の際に「観武ヶ原」命名がありました。

 

■1908年12月 観武ヶ原の碑建立
・「もりおか思い出散歩」p101
「戦前は、草原一帯にある建造物は兵営と厩舎のほかには、この碑だけだった。
明治四十一年十二月に建立されたこの碑は、高さ一丈ほどの立派なもので、山県有朋元帥の選文に、
 陸中国岩手山南麓之野会
 此地元無命乃焉観武原
とあり、この工兵演習のときに命名されたことが分かる。
十数年前までは、青山四丁目の拓美荘のあたりに"観武が原の碑"が立っていた。」

移駐から3カ月後に特別演習を行い、それから3カ月後には碑を建立したんですね。

この碑は、元々あった場所から移設されています(赤マーカー地点)。

それでは元々ドコに建立されたかについて、資料では「青山四丁目の拓美荘のあたりに」とあります。

「ゼンリン住宅地図2000」51番右頁にこの「拓美荘」が記載されており(現・青山月極駐車場)、

碑の元々の場所がピンポイントで特定できました(黒マーカー地点)。

因みに、明治44年(1911年)測図の地図でも地図記号でこの碑が描かれていて、

その位置は「拓美荘」と同じ場所です。

 

■1909年7月 独立騎兵第三旅団編成、騎兵第二十三連隊設営
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治四十二年七月独立騎兵第三旅団が編成されて騎兵第二十三連隊が現在の厨川中学校の所に設営されました。」

工兵大隊が移駐してきた翌年、今度は騎兵連隊が駐屯することになったのですね。

 

■1910年7月 騎兵第二十四連隊設営駐屯
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「そして翌四十三年七月騎兵第二十四連隊も現在の青山二丁目市営アパート周辺に設営駐屯したものであります。
また現在の森永乳業盛岡工場の所に独立騎兵第三旅団司令部もできました。
この旅団司令部は現在でも正門(実は御用商人の通用門)は当時のままの姿を復元されて
森永工場正門左側の方に残されて往時をしのばせており、当時の建物も一部はそのままその正門の右側に現存して、
森永乳業盛岡工場の事務室として使用されております。
古い木造の建物が新しい工場の前にポツンと取残されたように
盛岡市の指定保存木となった目通り一、五米程の直径の大きな二本のポプラの木と共に、
青山公園のすぐ左側東隣に見えています。」

1908年の工兵大隊から、騎兵第二十三連隊、二十四連隊と、3年連続で新しい部隊の駐屯が始まりました。

 

■1921年8月 郵便飛行と碑激突事故
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「民間機による初の東京、盛岡間の郵便飛行は帰還の途に観武ヶ原を滑走し始めたが、
突風にあおられて機体がかたむき記念碑にぶっつけてしまい
両翼とプロペラを大破してしまったという航空機事故までオマケとして大衆の面前で発生してしまっている。」

後述しますが、この事故で碑も傷ついてしまいました。

 

■1928年10月 陸軍特別大演習
・「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」p101
「昭和三年十月には、陸軍特別大演習が行われたが、県公会堂に大本営がおかれ、
ご統監のため五日間、天皇陛下が盛岡にご滞在になった。」

天皇陛下をお招きしての大演習があったんですね。

 

■1935年 独立騎兵第三旅団 旧満州三江省に移駐
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「この独立騎兵第三旅団は昭和十年、中国大陸の風雲急を告げ緊張の高まりだしたことにより
旧満州三江省に移駐しましたが、その二十七年の長い間、軍馬にまたがりさっそうとした兵士が往き来して、
朝早くからラッパが響き、ひずめの音が絶えなかったということで、
広大な"みたけヶ原"の原野で訓練に励んでいたものであり、
最盛期には千五百人の将兵と千八百頭の軍馬を抱えていたということです。
(中略)こうして昭和十年北満え移駐したあとに、陸軍予備士官学校、戦車隊ができたり、」

 

■1939年 歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「昭和十四年には歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)」

年代ごとに分けている関係上、資料がブツ切れになってますが、騎兵隊が中国大陸に渡った後、

新たな部隊が次々設置されています。

 

■1940年 歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「翌十五年には歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)」

 

■1944年 戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「十九年には戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)」

 

■1945年 陸軍航空教育隊、電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「二十年八月十五日敗戦までの間には陸軍航空教育隊。電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊等々
あまり一般には知らされていなかった部隊が設置されていたものでありました。」

末期の時期にかけて、更に幾つもの部隊が設置されたんですね。

 

■1971年11月 碑移設
・「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」p101
「観武が原の碑は昭和四十六年十一月、観武が原開拓二十五周年に際して建立された開拓記念碑の側の、
みたけ三丁目地内に移されている。 (S58.5)」

1908年に建立された碑は、激突事故発生から半世紀を経て現在の場所に移設されたのでした。

D20_0023.jpg

赤マーカー地点

ご覧の通りで碑が幾つも設置してありました。

奥手に扉が設けてあり、合法的にフェンス内に入れるようになっていました。

D20_0019.jpg

まずは一番奥にある「燕航空部隊発祥地」碑。

D20_0021.jpg

裏面はこんな感じ。

水戸陸軍航空通信学校戦技第五期生

某サイト内で、「昭和15年 水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され 通信教育と研究を移管した
戦局の要請により昭和18年8月 明野陸軍飛行学校分校が開校 水戸校は仙台に移駐した」と記されていました。

向かって真中に設置されているのは「開拓の碑」でした。
 (全文)かつて、この地は観武ヶ原(みたけがはら)と呼ばれており盛岡市の青山 月が丘、みたけ地区一帯、約三百五十ヘクタールは、旧陸軍の兵舎・練兵場として使用されていた。終戦後の昭和二十年、この地区を一大食糧生産基地とする構想がたてられ、当時の引揚者や復員軍人、一般の入植希望者などを中心とした開拓団が作られた。昭和二十三年観武ヶ原開拓農業協同組合が認可され、本格的な開墾が始まり入植者数は九十九戸であった。この地は 岩手山からの火山灰に覆われた荒野で開墾当初は電気も水道もなく、朝に星を、いただき、夕べは月と共に働き、明日を夢見ての汗と涙の毎日であった。収穫らしい収穫があがったのは開拓十年目位からであったろうか。昭和三十年代後半になり開拓の歴史は一大転換期を迎え、青山地区と、みたけ地区の団地造成が始まり、都市化の兆しが見られるようになったのである。更に昭和四十五年の岩手国体誘致による公共施設の建設が拍車をかけ、大きな変貌を遂げて一大団地として生まれ変わったのである。食糧生産基地としての夢は消えたが、現在の都市化へと進展し、多くの人々の安住の地になったのも一つの歴史の流れであった。 平成十七年十月吉日 観武ヶ原開拓農業協同組合

D20_0031.jpg

当練兵場の生い立ちを語る上で決して欠かせない「観武ヶ原の碑」。

1921年に郵便飛行機が離陸滑走した際、この碑が傍にありました。

ヒコーキが激突し、碑が破損してしまってからほぼ百年経つのですね。

D20_0035.jpg

一部色が違っていますが、激突事故で大きな傷ができ、欠けて読めなくなってしまった部分を補修した跡のようです。

びっしりと漢字が並び、あまりにも格調高くてオイラには読んでみようという気も失せる文体なのですが、

幸いなことにオイラのような者のために訳の碑も設置されています(写真左手前の碑)。

[大意]観武ヶ原命名の碑(全文)
 明治四十一年九月、工兵第二、第七、第八大隊と第八師団の歩兵が参加して岩手県の岩手山南麓地方で特別工兵演習が行われた。そのとき皇太子殿下の巡遊があり奥羽を回る途中、日を重ねて臨戦された。ありがたくもこの無名の地を、観武原と命名された。攻守の状況を親しくご覧になられた上に、このような佳い名をいただいた。将兵の栄与、村里の誉これ以上のものはない。そこで演習の総監であった、陸軍中将男爵上原勇作等この演習に参加しかかわった将士が相談して皇太子殿下が臨戦された土地に碑を建て後の世に伝えることにした。文章は有朋に依頼された。有朋は皇太子殿下のおそばでともに臨戦したことでもありこの文を謹んで書き述べた。平成十六年六月吉日 観武ヶ原開拓農業協同組合

皇太子殿下が当地で行われた演習をご覧になり、この地を観武原と命名したことを記念した碑なのですね。

如何に皇太子殿下が相手であるとはいえ、オイラにはあまりに遜り過ぎ、当地を卑下しているような印象を受けました。

これも時代なのだろうなぁと思ったのですが、

この地は元々戊辰戦争に破れたため賊軍の汚名を着せられることとなり、

盛岡藩出身者は明治新政府の中で重要なポストに就けませんでした。

また、「白河以北一山百文(白河より北の地は価値がない)」などと馬鹿にされていたのだそうで、

軍の大規模施設の誘致はそうした汚名を返上する絶好の機会と捉えられていたのだそうで、

そういう背景を持つ当時の人々にとって、皇太子殿下の視察、命名というのは

今のオイラには想像もつかないようなことだったのでしょうね。

 

尚、この訳が記された碑は右隣に元々の一部破損してしまった石碑の原文も記されていて、

そちらの分の末尾には、

「明治四十一年十二月
元師陸軍大将正二位大勲位功一級公爵
山縣有朋謹撰文竝
篆額 内大臣秘書官従六位勲五等
日高秩父敬書」

と刻まれていました。


      岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑      

沿革
1906年11月 軍隊誘致議決
1908年06月 15日 工兵第八大隊弘前から移駐
     09月 皇太子を招き特別工兵演習実施。演習場を皇太子が「観武ヶ原」と命名
     12月 皇太子殿下視察の記念碑建立
1909年07月 独立騎兵第三旅団編成、騎兵第二十三連隊設営  
1910年07月 騎兵第二十四連隊設営駐屯
1921年08月 21日皇太子殿下視察の記念碑に郵便飛行機がぶつかり破損
1928年10月 陸軍特別大演習
1935年    独立騎兵第三旅団 旧満州三江省に移駐
1939年    盛岡陸軍予備士官学校創設、歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)設置
1940年    歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)設置
1944年    戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)設置
1945年    終戦までに、陸軍航空教育隊、電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
     08月 終戦。一大食糧生産基地として開拓団結成される
1948年    観武ヶ原開拓農業協同組合認可。本格的な開墾始まる。入植者数99戸
1971年11月 観武ヶ原の碑、現在の場所に移設

関連サイト:
ブログ内関連記事
     

この記事の資料:
現地の碑文
盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩 盛内政志著 岩手日報社出版 平成元年5月29日
ゼンリン住宅地図2000 株式会社ゼンリン出版 1999年11月
ゼンリン住宅地図岩手県盛岡市 2 株式会社ゼンリン出版 2019年10月
風雪 青山三十年の足跡 喜多武志編著 昭和52年1月15日
岩手の戦争遺跡をあるく 加藤昭雄著 熊谷印刷出版部出版 2006年3月30日


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ハイランド滑空場跡地 [├空港]

    2012年9月訪問 2021/7更新  


4.png
撮影年月日1990/08/03(TO904Y C3 9) 

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 

秋田県能代空港の西約2.6kmにあった「ハイランド滑空場」。

「現状は…そのままになっています」というドッピーさんからの情報で再度お邪魔し、滑走路面を見ることができました。

ドッピーさんありがとうございました m(_ _)m

D20_0005.jpg

 

D20_0012.jpg

D20_0014.jpg

滑走路手前にあった結構大きな木。

何か書かれていますが、判読できず。滑走路と関係あるかどうかも不明です。


      秋田県・ハイランド滑空場跡地      

ハイランド滑空場 データ
設置管理者:個人

種 別:場外離着陸場
所在地:秋田県‎北秋田市‎上杉‎金沢‎
座 標:N40°11′36″E140°19′43″
標 高:61m
滑走路:320m?
方 位:15/33
(座標、標高、方位はグーグルアースから)

沿革
1987年 開設(ドッピーさんから情報いただきました)

関連サイト:
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大潟場外離着陸場跡地 [├空港]

    2012年9月訪問 2021/7更新  



秋田県‎男鹿市‎。

広大な八郎潟干拓地が広がっており、ここにかつて「大潟場外離着陸場」がありました。

滑走路北東側に格納庫が隣接していたはずなのですが、現在は跡形もありません。

 

D20_0001.jpg

赤マーカー地点

ここから奥に向かって滑走路だったはず。


      秋田県・大潟場外離着陸場跡地      

大潟場外離着陸場 データ

種 別:場外離着陸場
所在地:秋田県‎男鹿市‎払戸‎
座 標:N39°56′16″E139°59′55″
標 高:-4m
滑走路:280m×90m
方 位:14/32
(座標、標高、滑走路長、方位はグーグルアースから)

関連サイト:

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