玉野原航空基地跡地 [├空港]
2012年9月、2023年5月訪問 2023/6更新
撮影年月日1948/05/21(USA M1072 119)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
山形県尾花沢市に戦時中、海軍の「玉野原航空基地」がありました。
■防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
の中で、当飛行場について一部次のように記載がありました。
基地名:玉ノ原 最寄駅よりの方位距離KM:奥羽本線大石田駅E11 建設ノ年:1945 飛行場 長x幅 米:800x80方向E-W 主要機隊数:小型 主任務:退避
■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調
にも、「(昭20建)退避」とありました。
あった。ということはネットにも出ているのですが、具体的な場所の情報がありません。
2011年10月に現地にお邪魔して、地元図書館で郷土資料を調べたのですが、
■尾花沢市史に「玉野村(現・尾花沢市の一部)に玉野原飛行場があった」と記されていました。
そして尾花沢市史下巻には当飛行場の位置を知る手掛かりとして次のように記されていました。
「玉野原飛行場は(中略)玉野原にある神社を東端とし、徳良湖に向かってほぼ西方に建設された。」
■「航空特攻戦備」第2期 として以下記載がありました(下記リンク参照)。PUTINさんから情報頂きましたm(_ _)m
方面 舞鶴
牧場 玉ノ原
滑走路 六〇×八〇〇
縣郡村 山形、北村山 玉野原村
記事 七月末
現地にお邪魔してこの周辺に神社はないかと探し回ったのですが、残念ながら発見できませんでした。
ここから徳良湖に向かっては滑走路建設地として申し分ないように見えますが、
この背後はすぐにきつめの上り斜面が広がっており、とても滑走路を造るという雰囲気ではありません。
オイラの説通りだとすると、やっぱり神社がこの周辺になくてはなりません。
神社が移されたり無くなったりする可能性もあるわけですが、確率としては非常に低いはず。
「この周辺の地割が昔から飛行場っぽいから」というのがオイラの仮説の根拠だったわけですが、
どうも間違いである可能性が強くなりました。
仕方なく周辺を走り回ったところ、小さな神社を発見したのでした(赤マーカー)。
周辺は一面の田んぼが広がっており、障害物、勾配はありません。
ここなら、「神社を東端とし、徳良湖に向かってほぼ西方に建設された。」という条件を全て満たすことができます。
ということで、市史にある情報からすると、ここなんじゃないだろうか。
と思ったのですが、それ以上のことは分からず、以降「多分ココ」という状態だったのでした。
その後、2019/4/27に 山形県民様から情報を頂きました。
神社の近隣で農作業をなされている方によりますと、赤マーカー地点の神社付近を起点に滑走路があったのだそうです。
また、戦後はすぐに開拓され滑走路は田畑になったとのことでした。
ということで、教えて頂いた昭和23年撮影の航空写真で、神社周辺に滑走路っぽい地割を探しました。
滑走路のサイズは、前出の防衛研究所収蔵資料の中で、「800x80方向E-W」とあります。
航空写真をよ~く見ると、東西方向にそれっぽい地割が幾つかあり、
その中から幅80mに最も近いものを選んで(実際は87mになったけど)、
長さ800mの線を引いたのが先頭のグーグルマップです。
おおよそこんな感じだったのではないかと。
詳しくは、山形県民様の (2019-04-27 22:01) のコメントをご覧くださいませ。
山形県民様どうもありがとうございましたm(_ _)m
2019/6/17追記:
山形県民様からまたまた情報頂きました。
以下ほぼそのまま引用させて頂きます。
尾花沢市史 下巻に加え、「玉野村史」と「昭和の玉野」から得られた情報として、玉野原飛行場は昭和20年の春に、神町海軍航空隊の飛行機を隠す場所や水上飛行機の練習場として建設が始まった。
当時の玉野原はレンゲツツジや小楢の茂る原野だったので建設も容易ではなかった。
7月頃には完成し、神町飛行場から「赤トンボ」と呼ばれた複葉の練習機が10機ほど飛んできて配置され予科練兵の訓練が始まった。
8月10日には釜石沖から飛び立ち神町飛行場と真室川飛行場を襲撃したグラマンF4U戦闘機が玉野原飛行場や尾花沢市街地も銃撃した。
うち1機が尾花沢市毒沢の雑木林に不時着し、パイロットが捕虜となった(最終的に米軍に引き渡された)
玉野原全体が戦後に水田として開拓されたが、飛行場跡地を開拓地として割り当てられた人は開田するのに大変苦労した。
多数の新情報を頂きましたが、先ず、「神町海軍航空隊の飛行機を隠す」とあります。
前出の市史にも、「昭和20年の春に神町航空隊の飛行機を隠す場所として徳良湖の東に建設された」。
と記されています。
前出の防衛研究所資料にも玉野原の主任務として「退避」と記しています。
玉野原と同じく神町(現在の山形空港)も海軍の航空基地であり、玉野原飛行場の南南西約22kmにありました。
玉野原航空基地は、神町航空基地の退避用飛行場として建設されたということになります。
それから水上機の練習場としても建設されたんですね(@Д@)
撮影年月日1948/05/21(昭23)(USA M1072 120)■
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
ということは、徳良湖に桟橋とかスベリが建設されたりしたんでしょうか。
徳良湖は長さ約1,000mありますので、大きさ的には申し分ないかと。
ということで、徳良湖のそれらしい場所を探してみました。
湖の東端、滑走路側に、桟橋っぽいものが映っています。
まあ、必ずしも桟橋がなくても繋留だけで事足りるんですけどね。
前出の、防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」は、
海軍航空基地の一覧表で、たくさんの航空基地がズラリと並んでいて、
最初の頁には、水上基地(水)、水上陸上両基地(両)と凡例があり、実際に基地名に続けて(水)などと記載があります。
で、玉野原はどうかというと、特に何もついておらず、陸上基地という扱いです。
水上機基地としての施設が特になかったからなのかもしれません。
また、玉野原全体が戦後に水田として開拓されたとのことで、そりゃあ滑走路が見つからないはずです。
山形県民様どうもありがとうございましたm(_ _)m
(以下2枚 2023年5月撮影)
ということで、当時の航空写真で桟橋に見える部分(先頭のグーグルマップ黄色線)の辺りを撮ってきました。
現在は「尾花沢市 基幹集落センター・徳良湖自然研修センター」。
敷地内に大きな説明版があり、
徳良湖は灌漑用として大正10年に完成した人造湖です。工事の際、作業唄として唄われた「土搗き唄」が後の「花笠音頭」となり、唄に合わせてスゲ笠を回して踊ったのが「花笠踊り」のはじまりとなりました。
とありました。
この辺りに水上機を繋留してたんでしょうか。
緑マーカー地点。
徳良湖方向。多分この方向に滑走路があったのではないかと。
以下、市史等にあった関連情報を。
・「尾花沢防空監視所」について。
現在の長根山野球場(徳良湖の西約1.5km)に尾花沢防空監視所がありました。
陸軍の指導により昭和17年前後に建設されました。
具体的な運営は尾花沢町が当たり、担当職員は役場兵事係が行いました。
監視所の運営経費については、福原村の昭和20年度決算書に「尾花沢監視所負担金262円」とあり、
尾花沢町周辺の町村が負担金を出していたことが分かります。
・空襲について。
「8月10日 尾花沢市の玉野原滑空場(旧玉野村袖原地区)と三二連隊福原演習場が狙われ」
という記述があります。
付帯施設のない小規模の飛行場でしたが、それでも敵の目を免れませんでした。
当飛行場が「滑空場」として記されています。
・建設について。
飛行場建設に際して「丹生川より小砂利を背負い」 という記述があります。
丹生川は滑走路の北約2kmにあります。
建設に際し相当な苦労があったことが偲ばれます。
今でも滑走路跡地を掘ると、周辺と比較して不自然に小砂利が出てくるのかもしれません。
山形県・玉野原航空基地跡地
市史によりますと、当飛行場に格納庫のような建物はなく、飛行機は付近の杉林の中に隠していて、そのための道路が設けられたのだそうです。
玉野原航空基地 データ
設置管理者:旧海軍
種 別:退避用飛行場
所在地:山形県尾花沢市二藤袋
座 標:N38°35′52″E140°27′17″
標 高:149m
滑走路:800m×60m
方 位:09/27?
(座標、標高、方位はグーグルアースから)
沿革
1942年 この頃尾花沢防空監視所建設
1945年 春 玉野原飛行場建設
7月頃完成
8月10日 空襲
関連サイト:
「航空特攻戦備」第2期(21コマ)■
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この記事の資料:
尾花沢市史
尾花沢市史下巻
玉野村史
昭和の玉野
防衛研究所収蔵資料「海軍航空基地現状表 内地之部 舞鶴鎮守府航空基地現状表」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調