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岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑 [├場所]

   2012年9月訪問 2021/7更新  

 

岩手県盛岡市の青山、月が丘、みたけ地区。

ここは明治から終戦に至るまで、広大な練兵場、兵営等があり、

練兵場全体が飛行場に設定されていました(詳しくは拙記事「観武ヶ原練兵場滑走路跡地」をご覧ください)。

先頭のグーグルマップ、町ごとに色分けしてありますが、練兵場等施設のあったおおよその範囲です。

南側の濃いグレーの四角の部分に司令部、兵営等、諸施設がありました。

この記事は、元々2012年9月に現地にお邪魔して、2012年11月にアップしてあったのですが、

その後、盛岡でステイホーム中さんから貴重な情報を頂いたのがきっかけで、

地元盛岡市立図書館リファレンスサービスで詳細な調査をして頂き、資料をお送り頂き(当記事関連は5点)、

全面的に改定致しました。

盛岡でステイホーム中様、盛岡市立図書館の兵庫様に御礼申し上げます。

どうもありがとうございましたm(_ _)m
 
この記事では、送って頂いた資料を時系列で並べてみました。
 
では早速(書籍からの引用については図書館様より許可頂いております)。

 

■1906年11月 軍隊誘致議決
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治三十九年十一月当時の岩手県会(現在の県議会)で県と盛岡市の発展のためにと軍隊の誘致を議決」

熱心な軍隊誘致活動が始まりました。

 

■1908年6月 工兵第八大隊、弘前から移駐
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治四十一年六月十五日、工兵第八大隊(昭和十一年五月三十日第八連隊に昇格)が弘前から、
周辺の農家五十戸足らずの観武ヶ原の一角(現在の国立盛岡療養所)に兵営を構え」

・「岩手の戦争遺跡をあるく」13p
「悲願が実り弘前の工兵第八大隊(のちの工兵第八連隊)が下厨川(現在青山一丁目)に移駐したのは、
日露戦争終結二年後の一九〇八(明治四十一)年だった。」

弘前から工兵大隊を迎えたのが当練兵場の始まりだったんですね。

 

■1908年9月 特別工兵演習
・「岩手の戦争遺跡をあるく」13p
「(移駐から)三ヵ月後には、皇太子(のちの大正天皇)を招いて特別工兵演習がこの地で行われ、
このとき演習場となった広大な草原を、皇太子が「観武ヶ原」と命名したと伝えられる。」

工兵演習の際に「観武ヶ原」命名がありました。

 

■1908年12月 観武ヶ原の碑建立
・「もりおか思い出散歩」p101
「戦前は、草原一帯にある建造物は兵営と厩舎のほかには、この碑だけだった。
明治四十一年十二月に建立されたこの碑は、高さ一丈ほどの立派なもので、山県有朋元帥の選文に、
 陸中国岩手山南麓之野会
 此地元無命乃焉観武原
とあり、この工兵演習のときに命名されたことが分かる。
十数年前までは、青山四丁目の拓美荘のあたりに"観武が原の碑"が立っていた。」

移駐から3カ月後に特別演習を行い、それから3カ月後には碑を建立したんですね。

この碑は、元々あった場所から移設されています(赤マーカー地点)。

それでは元々ドコに建立されたかについて、資料では「青山四丁目の拓美荘のあたりに」とあります。

「ゼンリン住宅地図2000」51番右頁にこの「拓美荘」が記載されており(現・青山月極駐車場)、

碑の元々の場所がピンポイントで特定できました(黒マーカー地点)。

因みに、明治44年(1911年)測図の地図でも地図記号でこの碑が描かれていて、

その位置は「拓美荘」と同じ場所です。

 

■1909年7月 独立騎兵第三旅団編成、騎兵第二十三連隊設営
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「明治四十二年七月独立騎兵第三旅団が編成されて騎兵第二十三連隊が現在の厨川中学校の所に設営されました。」

工兵大隊が移駐してきた翌年、今度は騎兵連隊が駐屯することになったのですね。

 

■1910年7月 騎兵第二十四連隊設営駐屯
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「そして翌四十三年七月騎兵第二十四連隊も現在の青山二丁目市営アパート周辺に設営駐屯したものであります。
また現在の森永乳業盛岡工場の所に独立騎兵第三旅団司令部もできました。
この旅団司令部は現在でも正門(実は御用商人の通用門)は当時のままの姿を復元されて
森永工場正門左側の方に残されて往時をしのばせており、当時の建物も一部はそのままその正門の右側に現存して、
森永乳業盛岡工場の事務室として使用されております。
古い木造の建物が新しい工場の前にポツンと取残されたように
盛岡市の指定保存木となった目通り一、五米程の直径の大きな二本のポプラの木と共に、
青山公園のすぐ左側東隣に見えています。」

1908年の工兵大隊から、騎兵第二十三連隊、二十四連隊と、3年連続で新しい部隊の駐屯が始まりました。

 

■1921年8月 郵便飛行と碑激突事故
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「民間機による初の東京、盛岡間の郵便飛行は帰還の途に観武ヶ原を滑走し始めたが、
突風にあおられて機体がかたむき記念碑にぶっつけてしまい
両翼とプロペラを大破してしまったという航空機事故までオマケとして大衆の面前で発生してしまっている。」

後述しますが、この事故で碑も傷ついてしまいました。

 

■1928年10月 陸軍特別大演習
・「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」p101
「昭和三年十月には、陸軍特別大演習が行われたが、県公会堂に大本営がおかれ、
ご統監のため五日間、天皇陛下が盛岡にご滞在になった。」

天皇陛下をお招きしての大演習があったんですね。

 

■1935年 独立騎兵第三旅団 旧満州三江省に移駐
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「この独立騎兵第三旅団は昭和十年、中国大陸の風雲急を告げ緊張の高まりだしたことにより
旧満州三江省に移駐しましたが、その二十七年の長い間、軍馬にまたがりさっそうとした兵士が往き来して、
朝早くからラッパが響き、ひずめの音が絶えなかったということで、
広大な"みたけヶ原"の原野で訓練に励んでいたものであり、
最盛期には千五百人の将兵と千八百頭の軍馬を抱えていたということです。
(中略)こうして昭和十年北満え移駐したあとに、陸軍予備士官学校、戦車隊ができたり、」

 

■1939年 歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「昭和十四年には歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)」

年代ごとに分けている関係上、資料がブツ切れになってますが、騎兵隊が中国大陸に渡った後、

新たな部隊が次々設置されています。

 

■1940年 歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「翌十五年には歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)」

 

■1944年 戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「十九年には戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)」

 

■1945年 陸軍航空教育隊、電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
・「風雪 青山三十年の足跡」38p
「二十年八月十五日敗戦までの間には陸軍航空教育隊。電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊等々
あまり一般には知らされていなかった部隊が設置されていたものでありました。」

末期の時期にかけて、更に幾つもの部隊が設置されたんですね。

 

■1971年11月 碑移設
・「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」p101
「観武が原の碑は昭和四十六年十一月、観武が原開拓二十五周年に際して建立された開拓記念碑の側の、
みたけ三丁目地内に移されている。 (S58.5)」

1908年に建立された碑は、激突事故発生から半世紀を経て現在の場所に移設されたのでした。

D20_0023.jpg

赤マーカー地点

ご覧の通りで碑が幾つも設置してありました。

奥手に扉が設けてあり、合法的にフェンス内に入れるようになっていました。

D20_0019.jpg

まずは一番奥にある「燕航空部隊発祥地」碑。

D20_0021.jpg

裏面はこんな感じ。

水戸陸軍航空通信学校戦技第五期生

某サイト内で、「昭和15年 水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され 通信教育と研究を移管した
戦局の要請により昭和18年8月 明野陸軍飛行学校分校が開校 水戸校は仙台に移駐した」と記されていました。

向かって真中に設置されているのは「開拓の碑」でした。
 (全文)かつて、この地は観武ヶ原(みたけがはら)と呼ばれており盛岡市の青山 月が丘、みたけ地区一帯、約三百五十ヘクタールは、旧陸軍の兵舎・練兵場として使用されていた。終戦後の昭和二十年、この地区を一大食糧生産基地とする構想がたてられ、当時の引揚者や復員軍人、一般の入植希望者などを中心とした開拓団が作られた。昭和二十三年観武ヶ原開拓農業協同組合が認可され、本格的な開墾が始まり入植者数は九十九戸であった。この地は 岩手山からの火山灰に覆われた荒野で開墾当初は電気も水道もなく、朝に星を、いただき、夕べは月と共に働き、明日を夢見ての汗と涙の毎日であった。収穫らしい収穫があがったのは開拓十年目位からであったろうか。昭和三十年代後半になり開拓の歴史は一大転換期を迎え、青山地区と、みたけ地区の団地造成が始まり、都市化の兆しが見られるようになったのである。更に昭和四十五年の岩手国体誘致による公共施設の建設が拍車をかけ、大きな変貌を遂げて一大団地として生まれ変わったのである。食糧生産基地としての夢は消えたが、現在の都市化へと進展し、多くの人々の安住の地になったのも一つの歴史の流れであった。 平成十七年十月吉日 観武ヶ原開拓農業協同組合

D20_0031.jpg

当練兵場の生い立ちを語る上で決して欠かせない「観武ヶ原の碑」。

1921年に郵便飛行機が離陸滑走した際、この碑が傍にありました。

ヒコーキが激突し、碑が破損してしまってからほぼ百年経つのですね。

D20_0035.jpg

一部色が違っていますが、激突事故で大きな傷ができ、欠けて読めなくなってしまった部分を補修した跡のようです。

びっしりと漢字が並び、あまりにも格調高くてオイラには読んでみようという気も失せる文体なのですが、

幸いなことにオイラのような者のために訳の碑も設置されています(写真左手前の碑)。

[大意]観武ヶ原命名の碑(全文)
 明治四十一年九月、工兵第二、第七、第八大隊と第八師団の歩兵が参加して岩手県の岩手山南麓地方で特別工兵演習が行われた。そのとき皇太子殿下の巡遊があり奥羽を回る途中、日を重ねて臨戦された。ありがたくもこの無名の地を、観武原と命名された。攻守の状況を親しくご覧になられた上に、このような佳い名をいただいた。将兵の栄与、村里の誉これ以上のものはない。そこで演習の総監であった、陸軍中将男爵上原勇作等この演習に参加しかかわった将士が相談して皇太子殿下が臨戦された土地に碑を建て後の世に伝えることにした。文章は有朋に依頼された。有朋は皇太子殿下のおそばでともに臨戦したことでもありこの文を謹んで書き述べた。平成十六年六月吉日 観武ヶ原開拓農業協同組合

皇太子殿下が当地で行われた演習をご覧になり、この地を観武原と命名したことを記念した碑なのですね。

如何に皇太子殿下が相手であるとはいえ、オイラにはあまりに遜り過ぎ、当地を卑下しているような印象を受けました。

これも時代なのだろうなぁと思ったのですが、

この地は元々戊辰戦争に破れたため賊軍の汚名を着せられることとなり、

盛岡藩出身者は明治新政府の中で重要なポストに就けませんでした。

また、「白河以北一山百文(白河より北の地は価値がない)」などと馬鹿にされていたのだそうで、

軍の大規模施設の誘致はそうした汚名を返上する絶好の機会と捉えられていたのだそうで、

そういう背景を持つ当時の人々にとって、皇太子殿下の視察、命名というのは

今のオイラには想像もつかないようなことだったのでしょうね。

 

尚、この訳が記された碑は右隣に元々の一部破損してしまった石碑の原文も記されていて、

そちらの分の末尾には、

「明治四十一年十二月
元師陸軍大将正二位大勲位功一級公爵
山縣有朋謹撰文竝
篆額 内大臣秘書官従六位勲五等
日高秩父敬書」

と刻まれていました。


      岩手県・観武ヶ原の碑、燕航空部隊発祥地碑      

沿革
1906年11月 軍隊誘致議決
1908年06月 15日 工兵第八大隊弘前から移駐
     09月 皇太子を招き特別工兵演習実施。演習場を皇太子が「観武ヶ原」と命名
     12月 皇太子殿下視察の記念碑建立
1909年07月 独立騎兵第三旅団編成、騎兵第二十三連隊設営  
1910年07月 騎兵第二十四連隊設営駐屯
1921年08月 21日皇太子殿下視察の記念碑に郵便飛行機がぶつかり破損
1928年10月 陸軍特別大演習
1935年    独立騎兵第三旅団 旧満州三江省に移駐
1939年    盛岡陸軍予備士官学校創設、歩兵第百連隊(北部第六十二部隊)設置
1940年    歩兵第百三十一連隊(北部第六十四部隊)設置
1944年    戦車第二十二連隊(北部第四十五部隊)設置
1945年    終戦までに、陸軍航空教育隊、電信第五連隊補充隊、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊設置
     08月 終戦。一大食糧生産基地として開拓団結成される
1948年    観武ヶ原開拓農業協同組合認可。本格的な開墾始まる。入植者数99戸
1971年11月 観武ヶ原の碑、現在の場所に移設

関連サイト:
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この記事の資料:
現地の碑文
盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩 盛内政志著 岩手日報社出版 平成元年5月29日
ゼンリン住宅地図2000 株式会社ゼンリン出版 1999年11月
ゼンリン住宅地図岩手県盛岡市 2 株式会社ゼンリン出版 2019年10月
風雪 青山三十年の足跡 喜多武志編著 昭和52年1月15日
岩手の戦争遺跡をあるく 加藤昭雄著 熊谷印刷出版部出版 2006年3月30日


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