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福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場、ブレディ・ エアベース)跡地 [├空港]

  2009年12月訪問、2023/1更新  


無題2.png
撮影年月日 1948/04/07(昭23)(USA R236-No2 67)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

福岡県東区、博多湾に面した場所にあった「雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場)」。

1936年に航空局が開設し、最盛期には大日本航空によって朝鮮、台湾、中華民国、東南アジア等への路線も開設され、

戦前における国内最大の民間国際空港でした。

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦定期航空現況(昭和十三年十二月現在)」として以下記されていました(6コマ) 

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-大連
区間 東京-名古屋間 毎日三往復
   名古屋-大阪間 毎日三往復
   大阪-福岡間  毎日二往復
   福岡-大邱間  毎日一往復
   大邱-京城間  毎日一往復
   京城-平壌間  毎日一往復
   平壌-新義州間 毎日一往復
   新義州-大連間 毎日一往復
線路開設年月 昭和四年四月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 福岡-臺北
区間 福岡-那覇間 毎日一往復
   那覇-臺北間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十年十月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-新京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-京城間 毎日一往復
   京城-奉天間 毎日一往復
   奉天-新京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十ニ年六月

経営者 大日本航空株式会社
航空線路 東京-北京
区間 東京-大阪間 毎日一往復
   大阪-福岡間 毎日一往復
   福岡-青島間 毎日一往復
   青島-天津間 毎日一往復
   天津-北京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月


経営者 大日本航空株式会社
航空線路 福岡-南京
区間 福岡-上海間 毎日一往復
   上海-南京間 毎日一往復
線路開設年月 昭和十三年十月

■国立公文書館デジタルアーカイブ 昭和十四年一月 航空要覧 逓信省航空局編輯 帝國飛行協会発行

の中で、「本邦飛行場一覧(昭和十三年十月現在)」として以下記されていました(8コマ) 

名 称  福岡第一飛行場
経営者  國
所在地  福岡縣糟屋郡和白村奈多
水陸の別 陸、水
滑走区域 東西七九〇米 南北八〇〇米
備 考  水上滑走区域は福岡湾東寄水面一帯

■防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)昭和二十年九月十七日

の中で、「雁ノ巣飛行場記録」と「要図」があり、グーグルマップは、その要図と上の1948年の航空写真から作図しました。

当飛行場は戦後米軍に接収され「ブレディ・ エアベース」」とされたせいか、

終戦から3年後の写真と「要図」にいろいろ違いがあるのですが、そこは「要図」を優先し、

「雁ノ巣飛行場の地図」としました。

以下資料を引用させて頂きます。

判決
滑走距離大ならざる各種機の使用に適す

飛行地区
滑走路 東西、南北共一〇〇〇x八〇 東西滑走路補修中  アスファルト5cm 砂利12cm 土10~15cm
土質 砂質
地表面の状況 表面張芝は雑草とも六〇%を藪う程度 北部は荒廃 滑走路以外は地盤は軟弱
周辺障碍物の有無 なし
  
付属地区
誘導路 幅員三〇 ソイルセメント一〇厚 自動車の使用に耐うる程度
宿営 兵舎(約四〇〇名 収容可) 他に航空局、日航建物若干あり
夜間着陸設備 現に故障中なれど復旧作業準備中
動力線 あり
電灯 兵舎側も日航側もあり
給水 水道なし 井戸あるも水質不良

其の他
風向 恒風 冬 北東 夏 南-南西
航空保安 及 通信施設は完備しあり

同資料では、終盤の頁で当飛行場の「要図」と「飛行場記録」がコンパクトにまとめられて再登場しているのですが、

両者には細かな差異があります。

以下異なっている箇所を列挙します。

・判決:「滑走距離大ならざる各種機の使用に適す」→「滑走距離大ならざる双発以下各種機の使用に適す」
・舗装路:項目なし→「滑走路「アスファルト」舗装 誘導路「ソイルセメント」舗装」
・誘導路:「幅員三〇 ソイルセメント一〇厚…」→「幅員30米 ソイルセメント10糎厚…(以下同文)」 

また同資料内には「雁巣飛行場平面図」のページがあり、敷地東側に付属施設があること、

また敷地の西側(現・筑紫少女苑の辺り)は、「軍及中央航空路部施設」と記されていました。

敷地には場周灯があり、 交差している二本の滑走路端のそれぞれに進入灯、停止灯、接地灯があり、

交差部の辺りに滑走路灯の表示がありました。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

にも当飛行場の情報がありました。

飛行場名  雁巣
位 置   福岡県糟屋郡和田村
規 模   要図
舗 装   八〇×一〇〇〇米
      八〇×一〇〇〇米
      基礎砂利敷
      表層コンクリート
付属施設
 収容施設 八〇〇名分
 格納施設 掩体大四ヶ所 中六ヶ所 小一〇ヶ所
摘 要   施設官有

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によりますと、

陸軍は1941年根拠飛行場 海軍は1940水(陸)で供用

とありました。

■朝鮮交通史 1034p

大邱-福岡線
朝鮮海峡が敵潜水艦に蹂躙され、海上航行が不安となったので、
航空機に依る連絡の必要性を認め朝鮮と日本を最短距離である
大邱-福岡間に定期航空便を開設することとなり
昭和19年4月より毎日2往復の運航を開始したがさらに毎日3往復に
増便した。補助金は、次の通り要求してある。

京城(ママ)-福岡線 補助金
19年度補助金 1,305,000円
20年度補助金 1,417,000円

戦後の長い接収期を経て1972年に返還されたのですが、

その頃には空港機能は板付飛行場(現在の福岡空港)に集約されており、

ここから再びヒコーキが飛ぶことはありませんでした。

それでも飛行場時代の巨大な格納庫が2002年まで残っており、その様子は様々なサイトで閲覧することができます。

現在飛行場跡地は 「雁の巣レクリエーションセンター公園」として整備されており、

当時の痕跡が僅かに残されています。

滑走路の長さについてですが、1936年5月の開設当時は600m×30m 1本、それに水上機の滑走台

という資料があるのですが、後に800m 2本となり、

上記資料によれば終戦時は1,000mx80m 2本とあるので、徐々に拡張していったようです。

そして「ブレディ エア ベース」当時は、1,240mx40m、1,440mx40m でした。

D20_0001.jpg

公園内の広大な敷地の所々に不思議な模様が残っています。

上の写真は雁の巣球場北側

D20_0003.jpg

D20_0004.jpg

サッカー場/ラグビー場の北と西側にもありました。

D20_0005.jpg

複数のサイトで「これは滑走路のグルーピング跡」という説明があり、オイラもそう思い込んでいたのですが、

「米軍が敷いた穴あき鉄板の跡」だと説明しているサイトがあり、それらの方が説得力ある気がします。

詳しい方、情報お待ちしております m(_ _)m

2013/10/12追記:この不思議な文様についておっちゃんさん、再生おじさんさんから情報頂きました。これは「米軍が敷いた穴あき鉄板の跡」で間違いないそうです。おっちゃんさん、再生おじさんさん 情報ありがとうございましたm(_ _)m

D20_0018.jpg

赤マーカー地点。

公園の東側は博多湾に面しており、当時の水上機用スロープが残っています。

初めて見ました。

ヒコーキの性能、信頼性がまだまだ低く、飛行場の整備もまだまだだったため、

国際線は水上機が全盛だった時代がありました。

D20_0019.jpg

D20_0036.jpg

橋の側から見たスロープ。

雁ノ巣.png
写真:国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省
撮影年度:昭和49年度 地区名:福岡 編集・加工:空港探索・とり

1974年当時の写真。米軍から返還されて3年後の写真です。

うっすらとですが、二本の滑走路がクロスしてますね。

この交差部分に現在でも模様がたくさん残ってるのだそうです。

が2002年まで残っていた格納庫。が現存するスロープです。


        福岡県・福岡第一飛行場(雁ノ巣飛行場)跡地           

福岡第一飛行場(終戦時) データ
設置管理者:航空局
種 別:水陸両用飛行場
所在地:福岡県糟屋郡和田村(現・福岡市東区奈多)
座 標:N33°40′29″E130°23′15″
標 高:3m
面 積:開設当時76.9ha、終戦時175.1ha
滑走路:1,000mx80m 2本
方 位:02/20、11/29
誘導路:幅30m
(座標、標高はグーグルアースから)

沿革
1935年01月 建設開始
1936年05月 完成。滑走路(600×30m)1本、水上機の滑走台と格納庫2棟 76.9ha
1938年   博多湾鉄道汽船粕屋線(香椎線)の線路を北側に移設して面積を2倍に拡張
       滑走路は800m級2本の交差型。戦争の激化とともに陸海軍と共用となった
1944年04月 海上航行が不安となったため、福岡との定期航空便開設。毎日2往復、後に毎日3往復
1945年08月 終戦。戦後はアメリカ空軍に接収され、Brady Air Base(ブレディ エア ベース)として使用
1972年   返還 跡地は福岡市雁の巣レクリエーションセンターとして整備される
2002年   老朽化のため格納庫撤去

関連サイト:
ブログ内関連記事
   

この記事の資料:
朝鮮交通史
「陸軍飛行場便覧」(終戦頃)
防衛研究所収蔵資料「飛行場記録 第12飛行師団司令部」(陸空-本土周辺-120)
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」


コメント(29)  トラックバック(0) 
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コメント 29

sak

鷹の巣に飛行場があったのですね
ここにあった方が拡張とかしやすそうだったのに...
でも今の空港から比べると不便になりますね
ここから水上機が飛んで行くの見てみたかったなぁ...
by sak (2010-04-21 13:50) 

pica

公園とはいっても、ちょっと寂しい空気が
漂っていそう…。
by pica (2010-04-21 22:43) 

tooshiba

今の福岡空港は市街地から近くて超便利なイメージ。
博多から地下鉄で2駅ですものね。
某成○とか某関○空港なんて、もう、もう!(x_x;
by tooshiba (2010-04-21 23:03) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■sakさん
鷹の巣ご存じでしたか。
仰る通り、市街地との距離感で、拡張性と利便性どちかを取るか。という感じですね。
水上機、見てみたいですねぇ^^

■picaさん
>寂
あー、それはオイラの撮った写真のせいかもしれません^^;
機会がありましたら是非pica's eye でお確かめくださいませ^^

■tooshibaさん
>もう、もう!
リニアとまではいかなくても、せめて新幹線を・・・。とおもってしまうのですが。
先生はどう思われますでしょうか。
by とり (2010-04-22 06:27) 

OILMAN

こんにちは。
この記事先に見てたら私も見に行けたのに!
ざんねんっ!
by OILMAN (2010-04-22 19:45) 

ハイマン

確かにこの丸い跡
気になるなぁ
by ハイマン (2010-04-22 22:20) 

masa

公園内の地面の跡まで注意深く見られるとは
素晴らしいですね。私なら面倒でとてもできません・・・
by masa (2010-04-23 17:40) 

雅

国際線は水上機が全盛、って時代があったんですか。
まぁ平らな滑走路を造るよりは楽だったんでしょうけどね。
by (2010-04-23 20:23) 

miffy

雁ノ巣っていうと球場しか思い浮かびません^^;
海ノ中道に遊びに行くときに良く通るんですけどね~
by miffy (2010-04-23 22:09) 

an-kazu

こういう立地条件の方が拡幅工事がしやすいのではと思って
しまうのは、後の人間の勝手な思い込みなんでしょうね?
by an-kazu (2010-04-24 00:19) 

とり

■OILMANさん こんにちは。
ありゃ~! マジですか。
アップが遅れて申し訳ないですm(_ _)m

■ハイマンさん
気になりますよね~^^

■masaさん
この模様を見つけに来たと言っても過言ではありません(o ̄∇ ̄o)ハハ

■雅さん
隔世の感がありますよね^^
当時はまだまだエンジンの信頼性が低く、飛行中に止まってしまうことが多かったため、
「エンジンとまったらとりあえず着水できる」というのは非常に大きなことだったようです。

■miffyさん
>球場
まさに地元の方の感覚ですね^^
よく遊びますか^^

■an-kazuさん
実はオイラも同じこと考えました。
by とり (2010-04-24 07:19) 

koume

福岡の空港って、板付ばかりが頭に浮かんだのですが、
複数あったのですね。
旦那様のお父さんにでも、聞いてみようかな。
by koume (2010-04-24 13:11) 

とり

■koumeさん
オイラも最近調べてビックリだったのですが、福岡県は旧軍の飛行場跡が20位あって(もっと多いのかもしれませんが)、
北海道、愛知に次いで三番目に多い県だと思います。ビックリ(XДX)
by とり (2010-04-26 06:34) 

コスト

福岡も思い出の地なので、志賀島にドライブした時に通ってるはずなのですが、
まったく気づきませんでした。
>巨大な格納庫が2002年まで 
まだ時期的にはある頃に通ってるんですが、道路から見れない位置ありますね
板付空港って言い方に違和感があったのは、福岡には戦前は別に空港があったからなんですね。
なんで、はじめから福岡空港って呼ばなかったのかと不思議でした^^;
by コスト (2010-04-30 01:11) 

とり

■コストさん
おお、ドライブしましたか。
このテのモノ、「ここにある」と知らなければスルーしてしまいますよね。
>はじめから
「こっちが本家本元の福岡空港ですバイッ!」なんて言ってるかも^^
by とり (2010-04-30 06:21) 

おっちゃん

はじめまして、

雁ノ巣飛行場の丸い跡は穴あき鉄板を米軍
が滑走路に敷きつめて使用した跡です。
by おっちゃん (2011-04-22 17:25) 

とり

■おっちゃんさん
いらっしゃいませ^^
情報感謝致しますm(_ _)m
by とり (2011-04-24 07:22) 

再生おじさん

「グルービング跡」ですが、これは、米軍が滑走路を敷設するために敷いた穴あき鉄板の穴の跡で間違いありません。

別な構造基地での話ですが、前に何かの本かネットで、穴あき鉄板の写真と敷設され滑走路状となっている写真を見ています。

当時の米軍の滑走路急造工法は、ブルドーザーで地面を平らにし、
そこに大量生産された、「穴あき鉄板」を敷き詰めて滑走路を作る方法です。
(細長い穴あき鉄板を「はめ込みタイル」の様に、となりの鉄板と組み合わせながら敷き詰める工法です。)

どこで見た現物写真なのかを思い出す事ができたら・・・・
またコメントします・・・・・m(_ _;)m
by 再生おじさん (2013-10-11 22:36) 

とり

■再生おじさんさん
詳しい説明をありがとうございました。
記事に追記を入れさせて頂きましたm(_ _)m

もし思い出されましたら、是非コメント宜しくお願い致します。
by とり (2013-10-12 05:21) 

再生おじさん

鉄板の件、思い出しました~(;^ω^)

「20世紀のエンジン史・・・スリーブバルブと航空ディーゼルの興亡」
(鈴木孝 著) のP406に写真付きで説明が記載されています。

以下抜粋です。
「マーストン・マッティングと称し、40cm×3m程のリブ付き穴あきの鉄板で、縦横の端部は鉤と穴が組み合わさるようになっていて、ブルドーザーでならした地表にプラモデルを組み立てるように繋いで敷いていくのである。・・・・中略・・・・南方戦線では絶妙の発明品であったという。」

---------------------------------------------------------------
(私見ですが、鉄板のサイズは数種類あったのではないかと推察しております。)

米国の飛行場建設の驚異的な速さの秘密は、このマーストン・マッティングだった様です。(「マーストン」は発明者の名前らしい・・・)
by 再生おじさん (2013-12-13 00:31) 

とり

■再生おじさんさん
ありがとうございます!!
早速ググってみました^^
この件はこれでやっと落着という感じです。
by とり (2013-12-13 04:20) 

再生おじさん

こちら↓に、掲載しておきましたのでご参照ください♪
http://blogs.yahoo.co.jp/trpys563/9825066.html
by 再生おじさん (2013-12-13 18:43) 

とり

■再生おじさんさん
早速拝見します。
ありがとうございました=(⊃゜Д゜)⊃
by とり (2013-12-14 05:17) 

エミパパ

私の父がブレディ基地内で働いていたので大変懐かしいです、自宅もこの近所でした。滑走路上の鉄板は私も覚えています。ここでバイクレースが開催された時父に連れられて見に行きましたが鉄板が敷かれた上は歩きにくく子供心に苦労したのを覚えています。
基地自体は現在のマリンワールド一帯で、幼い頃こっそりと父に連れられて昭和30年代に何度か中に入ったことがあります。
カマボコ兵舎の中の職員食堂での食事や住宅地の芝生の見事さは正に別世界でした。
マリンワールド付近の一直線になっている部分が当時の基地内のメインストリートで、マリンワールド入り口交差点の玄界灘側角に基地司令部の建物、
対角線の角地に映画館、マリーナ付近には体育館があり水族館の付近は
モータープールと呼ばれガソリンスタンドがありました。
現在の渡船乗り場付近には当時から船の係留施設があり、司令官や将校は自分のモーターボートを係留して博多湾で遊んでいましたね。
西戸崎側には香椎線との交差付近に教会、現在名車旧車館付近にはベンチ、スタンドが備えられた野球場と予備のソフトボール場もあり、
又現在、海ノ中道駅が移設されたエリアの北側には一戸建て住宅地があり、そこは正にアメリカでした。

by エミパパ (2014-09-16 15:06) 

とり

■エミパパさん いらっしゃいませ
お父様が勤務しておられたのですか!
あの鉄板の上は歩き難いのですね。
位置情報等、非常に克明に記憶しておられるのですね。
当時の貴重なお話を聞かせて下さり、ありがとうございました。
オイラもせめて巨大格納庫が残っているうちにお邪魔したかったです。
1つお聞きしたいのですが、ブレディエアベースは1972年に返還とのことですが、
返還する年まで米軍機の離着陸は続いていたのでしょうか?
返還まで飛行場として機能していたのかについては資料がなく、ずっとナゾのままです。
ご教授頂ければ幸いです。
by とり (2014-09-17 04:33) 

NO NAME

西戸崎まで国鉄が走ってました  西戸崎近郊は米軍の居住地区が沢山ありました(昭和40年頃).....


by NO NAME (2015-08-19 19:58) 

とり

■NO NAMEさん
貴重な情報ありがとうございました。
by とり (2015-08-20 06:47) 

節子

私の亡父は雁ノ巣の飛行場で勤務してました。英語の読み書きは勿論の事会話も上手で当時よく数人の米国人の友人達が我が家へ訪問してました。
現在生存してましたら父の年は114歳です。懐しいです。

by 節子 (2019-09-08 14:01) 

とり

■節子さん
お父様はそのような方だったのですか。
当時の貴重なお話を聞かせて下さり、ありがとうございました。
by とり (2019-09-09 05:47) 

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