SSブログ

伊那飛行場跡地 [├空港]

    2010年5月訪問 2020/11更新  


無題h.png
撮影年月日1947/09/22(USA R198 10) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)

長野県伊那市にあった「陸軍伊那飛行場」。

■防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」

に当飛行場の情報がありました。

飛行場名  伊那
位 置   長野県上伊那郡伊那町
規 模   要図(かすれて判別できず)
舗 装   ナシ
付属施設
 収容施設 六〇〇名分
 格納施設 掩体 大一〇ヶ所
摘 要   施設軍有

D20_0018.jpg

赤マーカー地点。

第二格納庫コンクリート製の土台と案内板。

■案内板には「旧陸軍 伊那飛行場について」と題する詳しい説明がありました。

旧陸軍伊那飛行場と格納庫(全文) ここは旧陸軍伊那飛行場の跡地です。昭和18年8月、この高台の広大な畑や林を軍が接収し、沢二つを埋め立てる大規模な工事が開始されました。同年11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出され、さらに翌春には、地元の旧制伊那中学校や上伊那農学校をはじめ南信の旧制中学校、旧制松本高校、長野師範学校などの学徒の勤労動員も行われました。軍や建設会社に所属した朝鮮人労働者にも過酷な作業が課せられました。昭和19(1944)年2月には、米軍の空襲をさけるため、この六道原に、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教場」が開設されました。 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3ヶ月の訓練を受けた後、戦地に配備され、特攻隊員となるものもありました。当時は、その飛行訓練のための赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが終日伊那の空を飛び回っていました。そして、4回生まで送り出した後、昭和20年2月からは「各務原航空工廠」に所属し戦闘機作りの工場となりました。昭和20年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。

・旧飛行場概要(右記の復元図参照)
伊那市六道原 標高650m~700m
南北約2km~2.5km 東西約0.6km~0.8km 総面積約150ha
・本部・兵舎・飛行機の格納庫・弾薬庫等建築物
・滑走路南北方向(芝植栽) 幅80m 長さ1,300m
・誘導路付掩体壕(飛行機を隠すところ)北の林の中に20ヶ所(航空写真)

D20_0016.jpg

 

D20_0014.jpg

 

D20_0019.jpg

現在の飛行場跡地

■「戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」によりますと、

「各務原陸軍航空工廠伊奈出張所となる 中島飛行機から運ばれてくる機体に機銃、計器、落下タンク等を装備した」

とありました。

2014/8/23追記:第二伊那飛行場計画がありました。詳しくはアギラさんのコメントをご覧ください。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m  


       長野県・伊那飛行場跡地     
周辺には今も施設の基礎部分などの遺構が数カ所残っているのだそうです

伊那飛行場 データ
設置管理者:陸軍
種 別:秘匿飛行場
所在地:長野県上伊那郡伊那町(現・伊那市上の原他)
座 標:N35°50′44″E137°59′12″
標 高:650m~700m
面 積:150ha
滑走路:1,300m×80m(芝)
方 位:02/20?
(座標、方位はグーグルアースから)

沿革
1943年08月 接収(着工から1年で完成)
    11月  上伊那各地の住民による勤労奉仕実施
1944年    春、周辺の学徒勤労動員実施
    02月 熊谷陸軍飛行学校伊那分教場開設
1945年02月 各務原航空工廠(こうしょう)の戦闘機製造工場となる
     08月 敗戦、閉鎖
1946年    開墾始まる

この記事の資料:
現地の説明版
「21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ」 
防衛研究所収蔵資料「本土における陸軍飛行場要覧 第一復員局(陸空 本土防空7)」


コメント(11)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

コメント 11

鹿児島のこういち

昭和18年に土地買収を行い、1年で完成させてしまう。労働者は、相当使役されたのでしょう。
終戦までの1年と少しの間に飛行場から工場へと目まぐるしい歴史でもあるのですね。
ここも行ってみたい所です。
by 鹿児島のこういち (2011-02-27 10:05) 

kjisland

戦前の空港跡地ですか。複雑な心境になります。私自身、小さい時、旧中島飛行場の跡地に住んでいましたから。そこらを歩けば、ちいさな羽の付いた玉を見つけたものでした。
当時の建物も鉄組みだけは残っていて、そこも秘密も遊び場でした。
by kjisland (2011-02-27 13:27) 

masa

伊那は旅をした事がありますが
里のような風景が広がっていていいところですよね。
by masa (2011-02-27 16:25) 

me-co

お年寄りの協力の下で作られた、とても立派な看板ですねぇ@@
しかし、記憶が抜けている箇所(しかも、かなりハッキリしているところとヤッツケと偏っている)も散見されるような?・・・
by me-co (2011-02-27 18:10) 

sak

秘匿飛行場なのですね
伊那...東京にいた時、仕事で時々行きました
懐かしいです
また行きたくなってきました
by sak (2011-02-27 19:47) 

koume

ごくごく普通に、アパートが建っているのが、なんとも^^;
でも、ちゃんと案内板があるのが親切ですね。
by koume (2011-02-27 21:20) 

miffy

いろんな方の協力で当時の様子がわかるのって素晴らしいですね。
by miffy (2011-02-27 22:55) 

tooshiba

今となっては「わかんなーい」ですよね。
仮に地中に何かあったとしても、水田?に改造したときに、跡形もなく壊したりなくしたりしてしまっていそうですし・・・。

それでも、精力的に現地調査を行い、可能な限り正確な情報提供に努めておられるとり兄さんの努力には、心から敬意を払います。(`・ω・´)ゞ
by tooshiba (2011-02-28 01:08) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。

■鹿児島のこういちさん
近隣住民の苦労がしのばれますね。

■kjislandさん
飛行場の跡地に住んでおられたのですか。
いろいろな思いでがおありなのでしょうね。

■masaさん
仰る通りで景色は素晴らしかったです。

■me-coさん
絵って、その人のイメージが投影されるから面白いですよね^^

■sakさん
ここも来られてましたか。
景色のいいところですね。

■koumeさん
そうですね~。
このギャップがいろいろ考えさせられます。

■miffyさん
そうですね~。
こういう所が増えて欲しいです。

■tooshibaさん
どうもありがとうございます。
確かに戦後の混乱もあり、積極的に残したくなるものでもありませんからね~。
分からなくなってしまうのも仕方ないことですね。
by とり (2011-02-28 06:42) 

アギラ

いろいろお邪魔してすみません。
「伊那谷の青い空に」著者の高校教諭の自宅庭には伊那飛行場の煉瓦
造りの弾薬庫があるそうです。屋根を付けて(手に入れた時は屋根が
無かった?)現在は物置として使用しているそうです。
その中に元各務原陸軍航空廠伊那出張所長の手書き地図があり線路を
挟んで伊那飛行場の反対側の高台の畑に第二伊那飛行場計画が細長い
長方形図で描かれていました。(これも幻の飛行場のようです)
by アギラ (2014-08-22 10:47) 

とり

■アギラさん
>第二飛行場計画
どのレベルでの計画かは別として、こういう計画は全国に無数にあったのかもしれないですね。
これまた凄い情報をありがとうございます(@Д@)
記事に追加させて頂きましたm(_ _)m
by とり (2014-08-23 04:39) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0